【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第1巻「建国期~ルドルフ大帝」   作:旧王朝史編纂所教授

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5-3:【宇宙歴307年6月2日】

「全く野党の馬鹿者共には腹が立つばかりだ。私の真意を理解しようともせず、僅かな言葉尻を論い、さも自分達が正義の側であるかの如くに振る舞う。連中は、終身執政官なる地位は民意を無視するもの、独裁者そのものだと主張する。だが、私は逆に問いたい。一体、民意とは何なのかと。

 

 連邦政界での経験は、私に民意の存在意義を疑わせるに十分だった。ペデルギウス時代、私はまだ民意というものを信じていたのだ。民衆は私の主張と行動を正しいと判断したが故に、私を支持し、投票してくれているのだと。

 だが、そうではなかった。民衆は正しいから支持しているのではない、いや、そういう者も存在しない訳ではないが、大多数は自分に利益があるから支持しているに過ぎない。それが証拠に、私の政策が自分の利益にならなくなった者は、途端に私を激烈に批判、非難し始めた。

 失業を罪として、失業者には政府が指定する職場での労働を義務化した時が良い例だ。失業保険を打ち切られて、労働を命じられた者達の中には、それまで私を支持していた者達も多いのに、彼らは弱者虐めだと、一転して私を非難し始めた。失業保険とは税金だ。税金を当てにして怠惰に生活するのと、額に汗して労働して得た賃金で生活するのとでは、どちらが人間として正しいあり方か、子供でも分かる道理だ。

 

 私は、人間の行動原理とは欲望、自分が得をしたい、或いは自分以外の誰かが得をする事が許せない、畢竟、それだけでしかないのだと悟らざるを得なかった。私の腹心たる政治学者エッシェンバッハが喝破した如く「民意とは、ただ我欲の充足を訴えるだけの叫喚」でしかないのだ。

 

 だが、民主主義国家では、その民意によって統治者の地位が左右される。誰が自分の欲望を最大限に充足してくれるだろうか、基本的に判断基準はそれだけしかなく、個々の利害得失を超えた、社会全体の公益を顧みる者などいない。仮にいたとしても、それは公益を装った私益を追求しているに過ぎない。

 

 この結果、統治者たる責務を自覚して、真摯に公益を希求する権力者は、選挙という名の儀式で、容易にその地位から逐われる。そして、責任感もなく、ただ民意に迎合するだけの者が権力者の座に就く事となる。

 また救い難い事に、民意に迎合しなければ権力を得られないだけではなく、権力を手に入れた後も、次の選挙という儀式を考えるなら、ひたすら民意に迎合し続けなければならないのだ。

 

 先日も、連邦体制からの分離独立を企図した星系政府を討伐し、没収した資産を一時金との形で民衆に分配したが、これが統治者として恥ずべき事である事は、良識派などという連中に言われずとも、私が一番自覚している。民衆に対し、私の政策の正しさではなく、私の政策が彼らの直接的利益になる事を露骨に示さなければ、有権者という別名を持つ民衆は、そのうち私に飽き、ただ権力者の地位にいるという事だけに嫌悪感と不平不満を抱いて、遊び飽きて古ぼけた人形の如くに顧みなくなり、もっと新しくて美しい人形を求めるようになるだろう。 

 

 だからこそ、公益に適い、論理的に正しい施策を継続的に実施するためには、民意に拠らずして立てる地位が必要なのだ。

 

 恐らく野党連中は言うだろう。それは独裁者の論理だと。民意による承認を受けずして、その地位の正当性を如何に担保するのかと。だが、民意とは畢竟、我欲充足を求める叫喚に過ぎない。民意の承認とは、我欲が充足された事への満足を示すものでしかなく、それで示される正当性とは一体、如何なるものか。

 

 例えて言うなら、耐えがたい空腹を抱えている者が食べ物を貰えれば、与えてくれた者が仮に犯罪者であっても、その者の意志に逆らう事は難しいだろう、さらに、今後も食べ物が貰えると分かれば、犯罪者に味方して、その存在を肯定さえしかねない。まして、その者が餓死しかけている子供を抱えた親だと仮定したならば、その親は食べ物を与えてくれる犯罪者の存在を倫理的に否定できるだろうか。

 

 言うまでも無く、空腹に苦しむ者は有権者たる民衆、食物を与える犯罪者は権力者の比喩だ。これは極論だが、有権者の承認を得たからといって、それが権力者の倫理性、正当性を必ずしも担保するものではない、と言えるのではないだろうか。

 私は、権力者の正当性を担保するものとは、民意だろうが、神意だろうが、また天命だろうが、形式的には何でも良いと思っている。権力者の正当性とは、その者が為した政治的業績の有効性、具体的には救い得た人命の数、また平穏に天寿を全うさせた人間の数で判断されるべきなのだ。

 

 さらに私は、民衆が理性的かつ論理的な判断能力を有するとは、どうしても思えないのだ。その時の雰囲気や一時的な感情に流され、民意尊重の美名の下、多数が少数を不当に迫害し、甚だしきは死に追いやっても、民衆はその事に責任を感じるどころか、全くの無自覚でさえある。

 地球時代、人種や民族問題に起因する紛争や差別、情報インフラの整備がもたらした極端な民意の高まりと、それに迎合した権力者らによる「民意に基づく」犯罪的行為は、枚挙に暇が無く発生しているが、それは現在の連邦でも変わっていない。前述のエッシェンバッハ、また私の部下たる憲兵ガルシア(後の帝国軍憲兵総監ブレンターノ)の事例は、民衆が持つ、ある種の愚劣さと残酷さを痛感させるに十分な内容だった。

 

 さらに、これほど高度に多様化かつ複雑化した連邦社会の実情を客観的に分析し、個々の政策課題について、論理的な判断を下せる者が一体何人いるのだろうか。少なくとも、大多数の連邦市民が、その条件に当てはまらない事は自明だろう。それは衆愚政治と堕した連邦政界の現状が証明している。

 尤も、これは民衆の責任というよりも、欲望の解放、社会の発展を是とする高度資本主義がもたらした弊害であろう。しかし、成長した赤子が再び揺籠に戻る事は物理的に不可能なように、構築された社会構造を再度、中世または近代の水準にまで、即座に逆行させる事もまた不可能だ。

 

 現実を現実として認識できず、適切な対応策が選べない者は愚者の名に値するが、私は愚者たるの汚名を甘受する気は無い。よって、連邦社会の実情を客観的に分析して、必要な政策を立案できる能力を持つ者達を集め、政府や軍の高官とする。私は、民意によって左右されない地位に就き、最高責任者として彼らを統括、私と彼らとの合議により、最適な政策を協議する。そして、私が責任者として最終決定を下す。これが最も効率的かつ実効性ある統治体制だと考えている。そのための終身執政官なのだ。

 

 ああ、野党への反論のつもりで書き始めたら、つい筆が走ってしまった。まあ、公の場で発表する時は、言葉遣いを大きく修正しておく必要があるだろうが。さて、誰に見せる文章でもないから、この際だ、本音も書いてしまおう。私は民衆が嫌いなのだ。

 

 私の政策に対して、論理的に根拠を挙げて反論してくるのならば、私は聞く耳を持つつもりだ。だが、大多数の民衆は、ただ自分達の不平不満の捌け口として、権力者を誹謗中傷しているだけに過ぎない。そこに理性など皆無だ。

 日々の生活に追われて、政治や行政を始め、社会問題をじっくり考える余裕が無い事は分かる。だが、多様で複雑な問題が存在している事が理解出来ず、理解するための学習もせず、他者の意見を聞く耳も持たず、ただ自分が理解出来る事だけで諸問題を速断し、偏頗な意見を得々と主張する。そんな連中に何を語りかければ良いというのだ。意識しているのかどうかは知らぬが、対話を拒否しているのは、お前達民衆の方だと言いたい。

 

 さらに腹立たしいのが、事あるごとに人権を振りかざし、自分は国家によって規制されない権利を持つ自由な市民だと主張する癖に、都合が悪くなったら、自分は国民だ、国家は国民を守る責任があると言い立てる。いい加減にしろ!と言いたい。

 

 連邦市民の多くは政府の干渉を嫌い、人権を主張して、自己責任論を好む。だが一旦、貧富の格差や治安の悪化、災害や疫病の発生など、個人の力では対処できない事が押し寄せると、国家は国民を守る義務があると言い、自分達が不利益を被らない為の対処を要求して、自己の要求が叶えられないと見るや、当局者は無能だと非難の大合唱を浴びせてくる。自己責任と言うならば、自分の力が及ばない事態でも、自分が可能な範囲で対処し、それによって生じた不利益や不都合は甘受すべきなのではないか。これは悪しき二重基準ではないのか。

 

 国家は無謬でも全知全能でもない。自分が権力者になってよく分かった。最高権力者と雖も、法や先例に縛られ、支援者や有力者の意向に忖度し、部下達の感情にも配慮して、あらゆる事に制限される。

 にも関わらず、民衆は国家に無限の富と英知を求め、それが得られない事に怒り、権力者の非を鳴らす。これだけ個々人の価値観や生活様式が多様化した今、彼ら全員の要求を本当に満たそうとするなら、人民1人当たりに国家が1つ必要になるのでは、と皮肉交じりに言いたくなる気分だ。

 個人の権利を守るために全力を挙げるのが国家の存在意義だなどと言う輩がいるが、私には彼らの純粋さ、いや脳天気さがむしろ羨ましい。皮肉抜きで、そうできれば本当に良いだろうと思う。

 

 権利を主張するならば、義務を果たさねばならない、という事は考えないのか。人間は1人で生きている訳ではない、また1人で生きる事もできない。心情的な意味ではなく、分業化された社会では、1人で自己保存に必要な物資とエネルギーを賄う事が不可能だとの意味で。

 人間が社会的存在として生きる事を選び、その中で相応の権利を主張するのなら、社会を維持するため、権利に相当する義務を果たすべきなのだ。それは、社会を構成する一員としての自覚と、最低限のルール遵守、そして社会に過度の負担を掛けない分相応の生活態度、ではないかと思う。

 

 少なくとも私は、法と倫理を犯さず、多くを望まず、他者を犯さず、生業に励み、正しい知識を学び、心身ともに健全で、ただ平穏に生きる事に満足する、そういう人間にこそ権利を主張する資格があると考える。

 逆に、自由や人権を大義名分とし、欲望を無制限に解放する事を当然とし、理不尽かつ無責任に他者を犯し傷つけても罰を受けず、責任も取らず、自覚すらもしない。そういう人間に権利を主張する資格は無い、連中は秩序ある社会を乱すだけの有害な存在だ。

 

 故に、人権の名の下に、自由主義と民主主義を国是として、有害な存在を容認する連邦という国家は間違っている。よって、自由主義と民主主義にも懐疑の目が向けられるべきなのだ。私は、自由主義と民主主義は、政治思想としては認めるが、それを統治技術とする事は誤りだと考える。

 これらの思想は、圧制者への反抗及び闘争を正当化するための思想的背景となったが、恐らく思想上の意義しか有していないのだ。それを現実政治に適用した事が誤りだったのだ。統治とは、少数による多数の支配が本質である以上、多数が多数を統治する事を前提とする民主政治は、そもそも論理的に破綻していたのだ。

 

 真に偉大な統治者は、民衆に愛される事は無い。彼らは、統治者の偉大さが理解できる力量を持たないから。

 そして、人間は理解出来ない者を愛する事は無い。ただ闇雲に畏怖するか、理も非も無く否定するか、どちらかでしかない。一個人としては愛されたいと思う。だが、統治者としては否定されるべきだと思っている」

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