バレンタインデーの話はこちら(https://syosetu.org/novel/280910/ )
またこの短編は「トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない」(https://syosetu.org/novel/273727 )の番外編となります。
本日は3月14日。世間一般で言うホワイトデー。天気は朝から暖かいながらもやや曇り空だったが、トレセン学園は熱に包まれていた。
憧れのあの先輩からのお返しや、気心の知れた友人からの贈り物。好きなあの人からのプレゼントを心待ちにするウマ娘で、どこか浮ついた雰囲気。
だが、医務室にいる男……チーム〈アルゴル〉のトレーナーは違った。項垂れている。椅子に浅く腰掛け、足を投げ出し。背もたれを軋ませながら背中を預けて、呻いていた。表情は外と同じく曇り空。
彼の視線は中空をあちらこちらにさまよっており。ぼんやりとした画像はいつものことだったが、今日はさらに明度が低いな、と自嘲する。
「ああ、どうしたものかな……」
机の上にはふたつのカップケーキとくしゃくしゃになった紙袋が置いてあり、杖が力なく立てかけられていた。放課後、ホワイトデーのお返しを渡しに行った疲れもあったが、その本質はもっと別のもの。
原因は、机の上のふたつのカップケーキ。
かすかに甘い香りを漂わせるそれだが、彼にはもっと別の……重石のようなものとしか思えなかった。
そのカップケーキを持ってきたのはニシノフラワーというウマ娘で、セイウンスカイを探していたと言う。学園内を東奔西走しても見つからないので、彼女が言っていた医務室に来たのだと。
ちなみに、セイウンスカイがニシノフラワーに吹き込んだ内容は「サボりたくなったら医務室へ来な」だという。医務室はウマ娘の味方であると言ったことはあるが、最早ニュアンスが大きく違ってるよね……と軽く天を仰いだ。
そこまでは良かったのだ。自分と相対して怯えないウマ娘は珍しい。白衣、スーツ、サングラスという不審者3点セットでも、ニシノフラワーは普通に話していた。
偏見の無い言葉に心の中で感動していると、彼女が「トレーニングがあるから、お返しを預かって欲しい」と言ってきた。
男は快く答え、ニシフラワーからセイウンスカイへのお返しを受け取った。意外にずしりと来る重さには彼女からセイウンスカイへの感謝とか、思いの大きさとか、そう言うものを伺うことが出来る。
いつもふわふわやる気のないように見せているくせして人一倍負けず嫌いだったり、人生は軽い方が気楽だと言いながら、色んなものを背負い込んだりするウマ娘。のんびりしているように見えて、結構周りを観察している。
きっと、ニシノフラワーもそんな姿に助けられたのだろう、とチーム〈アルゴル〉唯一のウマ娘のを誇らしく思いながら、男は彼女を見送った。
そして、彼は衝撃を受けた。
ニシノフラワーから受けとったカップケーキの完成度が高すぎたからである。少し触っただけでもかなりの時間をかけて仕上げられ、そしてそこに込められた思いを改めて推察することが出来た。
それに比べて、と自分を顧みる。彼女のことを考えたのは同じだが、ここまでの完成度を見せつけられると何とも霞んで見えてしまう。
「彼女は比べないとは思うけど」
わざわざ口に出して確認して、ほのかに心を落ち着ける。大きく息を吸うと、嗅ぎなれたオゾンと薬の臭い。深く深く体を預けた椅子が、うるさい程に軋んでいる。電気をつけているはずなのに視界に映る景色は依然として暗く、さらに不明瞭だ。
落ち着かない。なにかしなければという正体不明の焦りと共に立ち上がる。その足取りもどこかふわふわとしていておぼつかない。
扉を開ける直前になってようやく、先程、セイウンスカイが見つからなかったのは彼女がサボっている前提で話をしていたからかもしれない、と思いつく
きっとそうだ。そうに違いない、と1人納得。
だが、その後の動きが、彼にはなかった。
根拠の無い恐れ。
お前の気持ちはこんなものか? と問いかけてくる自分。
およそ1年前。4月の半ばくらいに彼女と出会ってから今まで同じチームとしてやってきて、それなりにお互いを理解出来ていると思っている。
いつだったかセイウンスカイは、「トレーナーさんは自分を変えてくれた」と言っていた。
確かに、4月や5月と比べると彼女は変わった。トレーニングをサボることは少なくなったし、メニューに注文をつけてくることも増えた。トレーニング後の疲労抜きとしてマッサージや鍼灸をよく頼んでくるようになったし、なにより明るくなった。最後のひとつはトレーナーの主観だが。
ともかく、彼女は1年弱で大きく変わった。才能がないとか、武器がないとか言っていた、そして、世間からもそう思われていた彼女も今や皐月賞での有力バである。
だが、自分を省みる。夢があの曲がりくねった道の先で燃え尽きた後、ウマ娘の足音に魅せられて必死に勉強した。
そして医者としてトレセン学園に来たは良いものの、向けられるのは不安の眼差しだった。覚悟はしていたし、仕方ないとも考えていた。様々なことを言われた当事者の男としても、気持ちの理解はできる。
自分の選手生命を左右する医者が視覚障害を負っていたらどう思うだろうか。
教え子の怪我を見る医者が、1人で歩くのもおぼつかない男だったらどう思うだろうか。
怪我の手当をする医者が、全盲でないとはいえものが良く見えていなかったらどう思うだろうか。
誰しも不安を覚え、唖然とし、動揺するだろう。
だから、笑顔を貼り付けて、ずっと仕事をしていた。少しでも人に不安を書けないように、少しでも人に迷惑をかけないように。人の為に知識を使い、人の為に時間を使い、人の為に腕を振るった。
それでも、やはり燃え尽きたものは灰になったまま。透き通る青空と漂う雲や弾ける笑顔、咲き誇る花など人が当たり前に見れている風景も見えず。俯き、自分の足音だけを見つめ、暗闇の中を歩いてきた。
新人の頃、〈リギル〉のセカンダリトレーナーとして赴任したことがあるが、その時も返ってきたのは戸惑いの反応だった。至って正常な反応だとはいえ、視覚障害で揶揄されることは織り込み済みでそう思っていても、精神はダメージを受ける。
そんな中彼女が現れた。突然医務室に現れたセイウンスカイは「模擬レースを走りたくない」だとか「チーム体験とか面倒」とか理由を並べ立て、チーム〈アルゴル〉に加入した。そのやり取りの中に、彼の『目』に関する話題はひとつもなかった。
暗闇に青い光が差し込んできた。
どんなに胸が暖かくなったことか。どんなに、彼女へ大声で感謝を伝えたいと思ったことか。
それからほぼ1年間。セイウンスカイから、トレーナーは夢を貰っていた。希望を貰っていたのだ。
だが、どうだろう。ニシノフラワーのお返しと比べると、自分のものが随分見劣りするのは確かだ。これだけでセイウンスカイが手のひらを返すとは考えにくいが、万が一彼女がチームから少しでも離れるようなことがあったら。
自分の考えている良好な関係とやらが、全て幻想だったとしたらと考えると恐ろしい。
暗闇に逆戻りになると思うと恐ろしい。
その答えを、今扉を開けたら突きつけられる気がして、彼は足がすくんだ。冷たい空気が、燃え尽きた夢と消えた希望の足音が聞こえてきて、彼は耳を塞いで体を丸めた。
やめてくれ。
もう、戻りたくないんだ。
だから。
来るな。
また夢を奪うのか。
目を閉じ、冷たい指で耳を塞ぎ、体を強ばらせ。
締め付けられる喉で叫ぼうとしたところで。
トントン、と肩が叩かれた。
目を開き、耳から手を離し、体を持ち上げる。
ふわり、と菊の花の香りが花をくすぐる。同時に差し込んできたのは、青く広がる空のような光で。
「どしたの?」
耳に届いたのは本気で心配している声で、いつものやる気も覇気もない声とは全く違った。
「あ、セイウンスカイ……」
「どーも。セイウンスカイですけど……何かありました?」
どこか狼狽しているような、どこか困惑しているような声で、彼女は立ち尽くしていた。当たり前と言えば当たり前である。医務室の扉を開けたら、自分のトレーナーが頭を抱えて立ち尽くしていたのだから。
「え……ああ、なんというか、その。立ちくらみ、かな」
彼は一歩下がって取り繕うように背筋を伸ばしたが、彼は落ち着かなさげに顎を触りながら、上を見たり下を見たり。セイウンスカイは様子がおかしいと思いながらも、開けてくれたスペースに体を滑らせて医務室の中へ。彼が立ちくらみというのなら、そうなのだろうと深い追求は避ける。
「仕事のし過ぎじゃないですかねー?」
「かもね。今日はなんか……すごい人が来てね」
「トレーナーさん、確かにげっそりしてるよ」
そうかな? とトレーナーは自分の頬を改めて触ってみる。見苦しくないように手入れはしているが、年相応にハリを失った肌があった。
「そんなに?」
「うん。そんなに……ちょいと屈んでくれません?」
言われた通りに腰を屈める。……それだけでも自分の腰椎が悲鳴をあげかけている事実から顔を背けたくなるのを堪えて、膝に手をつき体を支えた。
「どれどれ〜っと」
白群のシルエットが大きくなると同時に、ひんやりとした額への感覚。鼻にふわりと薫る菊の匂いは、彼女が至近にいることの証だった。
「熱はなさそうですね。よかった」
「あ、ありがとう」
「いえいえ。トレーナーさんの体調が悪かったら休んでもらわなきゃいけませんし」
セイウンスカイは心底安心した声色になって、トレーナーから離れる。
「弥生賞はダメだったけど、脚も治ったしさ」
だから、トレーナーさんにもバンバン働いてもらわなきゃね? といたずらっぽく笑う。それがトレーナーに見えていないことなど彼女には重々承知だったが、それでも彼女は笑っていた。
「心配してくれてありがとう」
彼はお礼を述べたが、その前に彼女は脇をすり抜けて医務室の中へ。彼女にとっても嗅ぎなれたオゾンや薬品の臭いの中に、普段しないようなにおいが混じっていたからだ。
「あれ? なんか甘い匂いが……」
「ああ、そういえば。君へのプレゼントを預かっててね」
声がする方向へ顔を向けてから、机の上を見るように促す。するとセイウンスカイは嬉しそうな声を上げながら、足早に机に手を着いた。ふたつ乗せられているカップケーキをしげしげと眺めてから、慎重に手に取る。
「おーっ! ……もしかして、フラワー?」
「お、よくわかったね。君が見つからなかったって、ここに来たんだ」
鼻歌を歌いながらそれを楽しそうに見つめている。その様子に、トレーナーは少しばかり居心地が悪かった。それをできる限り表に出さないように応対する。
「あー……悪いことしちゃったなぁ」
「私も探したけどね。何やってたの?」
「今日ですか? ちょっとスペちゃんたちの補習に付き合ってまして」
「優しいな。君は」
「そりゃ。セイちゃんは優良ウマ娘なので」
「そうだな。君も変わった」
「……褒めても何もでませんよ?」
後ずさりつつセイウンスカイは腕で自分を抱いて体をのけぞらせてから、白い歯を見せて笑う。
「知ってるよ」
トレーナーはセイウンスカイの横を通り抜けて、いつもの椅子に腰を下ろした。体の力を弛めてから大きく空気を吸い込む。
「しかし。少し触っただけなんだけど……すごい完成度だよね。ニシノフラワーさん」
「そうですよ〜。フラワーは料理も得意でさ。トレーナーさんにも食べさせてあげたいなぁ」
「そんなに?」
「抜群だよ。私もちょっとは料理できるけどさ、全然かなわないもん」
料理が全くできない人間からしたら、どちらも凄い事には変わりない。率直にそう伝えると、セイウンスカイは片眉を上げてから目を泳がせ。少しばかり遠慮がちに髪を触る。白群かかった柔らかな芦毛が揺れて、その下の顔は少しばかり照れくさそうだ。
「にゃはは。そこまで褒めなくても」
「本当のことさ。私には、『当たり前』にできない事だから」
1回天を仰いだトレーナーに影が差し、口元はなにかに耐えるように引き結ばれている。彼女は、声がかけられずに固まった。人の「当たり前」というのは、彼の当たり前でなかった。1年間ウマ娘とトレーナーとして過ごしてきて、それを痛いほど実感してきた。
その辺りを歩くのすら注意を払わなければいけない。
危険が迫っても気づけない。
知らない道を行くのは多大なる恐怖が伴う。
人が当たり前に見ている青空も、彼には分からない。
「でもさ」
彼女が否定の言葉をかけると、少しだけ顔を上げてくれた。サングラスの奥の視線は感じられないが、
「トレーナーさんには。トレーナーさんにしか出来ないことがあるでしょ。私はよく知ってるよ?いーっぱい助けてくれたじゃん」
「……そうかな」
「そうだよ。何回も助けられた」
「そうか」
何となく、1年前に初めて見たトレーナーと姿がダブる。どこか遠くを見ながら諦めた様な笑顔を貼り付けて、机に向かって仕事をしていたその姿を彼女は覚えていた。
最近は随分と明るくなってくれたと思っていたところで、今日は何があったのか。セイウンスカイには分からなかったが、このまま彼を放置していいわけが無いことは分かった。
「そんなさ。人と比べない方がいいよ」
「とは言ってもね」
「私はそれを、〈アルゴル〉に入ってから気づいたんだけどなー」
セイウンスカイも昔は、周りと自分を比べて焦っていた。嫌になっていた。素質、脚力、末脚。彼女には、どれも足りていなかったからだ。
「トレーナーさんは『他の人間を気にする事はない』って言ったじゃん。『君は君の人生を生きればいい』って言ってくれたじゃん」
それは彼女の心の中で、確かに生きている言葉だった。
「それをさ。自分にも向けてあげたら? って話です」
「……そう、だね」
トレーナーの顔に僅かばかり生気が戻る。彼はゆっくりとセイウンスカイの言葉を噛み砕いて、少しづつ飲み込んでいるようだった。彼女は机に寄りかかりながら、トレーナーを見下ろす。その顔が段々と上がっていく度に、強ばっていた筋肉がほぐれる度に、顔に血行が戻る度に。セイウンスカイはほっとした息を吐くのだった。
たっぷりと時間をかけてから言葉を全て消化したトレーナーは、多少は見られる顔になっていた。
「また、君に迷惑をかけたかな」
「気にしないでよ。お互いさまじゃない?」
セイウンスカイも、トレーナーにたくさんの迷惑をかけていることは事実なのだ。だから、お互いさま。どちらが悪いというわけでもなく、持ちつ持たれつ。
ここまで言ってトレーナーも納得してくれたと判断し、セイウンスカイはこの話題を打ち切った。寄りかかっていた机から離れて、代わりに片手をつく。手のひらで机を2回叩いてから、半目を開けて彼を見る。
「で、トレーナーさん。大事なこと忘れてません?」
「大事なこと?」
「そうです。大事なことですよ。これはチームの危機と言ってもいいです」
すっかり湿っぽい雰囲気になってしまっていたが、今日が何の日か。当然、忘れた訳では無い。そのために放課後あちらこちらを南船北馬してお返しを渡したり、ニシノフラワーからカップケーキを預かったりしたのだ。
「もちろん忘れてないよ……っと、これだね」
彼が着ているスーツの内ポケットから出したのは、包装された細長い箱。シンプルな白い箱に淡い黄色のリボンがかけられているくらいで、中身が推察できるようなヒントはなかった。
「なーんだ。覚えてたの?」
「まあね。ニシノフラワーさんと出会ったのも、お返しの旅終わらせて、君が見つからなくて休んでた時だったし」
「なるほどなるほど。ねぇ、開けても、いい?」
すこしばかり遠慮がちに、目を泳がせながら彼女は切り出す。トレーナーにそれを止める権利はなく、「もちろん」と返した。
「ありがとーございます」
包装紙を止めていたテープを見つけると、セイウンスカイはそこだけ剥がし、蓋を開けるようにして中身だけ取り出した。
「あれ、これって……」
端っこに商品名が書かれた、透明なプラスチックケース。中にはなんと魚が入っているが、別にそのこと自体はセイウンスカイにとって驚くものではなかった。その視線は、控えめに印刷されている商品名の方に吸い寄せられていて。
「え、本当に、いいんですか。こんなの」
「もちろん。君、欲しがってたでしょ?」
「まあ、欲しがったことはありますけども」
それは、釣りに使う金属製のルアー……メタルジグだった。お気に入りのメーカーの最新型で、いつだったか出かけた時に見かけて買おうとしたのだ。だが、ここで買ってしまうと今月の出費が予算オーバーということで泣く泣く諦めた逸品だった。
それが、目の前にある。
「いや。その、私結構驚いてて」
「いいんだって。これは私からのお返しだから」
朗らかに笑うトレーナーの横で、セイウンスカイは大いに戸惑っていた。貰えるのはありがたい。だがやっぱり、これに見合うものは渡していないのと思うのだ。
「ほんとに、いいんです?」
「いいんだ。これは私からの、今まで全ての感謝の気持ちだ」
だから受け取って欲しい。そう聞いたセイウンスカイはいつもならきっと「深刻だなぁ」とか、「大袈裟だって」とはぐらかしているような場面だったが、今回は素直に受け取っていた。
自分の行動に半分戸惑い、鴨頭草の瞳が手元の箱に落ちる。これが情と言うやつであろうか、と彼女は首を傾げる。
「なら、遠慮なく……」
少しばかりそれを聞いたトレーナーは満面の笑み。喜ぶ方と喜ばれる方の反応が逆ではないか?ともセイウンスカイは思ったが、些細なことだろう。
「ねぇ。トレーナーさん。この袋使っていい?」
有名な洋菓子店のロゴが入ったくしゃくしゃになった紙袋は、トレーナーがセイウンスカイ以外へのお返しを詰め込んでいた袋だった。
「ああ。いいよ」
それにメタルジグを入れ、ついでにカップケーキも入れておく。ニシノフラワーから直接受け取れなかったのは残念だが、仕方の無いことだ。
彼女は上機嫌でソファに置いた学生鞄の横に、シワをできる限り伸ばした紙袋を置く。満足気に頷い手から、今度はジャージを取り出した。
「トレーニング行ってきますけど……どうしました?」
そうやって振り返った視線の先にいるトレーナーは何だかソワソワしていて、セイウンスカイは眉間に皺を寄せることになった。視線が上に下にあっちにこっちに。手もあっちこっち。椅子は左右にくるくると。
「あー。いや。そのだな……笑わないで欲しいんだけど」
「……物によりますかね」
「じゃあ止める」
「もう! 冗談ですよ」
「ええい。何も言うなよ」
と、トレーナーはまた何かを差し出してきた。手のひらに収まるくらいに小さな袋だ。遠くからではその正体がわからなかったのでジャージをまた放り、近づく。
1歩1歩大きくなるトレーナーは、やはり落ち着かないのか何回も椅子に座り直していた。
「これって……」
「本当に笑わないでくれよ」
そういう彼から、袋を取って上げる。
「クッキー?」
中に入っていたのは、3枚のクッキーだった。いびつな形をして、所々焦げているクッキー。包装の簡易さからみても、クッキーの出来栄えからみても、売り物ではなかった。
「もしかして」
「……多分、というか。想像通りだよ」
想像通り。ということは手作りか、なるほど。と脳内で納得してから。
「手作り!?」
と素っ頓狂な声を出してしまった。慌てて口を抑えても後の祭り甚だしく、ただでさえ耳が良いトレーナーはもう心臓が口から飛び出る思いをしていた。
「あ、ごめんなさい……」
驚かせた本人は謝ったものの、跳ねた心臓は中々戻ってくれないようで、何回も深呼吸をしてから、彼は片手を上げた。
何とか落ち着いたようでよかった。セイウンスカイも胸をなで下ろしたものの、気になることはまだ残っている。
「というか、トレーナーさん。もしかしてこれ」
「うん。まあ、手作りなんだ。ニシノフラワーさんと比べないでね?」
「比べないけどさ……料理はできないって」
「死ぬ気でやってそれさ」
これに関しても、彼はどんな苦労をしたのだろうか。少しばかり疲れたような笑顔を見せたトレーナーと、自分の手のひらの中にあるクッキーを交互に見て、彼女は胸が締め付けられる思いだった。
「たまにはこういうお返しもいいかな、って思ってやったんだけどね。私はこんなんだからさ」
そうやって自分の目を指さして、彼は話し出す。
「たまにはいいかなって始めたものの、計量からもうつまづいてね」
読み上げ機能付きだったので量は間違えなかったが、随分な量の材料をそこで無駄にしてしまった。
「混ぜるのも大変だった。力の加減を間違えるとこぼれてさ」
自分の腕がどこにあるかはわかるが、ホットケーキミックスとバターとメープルシロップとその他もろもろ。それが入ったボールの高さを、大きさを上手く掴めない。
「何とかまぜて。こねるまで行った。でも伸ばすのは苦労した」
1時間以上かかってひとまとまりにした生地を麺棒で伸ばすが、均等になっているかイマイチ掴めない。触覚には自信があったが、1度押し込んでしまうと戻らない。そもそも、基準として取っている箇所の厚さが正しいか確認するのも、視野欠損している右目を酷使する。
「型を取るのはそこまで難しくなかった。難しかったのは焼くのだね」
180℃に余熱したオーブンで焼くこと12分前後という話だったが、本当にいい焼き色がついているのかよく見えない。そうこうしているうちに、結構な量を焦がしてしまった。
「あと。オープンから出す時も災難があってね」
トレーを傾けてしまい、残ったのはいくらかだけだった。
「……綺麗なのはそんなに無くてね。君の分しかなかったから、選んで持ってきたんだ」
確かに見てみると多少形は歪だが焦げはなく、綺麗なきつね色のクッキーだけが入っていた。
「私だけ、ですか?」
「量が少なくて。誰かひとりにしか渡せないなら、君しかいないと思ってね」
それを聞いた彼女の顔は明るくかがやかんばかりだが、一方のトレーナーの方はやはり落ち着かなそうで、眉を下げながら何回も椅子に座り直していた。
「……あー、嫌じゃなければ、だけど」
「嫌だなんて。思いませんよ」
今すぐに彼の手を取ってステップを踏みたい感情。なんて特別な響きなのだろうと、彼女は感動していた。つまりは1番ということ。
「私だけ……か」
生徒会のルドルフでも、寮長のヒシアマゾンやフジキセキでもなく。ただひとり、チームのウマ娘である自分への。
熱が身体中を駆け巡る。
「ありがとうございます。トレーナーさん」
「そんなに感謝しないで欲しいな。味は保証できないからね」
「それでも。いいんです」
そうか、と安堵に微笑むトレーナーに合わせ、セイウンスカイも微笑んだ。医務室に入り込んでくる日差しのように、ぽかぽかと暖かい。その暖かさを逃したくないし、ずっと味わっていたかった。
「じゃ、トレーニングしてきます」
「おお、珍しいね」
「そりゃあ。やる気になってますので」
「そうか。良い事だ」
何度も頷くトレーナーを横目にセイウンスカイは一角のカーテンを閉め、ジャージに着替えて出ていく。走りたくてたまらなかった。
人生は背負うものが多いと重くなって良くない、というのが彼女の考えだ。期待に応えるとか、人の願いを叶えるというのは柄ではなくせいぜい一人分位なら、と思っていたのだが、今この瞬間。それがふたり分になった。
「じゃ、行きましょうか……ってあれ?」
決意を胸にカーテンを開けるとトレーナーは椅子にはおらず、医務室の扉の前で彼女を待っていた。
「たまには最初からいないとね……それに、他の子の足音も聞いておかないと」
皐月賞へ向けて、という悪い顔。サングラスとあいまって通報されそうな勢いである。
「データ集めはトレーナーさんに任せるよ。私はのんびりトレーニングしてくるからさ」
「のんびりじゃ困るんだけどね?」
そう言いながら、トレーナーは医務室の扉を開ける。青い空のような光と菊の香りが横を抜けて、彼はそれを追いかけた。
「ガツガツやるのは嫌だなー」
トレーナーはその言葉に苦笑しながら扉を閉めた。行き先ホワイトボードを「グランド」に動かし、伸びをした。
「ガツガツやるもやらないも君次第だよ」
「……ズル」
セイウンスカイは押さえつけられるのは嫌いだが、こうやって選択肢を用意されるのも困る質だった。選んだら、やらなければいけなくなってしまうからである。しかし、トレーナーから出されるのなら。まあ悪くないだろうと思う。
「クッキー貰っちゃったし。やりますよーだ」
「……そんなにいいもんじゃないと思うけど」
「私は嬉しかったからいいんです」
「そうかい」
トレーナーはそれだけ言うと前を向いて歩き出した。
セイウンスカイはその背中を追いかけながら、間もなく始まる次の1年に思いを馳せていた。いよいよクラシック。一生に一度の挑戦が、これから始まるのである。
……トレーナーは、青空が見えないのだと言う。人が当たり前に見ている光景が、見えないのだとか。なら、セイウンスカイは、彼に青空を見せられるような走りをしようと。そう心に決めた。
夢とか希望を与えるために走る。
よく聞かれる言葉だが、やろうとしていることは変わらないと彼女は思っていた。
そのための、皐月賞。自分の夢を、じいちゃんの夢を叶えるためのレースではあるが、もう1つ。
そこで勝った先に、トレーナーは『青空』を見出してくれるだろうか。
少しばかりの不安と大きな期待を胸に、セイウンスカイは歩く。誰をもあっと言わせる走りをしてやろう。色んな前評判を裏切って、勝ってやろう。
外に出ると空はきれいに晴れていて、3月にしては強い日差しに、トレーナーは空を見上げていた。無意識だろうが、少しばかり胸が痛い。
「……トレーナーさん。期待しててよ」
「何が?」
「4月には綺麗な『青空』を見せてあげるからさ」
「そうか」
理解してくれたのかは分からないが、トレーナーはそれだけ言うとまた歩き出す。
「待ってる」
小さいつぶやきを、セイウンスカイは聞き逃さなかった。
今日の青空は綺麗だと彼女は思う。だが、1ヶ月後は。
――――もっと綺麗なんだろうな。
強い予感と決意に胸を躍らせ、1人のウマ娘は走り出す。
勝つ。そして、彼に『青空』を見せる。
同期は手強いし、G1という大舞台は未知数だ。だがそれでも。やり遂げられると思う。
なぜなら私は、