放課後、いつものように私が屋上に向かう。建物の扉を開けて裏手に行くと、目当ての人物が寝転がっているのを見付けた。
彼は、白シャツの上に白衣を羽織っていて、その中で赤いネクタイだけが派手で目立っている。
私が、その人物に気づかれないようにゆっくり歩いていると、少しだけ強い風が吹いた。私の長い髪と制服のスカートがたなびく。
彼の頭元まで近付き、私は腰を落とした。そして、寝ている人物に向かって声をかける。
「先生、またこんなところでさぼってるんですか?」
グラウンドからは野球部の声と、吹奏楽部の楽器の音が聴こえてくる。屋上は、まだ制服だけだと肌寒い。
「ああ、白鷺か……」
私が先生と呼んだ人物は、気だるげに私の顔を見上げた。
少しだけ年上の彼は、化学の担当で、私の副担任の先生。去年の四月に新任として、花咲川にやって来た。
若い男性、しかも端正な顔立ちをした彼は、学校の女子達皆の間で、瞬く間に人気になった。生徒皆に対して礼儀正しく、品行方正。一見すると、非の打ち所がないかに見える彼だったが──。
「先生、今日の最後のホームルーム、どうして来なかったのかしら? あ、また煙草の匂いがするわ」
「だって、怠いんだよな……正直ああいうのさ」
──本当の先生は、もっとがさつで適当な大人だった。
彼は身体を起こし、私に向き直った。
「先生、そればっかりじゃない。女の子が寂しがってるわよ」
頬を膨らませながら私がそう言う。でも、先生はそんな私を見ながら苦笑した。
「悪い、悪い。でも、俺、お前以外の生徒達には、そんなに興味ないからさ」
彼の中低音の声でそう言われ、私の心臓が一度だけ高鳴る。
「もう、すぐそうやって、からかうのはやめなさい」
彼はいつも、私にだけ冗談ばかり言う。そんな先生が私を見て、声を出して笑った。
他の生徒が知らない、先生の本当の姿を知っているのは、自分だけ。私、白鷺千聖だけ。
私は、ふと、どうしてこんなに先生と親しくなったのかを思い出した。
あれは、去年の夏頃だったか。
今のような放課後、模試の成績が振るわず、プライベートでも仕事でも悩んでいた私は一人になりたくなった。たまたま屋上に向かった私は、煙草を吸っている先生と遭遇した。
真面目な印象が強かった先生の意外な素顔に、当然私は驚いた。
彼は煙草の火を地面で消しながら、驚いていた私に話しかけてきた。
「お前にしては、今日返ってきた模試の結果、悪かったな」
そう言われて、私の胸の内が重たくなる。収まったはずなのに、また瞳が潤んできた。
すると──
私の頭に、先生が手を置いた。
「まあ、たまには良いんじゃないか? いつでも何でも出来るばっかりじゃ、人生つまんないぞ」
そう言って、彼に頭を撫でられた。
私の心臓が、一度だけ大きく跳ねる。
「なあ白鷺、お前が泣いてたの内緒にしといてやるからさ。俺のことも黙っててくれるか?」
特に彼を貶めたいなどと思っていなかった私は、その願いを黙って聞き入れた。
「先生はいつも、屋上にいるんですか?」
「ああ、大体ここで時間つぶしてるな」
先生の答えに、私はさらに問いかけた。
「だったら、また遊びに来ても良いですか? 先生の秘密を内緒にする代わりに……」
「は? まあ、別に良いけど……」
それ以来、二人は秘密を共有する仲になって、放課後になると屋上にいる先生に会いに行くのが習慣になった。
また風が吹いた。
私は自身の髪を抑えながら、先生に声をかけた。
「明日は、卒業式……先生とも、もう、お別れね」
想像以上に、低いトーンの声が出てしまった。知らぬ内に目頭が熱くなってくる。
もう、彼に会えない。
言葉にすると、その現実が一気に差し迫ってきた気がした。
心臓がぎゅっと苦しくなる。
「へぇ、白鷺、俺とお別れする気だったの?」
「え? だって仕方ないじゃない。卒業したら、もう会え──」
それ以上、私が言葉を口にすることは出来なくなった。
私の長い髪が揺れた。先生の身体が、私の身体に覆い被さるようにして重なる。
空が見えた。久しく見ていない綺麗な青空だった。
いつの間にか、私の唇は、彼の唇に塞がれている。
思いがけない出来事に、頭の中が真っ白になる。何が起きたのかが分からない。
彼からキスされているのだと、理解するのに時間がかかった。
はじめは、触れ合うだけだった。
だけど先生の舌で、私の唇がむりやり開かれる。
次第に、彼が私の中に入ってくる。
深くなるにつれ、呼吸がしづらくなっていく。
柔らかなもの同士が絡み合った。
煙草の苦味が、口の中に拡がる。
初めてで──
私は何も考えられなくなる。
息を継ぐ、タイミングが、分からない。
──本当は短い時間だったのかもしれないが、私にはとても長い時間に感じた。
「──先生~~? どちらにいらっしゃいますか~~?」
突然、二人の耳に呼び声が届く。
屋上に向かう扉が開き、女子生徒数名の声が聴こえた。
(見られると、まずい)
口付けられたまま、我に返った私は、先生の元から離れようとした。だが、彼に身体を抑えられて、身動きがとれない。
一度だけ唇が離れた時に、私は彼に向かって訴える。
「先生……人が、来ちゃ──」
ぞわりとした感覚が、身体中に走った。
私の首筋を、白い肌を、先生の唇が這う。
彼が赤いネクタイを緩める姿が、視界に入った。
「集中しろよ」
抵抗したいのに、できない。
声が出そうになるのを、私は我慢する。誰かに聴かれるのはまずい。
「先生いないんですか~~?」
女子生徒が、二人の元に近付いてくる気配を感じる。
なのに先生は、辞めてくれない。
彼は長い指で、私の鎖骨をなぞった後、また、口付けられる。
初めて味わう快楽と、バレたらどうなるのだろうという恐怖が同時に襲う。
心臓の音が鳴り止まない。
(もう、ダメ……見つかっちゃう……)
私は先生に抗えず、口中を玩ばれたままだ。
思わずぎゅっと、目を瞑った。
「屋上、先生いないみたいだよ~~。もういこう!」
女子生徒達が、そう口々にし、足音は遠ざかっていった。
そうして、扉が閉まる音がする。
そこでやっと、私は先生から解放された。
私の息は当然上がっていた。
頬が紅潮しているのが、自分でも分かる。
全身がぐったりとして、力が入りづらくなっていた。
なのに、見上げた先生の表情は、いつもと変わらず余裕があって、私は釈然としなかった。
「……先生」
「お前が、もう卒業だって言ったんだろ」
「……卒業式は、明日……よ」
なんとか呼吸を整えながら、私は先生に抗議する。
「俺は品行方正で通ってて、お前も優等生。誰も俺達の関係に気付かないよ」
先生は、私の身体からゆっくりと離れた。それが不覚にも名残惜しかった。
先生は地面に座り直し、白衣の内側のポケットにしまっていた海外産の煙草とライターを手に取った。そこから一本手に取り、火をつける。
「あ、悪い。お前の前では吸わないようにしてたのに」
「……大丈夫」
私も、時間をかけながら、自身の身体を起こした。
先生が煙草を吸う姿を、彼女はぼんやりしながら見る。つい、彼の唇に目が奪われてしまった。
その視線に気付いたのか、先生は私に声をかける。
「なあ、お前、俺のこと好きだろ?」
「え──?」
私は目を丸くしてしまう。
ばれていたのかと思うと恥ずかしくなり、俯いてしまった。
私がもじもじしていると、先生がさらに言葉を継いだ。
「俺もさ、気になる女に、そう言う目で見られてるの分かってて、我慢するのは大変だったんだ」
そう言われ、私は顔を上げる。
(今、先生、気になる女って──)
彼と目が合う。
「白鷺のこと、大事にするよ。卒業してからも、ずっと」
先生から告げられた言葉に、私は黙って頷いた。
彼は少し笑んだ後、いつものように煙草の火を地面で消す。
そして彼がまた、そっと私に口付けた。
先程までとは違い、ついばむようなキス。
だけどその口付けからは、煙草の香りと、これから先を予感させる大人の味がした。