さらさらとペンを走らせ、書類に文字が刻まれる。
見た事もない文字で、流れるような慣れた手つきで、魔女とかつて担任教師であったという老いた男性が名を刻む。
それを見ながら、ヒミコはただ茫然としていた。
記憶の中にある担任教師といえば、常に険しい顔で、大柄な体躯も相まって生徒達に威圧感を与えるうえ、口調も荒く厳しいため、多くの者に嫌われていた男であった。
だが、今目の前にいるこの男はどうであろうか。
雰囲気は穏やかで口調も親し気、鋭かった目つきも柔らかくなっており、別人と言っても過言ではなかった。
「……おし、これでいい。なんだか、この書類を書くのにもだいぶ慣れちまったなぁ」
ヒミコが固まっている間に、何らかの手続きが終わったらしい。コンドウが書き終わった書類を束にし、とんとんと端を合わせている。
それを見ながら、いつの間にか煙管を取り出し咥えていたアザミが、ふぅ、と煙を吐き出した。
「最近、やたらと多くなったものね。あんたが来た頃はまだ滅多に現れなかったのに……旬でもあるのかしら」
「そんな旬があったら困るっての。とにかく、ありがとな先生」
暇そうに寛いでいた魔女にぺこりと頭を下げ、書き終わった書類を封筒に収めるコンドウ。
魔女はしばらく虚空を見つめ、煙を宙に揺蕩わせていたが、やがて立ち上がった。
「……じゃあ、私はこれで。情報があればまた伝えるわ」
「ん? ああ…ありがとよ。助かった」
封筒に紙束を詰めるのに苦労しているコンドウに、アザミに代わってシオンが手を振る。
ヒミコがハッと我に返り、魔女達に振り向く。未だ状況を理解できておらず、混乱したままだったが、脳内の冷静な部分が再度の謝意を伝えようとする。
しかし、ヒミコが口を開くよりも前に、コンドウが顔を上げてアザミに苦笑を見せる。
「それとよ、先生。頼むからここにいる時ゃ、女の喋り方はやめてくれねぇか? 背筋がゾッとすんだよ」
「―――知った事か、己の裁量だ」
ぎろり、と鋭い目で睨みながら、仮面と鎧の姿の時に発した声を発するアザミ―――いや、師。
向けられた視線の鋭さに思わず黙り込むヒミコを他所に、近藤は肩を竦め、魔女とシオンは扉を開き、その場を後にしようとする。
「…あっ! 行く前にあれ……小早川の事なんだが」
「……悪いが、知らん。あれがどこで何をしているか、己は知る気もないし知りたくもない」
弟子に先に行かせ、魔女が姿を消すその直前、コンドウが申し訳なさそうな表情で尋ねる。
魔女はじろりと彼を睨みつけ、今度こそ扉を閉じてしまう。
ぽつん、と部屋に残されたヒミコは、恐る恐る振り向き、何故か沈痛な表情で項垂れているコンドウと向き合う。
知っている者だと紹介され、実際に顔と名前には覚えがあるものの、記憶の中にある人物とはかけ離れているため、まるで知らない他人の様にしか思えない。
ソファに一人腰を下ろし、居心地悪そうに身を縮こまらせる。
そんな彼女に、ようやく気持ちを落ち着けたらしいコンドウが、にっと笑いかけてきた。
「…さて、悪かったな。ほったらかしにして。こっちでも余所者が暮らすには、色々とて卯月が必要でな。書類の用意とかが面倒くさいんだ
「あ、えっと……はい」
「そう固くなるなって、久しぶりに会えたんだ。ゆっくり話そう」
けらけらと馴れ馴れしく話しかけてくるコンドウは、やはりヒミコには、知っているコンドウという男とは別人に思えてならなかった。
警戒したまま、顔の強張りが引かない少女に、コンドウは困ったように頭を掻いていた。
「遭難のも仕方ねぇな、向こうにいた時も仲が良かったわけじゃねぇからな。…いや、話したっつーか、説教ばっかしてたんだっけか? まぁ、俺はそういう役割だったから勘弁してくれや」
「……本当に、近藤先生なんですか?」
「……疑うのも仕方ねぇ、こんなに爺になっちまったからな」
白くなった自分の頭をがしがしと掻き、自嘲気味に笑うコンドウ。
その姿は、少女を騙そうとするような様子は全く感じられない。遠く離れた知人にようやく会えて、心の底から安堵しているようにしか見えない。
ずっと緊張し、身構えていたヒミコは、そこでようやく肩の力を抜き始めた。
「どうして……そんなことに?」
「どっから説明したものか……あー、お前、どこまで覚えてる?」
コンドウに問われると、ヒミコの眉間にしわが寄る。
この世界に来る前、最も新しい記憶を辿ると、どうしても恐怖が蘇ってくる。夢であってほしいと強く思う記憶が、黴のように強く根付いてしまっていた。
「……修学旅行に行くために乗った飛行機の中で、事故が……」
「うん…そうだな。悪いな、思い出したくもないだろうに。だが、こりゃあこっちに来た奴全員に確認してることでな。……覚えてないなら、それでもよかったんだが」
ぶるぶると肩を震わせるヒミコに、コンドウは大きなため息とともに頭を下げる。
自分も味わった恐ろしい記憶。上空数千メートルという逃げ場のない鉄の箱の中で味わった悲劇。凄まじい揺れの中、真っ逆さまに落ちていくという恐怖に襲われた、あの数十秒間。
自分だってもう二度と体験したくない、二度とあってたまるかという最悪の記憶なのだ。
「あのとき何が起こったのか、正直俺ぁ専門外だからよくわかってねぇんだが……先生が言うには、二つの世界の間にでかい穴ができて、俺達はそこに吸い込まれたんだろう、ってこった」
「世界に……穴?」
「その辺は全くわかんなかったんだが……何らかの現象、災害が起きて、時空が歪んだとかそんなんらしい。先生に聞いたんだが……悪い、全くわからんかった」
苦笑しながら、コンドウはまた頭を下げる。
まるで要領を得ない説明だったが、ヒミコにとってはそれでよかった。
教室で一部の男子達が離していた、物語の中で起こるという異世界転移。そんなものに実際に巻き込まれたのだ、説明しがたい何かが起こったのだとしか認識できなかった。
「要するに……事故、なんですよね。私達は、その事故に巻き込まれて、こちらの世界に来てしまった」
「そうだな、そうしてあの飛行機は墜ちた……だが、話はそう単純でもねぇ」
不意に、コンドウの表情が険しくなる。見覚えのある、学校で何か問題が起こった時に良く見せていた表情を見て、ヒミコははっと目を見開いた。
「俺がこんな姿になった理由だが、話は単純だ―――俺はこの世界に来て、30年という時を過ごした。それだけの話だ」
その言葉に、ぎょっと目を剥く。
ずいぶんと老いてしまっていると思ったが、それは病気や心労によるものではなく、老化が進んでしまっただけなどとというのだ。
ヒミコはまるで、自分が浦島太郎にでもなったように思えた。
「……そういえば、30年振りだと」
「この街での最古参は俺だ。だが、俺よりもずっと前にこっちに来ちまった奴らは何十人もいる。……先生の名簿は見たな?」
コンドウに問われ、ヒミコは頷き思い出す。
最初に魔女達と出会った時、名前を確認された時に見た、見覚えのある名前が並んだ名簿が彼女達の手にあった。
そこに書かれた自分の名前と、○や×印についても。
「俺の受け持ってたクラスで、生存を確認できたのは……お前を含めてたったの10人だった」
「っ…そんな」
「それだけ見つかっただけで、正直言って奇跡だ。先生が調べてくれた分にゃ……100年も前に一人、うちの教室の男子の身柄を確認したらしい。そいつは……俺が来る前に亡くなっていた」
コンドウの表情が悲痛に歪む。自分が面倒を見ていた生徒が、こんな誰一人知っている者のいない世界に一人迷い込み、寂しく死んでいったことが、悔しくてならないらしい。
「恐ろしい所は……100年以上前にも誰かいたかもしれねぇって事だ。こっちの世界の時代は、俺達の世界で言う中世と近代の間ぐらいだ。そんな便利さとも安全とも縁遠そうな時代に取り残されるなんて……かける言葉も見つからねぇよ」
ヒミコは只管、恐怖で震え続けた。
森で猛獣に襲われるよりも恐ろしいかもしれない、たった独りでの死。想像するだけで恐ろしくて、震えが止まらなくて仕方がなかった。
もしかしたら、巡り会わせが悪ければ自分もそうなっていたかもしれないのだ。
「他所の国にも何人かいるらしいが……会えてねぇ。こっちの世界はまだ、車だの列車だのは発展してねぇらしくてな。飛行機なんて猶更……まぁ、二度と乗りたくねぇがよ」
自分で言って、自嘲気味に吐き捨てるコンドウ。
あれだけの恐怖を味わい、そしてこんな世界に紛れ込んでしまった以上、見る事すら嫌になったのかもしれない。
「何処に現れるかも、いつ現れるかもわからねぇ。待つしか探す方法がねぇ……だからせめてと思って、俺はお前達をこうして保護してる。住む家ぐらいはどうにかすっから、安心しとけ」
「先生……」
「教師として、お前達全員を守れなかった。だからここにいる奴等だけでも、助けてやりてぇ。そう思ってんだよ」
ヒミコを安心させようとしてか、フッと穏やかな笑みを見せるコンドウに、ヒミコは不安気な目を向けつつも、ほっと胸をなでおろす。
少なくとも孤独死は免れられる、そして知っている顔と対面できる。それだけで、沈んでいた気持ちは幾分か浮上することができた。
絶望しかなかった中、希望が見え始めて表情がほころび出すヒミコ。
「……そういえば」
そこでふと、ヒミコはある事が気になりだす。
何事か、と訝しげに振り向くコンドウに向け、ヒミコはその疑問を口にした。
「あの人は…私を助けてくれた……先生って、何者ですか? 女の人なのか、男の人なのか、結局ぜんぜんわからなかったんですけど」
「ん? あー、うん……」
「タイミングよく助けてくれたし、何考えてるのかわからなくて、正直不気味なんですけど……あの人は、一体何なんですか?」
漆黒の仮面と鎧、外套で全身を隠した、性別も年齢も何もかもが不明な謎の男。
連れている黒猫の少女も何かを知っているようには見えず、命の恩人といえど、ヒミコはどうしても疑いが先に出てきてしまう。
元生徒の疑問に、近藤は何やら困ったように唸り始める。
腕を組み、唇を噛んで虚空を見上げる彼を見つめていると、やがて元教師は重く閉ざしていた口を開いた。
「俺にも……わからん」
「えぇ…?」
「いや、俺がこっちに来た時に助けてくれた人なんだがよ。用が終わったらさっさとどっかに行っちまうし、人ともあんまり話さねぇみたいだし……弟子のあの子ぐらいじゃねぇかな、普段話してるのは」
首を傾げ、曖昧な事ばかり語るコンドウに、ヒミコは徐々に呆れ始める。最初はこの世界で助けてくれる貴重な人物と思ったのに、だんだん頼りなく思えてくる。
向けられる視線が冷たくなってくることに気付き、コンドウは慌ててヒミコに向き直る。
「まぁ~…あれだ! 悪い奴じゃねぇのは確かだ! 今回だってあんまり報酬出せねぇのに、ちゃんときっちり仕事してきてくれてんだから、良い奴だ‼」
「……お金、出せなかったんですか?」
「はっきり言って、お前らと同類である俺に仕える金は、騎士団で働いてる給料しかなくてな。日本みたいに、国の力は借りられないんだ」
世知辛い言葉に、ヒミコは自分の中の幻想が崩れ落ちる音を聞く。
異世界とはいえ、ここは間違いなく現実世界。奇跡などなく、都合のいい展開はそうそう起こらないのだと、改めてこの場所での生きづらさを認識してしまう。
がっくりと項垂れたヒミコを見つめ、コンドウは気遣うように彼女の肩を叩いた。
「まぁ、とにかく今は無事を祝おうや。まずは俺の家に来い。他のみんなに話し通しておくから、一緒に飯でも食おう、な?」
「……はい」
バンバンと、少し痛いぐらいの力で肩を叩かれ、若干の鬱陶しさを感じながらも、ヒミコは頷く。
コンドウに促されるまま、立ち上がって部屋を出ようとした時。
ふとコンドウが、思い出したように立ち止まり、「ああ、そういえば……」と朧げに呟いた。
「どっかで会った気がするんだよな……どこか、遠い昔に別の場所で」
ふと浮かんだ既視感。しかしそれが本当だと証明することはできず、悶々としたものを抱え続け。
やがて彼は、まぁいいかという風に思い出す事をやめ、歩き出すのだった。