両思いなのにお互い勘違いしている令嬢と侯爵様の話 作:霞草。
「侯爵様。」
私はリリスを連れて階段を下り、クロッカス侯爵のお見送りに出向いた。
私に呼ばれたクロッカス侯爵は、1週間分の服や日常品をメイドに持たせている。
今日からは1週間出張らしい。
隣国の上級貴族達との会食をする、と昨夜の食事で話していた。
ジャボがついた白いシャツ、胸の真ん中には希少な翡翠の宝石。
品がある紺のジャケットに細やかな金の刺繍。
呼び掛けられて振り返ったクロッカス侯爵は、麗しく、凛々しい姿だった。
「行ってらっしゃいませ。」
綺麗な礼を心掛けながらそう言うと、クロッカス侯爵は何故か口を紡ぎ、わびしげな表情をした。
「あの…何か?」
騎士の1人が「旦那様、もう時間です!早くいらして下さい…!」と叫んでいるので、何だか申し訳なくなる。
クロッカス侯爵はたっぷり間を取ってから
「“侯爵様”より、“旦那様”とか…名前呼びとかが良いんじゃないか?」
と、おずおずと尋ねてきた。
そんな変なことを言ったクロッカス侯爵は、懇願するような瞳をしてじっと私を見つめる。
(親密アピールをしたかったのかしら?)
クロッカス侯爵の発言の意図が分からず、首を横に振った。
「旦那様だなんて…婚約ですのに。」
私はそう否定するも、クロッカス侯爵がすかさず
「婚約期間で旦那様と呼んでも問題無いんだ。…まぁ名前呼びの方が─」
と驚愕的な発言をした。
クロッカス侯爵は若干顔を赤らめながら下を向くが、私は対照的に冷や汗をかいた。
(えっ?侯爵様を名前呼び…正気?)
「な、なら旦那様と呼ばせていただきますね。
侯爵様を名前で呼ぶだなんて…恐れ多いです。」
私は思わずフリーズしてしまうも、慌てて取り繕った。
婚約の期間、しかも会って間もない、それに加えて身分差…この状況で名前呼びできる程、私は図太くない。
「そ、そうか。」
「では、行ってらっしゃいませ。」
「早く出発して下さい」の合図のつもりだったが、それでもクロッカス侯爵は一歩も動かない。
その美しい瞳で、私をじっと見る。
(一体どれだけの人が侯爵様のことを待っているのかしら…早くしなくちゃ。)
今周りにいるだけでも、使用人と騎士を合わせて、ざっと100人はいる。
仕事関係で合流する人だって沢山いるだろう。
調子に乗っていると思われたり、図々しいと思われたりしたら嫌だから、あまりそんな呼び方をしたくはないが─
「…旦那様。」
仕方なく、そう付け加えた。
何故だか羞恥を抱いてしまい、顔が暑くなる。
(恥ずかしがることではないのに…そう、ただ申し訳ないからこの呼び方をしただけよ。)
そう、本当にそれだけ。
「…!?ああ、行ってくる!すぐに帰ってくるからな!」
何故か晴れ渡るような笑顔で手を振りながら、“旦那様”は馬車に乗り込んでいった。
◇◇◇
「あれは絶対、旦那様はアイリス様のことがお好きよね。」
「でしょうね!
元々旦那様がアイリス様に対して好意的だったのは周知のことだけれど、今朝のはもう…」
「アイリス様以外、全員が気が付いたわよね!」
「普段は社交なんかでも近寄る女性をばっさばっさと斬っていくのに…アイリス様の前ならにやけ顔なのねぇ…」
私は、メイド達の間でそんな会話がされていたことなんて露知らず、城の案内をして貰っていた。
クロッカス侯爵…ええと、旦那様がいない1週間で、この広い城の内訳について知れたら上出来だ。
なんせ、ここの城は3階建てで1階分の面積は私の家の総面積3つ以上。
要するに広い。
小部屋の数も数知れず、完璧に覚えるのには一週間以上掛かりそうだ。
私の部屋は階段を登ったところの突き当たりで分かりやすいが、他の部屋はそうはいかない。
「アイリス様、お初にお目にかかります。
ラリアと申します。」
可愛らしい感じに緩く結んだ三編みのおさげ、人懐っこそうな童顔、ぱっちりとした瞳、誰が見ても不快感を抱かないと断定できるような、ふわっとした笑顔…可愛らしいメイドだった。
「ラリアね、よろしく。
部屋の解説はある程度で良いわ。」
「承知致しました、アイリス様。」
美しい礼と、忠誠を感じさせる表情。
15歳くらいだろうか。自分より幼いと感じる。
しかも見た目は物凄く可愛いのに、しっかりとした礼儀があった。
(もしかしたらリリスの教育が素晴らしいのかも…)
リリスは旦那様には同行していないが、この時間は溜まっていた他の仕事をしなければいけないらしい。
リリスは、私の侍女、教育係、そして城の出費や支出の管理をする執事の手伝いもしているらしい。
それを全て完璧にこなせる程、リリスは優秀なのだ。
ぱっと見ても要領の良さは格別で、思わず感嘆を漏らしてしまう。
「こちらが厨房です。
清潔維持は本当に徹底されているのでご安心を。」
「こちらは応接室です。
来客様に不快感を与えぬよう、この城の中でもかなり上等な家具でございます。」
「こちらは所謂サロンです。
ここにはメイクアップや身体磨きに長けた者が集っていますので、ぜひ1度はご利用下さい。」
「こちらはパーティーホールです。
かなり装飾されています。
また、この国の伝統的なデザインが目立ちます。」
「こちらは─」
途中に食事や休憩を挟んだものの、いつの間にか、晴れ渡っていた空は夕暮れになっていた。
城がオレンジ色に染まる。
「最後は─」
紹介していなかった最後の部屋をラリアが紹介しようとしたその時。
「この部屋は私が説明させていただきますわ、アイリス様。」
振り返った先には、珍しく慌てて小走りにこちらに来るリリスの姿があった。
その手にはメモ帳のようなものがあった。
「リリスさん?どうして─」
リリスは困惑が見て取れる表情をするラリアに、そっと耳打ちした。
耳打ちなら本来聞こえないのだが、私には何とか聞き取れてしまった。
『この部屋は紹介しなくて良いわ。決して立ち入っては駄目よ。旦那様にも言われたでしょう?』
“立ち入ってはいけない”?
聞き取れたは良いが、それが何故かはさっぱり分からない。
入ってはいけない理由も全く思い付かない。
「では、失礼します。」
少しリリスと離した後、ラリアはあっという間に帰ってしまい、リリスは扉の前で足を止めた。
「アイリス様、こちらの部屋は入ってはいけません。
5年間に渡って誰の行き来もなかったので不潔でしょう。
何より、旦那様によって行き来が禁じられているのです。」
リリスは、珍しく無表情で淡々とそう語った。
「…理由を聞いても?」
「申し訳ございません。
使用人の中で理由を存じているのは私しかいませんが、旦那様には話すなという命を受けております。
申し訳ございません。」
ただただ謝るリリスに、私はこれ以上深掘りすることができなかった。
何を言われても話さないという、彼女の固い決心に気が付いたからだ。
もやもやした気持ちのまま、私は自室に籠った。
(何でなんだろう…でも、聞いてはいけないわ…)
気持ちは晴れないが─まぁ良い。
城の内部を知れただけでも十分な進歩だ。
その部屋は私に関係無さそうだし、気にすることではないだろう。
それに私には─
「ガーベラでございます。
アイリス様、失礼致します。」
お婆様がいるのだから。
「お婆様っ!」
それが嬉しくて、思わず抱きついた。
勢いよく飛び付いたからか、お婆様の瞳の色と同じ紫のドレスのスカートが揺れてしまった。
「アイリス様、いけませんわ。
ここでの関係は教師と生徒なのですから。
でも─」
お婆様は私を戒めたあと、悪戯っ子のような笑みで人差し指を唇に当てながら
「授業が終わったら、私は“お婆様”ですわ。」
そう言った。
「ふふっ、はい!」
「本日はここまでです。
質問等はございますか?」
私は迷わず「無いです!」と答えた。
今やっているのは確認テストのようなもの。
図書館の知識があればある程度は解ける。
簡単なものばかりだ。
「お婆様!」
私はくしゃっと笑ってまた抱きついた。
久しぶりの祖母の温もりに、胸まで温かくなる。
「今日のアイリスは甘えん坊ね。」
そう呆れたように言いながらも、温かい目で見てくれていることを私はよく知っている。
「…侯爵様が、“旦那様”か名前で呼んでっておっしゃっていたんです。」
しばらく沈黙が続いた後、私は突然、呟きとも受け取れるような小さな声で言った。
「あらあら。」
お婆様はこれが相談だと分かったらしく、頬に手を当てる。
「何を…何を考えていらっしゃるのですか?
やっぱり使用人にも親密さを見せつけるためですか?
それともまた別の─」
何の意図を持ってそう話したのか、私にはさっぱり理解できなかった。
この5年、人と話すことがほとんど無かったからだろうか。
でもそんな私を、お婆様は私の名を呼んで遮った。
「そんなに深く考えなくて良いわ。
貴女は昔から考え過ぎることが多々あるもの。
名前呼びを提示するだなんて…シンプルに受けとれば、こちらに好意的だということよね?」
「まあ…そうですけど。」
でも、と呟いた私を、お婆様はまた遮った。
「良いのよそれで。
とりあえず気を楽にして、物事全てを浅く考えなさい。
貴女は考え過ぎよ。」
「物事全てを浅く?」
「そう。そのまま受け取りなさい。
少なくとも社交界に入る前まではそれで構わないわ。
もっと素を見せても、誰も咎めない。
もし何か言われてしまっても、私は味方よ。」
その真っ直ぐな紫の瞳に、心が揺れた。
こんなに真っ直ぐ想いを伝えてくれる人の存在が、どんなにありがたいか。
「…へへっ、ありがとうございます。」
今までで味方だと断言してくれた人は、お婆様とレオンだけだったから。
◇◇◇
「おい、カイル!早く行くぞ!」
私はそう言って、道中の休憩で休んでいた1人の騎士─カイルを急かした。
「待って下さいよ!
そもそも旦那様が遅れたくせにー!」
私も一応は侯爵家の当主。
でも、5年前─“あの方”に連れられてやって来たカイルとは、友としての意識が強い。
つまり、他の騎士が私にこんな口を利いていたら問題だが、カイルだけは暗黙の了解ということ。
だから先程、私がアイリスと話しているのを「早く来て」の叫び声で邪魔されても、うるさいとは思ったが処罰なんてものはしない。
─アイリス。
夜明け前の出発だったからか、着替えはしていたものの、まだ髪は緩く編まれた三編みの横結びだった。
少しだけ眠そうな顔なのに、相変わらず澄んだ瞳。
『…旦那様。』
下向きがちにその言葉を紡いだ。
少し恥ずかしそうに呼んでいたのは、気のせいだろうか。
名前で呼んでくれたらもっと嬉しかった。
でも─
(可愛かった…)
その時、急いで荷物をまとめていたカイルが声を掛けてきた。
「何なんですか?そのにやけ顔。
普段のクールな麗しき当主に戻って下さいよ。」
冷やかしと取れるその一言。
「にやけ顔なんてしてないが?」
「いやいや、してますよそれ。
自覚ないんですか?旦那様。ははっ。
だってその顔─」
もう一度私の顔を見た瞬間、彼は「ひゅっ」と顔を真っ青にして怯えた。
気に障ることがあったからつい顔に出てしまったのだろう。
何がとは言わないが。
「ていうか不思議ですよね。」
「何がだ?」
「旦那様は、社交では近寄る女性に目もくれないし、“貴女に興味はない”の一蹴。
そんな人が任務のための移動中にも想い人を想ってにやにやしているんですから。
恋って偉大ですねぇ。」
そう言ってからかうカイル。
その整っているはずの顔も、にまっとした変な笑みになっているのだからもはや勿体ない。
(でもこの気持ちは─)
「いやでも、恋というより…愛、というか。
何て言うか。」
少し下を向きながら言ったが、何だか気恥ずかしくて赤面してしまった。
「うわっ、それ重くないですか?
恋って言った方がオブラートに包まれていて良いですよ。
アイリス様にとっては、会って数週間の親が決めた婚約者なんだから。」
そんな自分の気持ちも知らず、ずかずかと心の内に入ってくるカイル。
遠慮というものが存在しない。
「というより旦那様、あれですよね。
社交の時に他の男性と踊っているのを見るの、辛くなるタイプですよね。」
急に話題が変わったが、少し想像してみる。
社交パーティーで美しいドレス姿のアイリスが、私を置いて、他の男と踊っている。
─嫉妬で狂いそうだ。
「…踊らせなくても問題ないのでは?」
「何言ってるんですか。
さすがに礼儀がないですよ。
ははっ、絶対に束縛タイプですよ、旦那様。」
面白いものを見る目でケタケタと笑うカイル。
馬鹿にされているようで苛立ったが、ぐっと堪える。
カイルは腕だけは良いのだから。
剣術の腕は、ベテランでも叶わないと言われる程。
まぁただ、それ“だけ”だが。
「まぁ分かりますよ?アイリス様は確かに可憐で美しかったです。」
「そうだろ?そんな麗しい女性がそこらの男と踊るなんて、何事だって話だろ?」
「いやいや、そうはならないですよ。
仕方がないじゃないですか。」
やっぱり社交ダンスはさせなければいけないのだろうか。
あの無垢で可愛い天使のようなアイリスを誰かに見せるなんて…自分の中の黒くて暗い感情が湧き上がるだろう。
カイルが言うくだらない“礼儀”が腹立たしくて、思わずぎゅっと口を噤んだ。
「あははっ、諦めて下さいよ。旦那様。」
私はそんな友人に「うるさい。」とだけ言って、また、馬車ゆっくりと走らせた。
ご覧頂きありがとうございました!
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