【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第1巻「建国期~ルドルフ大帝」 作:旧王朝史編纂所教授
開祖ラインハルト陛下と同様、大公妃殿下が亡国帝から下賜された家名として有名なグリューネワルト伯爵家だが、ベーネミュンデ家の家祖クリストフ、ローエングラム家の家祖ヘルムートが当時の帝国軍で主流派だった事と対照的に、グリューネワルト伯爵家の家祖リヒャルトは一貫して非主流派、いや脚光の当たる任務に就く事も無かった。それは、グリューネワルトが前線指揮官でも、参謀でも、軍官僚でもなく、謀略と諜報を主任務とするスパイだったからに他ならない。
その職責上、個人情報は明らかになっていない部分が多々あるが、連邦首都テオリア生まれ、長じて連邦軍人となり、帝国建国後は帝国軍人に移籍しているが、連邦時代から諜報員として活動していたと思われる。初代の軍務尚書シュタウフェン上級大将の下、軍務省調査局長を長く務め、彼が敵国に構築したと言われる一大諜報網は、いまだ解明されていない部分が多く、機密保持の完璧さを窺わせる。
敵対勢力を切り崩すため、有力者の暗殺を始めとする各種テロリズムを実行、被害者の政敵にその容疑を被せて、敵国内の団結を分断する手法を得手とした。その仮借無さは、かのラグラン・グループで謀略を担当した、チャオ・ユイルンの再来とも称された。敵国との秘密交渉を担当した宮内尚書ノイラートと並び、平定戦役の裏面で活躍した人物と言えるだろう。上官たるシュタウフェン上級大将は「グリューネワルトは名演奏家だ。彼の奏でる音楽は「不協和音」と言うのだがな」と評したと伝えられる。
私生活は謎に包まれており、家族の存在さえも疑われている。容姿や性格を窺わせるに足るエピソードなども皆無で、唯一、当人の言葉として「謀略も極めれば芸術たりえる」との発言が残されている。想像するに、仕事に美学と生きがいを持ち込む、職人肌の人物だったのだろう。
或いは、ルドルフの軍事思想、戦わずして勝つをこれほど体現した人物はいなかったとも言えるが、職務の性格上、功績が表立って評価される事も無かった。
軍務省に残された人事異動の記録を見る限りでは、帝国暦33年、ノイエ・シュタウフェンが軍務尚書に就任すると、調査局長を退任しているようだ。また、典礼省所蔵の諸家譜によると、帝国暦35年、功績によって、グリューネワルト家に伯爵位を賜う。同37年、当主リヒャルト死去により、長子アドルフが爵位継承を申請、大帝ルドルフ1世陛下、これを裁可する、とある。これ以外で、同伯爵家の立家に関する一次史料は現時点では発見されていない。
当時の武官貴族の日記や手記に、グリューネワルトに関する記載が僅かに見られる。あくまでも軍内に流れた噂として、グリューネワルトはシュタウフェン上級大将の腹心で、ルドルフの子を孕んだ寵姫マグダレーナを排除するため、同上級大将の元部下だった社会秩序維持局長、後に内務尚書となったクラインゲルト退役少将と共に暗躍した、また、ノイエ・シュタウフェンがヴェガ星域会戦でシリウス・共同体の連合軍を撃破する決定打ともなった、共同体軍のエリオット中将の裏切りは、グリューネワルトによる調略の結果である、と言われたらしいが、史料上の根拠は現時点では存在しない。
あくまで私見ではあるが、旧帝国の受爵基準によると、伯爵位は帝室と血縁関係が無い臣下が到達できる最高位であり、尚書や帝国軍三長官クラスの官職に就いた者が与えられている。軍務省の一局長だったリヒャルトに伯爵位が与えられているのは、シュタウフェン家、ひいてはノイエ・シュタウフェン家が帝国軍を事実上、支配する権門となるために、表沙汰に出来ない裏の任務を遂行した事への密やかな報酬なのかもしれない。
これ以降、グリューネワルト伯爵家は、軍務省調査局や統帥本部情報局を基盤とする武官貴族となるが、その職務上、具体的な活動は明らかになっていない部分が多い。
強堅帝ジギスムント1世の御代、敵国が全て滅亡、共和主義勢力も壊滅すると、同家の諜報能力は帝国への叛意、異心を抱いていると見られる領主貴族らの内偵に使用されるようになった。このため、貴族社会の中でも敬遠されがちで、当主の配偶者も分家の女性から迎える事が多く、近親婚に近い関係を重ねた結果、表だって語られてはいないが、障害者や奇形児の発生確率が他家よりも遙かに高かったと言われる。
流血帝アウグスト2世が即位すると、その存在自体を疎まれて、最後の当主ジークフリート以下、族滅の憂き目にあっており、流血帝を打倒して即位した止血帝エーリッヒ2世も同家の存在は好ましく思わなかったのか、再興される事は無く、そのまま絶家している。
亡国帝が大公妃殿下に、この不吉とも言える家名を与えたのは、爵位こそ高いが貴族社会では忌避される家であるため、周囲の貴族達からの妃殿下への敵意が少しでも和らぐと考えた、或いは、障害者や奇形児が生まれる家である事は貴族社会ではよく知られた事実だったので、妃殿下との間に子を為す事はしない、という意思表示だった等の見解が出されているが、真相は不明である。