代わりに両手へ授けられた才能をも、走れない悲しみは蝕んで行く。
しかし、残された耳にある足音が届いた時。二人の運命は大きく変わった。
これは全盲の装蹄ウマ娘と異次元の逃亡者が、運命を乗り越える物語。
次の一脚で止めよう。そう決意した。
ウマ娘。その名を聞けば多くのヒトは、煌びやかな衣装を身に纏って大舞台で走り、ウイニングライブで大歓声を浴びる競争ウマ娘をイメージすると思う。でも、私はそうじゃない。
努力が足りなかったと言われたことはない。誰も言おうとしないというのが正しいのだろうか。
才能がなかったのかどうかはわからない。それを確かめる機会は与えられなかった。
私は、ターフの景色を知らない。生まれつき、目が見えないからだ。
「普通」に生きる道は、最初から用意されていなかった。走りたいという全てのウマ娘が有する根幹の衝動すら満足させられない日々。白杖の必要な体でウマ娘の脚力を解放させたら、どれだけ危険かくらいは理解している。
テレビから聞こえてくるレースの実況は幼い頃から私にとって慰めであり、責め苦でもあった。才能に恵まれたトップ層の同族たちが、鎬を削り鍛え上げた脚でターフを駆け抜ける。その瞬間を共有することは走れない、走ってはいけない私の衝動をいくらか満たしてくれた。気が狂いそうになるほどの嫉妬と引き換えに。
きっと酷い顔をしていたんだと思う。親がテレビのチャンネルを変えたり、そもそも合わせないようにしたことは何度もあった。その度に聞かせて欲しいと食い下がった。あの音を完全に嫌ってしまったら、自分がウマ娘でなくなってしまう気がしたから。
取り憑かれたようにレースを求めた。トレセン学園の近くへ連れて行ってもらったこともある。学園のお姉ちゃんたちの掛け声とすれ違ったこともある。競技場の大歓声に参加し感動を共有したこともある。その度に、全力で動かしてはいけない脚で駆け抜けた気分になれた。そのどれもが、私を置き去りにして輝いていた。
時間をふんだんに使った自傷行為に転機が訪れたのは、あれこれと回っているうちに装蹄師さんの工房へ辿り着いたあの日。職人さんには最初こそ危ないと止めにきたものの、ハンマーの音にも聞き入る私を、勝手に動き回らないという条件で追い出さずにいてくれた。鍛冶の音に大きな耳で聞き入る小さな女の子の誕生だ。
私はその音が好きになった。一目惚れならぬ一音惚れだ。走ることに関係していながら目の事を嘆かせないのだから。そして貴重な時間で道具やら工程やらを説明してくれたお弟子さんの作品を触らせてもらったあの瞬間、私の運命は変わった。
「ここだけへこんでるの、なんで?」
師弟二人の表情を見る事はできないけれど、その息遣いや心音は明らかに動揺していた。一度は自分が合格を出した品を摘まみ上げたお師匠様は、悪い事を言ってしまったのかおろおろしている私の正面で黙りこくっていた。僅かな物音から、その蹄鉄に何かの金属――お弟子さんにノギスと名前を教えてもらった測定器を当てたり、自分の手で触っていることだけはわかる。
「……嬢ちゃん、すげえ指をしているな」
産まれて初めて、身体能力と呼べるものを褒められた日だった。
心配する両親を説き伏せる、と言えるほど歳を重ねていなかった私は散々に駄々を捏ねて工房へ転がり込んだ。すると、そこには見えなくてもできることが山ほどあるではないか。盲目のウマ娘の聴力は、装蹄判断に大いに役立つ。指で触れれば、どんな蹄鉄の歪みもすぐに見つかる。
自分でも装蹄鎚を握りたいと頼んだ時はその手や耳を台無しにする気かと怒鳴られたけど、一度だけと整形した蹄鉄で親方に認めてもらえた。片手は槌を握っても良いが、もう片方の手は繊細なままにすることと厳しく言いつけられて、装蹄に関わる様々なことへの挑戦が始まる。
驚くくらい吸収できた。天才だと持て囃された。それでも、ヒトが何十年もかけて習得する装蹄の全てを才能だけでこなすことなどできるはずがない。数えきれないくらい蹄鉄を削り、打った。
盲目の私のために兄弟子は何も言わずに工房の安全を確保してくれるようになり、親方は専用の治具を作ってくれた。特注の手袋と耳栓にも守られ、左手は今でもあらゆる歪みを見つけられるし良い時の音と悪い時の音をみっちり仕込まれた耳も健在だ。一方で右手は街中の男の人より遥かに硬くなり、バリ取りや充填剤で荒れ果てた。
それが、どうした。初めて人並み以上に上手くできることを見つけたんだ。毎日毎晩、兄弟子に引き剝がされるまで作業台に齧りついた。
私の蹄鉄は評判になり、とうとう日本のウマ娘たちの聖地であるトレセン学園へ招かれるまでになった。雲の上の存在だった「学園のお姉ちゃん」たちと同じ制服に袖を通せたのだ。可愛い……かは残念ながら見て確かめる術がない。でも、良い生地を使っているのは触れた瞬間にわかった。
学園から与えられた新しい工房は、慣れ親しんだ親方のそれと遜色がないほど使いやすかった。兄弟子から引継ぎを受け、手元や足元を守ってくれる職員さんもつけてもらえた。全部合わせたらいくらかかっているんだろう。
「愚問ッ! 君にはそれに値する腕がある!」
狼狽えていると、下から聞こえる力強い声が激励してくれる。最高の環境を授けられ、それまで以上に多くの蹄鉄と向き合った。
私は恵まれている。最後には背中を押してくれた両親。もう教えることは何もないとまで言ってくれた親方。今も近況を尋ねてくれる兄弟子。両腕に宿った才能をいくらでも磨ける環境。有名な同胞に頼られる日々。
そう、私は恵まれているはずだ。これらを望んでも手に入れられない人がどれだけいることか。わかっている……わかっているはずなのに、最高の環境は忘れていたはずの羨望を呼び覚まして、私を蝕んで行った。
装蹄検査のために依頼主に走ってもらうと、自分のものと比ぶべくもなく速い足音が聞こえる。私の削った蹄鉄が、製作者を置き去りにフルゲートの集団から抜け出す。感謝を込めて握手される度に、ごつごつした右手を握らせるのが申し訳なくなるくらいに滑らかな肌が絡んでくる。歓喜のウイニングライブを見る事は、一生叶わない。
私は幸せなんだ。何度も自分にそう言い聞かせた。
これ以上を欲しがるなんて罰が当たる。何度も自分を叱りつけた。
でも、何度言っても私の中の本能が悲鳴を上げる。
走りたい
みんなと走りたい
競い合って負けて喉が破れるくらい泣き叫んで地獄すら生温いトレーニングをして綺麗な衣装に身を包んで勝って喜びのあまり狂い死んでしまいたい
みんなと走りたい
……最近、一度打った蹄鉄の再調整をする回数が増えている。一度で削りきるべき数百ミクロンもの間違いを2~3回目の試走で耳が拾うのだ。
ますます加工精度が上がったのだろうと称えられた時は、寒気がした。とんでもない勘違いだ。良い時の私ならこんな無礼は絶対にしなかった。このままでは誰かの足を傷つけるかもしれない。輝かしい未来に向けて走り、日本中に夢と感動を与えている誰かの足を。
それどころか、見逃しでもあって装着者を転倒させようものなら――その可能性に震え上がった心が、ついに砕けた。
もう、止めよう。私は愚かな嫉妬で、せっかく授かった才能を台無しにしてしまったみたいだ。次の一脚を打ったら、この学園を去ろう。
本当は今すぐにでもそう切り出したかったけれど、予約へ応えているうちに次だけは外せなくなった。一度受けた依頼には全身全霊で応えなければいけない。技術と共にこの教えを叩きこんでくれた親方に、これ以上の不孝をするわけにはいかない。
だから、次を最後にしよう。散らばった心をかき集めて、最高傑作を更新したら去ろう。強めに頬を張って覚悟を決めると、職員さんに最後になるであろう依頼主への案内を頼んだ。
「はい、是非あなたに作ってほしいんです。秋に、絶対に勝ちたくて」
引き合わされたのは、誰もがよく知るスターウマ娘だった。一昨日の宝塚記念ではあの女帝をも打ち破り、今や異次元の逃亡者という二つ名に異論を唱える者はいないだろう。その声は、何度もテレビに聞かされたインタビューのものに間違いない。
でも、この決意表明には違和感を覚えた。春頃のインタビューでは趣味が走ることで特技も走ること、休日の過ごし方も走ることなんて答えるような人だったのに。
「今までは、好きなように走ってきました。そんな私にも、勝利を届けたい人ができたんです」
弱者のものと言われた逃げ戦法を大逃げという武器に昇華させてくれたトレーナー。自分を目標だと言ってくれた同期。真っ直ぐ慕ってくれる後輩たち。入学して出会ったかけがえのない仲間へこれまでにない勝利を贈りたい。
そう語る声音はこの上なく幸せそうで、走れない妬みで駄目になった私を惨めな気持ちにさせてくれた。今なら陽光の下に引きずり出されたミミズにだって共感できる。
「すみません。私、何か……?」
何も言えないでいると、眩いお日様を僅かに陰らせてしまったようだ。いけない、装蹄師として次のレースが待っている競争ウマ娘の足を引っ張っては。
「いいえ、素晴らしい動機です。まずは走る音を聞かせてくれませんか?」
どうにか誤魔化せないか焦った頭でひねり出せたのは、いつもの手順だけだった。
運命とはわからないものだ。咄嗟の一言は、正解を引き当てていた。
「そんな」
その足音は、至高の芸術だった。スピードがある、瞬発力がある、体が柔らかい、バネがある。今しがた感じたばかりの惨めさすら吹き飛ばす、まさに異次元の走り。こんな桁違いの相手なら、視力の有無なんて関係ない。私だけでなく全てを置き去りにすると確信できた。
では、何故ショックを受けたのか?
速過ぎるからではないし、敵わないからでもない。秀抜の旋律に、あってはならない不協和音が混じっていたからだ。
「本当なのか?」
向う正面から帰ってくるまでの間に、並んで「視て」いたトレーナーさんへ先に報告する。その表情を目に映すことはできないけれど、声音は語っていた。疑わないが、信じられないと。
自分でもそう思う。レコードタイムの連発を含めて5連勝中の脚に不安があるなんておかしい。何かのヒビや腫れといった致命的なものが存在しているような音ではないから、余計にだ。ヒトはおろかウマ娘の感覚でも、まして本人であっても脚に全神経を集中させなければ気付かない極小のノイズ。耳だけで生きて来た私が装蹄のために聴いていたからギリギリ拾えたようなものだった。
では、ヒビも腫れもないなら発生源は何か? 医者ではないから診断名はつけられないけれど、似たような音を現場で聞いた覚えはある。これは、力をかけ過ぎた時の材料の呻き声に似ている。最速の走り手からほんの僅かに聞こえる、同種の異音。下すべき結論は一つしかなかった。
「ごめんなさい、あなたを速くする蹄鉄は作れません。逆に、遅くても脚を守る一脚が必要です」
「……ウソでしょう?」
このスターウマ娘は、スピードの向こう側へ行こうとしている。ウマ娘の脚が出してはいけない速度を出そうとしている。ならば私の最後の作品は、逃亡者をこちら側へ連れ戻すのに捧げよう。
私の覚悟がどう伝わったかわからないけれど、彼女とトレーナーさんはレントゲンに映らない、まだ影も形もない何かのための蹄鉄作りに頷いてくれた。夏合宿直前という時期を考えると裸足でビーチを走っている間に基礎設計を済ませ、9月頭に調整して慣れてもらうのがベストか。
合宿に向かう彼女の履き古した蹄鉄を残っている限り譲ってもらうと、私はやすりや槌を手にした。最近の調子から考えると、驚くくらいスムーズに製作に打ち込める。私を信じてくれた天上人に報いたいし、初めて作る蹄鉄に職人の血が騒いだし、最後と決めて開き直れているのもある。
でも、一番大きいのは人生二度目の「一音惚れ」なんだろう。この道に入った時もそうだった。私はこういう性分のようだ……あの音が壊れるのは、嫌だ。
事情を説明してこの蹄鉄に集中したいと頼み込むと、学園は快諾するだけでなく他の競争ウマ娘が装蹄に不自由しないようヒトやモノを回してくれた。トゥインクルシリーズの顔となった彼女に何かあっては大変という思惑もあるのだろう。新素材の注文も順調に済み、いよいよ未知の蹄鉄と向き合う。
キーとなるのは軟質素材だ。レース・トレーニング兼用蹄鉄の9割以上を占めるアルミ合金だけでは、異次元の走りの衝撃を殺すことはできない。しかも砂浜でのトレーニングの成果が出れば、夏明けの彼女は今よりさらに速くなっているはずだ。それまでに浜辺に代わる緩衝材を組み込む。
最初は素材の選定からだ。こればかりはどれだけ彼女が成長してくるか読めないから、何種類か用意するしかない。耳に残った音を頼りに、今の彼女の脚が必要としているであろう弾性を推定。今まで聞いた競争ウマ娘たちの夏前後の足音を思い出して、7パターンの組み合わせを用意する。走れない脚と走ることを許してくれない目の代わりは、守り続けている左手だ。
次に設計。軟質素材は使いどころを間違えると却って足場を悪くしてしまう。衝撃を殺したもののレース中によろめいて転倒しました、では話にならない。天才競技者の脚を守れる厚みと、その感覚を可能な限り阻害しない薄さを求められる。装着する場所も大事だ。
7パターンの素材をそれぞれ市販のシューズへ打ち込み、自分で履いて足踏みしてみた……私に許されるのは足踏みまでだ。邪念が再び頭をもたげかけたが、装蹄師の意地で踏みつけた。
自分の足音を頼りに厚みと配置を決めると、職員さんに寸法を測定・記録してもらってから加工に入る。シューズへ固定するためにまず釘を打ってみたが、軟質素材が負けて釘を沈めてしまう。装蹄槌を握る時は必ずつけている耳栓を遮音性の劣るものにわざと変えて耳を頼りに打つことで、どうにか一脚だけベストな深さを出した。でも、これでは走っている間に釘が深く入ってしまう。
そこで、接着装蹄に目を付けた。充填剤を流し込む分も考慮して削ったアルミ合金に軟質素材を合わせ、職員さんにクランプしてもらってシューズへ固定する。右手で安全を確認し、細かな滲みを削ってから左手で最終確認だ。
やってみると釘よりずっと時間がかかるし、毎回やれば充填剤の値段も馬鹿にならないだろう。それでも、走っている間に負けた緩衝材が釘の深さを変えるよりはマシなはずだ。そこで隣の釘で打ったお手本を頼りに、貼り付け用の治具も作ってみた。これも7パターン分だ。
硬質ゴムとウレタンと充填剤との格闘に一区切りがついたのは、夏合宿終了の1週間前だった。不正蹄鉄となっていないか検査をしてもらうと、早速7足のシューズを渡す……なんて愚は冒さず職員さんへ頼んで合宿所へ移動する。
そして、最終週で追い込みをかけている競争ウマ娘さんたちの邪魔を極力しないようトレーナーさんにお話を聞き、砂地を走る異次元の足音を聴いて7足のうち5足を仕舞い込んだ。全速力に脚が耐えられない可能性を自分で示唆した相手に、繰り返し試走をしてもらうわけにはいかない。一聞で弾けるものは弾いてしまおう。
学園へ戻ると実際に履いてもらい、数百ミクロンを削る。さあ、試走だ。
「す、すごいっ」
予測は正しかった。夏を越えた彼女の脚は出してはいけない速度を本当に出した。速さの代名詞であるウマ娘にとってすら、スピードオーバーだ。
だから、大逃げを止めて手加減をしながら普通の逃げをしてください……そう言わずに済むよう私は最後の一脚へ取り組んできた。残った2足で順番に走ってもらい、足音を聴き比べる。
「だめだ、聞こえない」
そこで問題に突き当たった。確かに軟質素材は衝撃を和らげてくれたらしい。だからこそ、耳がついてこない。どちらがベストなのか、数十ミクロンの誤差が残っていたりしないか。本当にこの蹄鉄が彼女の脚を護りきっているのか。
試しているのは軟質素材とそのために削ったアルミ合金を組み合わせた接着蹄鉄。装着するのは異次元の走りをする規格外のウマ娘。初めてのことばかりで、「これくらいで良い」と断言できる基準がない。せめて、もっと近くで聞ければ――。
思考の沼から引き上げてくれたのは、2周目を終えた彼女の声だった。
「それなら、一緒に走ってくれませんか?」
――いや、引き上げたなんてものじゃない。沼ごと全てを吹き飛ばすような衝撃だった。走る?
白杖がなければ何かにぶつかるリスクを排除できない私が、大事なレースを控えた年度代表ウマ娘筆頭候補と?
「危ないだろ」
「でも、そうしてもらわないと私の脚はいつか壊れるかもしれません」
私の理性をトレーナーさんが代弁すれば、発案者はもう一つの理性と……本能を後押しする。
走りたい
口から飛び出そうな鼓動を、がさつく硬い右手で抑え込んだ。全てを狂わせた、ウマ娘の本能が今にも暴れ出しそうだ……落ち着け。これは蹄鉄の調整の方法論だ。仕事なんだ。
そうこうしている間に話し合っていた2人は、私が良いならと気づかわしげながらも安全確保の方策をまとめてしまった。こちらが直線の始まりに待機し、後方からスタートした彼女が横を通り抜け、その足音を追えるだけ追う。
確かにこれなら、私が勝手に動き出さない限り衝突の危険性はない。この脚では彼女に追いつけないし、音を追う限りコースから外れることもない。ラチ沿いを攻めないように確認し合う会話を耳にしながら私は……私は、深呼吸を繰り返した。
落ち着け。落ち着け。コースに出てなお、彼女が走り始めてなお早まったままの心拍を叱り……それは結局、実を結ばなかった。
「わ、あ!」
初めて走り抜けたコースは、見えない目に輝きを感じられた。頭の中に直接光が流れ込んできたみたいだ。シューズを通して伝わってくる芝の生命力が、緑という色すら教えてくれた気がする。風音にも初めての全力疾走を祝福された気がして。この直線が終わらないことまで願って。
「どうでしたか?」
次のカーブの手前で待っていたトレーナーさんの声で止まるまで夢心地は続き、せっかく時間をもらったというのに問いへの答えを持てなかった。
「ごめんなさい、その……」
頬に集まっていた血が一気に引いて行く。仕事のことが頭から消し飛んでいましたなんて、言えない。耳か尻尾が自白してしまっているかもしれないけど。何を言われても仕方ない。
ただ、仕方ないとは覚悟していても予想外な展開というものはある。
「……あー、いきなりは無理だろそりゃ。まず走るのに慣れてもらわないと」
「え?」
「そうでした、私ったら。お願いします、どうかまた走ってくれませんか?」
「え? え?」
あまりに都合の良すぎる、と言ってしまってもいいのか。恐ろしく急な話でトップアスリートに依頼され、そのトレーナーさんによる指導が始まった。最初は止めていたはずの彼は、教え子を別メニューに回した上で私が安全に真っ直ぐ走れるよう工夫を凝らしてくれる。
「こっちとしては、仕事が詰まってなければ是非やってもらいたい」
来月にはトライアルレースだというのにと恐縮しきっていると、こんな声までかけられる。それだけこの耳に賭けてくれているんだろうか……ならプロとして応えなければ。
最初は好きに走る所からとトレーナーさんに励まされ、翌日までにはプロの聴覚を取り戻した。そう、一日は本当に好きに走り倒してしまった。生まれてから今日までの欲求不満を発散するには短過ぎたけど、仕事準備としては長過ぎる、夢のような時間。
本当に夢でも見ていたのではないかと疑ったけど、翌朝に誘われてようやく現実に帰ってきた。これだけのことをしてもらったのだから、報いないと。彼女の後から走って、今度こそ2択を聴き当てると最後の数ミクロンを削りきった。
お礼を言われてこちらこそと口走りそうになった私は、咳払いを挟んで接着装蹄の注意点を説明した。走行中に剥がれたら大変なので、定期的に貼り直す必要があると念を押す。と。
「それなら、また一緒に走っていただくわけにはいきませんか?」
どれくらいで剝がれるかわからないなら、そのデータも取って欲しい。最後の一脚を作り終えた以上は退学するつもりだったけれど、そう言われてしまうと仕事を放り出せなくなった。確かに釘と違って兆候は見分けづらいと思われる。
こうなっては仕方ないので、定期的に彼女の後を追って耳を向ける。でも、これでは他の仕事も舞い込んでズルズル続けることに――。
「わ、私とも一緒に走ってくれませんか?」
「オレも頼みます!」
――今度こそ、夢を見ているのだろうか。嫉妬のあまり妄想の世界にでも入ってしまったのか?
それからというもの、装蹄検査には自分を追いかけて欲しいという依頼がセットになった。通常の蹄鉄なら傍らで聴けばわかると説明はしたけれど、どうしてもと頼まれる。頼んでくれる。
嬉しくないと言えば嘘になるが、これでは一脚あたりにかかる時間は増えてしまう。職員さんを通じて学園に問い合わせてみると、時間を使っても一脚ごとの質を重視してほしいと答えられた。そうしてプロの装蹄師としての追走に慣れる頃には、新しい蹄鉄のお披露目が迫っていた。
毎日王冠で、軟質素材の成果は良い方にも悪い方にも現れた。招待された最前列で歓声に苦労しながらもゴール板手前の音を何とか拾うと、トップスピードでも不協和音は聞こえてこなかった。一方で、発表された着差は1バ身。予想されたほどの成長はなかったと実況に言われてしまった。
悔いはない。普通の蹄鉄では彼女の脚を護りきれなくなると、本気で考え取り組んだのだから。でも、国民的競技のトップ選手のタイムを悪くしたというのもまた事実。あの天才が何か言われるのは忍びない。必要ならば自分の名前を出して欲しいくらいだ。
「そんなことを言ってくる人がいても、私の方が速く走れますから」
提案すると、謎の返答があった。入っていた肩の力が、抜けた。
手がけた新しい蹄鉄がタイムを落としたというのに、彼女はその後も追走と接着した蹄鉄の点検を頼んで来た。他の依頼者もだ。受けた仕事で手を抜くわけにはいかず、次の1ヶ月もあっという間に過ぎる。1ヶ月分の隙間時間で改善点はないか探してもみたが、見つけられなかった。
私がやれたのは、充填剤の具合は問題ないと報告し、次のレースでも剥がれはしないと送り出すことだけ。安全のためには良い仕事ができたと思う。でも、ついに速さとの両立はし損ねた。
そんな私に彼女は何も言わず、ただ次もトレーナーさんと一緒に最前列を用意してくれた。検査のための追走で高揚感に溺れたり、苦労をかけたのに本当に親切な人だ。
秋の天皇賞の大舞台。ここでも何か言われたら、私が名乗り出よう。彼女にはそれだけ良くしてもらったし、元々止めると決めていたのだから。
「……え?」
覚悟を決めて凪いでいた心は、スタートして2ハロン目で掻き乱された。先頭で刻まれる彼女のラップが速過ぎるのだ。観衆の声援で骨や関節の音がかき消されているのがもどかしいけれども、移動速度が夏合宿直後の試走すら超えていることだけはわかる。
まさか、気が変わって普通の蹄鉄に履き替えたんだろうか。1000メートルを57秒4だなんて、あんな柔らかい蹄鉄で出せるはずがない。どの蹄鉄を使うかは、レギュレーションにさえ違反していなければ競技者の自由だけれど、こんな速度をアルミ合金で出せば危険だ。
「トレーナーさ――」
「よっし、最終コーナーだ」
青ざめて隣の彼に声を掛けようとしたけれど、彼はレースに夢中だ。かろうじて聞き取れていた足音が、そこに生えているという大きな欅の向こう側へ消えて……
『速い、速い! もはや独走状態!』
「ぁ――!」
……一瞬途切れた足音がまた聞こえると、へなへなと手すりへもたれかかってしまった。ゴールの瞬間すら、実況があるまで意識の外側にあったかもしれない。無事の完走が嬉しくて仕方なく、同時に不思議でもあった。
「ありがとうございました、あなたのおかげです」
トレーナーさんと隣り合ったままだった私に声がかかるまで、2つの感情は混ざり合ったままだった。この口ぶりは、至近距離でようやく聴こえた足音と一致しているけれど。
「約束した通りです。私の方が、速く走れますから」
私が負い目に感じないように、元の走りを超えたというのか。あの蹄鉄で。見えるならば間違いなく大開きしていたであろう目を震わせていると。彼女はそっと、私を抱きしめてくれて。
「ありがとう。一緒に走ってくれて」
それなりにしっかりしていながらも、苦しくはない抱擁。それでも私の目からは、絞り出されたように涙が流れ出た。どうして、ここまで。
「これからもあなたに、一緒に走って欲しかったから」
「そんでお前さんが、よく知ってる顔をしていたからかな」
……ああ、そうか。この人たちは趣味が走ることで特技も走ること、休日の過ごし方も走ることなんて答えるようなウマ娘とそのトレーナーさんだった。お見通し、だったんだ。
そこで、涙腺が壊れてしまったみたいだ。頭の方はここが万単位で人が詰めかけているレース場だと言っているのに、身体はスターウマ娘であり、同級生でもある彼女の腕の中だということ以外の全てを忘れ去って泣きじゃくる。
そしてようやく、ここ2ヶ月で起きた出来事の意味を思い知る。
学園は。みんなは。『全ての』ウマ娘の幸福を考えてくれていたんだ、て。
結局、私の最後の一脚は何十年も先に作ることになりそうだ。憑き物が落ちた耳は数十ミクロンの切削を導く音を拾えるようになったし、新素材の蹄鉄は異次元の逃亡者だけでなく足回りが不安な子たちにも提供を求められるようになった。
そして検査や試走の中で、彼女たちの悩みを知ることもできた。妬ましさに囚われていた頃なら決して頭に入ってこなかった音と声に、仕事への意欲は高まるばかりだ。
盲目の装蹄師が作った新蹄鉄との見出しで発表されると、親方からはとっくに俺を超えていると言ってもらえたけれど、とんでもない。私はやっと、本当の意味で依頼者へ向き合った一脚を作り始めたばかりなんだから。
『今年も栄光の日曜日の主役となったのは
そしてまた、あの季節がやってきた。やったことの水平展開を頼まれたり、障害を持つウマ娘やヒトから応援の手紙が届いたり、弟子入りの願書まで届いたりと壮大な話が続いて畏れ多いけど。こうして私の蹄鉄を求めてくれた誰かが無事に、そして一番に帰ってきてくれるのは嬉しい。
「あのう、私は裏方で……注目とかは」
ただこの眩し過ぎる太陽さんは、先頭でゴールして大注目を浴びる中で私に駆け寄ってくるのでどうにも恥ずかしい。話題性のおかげで主目的のトレーナーさんより目立っている疑惑もある。
「そう言わずに!」
そしてこの日は、1対1の押し問答ですらなかった。なにせ2着の足音も3着の足音も、4着と5着の足音まで聞き覚えがあるではないか。あわあわ言いながらも私は、5人の競争ウマ娘に表舞台へ引き出される。
繋いだ手と手でしてみせた万歳は気恥ずかしくて、むず痒くて……でも。ようやく辿り着いた、私のターフがそこには在った。
ご覧よ。
あの掲げられた、節くれだった右手を。
一本だけ太くなった歪な四肢を。
充填剤で荒れ果てたその腕を。
開かれることなくくしゃくしゃになった双眸を。
君は、彼女を笑うかい?