無敗の八冠?だったら、俺が獲ってやるよ。 作:流星の民(恒南茜)
「ねぇ、アンタ。あそこの木までかけっこしない?」
少女が覗き込む。
目の前にあったのは栗毛と丸まった二つの瞳、その中に映り込む白毛の少女は未だ寝ぼけ眼だった。
体が横たわっているのは、柔らかな芝生の上、うららかな日差しが照らす中で目の前の少女が俺の手を掴んだ。
「もちろん、やろっ!」
口を衝いて出た言葉も、体が取った動きも、全て刷り込まれているかのようだ。
「今日だって私が勝ってやるんだから。見てなさいよ、アンタ!」
「ふふんっ、こっちだってずっとヴァーゴを追いかけ続けてるんだから! 負けないよ!」
言葉を交わしたのち、スタートの体勢へ。
「──よーい」
少女の掛け声で、ぐっと脚に力を込める。
地面に深くめり込んで、その次に彼女が発するであろう合図を待って──。
「……っ!」
俺は飛び起きた。
目の前の見慣れない部屋に一瞬困惑しつつ──そういえば、今はモリオカに戻ってきているんだったけな、なんて。意外と思考は明瞭だった。
時計に目を向けるとまだ朝の五時前だ。どうやらトレーニング習慣というのはそうそう抜けるものでもないらしい。
とは言えども、ケガはまだ治っていないから走れるわけでもない。
取り敢えず二度寝でもするかと、再びベッドに体を横たえようとした時だった。
バタン──と、すぐ隣の部屋でドアが閉まる音がした。
すぐさま聞こえてきた足音が俺の部屋の前を過ぎようとしたから、慌ててサンダルに脚を突っ込んで、ドアを開ける。
「……アンタ? 随分早いわね……」
案の定と言うべきか、そこにあったのは既にジャージに着替え、トレーニングの準備を整えていたヴァーゴの姿だった。
「クセだよ。早起きできるようになったからさ。その……一人でも、ね」
「……そう。それじゃあ、随分しっかりしてきたんじゃないの?」
モリオカにいた頃、いつも俺を起こしてくれていたのはヴァーゴだった。
それどころか、移動教室の時だとかトレーニング場が変更になった時だとか──些細なことを数えればきりがないほどに、ここにいた時は彼女に助けられていたように思う。
「……でも、まだまだだよ。色々忘れがちだし、たまに寝坊もするし」
「そうね……アンタ、あんなに強いクセして案外ずぼらなんだから……中央に行ったばかりの時は、私もドキドキしっぱなしだったわよ」
「そこはもう少し褒めて欲しかったなぁ……」
二人、ベッドに腰掛けながらそんな他愛もない言葉を交わし合う。
そんな会話ですらできる相手がいないこと。中央に来て最初の頃は随分と悩んだんだっけか。
不意に思い出してしまったことに苦笑しつつ、それでも今はルドルフやエースがいて……だなんて。
そんなことを考えると、なおさらに胸が傷んだ。きっと、皆今頃はトレーニングを始めている時間だ。
それは目の前にいるヴァーゴだって変わりない中で──ただ、俺だけが座り込んでいる。
「まあ、アンタは確かに成長したわよ。小さい頃から本当に朝は起きれなかったんだから、それができるようになっただけでも十分だし……今は一人暮らしもしてるんだったわよね?」
「うん。相部屋をする相手がいなくてさ」
「それは大変だったわね……自分で何とかしなきゃいけないってことだもの」
弾みをつけてベッドから立ち上がると、ヴァーゴは俺に向かって微笑みかけてくる。
「立派になったわよ、アンタは」
言葉とは反面、今にも消え入りそうな声で。
瞳を伏せた、どこか寂しげな微笑みで。
思わず俺が押し黙ってしまったのを見て、それを無視したままヴァーゴはしゃがみ込むと、靴紐を結わえ直す。
「それじゃ、そろそろ行かなきゃ。私もレースが近いから、追い込まなきゃいけなくて。また帰ってきた時にでもお話しましょ?」
そんな言葉だけが残ったまま、ドアが閉まる音の残響が耳にこびりついたまま、ヴァーゴが出ていった部屋の中で俺はベッドに体を横たえた。
せめて、もう少し寝ていようと思って、瞼を閉じて。
だというのに、刻々と動く秒針だけが鼓膜を突く中、俺はちっとも眠りにつけなかった。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
「……ふぅ、あったまった……」
片手にはお風呂セットをぶら下げながら、廊下を歩く。
最近は肌寒くなってきた──なんて、中央にいた頃も思っていたけれど、モリオカの冬はそんな比じゃないぐらいには寒い。
身を切るような寒さの中、学園から寮へ戻ってきて、夕飯を食べて風呂に入って──と、ようやく体も温まってきたところだ。
自分の部屋の前に戻り、そのままドアを開けようとして──ふと、俺はヴァーゴのことを思い出した。
帰ってきた時にでもという言葉の通り、結局彼女は朝早く寮を出ていってからというものの、よっぽど根を詰めているのか昼食時にも食堂で見ることはなく、授業が終わって窓の外に目を向けて、やっとトレーニング中の姿が見られるのみ。
だけれど、声をかけるわけにもいかないから、結局学園では一度も話すことなく帰ってきてしまった。
何だかんだ中央での積もる話もあるのだ。
ドアノブから手を離し、隣の部屋へ移動して──ノックをしようとした時だった。
「……っ、お先にどうぞっ」
もう一人、そこに立っていた。
とはいえども、ヴァーゴではなく──随分と背丈が低い黒鹿毛のウマ娘──彼女もまた、ヴァーゴに用があったのだろう。それでも、どこかオドオドした様子で俺にノックを譲ってくれた。
「ありがと、それじゃお先に……」
厚意に甘えて、コンコンとノックをする。
それでも、音が返ってくることはない。もうすぐ消灯時間も近いはずだというのに。今になって入浴しているのだろうか──なんて、考え事をしていた時、目の前のウマ娘が深くため息を吐いた。
「……ヴァーゴ先輩……今日もトレーニング中かぁ……」
「……トレーニングって? もう消灯時間でしょ?」
そう聞いてみても、彼女は首を横に振るばかり、困り果てた様子で口にする。
「……それが全然、最近のヴァーゴ先輩は帰ってこなくて……ところで、あなた……見ない顔ですね……」
じぃっと見つめられてどこか気恥ずかしい中で、彼女は合点が行ったかのように、ポンと手を打った。
「もしかして……トレミアンタレス先輩ですかっ!?」
「……まあ、そうだけど……君は?」
「あ、失礼しましたっ! あたし、”イノリアクセル”って言いますっ、先輩方の一年下で……えーっと……その、とにかくよろしくお願いしますっ!」
そこまで一気に捲し立てるように言うと、ぺこりとイノリアクセルは頭を下げてくる。
新入生が入ってきた頃には俺はもう中央に行ってしまったから、後輩が入ってきていたなんて知りもしなかった。
「よろしくね、イノリアクセルさん。それで……話を戻すんだけど、ヴァーゴが帰ってこないっていうのは……?」
「あ、そうでしたね。ヴァーゴ先輩、最近は全然消灯時間も守らずにトレーニングに行ってるみたいで……寮長も困ってますし……」
ヴァーゴが帰ってきていないということ。
いつもそんなに遅くまでトレーニングをしているということ。
追い込んでいると言っても、まさかそれほどだなんて──ちっとも想像していなかった。
「……ヴァーゴ先輩、すっごく優しいんです。タイム測ってくれたり、フォーム直してくれたり、レースで応援してくれたこともあって……とにかく、あたしも心配なんですっ!」
ヴァーゴが心配だと切実に、アクセルはそう訴えてきていた。
「……わかった。明日、私も説得してみるよ。心配だから」
「すみません、お願いしますっ」
その場を後にするアクセルの背中を眺めながら、後輩にまでここまで好かれるヴァーゴの優しさに触れた気がした。そうだ、彼女のことだからきっと、周りの人にも優しくて。
だと言うのに、そんな彼女が周りを心配させてまで走り続けていること。それは良くない。
レースは二人三脚だとよく言う。だけれど、実際のところはライバルやファンの支えあって、ようやく成り立つもの──流石に俺にもそれはわかってきていた。
トレーナーやライバルには何度も助けられているのだから。
とにかく、明日ヴァーゴを説得しよう。そう意志を固めて、俺は部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
次の日の放課後、朝は結局話す間もなく、ヴァーゴはトレーニングに出ていってしまったから、コートに彼女の姿がないか俺は探していた。
とにかく、昨日のアクセルの話を聞いた上で、近頃の彼女の様子を見ていると、オーバーワークに思えるのは確かだった。朝から晩まで、休憩は最小限。
止めなければ、事故にだって繋がりうること。それは……この身体で証明してしまっているから。
目を皿にしてコートを歩き回って、程なくして──彼女の姿は見つかった。
今はトレーナーと話をしている最中らしい、話しかけるにはもってこいのタイミングだと近づいて──。
「もう一度、走らせてくださいっ……!」
次の瞬間、悲痛な叫び声がその場に響き渡った。間違いない、ヴァーゴの声だ。
「……でも、脚に疲労が見えてきている。休ませなきゃ、次のレースに出走するどころじゃない」
そして、揉めている相手はどうやらトレーナーらしかった。
疲労している、だから休ませなきゃいけない。それは至極真っ当な意見だ。
モリオカにいた頃も、ヴァーゴがトレーナーと上手くコミュニケーションが取れていなかったことは知っていた。そして、それ故にオーバーワークにはなってしまっていたものの、その時は確か二人で話し合って解決したはず。
ヴァーゴは十分に人の話を聞くようになったはず──だというのに。
「君はアンタレスの一件を知っているはずだろう? 君だって、あんな風に」
「でも、このままじゃ、そのアンタには一生追いつけないっ! 私はここで立ち止まりっぱなしで……」
トレーナーの話し声を遮ってまで彼女は声を上げる。
最早留める術すら忘れてしまったかのように、彼女は感情を剥き出しにして食いついていた。
「負け続き、ピークアウトだってそう遠くない……。チャンスはもうほとんどないじゃない。……中央なんて夢のまた夢でっ……」
「ヴァーゴ……それは……」
制止しようとするトレーナーすら無視して、彼女は声を上げる。
じきに迫ってくるピークアウト──俺も来年にはシニア級ウマ娘だ。それがそう遠くないことも、すっかり弱ってしまったウマ娘が中央に出たとしてもできることなんか何も無い──その現実は、俺にだってわかっていたから、彼女の言うことが、焦りが否定しきれない。
「約束が……守れないっ……!」
彼女が口にした約束──あの日、星空の下で交わした俺とヴァーゴの結んだもの。
中央に行く俺を追っていつか勝ってみせるのだと宣言した彼女に俺もまた、そんな日が来ることを楽しみにしていた。
だから、それが流れてしまいそうになっている今、必死になって追い続けようとしてくれている今──。その場ではとてもじゃないけれど、ヴァーゴには声のかけようがなかった。
こうやってトレーナーに逆らってでも口にするぐらいに、ヴァーゴがその約束を大事にしていたのだと、知ってしまったから。
◇ ◇ ◇
間が悪く、ヴァーゴとは話す機会が無かった。
ただ、そんな状態で帰ってきてしまったとはいえ、ヴァーゴがこのままオーバーワークをするのを放って置くわけにもいかない。
無茶なトレーニングをして、ケガをして出走取消にだなんて、ほんの集中力が途切れただけでもこの世界では起きうることなのだから。まだ、何とか俺は冷静な立場でいることができていた。
消灯時間もとっくに過ぎて、もうすぐ日付が変わろうとしていた時間。
そんな時に、ようやく隣の部屋の方から物音がした。
「……アンタ? どうしたのよ、こんな時間に……」
怪訝な顔をされてもお構い無しだ。用意していた言葉を必死に口にする。
「……ヴァーゴ。明日、少しお出かけしない? 最近根を詰めてるみたいで、大変そうだし……」
「それでも私、今が頑張り時だし……」
「でもさ、休憩だって大事だと思うし……何より、一緒に話したいなって、そう思ったから」
しばらく返事は無かった。
どこかバツの悪そうな顔をしているのは、今日トレーナーに注意されてきた帰りだからだろうか。
あるいは、アクセルだとか他の後輩にも注意されたのかもしれない。
ただ、その瞳は大きく見開かれたまま俺を捉えて──瞬き、目だけで何かを訴えようとしてきているようだったけれど、その真意は掴めない。
とうとう深く息を吐くと、彼女はぽつりと漏らした。
「……わかったわよ。そうね。明日、付き合ってあげる」
何とか説得には上手くいったようだった。
「……ありがとう、ヴァーゴ。それじゃあ、明日はよろしくね」
「ええ。おやすみなさい」
だけれど、到底喜ぶには程遠い──まだ、早い。
俯きがちに彼女は部屋へ戻っていく。結局のところ一日誤魔化したところで、大きく何かが変わるわけではないのだから。
そして、何よりも。
彼女が今日、突きつけていた
仮に彼女が中央に来て、俺をひたすらに追いかけ続けてくれていたとしても。
俺は、それに応えることができているのだろうか、と。
胸中で渦巻く不安には、中央を旅立った日から今日までずっと、答えを出せないままでいた。