よろしくお願いします。
田舎の集落
「おや、これは狐の嫁入りですかねえ」
役場の担当者は、晴れているのに窓に当たる雨の音を聞いてそう微笑んだ。
瞬間、口元を四角い布のような物で隠し、傘を差して田舎道を練り歩く行列の姿が目の前に広がった。脳裏に浮かんだというのではない。まるで自分がその場で眺めているように鮮明な光景だったのである。
だがそれも
あれはなんだったのだろう。担当者の『狐の嫁入り』という言葉に、以前ネットかテレビで見た映像を思い出しただけだったのだろうか。
それにしてはハッキリしすぎていたような気がするが……
俺は
その俺がなぜ平日の日中に役場を訪れているのかというと、田舎にテレワーク先を求めたからである。実は勤めている会社が本社の事務所を縮小し、社員は一部を除いて完全テレワーク化することになったのだ。
つまり、高い家賃を払って都内に住み続ける必要がなくなったというわけである。
ここはネットで調べ、有給休暇を使って旅行がてらに訪れたとある田舎の役場。俺のような移住希望者に空き家を紹介してくれる制度があったのだ。
二年前に両親が飛行機事故で他界し兄弟もいなかった俺には、保険金にたかってくる名ばかりの親戚を除くと身寄りがなかった。加えて恋人もいなかったので、現在の住まいに未練なんて微塵もない。
友達?
そんなもの、とっくに疎遠になってるよ。元々社交的じゃなかったから、友達と呼べる存在がいたのかどうかさえ微妙だし。
「特に広さは求めませんが電気、ガス、上下水道が完備されていて……」
「はい」
「
「ええ」
「車がなくても生活に困らないような……」
「ふむ」
「そんな都合のいい物件なんて、さすがにないですよね?」
「いえいえ、ちょうどいい物件がありますよ」
「ですよねぇ……あ、あるんですか!?」
「ええ。住民は五十人ほどしかいない集落ですが、ライフラインは問題ありません。お一人で住まれるには少々広いとは思いますが……」
建物は合掌造りで真冬には雪おろしも必要だが、集落の人たちは助け合って乗り切っているという。
そういうの、いいね。
実際には大変な作業なんだろうけど、殺伐とした都会でしか生活したことがない俺にとっては憧れである。
「そうそう、携帯やネットはどうです?」
これは大事だ。使えなければ仕事が出来ない。
「主要三社の電波は問題ありません。ただ、インターネット回線に関しては……」
「ま、携帯の電波がちゃんと来てるなら、モバイルルーターでなんとかなるでしょう」
「そうですか。私はその辺りに疎くてすみません」
「いえ。あ、あと暖炉とか薪ストーブなんかは?」
ロマンだよ、ロマン。
「一応薪ストーブはあります。しかしエアコンも完備されてますよ」
「そうですか。なら安心ですね」
「ところで夕凪さんは温泉はお好きですか?」
「ええ、普通に日本人ですから……ま、まさか!?」
「そのまさかです。天然温泉が引かれてましてね。まあ、もちろん毎月温泉組合に加入と固定費の支払いが必要ですけど」
「固定費?」
「ポンプが壊れた時などのための費用なんかを積み立てておくんですよ。もちろん運営費も含まれてます」
修理にはけっこうな額がかかり、個人では直せないケースが多いとのこと。
「高いんですか?」
「今はプール金がそこそこ貯まっているそうなので一万円ほどですね」
「ちなみに家賃は……?」
「ああ、家賃はいりません」
「は?」
「住む人がいないと荒れますので、地主さんが家賃は取らないことにしたようです」
温泉付きの合掌造り家屋が家賃ゼロで固定費のみとは。
いや、温泉組合への加入費とかもあるが、それらは一度支払ってしまえば済む話だ。元から温泉が引かれた建物なので温泉権を買う必要もない。
独り者には広いといっても、狭いよりはずっといいよ。
しかし、確認すべきことは他にもある。
「皆さん買い物はどうされているんです?」
「集落の中にコンビニがあります。地主さんが経営されていて、スーパーのように安売りなどはされてませんが、そこらのコンビニと同じ価格で物が買えます」
「つまりは定価販売と」
「そうですね」
それでもコンビニがあるとは驚きだ。もっとも田舎の集落にあることを考えれば、営業時間や品揃えは期待出来ないだろうがないよりはマシである。
あとは……
「病院や診療所なんかは近くにありますか?」
「それも集落の中に診療所があります」
「マジで!?」
「ええ。
周辺の町や村に往診に行ってしまい、不在にするなんてこともないという。それは頼もしいとしか思えないよ。
病院などの有無は最重要事項だ。命に関わろうと関わるまいと、たどり着くまで何時間もかかるようでは安心して生活出来ない。
あと、免許は持っていても車がない俺は通販をよく利用していたが、衣類などのコンビニで手に入らない物についてはそれで解決出来ると思う。
田舎だから余分に送料や日数がかかるとしても、なるべく頻度を減らせば済むだろう。
集落の場所を教えてもらい実際に訪れてみると言うと、公共交通機関は朝夕二本のバスのみしかないとのこと。
そこで担当者が地主さんに連絡を取ってくれたのだが、そしたらなんと送迎してもらえることになったんだよ。
地主さんは気さくな人柄がにじみ出る六十五歳のお婆さんで、コンビニの店長さんでもあるそうだ。決まった店員はいないらしいが、同居している高校生のお孫さんが時々店を手伝ってくれているとか。
貸す予定の家も見せてもらうと、古さは否めないものの掃除が行き届いていて気分がよかった。置いてある家財道具は自由に使っていいという。
至れり尽くせりとはこのことだよな。
また、浴槽には止めることが出来ないので常に温泉の湯が張られている。止めると他の家の湯量に影響が出るからだそうだ。折角だからと入らせてもらったのだが、これが実に気持ちよかった。
携帯の電波もバッチリ。ここならストレスなくテレワークが出来るだろう。
こうして俺は、名も知らなかった集落に移住することを決めるのだった。