【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第1巻「建国期~ルドルフ大帝」 作:旧王朝史編纂所教授
序文で述べられた通り、ローエングラム王朝の成立で、旧帝国下では非公開だった一次史料が相当数、公開された。これは正に旧帝国史の研究上、エポックメーキングだと言える事態だが、帝国と同盟を隔てていた壁が崩壊し、両国の研究成果を自由に参照できるようになった事も大きい。同盟では未詳とされていた事柄が、帝国の研究で証明された、もしくは帝国の研究では不明だった事が、同盟由来の史料で解明されたなど、歴史研究に従事する者として、誠に喜ばしい事が起こっている。
本コラムでは、そのような事例の一つとして、ルドルフ即位に異論を唱えた民主政治家ハッサン・エル・サイド(以下、ハッサン)の日記を取り上げたい。
同盟では、ハッサンの日記の一節「民衆がルドルフ万歳を叫ぶ声が私の部屋にも聴こえてくる。彼らが絞刑吏に万歳を叫んだことを自覚するまで、どれほどの日数を必要とするだろう」が広く人口に膾炙しており、また、この日記が帝国当局によって発禁処分を受けたと伝えられている事で、ハッサンは皇帝ルドルフに抵抗した気骨ある人物、民主政治家の鑑だと、初等教育の歴史教科書でも紹介されている。
だが、日記以外の事柄、その人物像や政治的業績など、政治家ハッサンの活動は一切、同盟では不明だった。この日記の一節は、建国の指導者グエン・キム・ホアの演説等でも、ルドルフの思想統制を示す挿話として引用されているが、日記の原本は失われている。同盟建国後の歴史研究で、連邦起源のロストコロニーで発見された、宇宙暦300~310年の連邦議会議事録に、下院議員としてハッサンが登場する事、その発言内容から、反ルドルフ派の政治家だという事が証明できただけだった。
また、私的な日記が帝国政府によって発禁処分にされている事は不自然だとして、ハッサンなる実在の政治家に仮託した後世の創作、捏造なのではないか、との見解もある。だが、対帝国戦争が激化するにつれ、戦意高揚のプロパガンダに利用されるようになり、一部の歴史研究者以外は、その実在を疑わない、それどころか、実在性を問題にしない者さえ現れた。
一例を挙げると、征軍帝コルネリアス1世の大親征後、宇宙暦675年(帝国暦365年)、当時の同盟議会議員で、反帝国派の論客、スティーブ・キングストンは、日記を引用して帝国との講和を主張する議員への反対演説を行っている。
「大衆に付和雷同せず、独裁者ルドルフの危険性に警鐘を鳴らした、先見の明ある政治家がいたのだ。我々は、ハッサンの懸念が現実になった事を知っている。
今、帝国と講和を結ぶべきだと主張する者たちがいる。彼らは、我々の偉大なる祖先、ハッサン・エル・サイドに恥じ入るべきではないのか!
民衆が万歳を叫んだルドルフは、すぐさま絞刑吏たる本性を現して、共和主義者たちを虐殺した。絞刑吏ルドルフの子孫どもと、我々自由の民との間に、信義が成り立つと思う迷妄から覚めよ!たとえ講和を結んでも、帝国がそれを遵守するはずがない。英雄の皮を被ったルドルフが絞刑吏の本性を現したように、ルドルフの子孫もまた、講和を遵守するふりをしながら、隙あらば我が同盟を侵さんと、虎視眈々と機会を窺うだろう。今こそ、ハッサンの明知に倣うべき時だ!」
講和賛成派から、日記の実在は証明されていない、偽作の疑いがある物を論拠とするのは、良識ある政治家の態度ではない、と指摘されると、キングストン議員は激高して「仮にハッサンの日記が実在しなくとも、独裁者ルドルフは民主主義の敵であり、ルドルフへの抵抗を賞賛して何が悪いのだ!」と、実証主義者が唖然とする主張を行ったが、議場は拍手喝采に包まれたという。
西暦年代にも、その実在性に疑問符がつきながら、道徳的に正しいからと、政治的に認知、称揚された事例は度々生じているが、このハッサンの日記も同様と言えるだろう。少なくとも、同盟においては。
実は、ハッサンの日記は実在していた。しかも、その実在を証明したのは、帝国貴族の歴史家だったのだ。
もともと、貴族にとって、自家の歴史を研究する事は半ば義務だった。自家の先祖が帝国史上で如何に活躍したかを証明できれば、それは家格に箔がつく事に他ならず、宮中席次の序列で優遇されたり、他家との縁組で有利になったりと、貴族社会を生き抜く上での武器になったからだ。そのため、旧帝国の貴族家は、才能ある学生を歴史研究員として雇用したり、また学芸省や典礼省管轄の学術機関に調査依頼したりと、自家の歴史を解明する事に努めていたが、中には、貴族自らが歴史家になる事例もあった。
帝国暦180~200年代にかけて活躍した、フリッツ・フォン・フィッシャー子爵も、その1人だった。
フィッシャー子爵家は、家祖ヨハネスがルドルフ大帝即位の口火を切った事を自家の誉れとし、大帝即位時、連邦最末期~帝国建国期の歴史研究に力を入れている貴族家だったが、フリッツは歴代当主の中でも、特にその傾向が甚だしく、自ら歴史家を志して、国立オーディン文理科大学で歴史学を専攻。爵位持ち貴族が官吏になる場合、有力省庁である国務省や財務省、内務省で勤務するのが一般的だったが、自ら望んで学芸省管轄の帝国史研究所の研究員に就任。周囲の貴族からは「変人」「学者馬鹿」と嘲笑されたが、本人は意に介さなかった。
転機が訪れたのは、帝国暦185年、文華帝エーリッヒ1世の即位。自身も歴史家だった文華帝は、皇太子時代から歴史研究を行っており、フリッツとも研究者仲間として面識があった。その当時から、フリッツの歴史論文が各種史料を精緻に分析し、高い実証性を持っている事に感銘を受けていた同帝は、即位後、その学識を十分に活かして欲しいと、典礼省の家格職長(局長級)に任命した。
同省は、文華帝の父、美麗帝アウグスト1世が各貴族の家格・爵位を整理して、帝室の藩屛たる貴族を再編成するために創設した新設官庁で、各貴族家に伝わる史料や文書の管理も職務の一つであった事から、生粋の歴史家・フリッツにとって、理想的と言える職場だった。
また、文華帝の知遇を得たフリッツは、本来なら皇族と宮内省の担当職員以外は見る事が許されない、ルドルフ大帝に関する史料や文書の閲覧も許可され、旧帝国の歴史家としては、実に最上の環境で研究に邁進できた。
その研究成果は「銀河帝国の成立」全10巻として結実した。同書は、ルドルフ大帝の即位、銀河帝国の成立との歴史的事象を政治・経済・社会・軍事・文化など、あらゆる方面から分析した労作であり、また連邦最末期から帝国建国期の歴史研究に必要な一次史料を徹底的に網羅している事で、史料集成としての価値も極めて高い。
同書を献呈された文華帝は「間違いなく帝国史に残る名著である」と激賞。この功績で、フリッツは一代限りの伯爵位を授与された。なお、文系学問の業績で陞爵したのは、旧帝国史上、フリッツただ1人。同書は今に至るまで、連邦最末期から帝国建国期の歴史研究において、基礎的文献の1つ、との地位を失っていない。
この「銀河帝国の成立」に、民主政治家ハッサン・エル・サイドと、同盟で云う「ハッサンの日記」に関する記述があるのだ。以下、同書の記述を要約する。なお、ハッサンの父、イブン・エル・サイドに関しては、本書で既述している内容もあるが、行論の都合上、再掲させて頂きたい。
ハッサン・エル・サイドは、元ペデルギウス星系政府首相、イブン・エル・サイド(以下、イブン)の長男。イブンは、市民に人気が高い銀河連邦軍人・ルドルフの政治的スポンサーとなり、星系政界における自身の立場強化を狙い、ルドルフをペデルギウス星系政府・治安維持部隊司令官に招聘する。
だが、中央の大企業の傘下にある民間軍事会社(宇宙海賊に偽装)に対しても、武断的措置を断行するルドルフと、大企業と完全な対立関係に陥る事を避けたいイブンは決裂。ペデルギウス星系の地元財界人で、ルドルフのブレーン的存在になったクロプシュトックの策謀もあり、ルドルフは星系政府首相に就任。首相の地位を追われたイブンは、大企業からリベートを受け取っていた事実も暴露され、政界引退を表明。首都星テオリアに移住して、政治家時代の縁故を頼って、細々と生活していたと伝えられる。ハッサンは、父親の地位を奪ったルドルフを憎悪し、自身が政治家として立身して、ルドルフ打倒を生涯の念願とするようになった。
テオリアの国立大学を卒業したハッサンは、父親の縁故を頼って、テオリア選出の下院議員、パストゥール・ハビャリマナの私設秘書となり、政治家への道を歩み始めるが、宇宙暦300年、ルドルフが連邦政府首相に就任すると、タカ派政治家だったハビャリマナ議員は、強権的手法を取るルドルフに共感を覚えたと、国家革新同盟へ入党。ハッサンは、ルドルフに与する事は出来ないと、ハビャリマナ議員と袂を分かち、当時、反ルドルフの姿勢を示していた民主自由党(DLP)に入党。同党公認で、テオリアの地方都市・デルカザールで議会議員選挙に立候補、初陣を飾る。
政治家としては、ルドルフの強権的手法を強く批判、自由主義と民主主義が銀河連邦の国是だとし、ルドルフは連邦体制を破壊する独裁者になろうとしている、との主張を繰り返した。反ルドルフ派の支持を集めて、宇宙暦308年、連邦議会下院議員に当選している。
だが、父親とルドルフが政敵同士だった事から、その言動は私怨によると見なされ、熱烈な反ルドルフ派以外に支持を広げる事が出来ず、一般の有権者からは、感情的なアジテーションに終始する、下品な扇動政治家だと相手にされていなかった。事実、議員時代のハッサンの発言は、ルドルフへの批難だけでしかなく、政策論争や議案提出を行った形跡は無い。この点からすると、有権者の評価は正しかったと言えるだろう。
しかし、ハッサンには文才があったようで、反ルドルフ文書を盛んに執筆。同僚議員や支援者の求めに応じ、選挙パンフレットやアジテーション演説の原稿なども代作していた。思想的な価値はないが、一種の風刺文学的な面白さがあったので、反ルドルフ主義者の間では広く読まれていた。
特に有名なのが、ルドルフ即位直前に書かれたとされる「ある民主政治家の死」と題した文書。政治犯として収監され、死刑を宣告された民主政治家の日記という形式で、獄中生活の描写と日々の雑感を通じて、独裁政治を批判する内容。その一節に、
「12月1日 民衆が独裁者に万歳を叫ぶ日だ。厭うべき式典が始まったのだろう。今は私の部屋となった独房にまで、万歳の声が聞こえてくる。囚人たる私が絞刑吏に万歳と叫んだら、狂人だと嘲笑せぬ者はいないだろう。嗚呼、狂人なるかな、民衆よ!お前達が絞刑吏に万歳と叫んでいる事に気がつくのは、一体いつの日だろうか?その時には、絞刑吏のロープがその首筋に巻かれているだろう。これは予言ではない。近い将来の現実なのだ」とある。
当時、ルドルフの即位を批判、風刺する同様の文書は数多く出回ったが、広く人口に膾炙したという点では、この「ある民主政治家の死」が群を抜いており、首都星テオリア以外、遠く連邦辺境域でも、その存在が確認されている。
帝国成立後、連邦議会下院議員のハッサンも、帝国議会議員に任命されるが、既に「ある民主政治家の死」の作者である事は公然の秘密であり、帝国暦2年初頭、皇帝の品位を不当に傷つけたとして、与党・立憲臣民党が議会懲罰委員会に提訴、同委員会で議員辞職を勧告される。身の危険を感じたハッサンは、家族と共に辺境域の独立勢力へ逃亡を図るが、帝国の治安警察に察知され、逃亡中に宇宙船ごと撃沈されている。ある民主政治家の死を始め、ハッサンの著作は全て発禁処分、市中に流布した分は回収されている。
フィッシャー子爵は「勇気はあるが、軽率な人物。才能はあったが、その使い方を知らず、社会に無用の混乱をもたらした」と評している。
「銀河帝国の成立」に引用された「ある民主政治家の死」の一節と、同盟に伝わる「ハッサンの日記」、文章に異同はあるが、その文意は同じだと言える。
ここからは推測だが、辺境域にも出回った「ある民主政治家の死」が、ハッサン死後も現地の共和主義者の間で伝承されたのではないだろうか?そして、彼ら共和主義者が旧帝国の弾圧にも耐えて生き残り、帝国暦164年に始まった、いわゆるアーレ・ハイネセンの長征一万光年にも参加したと考えれば、ハッサンと「日記」の存在、「日記」が帝国政府によって発禁処分になった事実だけが同盟にまで伝承したとの仮説が成り立つ。文章の異同と日記形式の文書が自身の日記となった事は、伝承の途中で錯誤が生じたと思われる。
現時点では、ある民主政治家の死と、ハッサンの日記を直接結ぶ史料は存在しないが、本説が最も蓋然性の高い仮説ではないだろうか。読者諸氏の判断に委ねたい。
最後に余談ながら、現在、帝国公用語が全銀河、全人類社会の公用語とされているが、これから歴史学を志す若者には、同盟公用語の習得を強く推奨したい。同盟の歴史研究は、我々帝国人とは全く違う視角、着想の宝庫である。是非、その魅力に直接触れて欲しいと、切に希望するものである。