子供の頃、いつもに増して冷たい冬の日はその日を夏だと思い込もうとしていた。そう思えば頬に刺さる凍て風を涼やかな日方だと感じられるような気がしたから。
そんな無為な試行の結果なんて言うまでもないことで、寒いものは寒いのだと早々に匙を投げたものだった。
こんなことを思い出すのは、今この瞬間を夢だと信じたかったからに違いない。
けれど畢竟、
冬の樹木は侘しく、夏に見せた翠など何処へやらと褐色の骨だけを剥き出しにしている。
手編みのマフラーに埋めた筈の首筋がやけに冷える。暑くもないのに滲む汗がそうさせている。だらりとぶら下がっただけの指先は、その汗を拭うことをしなかった。
目の前で泣きじゃくる女の子の涙を掬うことも。
「ごめんね」
途切れ途切れ、一言一言を
僕は彼女の言葉がこのまま凍りついてしまえば良いとさえ思った。そのまま春が過ぎて夏になり、溶けるように消えてしまえば何とも楽であることかと夢想した。
しかし彼女はそれを善しとする性分でなかった。誠実で、素直で、だから僕は彼女を好きになった。
惚れた弱みとはよく言ったものだ。その惚れた性分が今
「私たち、もう別れよう?」
はっきりと、一言一句違わず、女の子はそう言った。
つい、ほんのつい今まで、僕の恋人だった彼女──山吹沙綾はそう告げた。
立春。どうしたって、春は別れの季節だった。
彼女はバンドマンだった。
担当はドラム。中学生の頃から叩いていたこともあって、その腕は
今の季節になると、彼女はカイロに厚手の手袋にと厳重にその手を保護していた。
「
眉根を下げて笑う彼女に、僕は内心で残念がった。白く細い彼女の指が好きだった。小さくてもしっかりと温かいその手を握るのは僕だけの特権で、密かな楽しみだった。
ある日そんな本音をふと漏らしたことがある。
「ぁえ」
そんな素っ頓狂な声を出して彼女は固まった。みるみるうちに顔が赤くなって、見ている此方が熱くなってくるような錯覚すらあった。
暫くの沈黙を挟んで、彼女は手袋の片方をするりと外した。
「えっと……あはは、そ、そんなこと言われると思ってなくて」
擽ったそうに俯く彼女。手の甲が触れ合う。
互いに何も言わず、そのまま指と指が絡まった。
「でも、嬉しいな」
当時はマフラーなんて巻いていなかったけれど、それだけで良かった。
ふと視線を落とすと、白い指にベージュ色の絆創膏が目立った。
「あ、これ?」
僕の指摘に彼女は下を見遣る。数瞬考え込むような仕草を見せてから、にこりと笑った。
「なんでもないよ。別に大した怪我でもないし、ちょっとね」
バンドに支障はないのだろうか。常日頃指を大切にしている彼女だからこそ、心配が勝った。
「本当に大丈夫だって。でもそうだなぁ……ちょっとは気にしておいて欲しいかも」
明瞭さに欠ける言葉に首を傾げても、彼女に詳細を語る気は無いようだった。
「楽しみにしててね」
そう言う彼女の笑顔は、真冬でも向日葵のように眩しかった。
目が覚める。此方が夢であるようにと本気で願う程自分は子供ではないと思いたいけれど、今見ていた記憶こそが、正にそう思う自分への反証だった。
頭が痛い。熱が出ていた。
せめて近所で薬だけでも買おうと鉛のようになった体を引き摺って、部屋着の上から雑に上着一枚を羽織る。
つけっぱなしだったテレビから、はきはきとしたキャスターの声が霞がかった脳にぼんやりと響く。発達した低気圧と上空の寒気で、今日も関東は雪らしい。
知っているさ、そんなこと。
口に出たか出ていないか、そんなぼやきが宙を舞った。
外は寒いだろう。マフラーを巻こうとクローゼットまで行き、ふと踵を返す。
巻いたところで、きっと意味なんてない。首は剥き出しのまま、重たいドアを開けて外に出る。
公園のプラタナスのことなんて、僕が言えた義理ではなかった。纒わり付く未練を断ち切れない無様な男が、四季の巡りで落葉する木々に侘しいなどと。
僕は二度とあのマフラーを巻かないと決意した。
商店街を二人で歩いていた。冬の灯りが賑やかな通りに、多くの人が足を運ぶ。
クレープを片手にぶらぶら歩く数人の学生、手を繋ぎながら歩調を合わせる男女、はしゃぐ子供を間に挟む夫婦。色々な人がいて、僕たちも其処にいた。
正月が少し過ぎた頃だったけれど、冬の商店街は切り替えが早い。門松が消えたかと思うと、通りはそれまでの和装と全く逆の様相を成していた。
「バレンタイン、かぁ」
横を歩く彼女の呟きに、僕はどきりとした。
恋人がいる以上、その日を意識することは避けようがない。僕の動揺を見透かすような表情の彼女にそう言い訳すると、クスリと笑われる。
「私からのチョコ、欲しいんだ」
迷わず首肯する。反射のような挙動にやっぱり彼女は笑う。
「そっかそっか」
満足げな笑みに、僕も素直な笑顔を向けることができた。
いつものように手を繋ぐ。固く結んだ手と手が、この先も同じように続くのだと思っていた。
商店街は通れなかった。
ふらつく足取りで煩雑な回り道をする方がまだ良いと思うくらいには。
あの公園も、それからあの道もと彼女の影を見ないよう努める内、徒歩五分の最寄りのコンビニは遠ざかっていく。
どこを歩くにも、彼女との三年間が欠片になって散らばっている。風は頬を叩く癖に、そんなちっぽけなものなんて吹き飛ばしてはくれないようだった。
左側は今までより眺めがいい癖に、前よりも余程煩わしい何かがあった。
結局見覚えのある川沿いの道に出た。彼女の通学路だった。
何度か迎えに行ったことがあって、その度に彼女の友人に揶揄われた。彼女のバンドのメンバーで、溌剌とした笑顔で無邪気に祝福をしてくれる娘だった。
「あ……」
聞き覚えのある声だった。
それは丁度思い返していた彼女の友人で、僕を見ては何とも言えない表情を浮かべた。
前に会った時とは全てが反転しているようだった。
僕は極僅かに頭を前に傾けた。それは最低限の社交辞令だったのかもしれないし、単に項垂れただけだったのかもしれない。
ひとつ言えることは、僕は彼女のことを見ることなんて出来なかったという事だけだ。
二月の十四日。
冬至が過ぎて、少し日の入りは遅くなったように思う。
ただ流石に小一時間も経過すると辺りは暗くなってくる。手編みのマフラーを少し強めに巻き直す。
手の先の寒気がどうにもならなくなってきた頃、走ってくる彼女の姿が見えた。
「ごめん、めっちゃ待たせちゃったね」
息を整える彼女に、大丈夫だと伝える。ただ何かあったのでは無いかと少し心配したことも。
「実は何日か前にさ、香澄が急にライブの予定入れちゃって」
答える彼女の声は何処か楽しそうだった。
「先月ライブやったでしょ? あの時観てくれてたSPACEのオーナーが、出て欲しいライブがあるって言ってくれたらしくてね──」
付き合っている人間を待たせていた割には。
けれど別に怒る気はなかった。寧ろ普段我があまり強くない彼女のそういった一面を見られるのは、少し嬉しくさえあった。
ライブの話、バンドメンバーの話、
「ってごめん! 待たせてたのに色々話しちゃって」
慌てて謝り直す彼女に、何と返すのが正解だったのだろうか。
「じゃあ、はいこれ。ちょっと忙しかったから、手作りじゃないんだけど」
紙袋に入った小さな箱を受け取る。
ただ少なくとも、僕はその正解を選び損ねていたことだけは確かだった。
人の生涯の傍らには、常に天秤が設置されている。
数え切れないほどの事象をこの天秤に掛けて、その針が傾いた側のものだけを手に取って生きている。
傾かなかったものに手を伸ばしても、もうそこには何も無い。
コンビニの袋を片手に帰路に就く。その分だけの重みとは思えない程の気怠さが一気に増して、回り道をする余裕もなく足だけが憶えている道をふらふらと進んでいく。
昨日の公園に差し掛かった。
彼女は高校を卒業したら、もっと本格的にバンドに打ち込みたいと言った。
今だって僕に何も返せていない自分がこれまで以上に何も出来ないまま僕を縛るのが辛いのだと。だから別れて欲しいのだと。
聞いて、それは半分は嘘だなと思ってしまった。言い換えるならば、それは彼女なりの優しさだった。
それと同時に自分の愚かさを呪った。そこまで聞かなければ、気付くことさえ出来なかった。
彼女とバンドという切っても切り離せない関係を、僕は切り捨てて付き合ってきたことに。
一丁前に恋人を気取っておきながら、彼女が一番大切にしているそれを顧みない尊大さが在ったことに。
あの時、僕は手作りでないことを残念がった。彼女の事情を直前に聞いておきながら、何も考えずそう
『……うん。分かった、来年はちゃんと手作りのヤツ渡すから。楽しみにしててね』
そう頷く彼女に、呑気に満足していた。
結局、僕らの天秤の針はあべこべだったのだ。
互いが互いに求めているものが、致命的に噛み合わない。多分、何もかもがずれていた。
そこまで解っていてもどうにもならない。彼女への愛しさも怒りも哀しさも虚しさも、曲がりなりにも一緒に過ごした三年間も、全て抱え込んでこの場に蹲ってしまいたくなった。
雪が降っている。
あと十日もしない内にバレンタインデーがやってくる。
十日も経てば、降り積もる雪の中に埋もれてしまえるだろう。雪が止まなければいいと思った。
そのまま凍りついて、溶けて消えてしまえばいいと思った。
去年の今頃は、チョコが貰えると間抜けは喜んでいた。望めば何だって手に入れられるのだと、愚昧な有頂天に浸っていた。
それでも、僕は今こうして全てを取り零してここに居る。
傾いた天秤の向こう側に伸ばした手は、いつだって空を切る。
ただそれだけの事だった。
ハッピーバレンタイン