「キスしよっ!」
唐突だった。
下校中にいきなり、なんの脈略もなく彼女は僕に向かってそう言った。
「え?」
「だーかーらー。キスしよっ!」
キスとはなんの事だろうか。
スズキ目の魚の事だろうか。
だとしたらキスしようの意味が分からなくなる。
「キスって魚じゃなくて接吻の事?」
「それは豆まきでしょ〜!」
「それは節分ね。僕が言ってるのは口づけの事だよ」
「少しお酒入ってる漬物でしょ?」
「それは奈良漬け。僕が言ってるのはちゅーの事」
キスをしようと言ってきた本人に、キスとは何かを説明するのはおかしい気がする。
僕の彼女は、戸山香澄はこんなにも頭が弱かったのかと思ってしまう。
「とにかくさー。しよーよ!私達付き合ってるんだしさっ!」
確かにそうだ。
僕たちは付き合って2ヶ月を迎えるカップルだった。
あの日はよく晴れた日の昼下がり。
校舎裏に彼女を呼び出して告白したのが始まりだ。
顔はまぁ良い方ではあるけど、特別美人ってわけでもない。
ただ、いつも元気で明るかった。
なんの気無しに平気で僕にも挨拶をしてくれる彼女に興味を持った。
その興味がじわじわと恋心に変わるのはそう遅くは無かった。
「確かに付き合ってはいるけどさ」
僕たちは確かに付き合ってはいるけど、この2ヶ月の間に何をしたかと言うと、特に何もしていない。
一緒に帰ったのが2回くらいで、その時に手を繋いでもいない。
彼女が所属しているバンドの活動を優先させてあげてるのもあるし、バンド活動が休みの時に限って僕のバイト日だったりもして、上手く噛み合わなかったのだ。
「物事には順序ってものがあると思うんだよ」
「純情?」
「それは三分の一の感情の事。僕が言ってるのは順番って事だよ」
付き合うならまず告白をして。
それからデートを何回か重ねる。
そして何回かデートを重ねた後に手を繋ぐ。
こんな感じで物事には順序があると僕は思っている。
人それぞれな考えがあるだろうけど、僕はちゃんと順序を踏みたい人間だ。
「難しい事は分からないけどさ、キスしてくれないって事?」
「絶対しない訳じゃないよ。ただ、今じゃないって話」
「えー」
分かりやすくむくれる彼女。
そこの価値観は僕と彼女で違うらしい。
「好きなのにしちゃダメなの?」
「しちゃダメとは言ってないよ。今はまだ早いってだけでさ」
「いつかはいいけど、今はダメってことでしょ?一緒じゃん」
「だから順序があるんだよ」
「その順序って何?教えてよ」
「僕たちってまだデートもロクにしてないし、デートを何回か重ねて、手を繋いだりとか諸々やってからかなって」
「むずかしいな〜。私達恋人同士だよね?だったら別にいいじゃん!」
「いや、それはしっかりしないとさ」
「難しいな〜。有咲みたいだよ〜」
有咲とは、香澄と同じバンドメンバーの市ヶ谷有咲の事だろう。
香澄が初めてバンドメンバーに僕を紹介した時、一番威圧感のある見方をしてきたのが彼女だったから覚えている。
「じゃあ香澄はさ、なんでそんな急にキスがしたいの?」
「私達恋人同士だしさ、全然イチャイチャできてないじゃん!?」
「それはそーだけどさ」
「だからさ、イチャイチャしたいなーって!だからキスしたいの!すっごいイチャイチャじゃない!?キスだよキス!」
イチャイチャってよりは、もっと大人なイメージがある。
上手く言葉に言い表せられないけど、そんな軽々しくイチャイチャとは言えないと僕は思っていた。
「キスしたくない?私と」
「そんな事はないけどさ」
「じゃあいーじゃん!」
「今は外だし人に見られるよ」
「じゃあ私の家行こ!」
「いきなり家!?僕の順序話聞いてた!?」
「壊れる程私を愛したいって事?」
「だからそれは純情な感情の話だから!順番の話だよ順番!お家デートは普通のデートを何回も何回も何回も重ねたあとだから!」
「3分の1も伝わらないよ〜」
まさに純情な感情は空回りだった。
価値観が違うのは三者三様だし十人十色だから仕方がない。
恋愛はきっとそういった部分をいかに妥協できる否かだとは思ってはいるからだ。
「僕は香澄の事を大事に思ってるんだよ」
「うんうん」
「だから分かってくれるよね?」
「でも、私はすぐにでもキスがしたいよ?」
「だからそれはもっと段階を踏んでからでさ」
「今キスしてくれないなら、私を大事に思ってないって事だよ」
「なんで?」
「なんでも!」
無茶苦茶な理論。
だけど、もし今すぐにでも香澄とキスができるならしたい気持ちは当然僕にもある。
だけど、それを僕の純情と理想が邪魔している。
「手を繋ぐのだってまだなのに、キスなんて早過ぎるよ」
「じゃあ手繋ご!」
そして香澄は僕の返答を待たず、右手は柔らかい香澄の左手に握られた。
なんとも形容し難い感触。
幼き頃に母親とかと繋いでいた事はあるけど、そんなのとは比べ物にならないくらい優しい感触だった。
「これで手繋ぎはクリアだね〜!」
「確かに繋いだけどさ」
「いきなりは嫌だった?」
「嫌ではないけどさ」
初めて身内ではない女の子と手を繋いだ事実に、まだ僕の脳が追いついていない。
手を繋ぐ、ただそれだけの行為なのに、こんなにも幸福感があった。
「香澄は無理してない?」
「してないよ!すっごい嬉しいよ!」
「そっか、ならよかったよ」
「手も繋いだしさ、今度はキスしちゃおっか!」
「だからキスは早いって!」
「そうかな〜?みんなもうしてるよ!」
「みんなって具体的に誰?」
「みんなはみんなだよ!」
「信憑性に欠けるな〜」
「じゃあじゃんけんで決めよっか?」
「そんなんでキスするしないを決めたくないよ」
「じゃあどうする?する?しちゃう?」
「香澄はそんなにしたいの?」
「うん!」
「分かったよ。じゃあ香澄の家行こう」
「うん!」
結局僕が折れて、香澄の家でキスをする流れになった。
キスって本来良い雰囲気になったら自然と唇と唇が重なるものだと思ってたんだけどな。
まさかするしないの許可を得てするものだとは思っていなかった。
デートもロクにしていないの手を繋いでしまって、そしてこんなに早く彼女の家に来るなんて思わなかった。
そして彼女の部屋に入った。初めて彼女の部屋に入ったって感情よりも、これから彼女とキスをするんだってドキドキの方が勝っていた。
「これで準備は整ったね!」
「そ、そうだね」
汗臭いはないか。なんならお風呂に入りたい。歯も磨いておきたい。いろいろな事前準備をしていない焦りも同時に出てきている。
「じゃあ、いーよ!」
そう言って香澄は唇を少し僕に向かって突き出して目を閉じた。
香澄の唇が今目の前にある。
僕は本当に彼女とキスをするんだ。
彼女の両肩に両手を置いて、深く深呼吸をする。
少しずつ少しずつ近づいて、そしてその距離が0になり、それもマイナスへ。
「キス、しちゃったね!」
「そう、だね」
「じゃあさ、もっとしちゃおっか?」
「も、もっと?」
「うん!たくさんキスしちゃおっ!」
そした僕と香澄はこの後、めちゃくちゃキスをした。
僕と彼女の間だけに、甘い時間が流れていた。
キスをした。
それもたくさん唇を重ねた。
だからきっと、止められなかったんだと思う。
「なんかもう、キスだけじゃ満足できないかも」
「それって?」
「えっちもしたくなっちゃった!」
「それは流石に」
僕はそう言ったけど、彼女に迫られたら何も抵抗はできやしない。
それ以前に、僕の身体も彼女の息遣いに反応してしまっていたのも事実だった。
こんなに早く手を繋いでキスをして、セックスをするなんて思っていなかった。
人生は思い通りにいかない。でも、思い通りにいかなくても、案外悪い事ばかりではないとも分かった。