一月の寒さというものは思った以上に厳しいものだ。二十四節気では一月の前半は小寒にあたり、一年の中でも最も厳しい寒さを誇る季節なのであるから、当然と言われれば当然なのだが、そんな情趣を以ってしても寒さがどうにかなるわけではないものだから、ただ暖房で暖められた部屋の中で南国気分を享受するのである。いや、享受する、つもりであった。
僕は一人で寒さに堪える生活を送ろうとしていたのだが、それを邪魔する者が現れたのである。本当に何の前触れもない、突然のことであった。
「……ねぇねぇ。助けてぇ……」
「……彩?」
呼出鈴の音に誘われ、戸口に顔を出したのは彩だった。ひどく深刻そうな表情を浮かべているのだが、その着込み具合や話し方のそれからはどうやら外の強烈な寒さに対する救助を求めているわけではないらしい。
「何しにきたの?」
「助けにもらいに来たの」
「だから何のだよ……」
「とりあえず上がるね? お邪魔しまーす」
こちらの都合などお構いなしと、勝手に上がり込んだ彩は綺麗に靴を揃えるでもなく、暗い廊下に光を漏らしたリビングの方へと消えていく。家の間取りを知っているのかと疑いたくなるぐらいの挙動だったが、事実その通りで、彩がこの家に来た回数など、数え上げたらキリがない。本当にふらっと何も事前に確認なんか取らずに訪れるものだから困ったものなのだが、彩以外もそういう困ったちゃんがちらほら見受けられるというのだから本当に頭を抱えたくなる。
「また勝手に上がって……。今日親が仕事でよかったよ……」
「え、ほんと?! 良かったぁ」
どうも抜けているのが彩の良いところであり、悪いところでもあるのだが、もしも僕の親が普通に家で過ごしている時だったら、こんなに堂々と家に上がっているのを咎められたりすることを考えなかったのだろうか。
「何も良くないよ。もうちょっと考えて行動しなよ」
「うっ……。ごめんなさい……」
「わ、分かれば良いんだけど」
「親御さんはいつ頃帰ってきそう?」
「え? うーん。夜8時ぐらいかな」
「……ということは、3時間ぐらい2人きりだね!」
「そんなに居座るの?!」
「……嫌だった?」
「……別に嫌じゃないけど」
「えへへ……じゃあ良いよねっ」
この底抜けの明るさには敵いっこない。それに僕だって本当に彩と一緒にいるのが嫌だというわけではないし、このままおひとり様の時間を過ごすのも少々飽き飽きしてきたところだった。
「まぁ。いいや。で、助けてって言ってたのは何?」
「……あ! 忘れてた! かるただよかるた!」
「……かるた?」
彩の口からは生涯聞くことはないだろう、なんて考えていたワードが飛び出して、僕は訳がわからないと彩の次の言葉を待った。
「確か小さい頃からかるたやってたんだよね?! 私に勝ち方教えてぇっ!」
「え、えぇ?」
たしかに彩の言う通り、かるた自体は嗜んでいるし、今も続けているものなのだが、それが彩に教えるということと頭の中で結びつかない。いや、もっと違う言い方をするならば、彩の口からかるたという単語が飛び出ることに違和感を覚えたのだ。以前、彩が校内で百人一首大会を開こうとした件は一度耳にしたことはあったが、大体の人間はかるたなんぞに触れるのは、正月かそんな行事ごとの時だけで、それが終われば記憶の片隅からも飛んでいくものだから。僕はずっとそんなふうに思っていたから、彩の話が余計に唐突に感じたのだ。
「実はね、この間のお正月にパスパレのみんなと百人一首をやったんだよ」
「うんうん」
「そこで日菜ちゃんにボコボコにされたんだよっ! もう本当に見るも無惨なぐらいに!」
「見るも無惨って、自分で言うのか……。で?」
「え、えっと……そ、それでね。えーと」
急に歯切れの悪くなる彩を訝しんでいると、途端に彩が大声を上げた。
「……か、勝ちたい!!」
「お……おお……」
さっきまで静かだった部屋の中全体に反響するぐらいの大きな彩の心の叫び。まぁまぁ、話は分かった。お正月のかるたで日菜ちゃんにボコされたから、今度リベンジをしたいのだと。今までの話を踏まえた上で。
「んー。無理じゃない?」
「即答っ?!」
「日菜ちゃんに勝とうってのがまず……」
「そ、そんなことないよ! ……多分」
彩自体の覇気もうっすらと消えていくような言葉尻。彩の声は震えているし、どうやら本当にただ勝ちたい、とその心だけでこの場に赴いたのだろう。
「と、とにかく! かるたやってるんだよね?! 教えて!」
「教えるのは良いけど、僕がやってるかるた、パスパレのみんなとやったやつとルールとか多分違うと思うんだけど……」
「ルール?」
「僕がやってるのは、多分普通のお正月のかるたとかよりも、もっとゲーム性というか、競技性が強いやつだから……」
「そういえば日菜ちゃんがそんなこと言ってたような……。じゃ、じゃなくて、そ、それでも勝たなくちゃいけないんだよ!」
……怪しい。僕の頭に真っ先に浮かんだのはそんな感覚だった。彩はさっきから何も言わないけど、何が何でも勝たないとダメなような事情があるような、そんな鬼気迫る表情をしている。
「……ねぇ彩。何か隠してない?」
「……へぇっ?!」
「……何か、勝たなくちゃいけない理由というか」
「え、あ、いやー。そのぉ……」
「……まぁいいや。なら千聖さんに話聞いてこよ」
「待って待って待って?! 待ってぇ!!」
「……何?」
ものすごい剣幕で僕を止める彩。僕が千聖さんに話を聞こうと、ポケットから取り出そうとしたスマートフォンを一瞬で奪い、それをわかりやすく背中の方に隠した。
「それで、本当のこと教えて? 彩」
「……日菜ちゃんと私、勝った方が次のお休みの日に、君と1日デートする権利を賭けて勝負するって約束を……」
「……え、勝手に僕のこと景品にしてたの?!」
「ご、ごめんなさい!!」
「何してくれてんの?!」
「う、うぅ。だって日菜ちゃんがぁっ……ひぐっ」
寝耳に水もここまでくれば濁流で、驚きが頂点に達していた僕は思わず彩を大声で詰り、彩は桃色の瞳に涙を浮かべ始めた。
「え、ちょ泣かないでよ……彩……よしよし」
「ぐすっ……ううんっ……」
彩がしゃがみ込んだ僕の方に寄って、服に顔を埋めたまんま泣き声を上げているんだけど、どうしたものだろうか……。そりゃあ泣かせたのは僕かもしれないけど、泣きたいのはこっちなんだけどな……。
「もっと撫でて……」
「う、うん……」
「……うんっ。……ありがと、もう……大丈夫だから」
「そう?」
彩はゴシゴシと自分の瞳を何度も擦り、泣き止んだらしく、僕は立ち上がった彩と一緒に腰を上げた。
「……それでね、だから、お願いがあります!」
「わっ。……彩?」
彩は泣き止んだかと思えば、今度は見たこともないぐらい凛々しい顔で、こちらを見つめる。並々ならぬ覚悟を宿した人間の瞳をしていた。
「……君とデートしたいから、私にかるたを教えてください!」
「……うん。分かった」
「ほんとっ?! やったぁ!!」
玩具を買ってもらった子どものように大はしゃぎする彩の姿を見ていると、断らなくて良かったな、なんてそんなことを思わず考えてしまう程度には僕も甘っちょろいのかもしれない。けれど、日菜に勝てるようなほど、と言われるとものすごく大変な道のりになるかもしれない。
「彩。本気で日菜に勝ちたいなら、きっと大変だけど、大丈夫?」
「もちろんだよ! 覚悟は決めたもん!」
「……うんっ。じゃあ、とりあえず和室に行こっか」
「へ? うん」
僕はリビングを出て、奥の畳仕立ての和室に向かった。昔ながらの障子を引いた先では藺草の香りが立ち込めていたのだが、やはりこの時期ということも相まってか、1番には足の裏から冷えが伝わってきた。
「さむっ」
「さっきのお部屋あったかかったもんね。大丈夫?」
「……うん。とにかく、きっと時間が足りないだろうから、頑張ろう」
「う、うん。えっと、その前にちょっと聞きたいんだけど良いかな? さっき言ってたルールが違うってどういうこと? 日菜ちゃんにも競技かるたのルールで勝負って言われたんだけど……」
「細かな違いは一杯あるけど、……まぁ、やってみせた方が早いよね。多分。よしじゃあまず、僕がやってみせるよ」
僕は戸棚の奥から、箱に入った百人一首の札を取り出した。読札と取り札が別々であって、僕は畳の上に適当に取った、取り札をざっと並べていく。20枚程度並べ終えると、場にある札と対応する上の句が書かれた読み札を探し出して、まとめて彩に渡した。
「多分、これで大体ここの畳の上に並べてある札と同じ和歌の読み札があるはずだから、僕が構えたら、ランダムに1枚読んでくれる?」
「え、う、うん。分かった」
僕はざっと、その場にある札を高速で暗記する。まぁ、とは言っても小さい頃からやってるものだから、慣れたらこんなもの意外と簡単なのだ。実際に試合をしようとすれば50枚も覚えないといけないから大変だけど、今この場には20枚弱しか並んでいない。
「……よし、大丈夫なはず。……彩、お願い」
「うんっ。……『あきの』」
パァン! という鋭い音と共に僕の左膝頭の近くにあった札が高速で飛んでいく。
「わぁっ?!」
「読むのやめちゃダメだよ……あはは」
「え、え、今の何?!」
「……これが、今から彩にやってもらうかるただよ」
「えぇっ?! だって今私3文字しか読まなかったよ?! 和歌なんだから5・7・5・7・7ってあるはずだよね? この間の日菜ちゃんもそうだったけど、どういうことなの?!」
「……前途多難だなぁ」
僕は勝手に心の内で納得する。彩がこれから挑もうとする相手は相当な強敵らしい。勝ち目は殆どと言っていいほどないだろうし、もっと言えば僕ですら気を抜いたら日菜には負けてしまうような状況かもしれない。とはいえ、彩が本気で挑もうというつもりならば、僕だって本気で教えなければ不誠実というものだろう。
「彩、百人一首って何首の和歌があるか分かる?」
「いくらなんでもバカにしすぎだよ?! 100首だよね?」
「うん。……そうだなぁ、彩。『天下トーイツ』?」
「えっ、『AtoZ』?」
「そ。百人一首も同じで、ここまで読まれたら、何の和歌のことか分かる部分があるんだよ。これを『決まり字』っていうんだけど。ま、だから僕はさっき『あきの』まで読まれて何の札のことか分かったんだ」
「な、なるほど……! つまり『天下トーイツ』が上の句で、『AtoZ』が下の句ってこと?」
「そういうこと。日菜ちゃんも多分こんな感じで取ってたんだと思うよ」
「そういうことだったの?! どうりで下の句が読まれる前に札が取られたと思ったんだよ……。って、あれ?」
彩は少しだけ目線を宙に向け、何やら悪い予感なるものに突き当たってしまったらしい。そうだ、これが今から彩が超えなければいけない壁の一つである。というよりきっと、かるたをしようとするものが一度はぶち当たる壁である。
「……気づいた?」
「て、ことは私が日菜ちゃんに勝とうと思ったら、100枚全部覚えないとダメってことぉっ?!」
「多分そういうこと」
「う、うそぉ……」
「だから言ったじゃん大変だって……」
百人一首なのだから、100の上の句と、それに対応する100の下の句がある。それの組み合わせをなんとかして覚えなければ、彩に勝算、勝ち目はない。
「え、え、私百人一首で上の句と下の句両方知ってる和歌なんて、殆どないよ?!」
「百人一首大会で和歌の解釈か何か作ってたんじゃなかったの?」
「そんなのずっと覚えてられるわけないよぉっ?!」
それもそうか。きっと、百人一首をすべて覚えていますか? という質問にyesと答える日本人はそうそういない。それでこそ、和歌や古典の研究者や、僕みたいなかるたで日常的に百人一首に触れる人でもないと、百人一首が常に頭にあるなんて状況にはなり得ないのだから。
「どうする? 諦める?」
「……い、いや! 私は絶対勝つんだもん! 一度考えてはいるんだから、きっと少しやったら思い出せるはずだよ!」
「それもそうかもね。じゃあ、これから僕が下の句見せていくから、確認してみよっか」
「うんっ!」
こうして、彩の記憶にどれほど百人一首が残っているかを確かめる作業が始まった、のだが。
「……全然覚えてない」
「……これは?」
「こ、これは花音ちゃんがイラストを描いてたよ!」
「……で、上の句は?」
「……えっと、あはは」
そう……。例え、和歌を題材として解説や感想を作ったことがあったとしても、下の句だけを見て上の句が出てくるかどうかは別の問題なのである。こればっかりは本人の記憶力と努力によるところが殆どのため、これ以上は多分意味がないだろう。
「まぁ、現状覚えてないだけだから、覚えさえすればなんとかなりそうだけど」
「が、頑張ります」
「語呂合わせで覚えたりする方が良いのかなぁ」
「わ、私日本史とかで語呂合わせで覚えるのって、そんな得意じゃなかったんだよね」
「歴史はストーリーで覚えるタイプ?」
「ううん! 覚えないタイプ!」
だめじゃん。
「良い覚え方とかないのぉ……?」
「うーん……。じゃあもうイメージで覚えるとかしか」
「イメージ?」
「和歌だって、詩だから、書かれた文字がちゃんと意味をなしてるでしょ? それを印象で覚えたりってこと」
「……それだよ! それなら頑張れそう!」
他の覚え方をあれこれ考えるよりも、きっと彩自身が乗り気の覚え方の方がモチベーションもあるはずだから、僕はその方法で進めることに決め、取り札ではなく、5・7・5・7・7が全て書かれた読み札を彩と2人で見ることにした。
「えっと、『あけぬれば くるるものとは しりながら なほうらめしき あさぼらけかな』……どういう意味?」
「うーん。夜が明けたら、やってくるものとは知っているけれど、それでもやっぱり夜明けが来るのは恨めしいことだ……って感じかな」
厳密に解釈をすれば、僕の解釈なんてきっと文法がおかしいとか、訳出に問題があるとか言われてしまいそうなものだが、かるたを覚えるためなら、大体の意味が汲み取れれば良いだろうと思い、そんな訳をする。しかし、彩は。
「ぜ、全然イメージできないよっ?!」
「これでも恋の歌だからまだイメージしやすい方だと思うんだけどなぁ」
ずっと和歌に慣れ親しんできた僕からすれば、これほど分かりやすいものはないと思うのだけれど、そうでない人にとってはやはりどうにも得体の知れないものらしい。しかし、僕がそんなぼやきを発した瞬間に、隣にいた彩がピクッと反応して、こちらに振り向いた。
「恋の歌?! これ、どう訳したら恋の話になるの?!」
「え、ええっ?! だってこれ、一夜を共にした男女の歌だから……」
「一夜を共に……。……そ、それだよ!」
「え?」
突然指で指されて困惑する僕に耳打ちをする彩。
「……それ、本当に効果ある?」
「あるよ?」
僕はその提案にさらにびっくりすることになったのだけれど、彩のその迫力に負かされたというか、無理やり押し通されたと言うべきか、僕はその提案を飲むしかなかった。
その結果が。
「……ねぇ、あなた。……もう夜が明けてしまうわ」
「あ、あぁ。もう、帰らなきゃいけないね」
「もっと、ちゃんと感情込めて!」
謎の演技指導を共演者から受けるという前代未聞の体験をする。彩が出した提案、それは和歌の内容を元に完全に彩のオリジナルストーリーを描き、それを実演して覚えるというトンデモな覚え方だった。けれど、必死になって『私が日菜ちゃんに負けてもいいの?!』とせがむ彩の願いを断ることなんて僕には出来ず、渋々飲んだ僕はこうしてものすごく冷たな畳の上にわざわざ押し入れから布団まで敷かされ、彩と2人寝転がっているのである。
「もう一回!」
「もう、帰らなきゃいけないね」
何が辛いって、きっと彩が和歌を覚える以上に僕がセリフを覚えるのがキツイ。そして何が恥ずかしいって、彩が指定した和歌が完全に恋の歌オンリーという、絶対に他意しかない覚え方をしようとしているし、それに巻き込まれるという点である。
「またすぐに明日の夜が来るよ?」
「……それでも、この夜明けが恨めしく感じられるんだよ」
「……ねぇ。ちゃんと私が言った通りに演技してよ」
「……本当にするの?」
「もちろん」
食い気味に感じられるほどの即答に、僕は生唾を飲み込み覚悟を決める。いくら彩と親しい間柄だったとしても、それじゃあまるで恋人みたいで。
「……早く、抱きしめてよ」
「……彩。夜明けが恨めしいよ。まだまだずっと、君の傍に居たい」
「もっと強く……」
「……うん」
もうお互い顔は真っ赤で。互いの吐息が熱を覚ますでもなく、首筋を撫でて、さらに恥ずかしさを掻き立てている。彩の背中に回した腕に力を込める度、彩の体の柔らかさというか、そんな不思議なものが僕の心のうちに立ち上がって、ずっとこうしていたくなってしまう僕が居た。
「……えへへ。私も、ずっと君の傍に居たいな」
彩の吐息混じりの声が僕の三半規管に反響して、思考回路を溶かしていく。ふと気を抜いて仕舞えば、もう2度と現実世界に戻って来られなくなりそうな、そんな浮遊感と現実離れした艶美な世界の感覚に襲われる。
……けれど、僕の最後の理性がなんとか踏みとどまって、当初の目的を思い出した。ゴソゴソと、箱の中に入った、『あけぬれば』の和歌の下の句の札を取り出して、彩に見せる。
「……彩? この和歌の上の句は?」
「……え? ……『夜更かしをして』……だっけ?」
「……彩。この方法じゃダメそうだね。そもそも上の句なのに7文字じゃん……」
「え?! あ、わ、わ、分かった分かった! ちゃんと5文字で、あるから! ……耳を貸して?」
「え? うん」
彩はあっちを向いたり、こっちを向いたりと、百面相を実演している。きっと何も頭に入っていなかったから、必死になんとか答えを振り絞ろうとしてるのだろう。そう思った僕はため息をつきながら、彩が近づける口から発されるだろう、苦し紛れの初句を待った。
「……えっとね。ふぅ。……いい?」
「どうぞ?」
「……『君が好き』」
「……えっ」
「……な、なんでもない!」
「……え?」
あまりに突然な告白に頭を思い切り揺さぶられたような衝撃を受ける。彩が顔を相当に赤らめているところを見るに、きっと僕の聞き間違いとかではない。そもそもこの距離で、彩の両腕が僕の首の後ろへと回されているほどの近さで囁かれているのに、聞き間違いなんて起こるはずがない。
「えっ……えっ?」
「……うん」
彩は顔を赤らめたまんまうんともすんとも言わなくなってしまったし、僕もその告白をどう受け止めていいのかまるで分からないし、頭の中はちんぷんかんぷん。そこだけ時間が止まったかのように、僕も、彩も、一言も発さない空間が出来上がる。互いに相手の顔色を伺っては、合ってしまった目線の交錯を避けようと露骨に目線を逸らしている。
どれほどの時間が経っただろうか。突如、背後でガラガラという音が聞こえて、僕たちはビクンと跳ね上がった。
「……あら。お邪魔しましたー……」
「お、お母さん?!」
「え?! お義母さん?!」
「その、初めてはちゃんと好きな人とするのよ?」
「は、はい不束者ですがよろしくお願いします!」
「彩も何言ってんの?!」
「ふふふ、晩御飯の用意してくるわねー」
パシャン! と音を立てて障子が閉まる。どうして、仕事って言ってたじゃん、だとか色んな文句が思い浮かんだけど、目の前のありえない現実の連続に僕の思考は完全にフリーズした。
「……彩」
「わ、な、何?」
「……やばい」
何が'やばい'のか定かではないが、これはやばい。本能がそう告げていた。
「……ねぇ」
「……何、彩?」
「……末永くよろしくね?」
「だから何の話?!」
彩もさっきよりももう一段階頬を紅潮させ、もうどんなことがあったかなんて、悪い想像がついてしまいそうなほど露骨であった。
「と、と、とりあえず離れない?」
「うん……えへへぇ……」
感情がオーバーフローした結果トリップ状態になり、まともに喋れなくなった彩を揺すり、僕はなんとか体を起こした。
「……ね。効果なかったよね?」
「……うん」
僕と彩は、反省会をしていた。反省会というよりも、お説教の時間と言った方が正しいかもしれないけれど。勿論、あらぬ妄想を掻き立てられてしまうような現場を母親に目撃されてしまったことは、まさに僕が1番に反省すべきなのだが、それはそうと覚え方にやはり問題が大アリだった。
「本当に日菜ちゃんに勝ちたいと思ってる?」
「当たり前だよ?!」
けれど、その根底の気持ちだけは変わりないらしい。僕とて、それはそうだった。だから。
「……じゃあもう、これから暫くスパルタで、学校の定期テストとかよりもびっちりとかるたの暗記と、札の取り方の練習を叩き込むからね!!」
「そ、そんなぁ……」
「日菜ちゃんに勝つんでしょ?」
「そうだけど! き、急に態度変わりすぎだよ?!」
「日菜ちゃんに勝つならこれぐらいしないと!」
そうだ、こればっかりは嘘じゃない。今から彩が日菜ちゃんに勝とうと思ったら、きっとものすごい量の努力が必要になるだろう。僕がちょっとやそっと教えたぐらいで勝てるようになる相手じゃない。
……けど、どういうわけだか今日は聡い彩が、僕の目から視線を外さないものだから、思わず僕はちょっとだけ彩の斜め後ろへと目をやった。
「……むぅ。今ちょっとだけ私から目線逸らしたよね?! 絶対何かあるでしょ?!」
「な、何もないよ?!」
完全にピンポイントで痛いところをつかれた僕は思わず声を上擦らせてしまった。僕は物言いたげにこちらを見つめる彩を一瞥して、またも目を逸らそうとしたんだけど、それを許さないほどの彩の瞳が訴えかける力に、負けてしまう。
彩はワンテンポ置いて、首を傾げながら、僕の両手を握った。
「……本当のことを言って?」
僕は素直に。
「……僕だって、ちょっと……彩に勝って欲しくなっちゃったから」
「……えっ?! ほんと?!」
「な、何も! さっ、かるた覚えるよ!」
「待って?! さっきのどういう意味?!」
僕は素直になった。彩は僕に今の発言の真意を必死に聞き出そうとしているが、そんなこと恥ずかしくて僕に言えるはずがなかった。僕は照れ隠しに、自慢のかるたの腕を見せつける他なかった。
後日、僕を賭けたかるたの勝負。どっちが勝ったかなんて、言うまでもない。