両思いなのにお互い勘違いしている令嬢と侯爵様の話 作:霞草。
クロッカス家の城の中は、ここ数ヶ月で見違えたように変わった。
とは言っても、別にこれまでが劣悪な環境だった訳ではない。
使用人達はいつだって仕事は完璧で、楽しげに会話を弾ませる場面もある。
それでもどこか、私が抱えてる小さな虚無感が城全体に漂っていた。
─でも今は違う。
何故なら、アイリスがいるから。
初めこそ暗い表情をしていたが、時折見られるその可憐な笑顔はやっぱり眩しい。
「アイリス。」
私に呼び掛けられたアイリスは、きょとんとした顔をしてゆっくりと振り向いた。
華奢で麗しい、天使のような神聖さすら持ち合わせる彼女。
幸せにしてあげたい。
否、離したくない。
─例え、アイリスに“想い人”がいても。
◇◇◇
「何でしょう、旦那様。」
いつの間にか慣れてきた大きなこの城の廊下で、自室に戻ろうとする私を呼び止めた。
そろそろ仕事へ向かう時間だ。
シワ一つ無い真っ白なシャツに紺のジャケットを羽織っている旦那様は、相変わらず美麗の一言。
「今日は早めに帰るから、帰り次第デザイナーを呼ぼうと思ってる。“ポットアム”のマダムに建国記念パーティーの服をデザインして貰おう。」
“ポットアム”の意味を頭の中で考えていると、隣にいたリリスが小声で、ポットアムはセントポーリアの貴族令嬢達がこぞって買い求める仕立て屋だと教えてくれた。
そこら辺の知識は浅いため、正直とても助かる。
図書館の本には流行や文化は載っていなかった。
仮に載っていたとしても、一昔前に大流行したものだけだろう。
街で売られている新聞を読めば良かったのかもしれない。
政治関係のゴシップが記載していると認識にしていたが、もしかしたら流行りものも取り上げていたかも。
まあ、当時の私には新聞は高価で手が出せなかったけれど。
そんなことを考えていたら、旦那様に様子を窺っているような顔をさせてしまっていた。
(ああ、駄目ね。考え込んでしまう癖、早く直さないと。)
「すみません。最近服を買い込んで頂いたばかりなので申し訳ないですが…。パーティー用ということなら、よろしくお願いします。」
リリスは“貴族令嬢達がこぞって買い求める”と言っていたので、値段が張ってしまうのならすみません、と付け足す。
「そんなこと気にしないでくれ。…まあそういうことだから、また夜に会おう。」
行ってくる、と笑みを浮かべて控えめに手を振る旦那様。
侯爵様に手を振り返すのは気が引けるので、お気を付けて、の言葉と会釈を返した。
(本当に、親切な方ね…)
想い人がいる婚約者に、こんなに気を遣える人は他にいるのだろうか。
散財させてしまうと申し訳なくなり、こんなに優しい方が私なんかの婚約者であることを考えて更に申し訳なくなり。
こんなことをぐるぐると考えて、また─
(…レオンは今頃どうしているのかな…)
こんな思考に辿り着く自分に、本当に嫌気が差す。
彼がこの場にいたら、何と言ってくれるのだろうか。
『そんなに卑屈にならないで。』
『何の心配もいらないよ。』
そんな優しい言葉を紡いでくれる気がする。
(私はいつもこうね…)
自分に自信がなくなって申し訳なさや悲しさなどの感情が心に湧くと、すぐにレオンの優しさを思い出す。
一種の依存なのだろうか。
(真っ新になりたい…)
いっそのこと、全てを忘れて。
─しかし、レオンがこういった感情に囚われていた時にその沼から救い出したのは奇しくも幼い自分だったことを、アイリスは知らなかった─
◇◇◇
「ねぇ、アイリス。」
皮肉なほどに真っ青な空の下、2人の子供が爽やかな青葉の木陰で話していた。
それは勿論、僕とアイリス。
「なぁに?」
その光沢のある金髪をさらっと動かしてこちらに視線を向けるアイリスは、今日も美麗だ。
「アイリスは、真っ新になりたいことってある?」
「真っ新?」
不思議そうに、きょとんした顔で僕を見つめた。
それもその筈、自分でもどうしてこんな表現をしたのか分からないから。
アイリスと出会って数ヶ月が経ったが、ここ最近、両親と使用人の僕への当たりがきつくなっていた。
罵倒や蹂躙、僕の身の回りのものを壊すなど、多岐に渡って行われるその虐げは、徐々に僕の心を踏みにじっていく。
「僕たちが生きている理由って…何かな?」
丘から見下ろすと皆、楽しそうにはしゃぎながら街を歩いている。
子供は無邪気に軽やかなステップを取り、大人はそんな子供に呆れたように笑いながら、それでも楽しそうに、愛おしそうにして。
皮肉なほどに、皆が幸せそうだ。
一方で、僕は?
アイリスという光で和らいだが、それでも悪夢のような毎日が続く。
(どうしてこんなに差があるんだろう。でも、何より─)
他人と辛さの比較をしてしまう自分が、嫌いで。
「全部を忘れて、真っ新になりたいな…」
そんな感情が入り乱れてこんなにも重たい質問をしてしまったが、アイリスは「うーん…」と真剣に悩んでくれる。
「死にたくないんじゃない?」
「え?」
少し考え込んでいた彼女だったが、やがてけろっとしながらそう口にした。
「生きているのに大それた意味なんて無くて、本能的にも精神的にも、結局はみんな死にたくないんだよ。生きている理由なんて、死にたくないで十分でしょう。」
思いの外あっさりとした答えが返ってきた。
(生きている理由は死にたくないから、か…)
完全に納得したという訳ではない。
正直、その言葉の意味はよく分からないし。
でも、ぐるぐると生きている理由の持論を頭の中で展開していた時に比べ、心はずっと軽くなった気がする。
そのくらいの心構えで堂々としていた方が良いのかもしれない。
そんなことを考えながらふと横を見ると、アイリスは喜楽とは明らかに違う微笑を浮かべていた。
哀しみや諦めといった感情を必死に抑え付けているような。
これが10歳の少女がする表情なのだろうか。
しかし、そう思ったのも束の間、アイリスはすぐに表情を変えた。
「ねぇ。せっかく何かを考えるなら、もっと他のこと考えようよ。」
「他のこと?」
アイリスはすく、と立ち上がり、身体を回転させて、視線を僕から街に移した。
大きく両腕を広げ、この街を抱える。
「もしこの街の景色全部が真っ白なキャンパスだったら、レオンは何を
「え…?」
真っ白のキャンパスなんて、想像したこともなかった。
絵だって、小さい頃は冬の窓に吐息をかけて指で描いていたが、それ以外は全く関わりがない。
(真っ白なキャンパス、か…)
そこで、僕はふと思った。
真っ白─真っ新になりたいと先程呟いたばかりだが、仮に真っ新になったとして、それが僕の願いなのだろうか。
(僕は本当に…消えたいの?)
全てを─この街の風景も、木々や花々の感触も、そしてアイリスも、その全てを忘れたいのか。
何も考えないのは楽。
この凄惨な人生を忘れ、苦痛もまるで感じない。
─でも同時に、幸福や希望も忘れてしまう。
(そうか…僕は本当に消えたい─真っ新になりたい訳じゃないんだね、アイリス。)
それを悟った時、僕は彼女と目を合わせた。
もしかしたら、今の僕の顔に“光”があったのかもしれない。
彼女は満面の笑みを浮かべていた。
その笑みの光がノースリーブの真っ白なワンピースに反射し、より一層彼女が光輝いて見える。
─美しい街並みを背景に、真夏の輝かしい太陽に照らされながら眩しい笑みを浮かべるこの麗しき少女を、僕は描きたい。
◇◇◇
「お帰りなさいませ、旦那様。」
日は暮れ、星彩が辺りを照らし始めた頃。
彼は予定より少しだけ遅く帰宅した。
仕事が立て込んでしまったそうだ。
食事はご一緒したいと思っていたけれど、料理人のアルフィー曰く「毎日決まった時間に食べることが健康に良いのですよ。」ということで、もう済ませてしまっている。
その旨を伝えると、旦那様は「私の部屋で待っていてくれないか。」と言い残し、急いでダイニングに向かっていった。
(旦那様の部屋に入るのは初めてね。)
だからか、少しだけ嬉しさとわくわくした感情に包まれる。
リリスは急用で城を空けていたためラリアと共に中に入ると、そこは意外にもこじんまりとした、シックな部屋だった。
旦那様の部屋の隣は扉で繋がっていて、そこが丁度来賓室らしい。
旦那様が自室で待っていてくれと言っていたのは恐らく、来賓室より自室の方がリラックス出来るのではないかと判断したからだろう。
どこまでも優しい旦那様だ。
そんな中ソファーにちょこんと座り、ぐるりと辺りを見渡したが、やはり気になるのはテーブルの上にある大量の書類だろうか。
「…申し訳ありません、アイリス様。旦那様は恐らく、テーブルは片付けたと勘違いされたのでしょう。散乱としていて気になさりますよね。しかし、旦那様のみが処理可能な重要書類が多々あるので、私どもは触れられないんです。」
ラリアは申し訳なさそうに謝り、せめてもと近くにあったテーブルクロスで書類を覆った。
「大丈夫よ、そんなことしなくても。」
私は普通の子爵令嬢ではないのに、優しいなぁ、と思いながら、ラリアが置いたテーブルクロスを取ってそっと折り畳んだ。
─その時。
(あら?綺麗な絵…)
テーブルの端の方に置かれた、数枚の色付けされた絵。
画材は水性絵具だろうか。
柔らかいタッチが印象に残る、優しくて綺麗な絵だった。
ラリアは私がこれらの絵に興味を持ったことに気が付いたらしく。
「それは、旦那様が描かれたのですよ。」
「旦那様が…?」
あんなに端麗な容姿で、こんなにも引き込まれる絵も描けるのか。
欠点がいくら探しても見当たらない。
(…ん?この絵…)
今までの絵は主に風景画。
だけどこの1枚だけは、女の子が描かれていた。
真夏…だろうか。
ノースリーブの白いワンピースを着た少女が、こちらを見て微笑んでいる。
少女は太陽に照らされ、背景には穏やかな街並み。
そしてその、絵の柔らかさ。
─作者がこの女の子を好いているような雰囲気がした。
(金髪にエメラルドグリーンの瞳…ふふっ、私に似てるわね。)
やっぱり旦那様にも、“そういう”人がいたのね。
(─何だろう。)
だからといって私は特に何もない。
─その筈なんだけど。
(胸が…痛い…?)
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