『やっほー! お届けものでーす!』
長方形に区切られた、半透明のガラスに映っているのは、飾りっ気のなく物寂しい男の一人暮らしの頼りない蛍光灯。何度も何度も連打されるインターホンに反応しようと立ち上がると、今がもう夜遅くなのだろうことが窓越しにでも分かった。窓の向かい側にある家々の屋根から突き出ている摩天楼の数々が、侘しい暮らしに励む俺自身を見下しているように見えた。
「はいはい……。煩いぞ、日菜」
玄関のドアが開けられると同時に、家の前で近所迷惑にも騒ぎ立てる常識知らずを詰る。このテンションということはきっと碌なことではないということは、ドアが開く前からなんとなく察しがついていたことなのであるが、それでもため息を吐かずにはいられなかった。
「えー。とっーーーても可愛らしいお届けものなんだけどなー?」
「……もしかしてその酔っ払いのこと言ってたりする?」
日菜の首に腕を回して、背中に半ば倒れるように体を預けているのは、顔をたいそう赤らめた、羽目を外しすぎたダメなオトナ。顔が赤いのは目の前で宅配業者を装うバカな天才も同じことなのだが、酒の強さの問題なのか、普段はっちゃけることのない、アイドルバンドの中でも比較的常識人な彼女の方が酔いの回りが酷いようだった。
「あったりー! 可愛いでしょっ!」
「うるせぇって。俺が叩き出されるから静かにしろ。で、なんでこんなことなってんだ?」
「あたしが二十歳になったから、先輩としてお酒を教えてあげるって言われたんだけどね、千聖ちゃんの方が先に潰れちゃった」
「お前とんでもないやつだな……」
いや、愚かなのはこの完全無欠の天才ちゃんに無謀にもマウンティングを取ろうと戦いを挑んだ、彼女かもしれない。
「千聖ちゃんも結構頑張ってたんだけどなー。ま、そういうわけだから、お届けものだよー! サインお願いしまーすっ!」
「迷惑な宅配業もあったものだな」
「日菜ちゃん……声がでかいわ」
「およ? 千聖ちゃん起きたんだ?」
「これだけ煩くしてるのだから当たり前でしょう……」
「千聖ちゃん、お届けものなんだからサイン貰わなきゃ、ほらほら!」
「……だからサインってなんだよ?」
先程から矢鱈と宅配を装おうとする日菜が怪しいと思ったのも束の間、日菜の肩を外れた千聖が。
「サイン……あっ。……んっ……ん」
「んっ?!」
倒れ込んでくると同時に俺の唇目掛けて一直線に吸い付いてくる。あまりにも唐突な行動に反応が遅れた俺は抵抗をする時間などなしに、口内でアルコール混じりの吐息を攪拌していた。
「おおっ。朱肉たっぷりだねぇ、これお土産のお酒、良かったら飲んでね! じゃあお邪魔しました〜」
「ぷはっ……。おま、こんなに……。てか千聖は放置かよ?!」
「んー。彼氏くんが受取人だからねぇ。あたしはおねーちゃんの介抱で忙しいから! またね! また今度飲もうね!」
俺と千聖を玄関口へと放り込むと、ドアはバタンと勢いよく閉まる。
『うおー! 待っててねおねーちゃんっるんっ!』
嵐のように大きな荷物を置き去りにして去っていった日菜の背中を覗き穴から見送って、俺は半分ぐらい意識が飛びかけている千聖に声をかける。が、反応しない。肩を叩いても唸り声を僅かにあげるのみで、まともな反応を返さない。
「……これだから酔っ払いは」
酒癖が際立って悪いというわけではない。けれども今回ばかりは相手が悪かった。何に対しても驚異的な才能を示す日菜と飲み比べでもしたのだろう。当然紗夜も日菜に勝てるはずもなく、普段からお酒を付き合い程度で嗜む千聖が相手になるはずもなく。
「本当に馬鹿なことしてんなぁ」
「……うりゅさい」
「はいはい、酔っ払いは黙ってな。歩けるか?」
「むりなの」
「そうかいそうかい」
口をとんがらせた千聖を抱えて部屋へと運ぼうとする。先程まで俺の玄関前では華が咲き乱れていたというのに、一歩部屋に足を踏み入れるだけでこうも殺伐とした空間に変わってしまうのはどういうわけだろうか。
「というか酒くさっ……。どんだけ飲んだんだよ」
「えぇ? うーん、さよちゃんは一杯で潰れてたわ」
「紗夜……。で、千聖は?」
「あ、戦利品よ、これ」
「は? 酒ならさっき日菜から……って、空じゃんそれ」
さっき酒土産なら日菜から飲み切れないほど貰ったものだから、戦利品の酒など要るかと突き返そうとした。けれど、渡された瓶……それもウィスキーを、空にして帰ってきたのだ。
「これ半分ぐらい、私が飲んだのよ? すごいでしょお?」
「……バカだなぁ」
早死にするぞ、そんなの、なんて思ったけど、こんな酔っ払いにそんな正論を叩き込んだところでノーダメージなことは分かりきっているので、俺はとりあえず撫でておくことにした。
「えへへぇ。褒めてぇ……」
「よしよし、日菜に勝てたらな」
「むりよあんなのぉ……」
どうやら日菜の酒豪っぷりは流石のものらしい。それはそうと20歳を迎えたばかりの人生初飲酒で、ウィスキーを半分開けた千聖を超える飲酒をした日菜とはどんな化け物なのだろうか。才覚で語れるほどの次元ですらなく、生命体としての歴然とした差がそこにはあるのだろう。俺とて、ウィスキーの瓶を開けるなんてバカな真似を犯そうものなら、2日酔いどころか急性アル中でぽっくり逝きかねないレベルの無謀な行いだ。
そんなバカどもの酒盛りに付き合うことがなくて心底良かったと安堵の息を吐いたのだが。それと同時にそんな場に居合わせた千聖を思うと心底同情する。というか俺も、さっきの日菜の去り際に、今度一緒にその飲み会に参列せよとのお達しを頂いたところではないか。これでは命が幾つあっても足りなさそうである。
「あー。俺も今度死ぬぞこりゃ」
「えぇ死ぬのやだぁ!」
「あー例えだ例え。日菜と飲んだら俺も命が危ないってな」
「……待って」
「ん?」
フラフラと足元すら覚束ない千聖が急に腕を前に突き出して、待ったと俺を止める。まさか、その大量のアルコールを全部ここにぶちまけようとでもしているのかと思って身構えたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「……なに?」
「……日菜ちゃんと一緒に飲むのは、ゼッタイダメよ」
「心配してくれてるところありがたいけど、誘われたからには」
「そうじゃないわよ! うっぷ……」
「ちょ叫ぶな、吐くな。吐くなら便器行け」
「……大丈夫、大丈夫。じゃなくてぇ、日菜ちゃんと飲むのはダメ」
「だから誘われてんだから、日菜なら無理矢理にでも連れ出されて」
「そうじゃないの! もう!」
突然目鯨を立てて怒り出した千聖の考えが全く読み取れない。酔っ払い特有の感情の起伏の大きさと片付ければそれまでなのかもしれないが、そうだとしても様子はおかしかった。
「ダメなものはダメ! 私が許可しないの!」
「……あー、妬いてんのか」
「うー……。そうだけど違うのぉ!」
「だからなんなんだ……。とりあえずこれでも飲んで落ち着け、ゆっくりだぞ」
「んっ……ごくっん、……ん……ぷはぁ!」
ゆっくりと釘を刺しておいたのに、豪快にも一口で渡されたコップの水を全て飲み干してしまう千聖。このまま酔っ払いのペースで喋り続けられると俺の頭が先にどうにかなってしまいそうなので、なんとか平静を取り戻してもらいたいという淡い希望を籠めたのだ。
「……ふー。で、ダメ、ダメよ絶対」
「その心は?」
「日菜ちゃんが酔ったら、いつも以上にボディタッチが激しくなるから、だからだめ!」
「……はぁ。なるほど?」
「だからダメと言ったらダメなの!」
「分かった分かった……。そういうことなら丁重に断っておくよ」
「断ってもダメ!」
「どうしろと?」
言っていることが無茶苦茶だ。これぞまさに泥酔の真骨頂。第一に会話が成立しない。論理展開が完全にとち狂っているから。第二に。
「貴方にボディタッチしていいのは私だけなの! 分かったぁっ?!」
「それ俺本人に言っても仕方なくない? てか変なところ触るな」
第二にはボディタッチが激しくなる。散々日菜とのランデヴーを心配していた奴とて、馬鹿にできないほどの激しさを見せつけてくるのである。それでいて酔いが覚めた時に記憶に全く残っていないというのだから余計にタチが悪い。
「んー。特権だもん……」
「よしよし、分かったから、もう一杯飲もうな」
「お酒?」
「水に決まってんだろ」
「……」
「……なんだよ?」
「飲も?」
「水?」
「お酒!」
「誰が!」
「貴方に決まってるでしょ馬鹿!」
「えぇ……」
気が大きくなって気性が荒くなるというのだから本当に困りものである。困り果てたと雖も、ふらつきながら歩き出そうとする酔っ払いの行動を完全に見放すわけにはいかないので、ガラスコップを握りしめる奴をソファへと座らせた。
「立つなよ? 座ってな」
「うん。飲むならね?」
俺が酒を呷らないかぎりは解放されることもないらしく、ジト目でずっと俺が注ぐグラスと交互に見つめてくるものだから、耐えかねた俺は日菜の土産とやらを自分のグラスに注いでしまった。流石に千聖にこれ以上飲ませるわけにはいかないので、千聖のグラスには水で我慢してもらい、グラスを傾ける。
「にしても……日本酒が土産って。あいつ只者じゃねぇな」
「……また日菜ちゃんの話ばっかりぃ……ごくっ……」
「はいはい。酔っ払いはまず酔いを覚ませ」
正直摂取量から言えば、気休め程度でしかない気がするのだが、それでも飲まないよりはマシだろうと思い水を飲ませる。千聖はまたも一気に飲み干し、飲み終えたグラスを思い切りテーブルの上に音を立てて置いた。
「割れるから」
「……ごめんなさい」
「急に素直だな」
「……うぅ」
僅かに唸ったかと思えば、千聖はジリジリと距離を詰めて、顔を俺の腹あたりに埋める。不摂生に祟られたお腹の贅肉がその酒臭さを受け止めていた。
「……えへへぇ」
「……ん」
俺は物好きにも満足げに感嘆の声を上げる千聖の髪を手櫛で梳かす。引っ掛かりのないブロンドの長髪は流石アイドルと言うべきか。
「ふふ……惚れたぁ?」
「前から、な」
「ふふ……ふふふ……」
まだその吐く息からアルコールの匂いは抜けないけれども、それなりに理性のある会話が成り立つようになってきた。千聖は人差し指で俺の胸元を何度もなぞりながら、俺の肩あたりに今度は頬を押し当てていた。
「ねぇねぇ」
「ん?」
「……私、日菜ちゃんに負けちゃったぁ」
「……まだ言ってんのかよ」
「お酒じゃないわよ?」
「あ? じゃあなんだよ」
てっきり飲み比べで負けたのを嘆いているだけかと思ったのだが、そういうわけでもないらしく、追加の質問に答えることなく、何度も何度も、指の往復を繰り返している。催促しても答えを言わないあたりからかっているらしい。
「何をだよ」
「さーあ?」
「言わないならお酒飲まないぞ」
「……私のこと嫌いなの?」
「どうしてそうなる」
論理の飛躍が著しいけれど、千聖が不安そうにこちらに目を向けるのを見て、狼狽えてしまう。俺はそういうところで甘くなるから、きっと一生尻に敷かれ続けるのだろう。
「飲んで?」
「言わないから飲まない」
「飲んでよぉ……」
「泣き落としはダメだぞー」
「むぅ。もうっ」
ぷくーと真っ赤な頬をリスのように膨らませた千聖はまるで20歳の女には見えなかった。それよりももっと幼い、いつまでも子どものような幼さと可憐さを忘れずにいる少女というのが1番適切に彼女を表現しているのだろう。
「子ども扱いはやめてって言ってるでしょ?」
「ならガキっぽくなる自分を恨むんだな」
「ガキじゃないもん!」
普段の落ち着いた口調とのギャップのせいで、今のくだけた千聖は駄々を捏ねるガキにしか見えない。それは決して罵りを含んだわけではないのだが、千聖からすればそれはひどく不愉快だったのだろう。ポカポカと胸骨の上あたりを太鼓のように殴りつけるものだから、ちょっとだけ痛い。
「なんで子ども扱いするの?」
「さぁ、身長?」
「……小さいの嫌い?」
「好き」
「えへ……」
「そういうとこだぞ」
「やり口が汚いわ」
「何のことだか」
「私は貴方のそういうところ嫌い」
「え?」
「うーそ♪ ふふっ」
「……くっそ」
そのやりとりだけ見れば、俺の精神年齢も大概だと思われてしまいそうであるが、まったくもってその通りである。どうせ大した差はない。俺だってお酒で気が緩めば口調だって砕けるし、思考のレベルだって著しく低下する。きっと好意を寄せている相手には素直に好意を示すようにもなるし、言ってしまえばちょろさだって増す。
「焦ったかお、かわいいわね〜」
「……誰のことだか」
「お酒足りてないんじゃない?」
「そういうの良くないぞって、分かったから……、ん……かぁ」
勢いのままに15度を飲み干した。千聖が嗜んでいた40度のレベルには及ばないが、それでも喉へのダメージはしっかりと感じられるし、粘膜が酸に浸されたように焼け落ちていく光景が脳裏を過った。視界だって一瞬だけ歪む。すぐに戻ってまた麗しい人の姿が映るのだが。
「……あぁ」
「次のお酒、お注ぎしますねー?」
「……はいよ」
さっき飲み干して空になったばっかりのグラスがまたもや重くなる。体はこのままのペースでは持たないと悲鳴を上げているのだが、もっと素直になりたいと叫ぶ心は俺の口をグラスへと持って行こうとする。
「飲めないのかしら?」
「もうちょっと、待って」
「もう、仕方ないわねぇ……んっ。んっ、ん、ん」
「……ちゅーしろと?」
「ん。んんん」
俺はいつぞやの朱肉とやらを印鑑に擦り付ける。こんな状態で捺印すれば、紙が朱色に染まりそうなものだが、俺たちが赤く変わるのは表情であった。接吻し終えた俺たちは互いに顔を見合わせ、照れと笑いを堪えながら、熱を持った頬を指で摘み合う。
千聖は暫くしてそんな戯れに飽きたのか、熱さを引き伸ばすだけでは飽き足らず、もっと全身で火照りを感じたいらしかった。俺だって、全てを包み隠さずに言うのであれば全身で千聖を感じたい。だからその抱擁をしっかりと抱きしめ返した。
「……酔ったら、ほんと千聖って大胆になるよな」
「体質だもの、仕方ないわね」
「……俺以外の前で、飲まないで欲しいな」
「貴方次第だけれど」
「うー」
我儘なんだとは理解しているけど、千聖を縛りつけるのも忍びなくて、かといって俺自身も行動を縛られるのは少々億劫である。そんなわけで躊躇の意思を見せていると、千聖の眼光は途端に鋭さを増す。刹那、酔いを忘れるほどに。
「……貴方は日菜ちゃんに浮気するのかしら?」
「あ? しねーよ」
「まぁしたら絶対許さないけど♪」
「許されても困るな」
「まず貴方を縛り付けて、私の良さをたっぷり教え込んでから、日菜ちゃんの目の前で私の好きなところを100個上げてもらおうかしら」
「まずのハードル高んだよ」
「次は交代して、私が貴方の好きなところを1000個上げるわね」
「多いな」
「日菜ちゃんに分からせてあげないといけないじゃない」
嬉々として日菜への制裁、いや、浮気をした世界線の俺への制裁なのだが、そんな内容を語る千聖の姿は狂気すら感じる美しさを湛えている。もっと残虐なものが来るかと恐る恐る聞いていた俺は安心するとともに、その美しさの虜になっている自分を再確認していた。
「とにかく、めちゃくちゃ今日のことを根に持ってるんだなってことはわーったよ」
「別にそういうことじゃないもん……、もぉ……好き……」
「繋がり分かんないけど、ありがとうな」
結局のところ、酒に負けて甘える千聖が愛おしいということだけが残っているのだ。愛でたいと思う気持ちが千聖をついつい甘やかしてしまうし、それに乗っかるのが上手いのも千聖の良いところだから。
俺はそんな彼女にお手玉にされながら、こうやって飼われているのである。
「酒に負けたことだけじゃないんだろ? どうせ」
「……なんで分かるの?」
「分からないとでも思ったか?」
「……分かって欲しかった」
「ま、分かってないけど」
「はぁっ?! バカ!」
「うん、好き」
「……好き」
バカはお前ら2人ともだと怒られるかもしれない。けれど、俺とて悪酔いをしてしまっているのだから、これぐらいは大目に見てやってほしい。清酒を飲み干す度にわんこそばの如く注がれるものだから、俺だってもう相当酔いは回っているし、率直に言って食道の状況は芳しくない。
「で、まぁ、分かんないけど、大体想像はつくぞ」
「あら。ほんとう?」
「うーん。日菜のことだから、というか、千聖が飲みまくったのも、俺が原因だろ?」
「……盗聴器でも仕掛けてるの?」
「あー、千聖がこの地球上どこに逃げても良いように、GPSはつけてるけど盗聴器はつけてないぞ」
「え、うそ」
「嘘に決まってんだろ」
こんなあからさまな嘘をついた俺。それが嘘であることなんて、素面の状態なら悩む余地を挟むことすらなく分かるはずなのだが、酔っ払いには現実と夢物語の世界の違いがイマイチ理解できないらしい。
「あらそう。私は付けてるけど」
「は? あ、嘘か」
「本当よ?」
「えっ」
「……ごほん。で、何が原因かまでわかる?」
「……まぁいいや」
良くない。俺のプライバシーの危機。事実は小説よりも奇なりとも言うし、現実世界は夢物語を超越するのだろう。俺のちっぽけな想像の力では、その考えに及ばなかったに過ぎない。
「たーぶん、日菜が煽って。そうだなぁ、千聖より日菜の方が酒飲んだ量多かったら、俺のこと1日好き放題する、みたいなところかな」
「残念ね、1ヶ月よ」
「そりゃ無理なこった」
「まぁその発想に至る貴方はまず自意識過剰をなんとかしたほうがいいと思うけれど」
「冷静な分析の結果だ」
俺が自意識過剰なんて言われる謂れはない。日菜の性格を考えれば俺を振り回す権利を得たい、なんて発想はわからないでもない。賛同できるかは別として。まぁ大方、俺のことになると冗談が通じにくい千聖は日菜の言葉を鵜呑みにして、そんなこと許すまいとしたのだろう。ま、日菜となれば俺も何されるか分かったものじゃないから、俺とてそんな奴隷的拘束は勘弁していただきたいけれども。
「……ま、そんなこと言われたものだから」
「で、バカみたいに飲んじゃったと」
「……うん」
覇気もなく、表情に闇を投げ掛ける千聖の落ち込みっぷりを見ると、怒るのはこれっきりにしてやろうなんていう、少しばかり甘い考えが思い浮かんだけれど、注意喚起ぐらいはしておこうと、口を開く。
「……はぁ。学べよ。前も飲みまくって痛い目見ただろ?」
「あれは貴方が煽ったからじゃない」
「俺だってまさか『俺が先に酔い潰れたら、パスパレのダンス完コピして泥酔したまま5人の前で披露する』って条件を本気にされるとは思わなかったんだよ」
「ネタって分かってても、見たいじゃない?」
「そりゃそうだけどさ。……ま、飲み過ぎんなよ。本当に」
「……うん」
しおらしさを見せる千聖。それはきっと、つい先刻の自らの悔いるべき醜態を理解したからなのだろう。俺がそれだけ繰り返し言っているのは、大切な人を失いたくないからに他ならず、泥酔中の千聖とて分かってくれたのだろう。
「況してや相手が日菜って……。無謀すぎだろ」
「だって、アルコール耐性にまで天才が発揮されるなんて思わないでしょ?」
「うん」
「ほら。私悪くないわよ」
いや、意外とわかってはいないのかもしれない。支離滅裂な話の論理展開になる想定は織り込み済みだったのだが、どうやら拗ねること込みの態度だったらしい。
「対抗して飲みまくったのがダメなんだよ。初めてお酒を飲むやつにそんな飲ませたのもダメだけどな」
「……ごめんなさい」
「ちゃんと謝れて偉いな」
飴と鞭とはよく言ったものだが、俺はそうして叱りつけた後には千聖を誉めることは絶やさない。俺だってこの手の過ちは何度も経験しているし、自重しようとしてもやってしまうのが人間というものであるから。けれどそれは表向きで、本当はきっと嫌われることを心のどこかで恐れているというのが正直なところだろう。その証拠に俺の右手は千聖が1番喜ぶように、そのしなやかな長髪の生え際を掻き撫でているのだから。
「だから子ども扱いしないでってば!」
「罰として……。一生、俺の見てないところでお酒飲むのは禁止だな」
だから俺は、もっと素直に吐き出した。お酒の力を借りて。
「不意打ちで恥ずかしいこと言うのもダメ!」
「本気だぞ」
嘘偽りない本心だと。
「そういうの……ズルイからダメ」
「ニヤけてんぞ、顔」
千聖も漸く理解したらしい。
「嬉しいもん……」
「……千聖こそズルいんだよ」
だから俺は気兼ねなく本当の姿を曝け出す。
「ふふ……。貴方の女だもの。当然よ」
「俺だって、もっとズルくなるからな」
千聖は不敵に笑う。
「まだズルくなれるの?」
「あぁ。どっかの誰かのせいでな」
俺は口角を上げた。
「……ふふっ。私をもっとズルい女にして?」
「嫌と泣いてもやめねぇぞ」
俺の影に入り込んだ千聖の顔色は窺い知れない。
「荒々しいのは嫌いよ?」
「優しくできる自信がないからな」
「……うそ。貴方なら、全部好き」
「うん。知ってるよ」
翌朝。頭痛に苛まれながら俺は目を覚ます。昨晩自分がどれほどの飲酒に溺れ、乱れ狂っていたかははっきりと覚えていないし、思い出したくもない。
くしゃみをした。汗をかいたまま眠りに落ちたのが響いたのだろう。衝撃で脳髄が揺れたせいか、頭痛は一段とひどくなった。
「……ん。かぜ?」
「……よぉ。かもな」
肌と肌が重なり合って、籠っていた熱は、千聖が上体を起こし、酒臭い吐息を撒き散らすことで一瞬で部屋の空気に紛れて消えた。消えていった熱量をもう一度追い求めた彼女がもう一度倒れ込んでくるのを、俺は両腕で受け止める。
「ん。ふふ……」
「……上機嫌だな。朝から」
「……えぇ。もう朝じゃないけれど」
「ん? あぁ。昼か」
冷蔵庫の陰に隠れた時計が11時を指していた。もうきっと世の中の人々は活動を始めて、電車に揺られて仕事に向かったり、友達と待ち合わせて授業を受けているのかもしれない。
「ちょっとだけ、学校をサボった時の優越感というか、そんなものに似ているわね」
「あー。自分だけ、授業を受けずにその時間に違うことする、みたいな?」
「そうそう、それよ」
俺たちは顔を見合わせると、思わず笑いが噴き出た。それは平和な生の営みの象徴だった。
「……今日は、ちょっとこれから外出ようかな。なんて」
「そう? いってらっしゃい」
「……止めないのか?」
「……うん」
いつもなら止められるだろうに、そんな気持ちで千聖の発言を訝しんだ。
「今日は多分、絶対大丈夫だから」
「一文で矛盾してるじゃん」
「ふふっ、そうね。絶対よ」
「じゃあ……着替えようかな」
立ち上がると同時に、思い切り伸びをして、澱み切った部屋の空気を肺の中に取り入れる。これが爽快に感じるようになったというのだから、慣れというのは怖いものだ。
「……ん、どうしたんだ?」
ふと、背中を反らした俺の腰のあたりに腕を回して、千聖が正面からもたれかかってくる。ふんわりとした香りが周囲のアルコールの臭いを覆い隠すように、俺の体の周りを包んだ。
「お願いがあるって言ったら、聞いてくれる?」
千聖は真剣な瞳を携えて、こちらを見上げていた。俺という人間を丸ごと、天地がひっくり返ったように狂わせたその双眸は凶悪を極め、紫炎に似た揺めきの狂気を蠱惑的に訴えかけている。
「……ん。ものによる」
俺はその瞳が蓄えた魔力に抗うことは出来ないし、きっと千聖はそれを理解している。最初から俺は千聖の傀儡であった。
「貴方のこと、一生私の好きにしてもいい?」
「もう好き放題されてるのに?」
「一生よ、一生。改めて貴方の口から、その言葉が欲しいから」
千聖のそれだけでも震撼に値する狂気は俺の闇に包まれることで何倍にも増幅する。けれど、最初から俺はその狂気を受け入れるつもりで、関わりを持っていたのだから、断る道理なんてない。
「そうか。誓約書に、サインね」
「そうよ。間違いがあってはいけないから」
「誓えってことな」
「えぇ。誓いなさい」
千聖は目を閉じて待っていた。俺はその髪を指と掌で掻き撫でて、影で暗くなった首筋に手を添えた。
「……これで、俺は誓ったぞ」
さぁ次はお前の番だと、千聖の肩を抱いた。ほんのりと燃える炎を感じ取れるような優しい肩をしていた。
「……ねぇ。——」
世の中の殆どの人が、俺たちの歪んだ恋愛を見れば、それは間違っていると、正しくない愛の形だと、論って叩くのだろう。現に俺とて、この恋愛が本来あるべき姿なのか分からないし、初めてこいつと会った頃はそんな愛を築こうとすることになるなんて考えてもなかった。
けれど、俺と千聖にとっては、光明のささない世界に蔓延っている狂気全てを集めたと思しきこの愛は真っ当で、心の奥底で真に望んでいる愛の形なのだと断言できる。
「私、愛してるって言葉、嫌いなの」
「うん。知ってるよ」
「好きって言葉も嫌い」
「うん。それも知ってる」
「嫌いだから、余計に酔ってる時はつい出ちゃうの」
「だろうな」
「でも私、もう戻れないぐらい酔っちゃったみたいだから」
千聖の細指が首にかかる。
愛してる。
愛してる。