これから始まる、そんな時。
悩みながら、よろめきながら、歩みだす。
そんな狭間の、物語。
隣の部屋は物置みたいになっていたけど、俺の部屋と殆ど同じような造りなんだ。この家に生まれて15年経つけど、片付けにかかるまでは全然知らなかった。もう一つの子供部屋、というわけか。もしかしたら俺の兄なり姉なり、弟なり妹なりがそこを使うことになっていたのかもしれない。まあ今の俺は一人っ子なんだけど。
四月になったらこの部屋は、新しい役割を持たされる事になる。
我が家にやって来る同居人、――鹿野千夏先輩の私室になるのだ。
正直何がどうなっているのか、俺はまだ飲み込めていない。
千夏先輩は女バドのエースで、学校内外を問わない有名人。そして、そして……俺の好きな人。そんな人がどういうわけか、この家に住む。隣の部屋で寝起きする。
ロクに話したこともないのに、友達通り越して同居だなんて。
俺は一体、どうなるんだろう。
千夏先輩は元々、家族と共に日本を去る筈だった。それをどうにか曲げて先輩は単身日本に残ったけど、独り暮らしはさすがに親御さんが許さなかった。まあ、それは分かる気もする。高校生は、まだまだコドモだから。俺だって春から高校生だけど、自分がオトナだとかは一切思えない。
だから先輩のお母さんは、高校時代にチームメイトだったという俺の母さんに頼んだのだ。うちの娘を預かって欲しい、と。それを快く受け入れてくれたお陰で、俺はどうしていいか分からなくなっているのだけれど。
簡単なことじゃない、とは思う。人一人を住まわせる、というのは大きなことだ。まして俺みたいなバカが既にいるのに、さ。
部活も休みの春休み、届けられた先輩の荷物入り段ボール箱を運びながら、ふと思う。本当に、千夏先輩が来るんだな、と。勿論勝手に開けたりはしないけど、大掛かりな引っ越し荷物を見ているだけでそれが実感できる。
……どうしよう、本当に。
先輩に初めて会ったのは、確か中学に入ったばかりの頃。母さんの母校でスポーツが強い学校、というだけで栄明に進んだ俺には大して展望もなくて、なんとなくバドを続けていたんだっけか。
でも一年半くらい前、先輩が夏の大会を終えて中学バスケを引退した後。悔し涙を溢れさせながら必死でシュート練習を続けるその姿を見て、横っ面を張られたような気がした。この人はあんなにも悔しがれる程、あんなにも自身を責めるほど、情熱を尽くしたんだ。その姿はまるで、般若のように美しく見えて。
あの瞬間、俺は千夏先輩を好きになっていた。
だから俺も、真面目に練習に取り組んでいる。いつか、あの人の隣に立てるようになりたい。そう思う気持ちは、俺の心の一番深い場所にキックを入れてくれるんだ。
なのに、だ。こんな早いタイミングで同居とか、どうしたら良いんだ。
間取り的に、俺たちの部屋は居間の真上。母さんたちの寝室からは距離があって、要するに
俺は千夏先輩が好きだ、だから絶対に傷つけたくない。嫌われたくない。おかしな事なんか、何があろうと起こしてはいけない。
でも、でも。俺だって男の子なんです、考えちゃいけない事を考えてしまったりするんです。
先輩が栄明を卒業して猪股家を去るまで、約2年。俺はその間、無事に過ごせるんだろうか。胃に穴が開くどころか溶けて無くなるかもしれない。
いよいよ明日。明日から先輩が隣の部屋に来るかと思うと、まったく寝付けない。話を聞いてから結構時間あったのに、あっという間過ぎる。
千夏先輩は、どう思っているんだろうか。母親同士が仲良いからって、知らない家なわけだし。やっぱり不安だろうな、俺みたいなのが隣にいるんだし。どう気を遣えば良いのかさえ分からない。そもそも気を遣うべきなのかどうなのか。
どうしよう、どうしよう。好きな人が、近すぎる。
夜は更けていくのに、目は冴えていくばかり。頭の中は、先輩の事だけがグルグル回っていく。
――ああ、幸せすぎて死にそうだ。