「これで、よしと。」
カウンターに置かれたコーヒー豆入りの瓶に立てかけるようにして、ビデオ通話にしたスマホを置く。
本日は僕が奏さんと同棲し始めて10日。
色々覚悟を決め、喫茶店まで昼ご飯を食べに来た。
こうして客としてくるのは初めて。
この後の事を考えてある程度の準備を終え、奏さんの左隣に座ってこぼさないようにカレーを食べる。
今日は気分を変えてワイシャツを着てきたので、カレーなんてこぼしたら洒落にならない。
「あ、ちゃんと美味しい。」
「ちゃんとは余計だろ。」
すごい辛いと言うわけじゃなく、程よい辛さで美味しい。
辛くしがちだった以前から考えると、おじさんもしっかり成長しているようだ。
まあカレーは美味しいが、それはそれとして......
「......むう。」
「つぼみ、どうしたの?」
椅子に座ってテーブルに肘をついた妹からの熱視線がすごい。
身長が170を超えていると言うこともあり、舐め回すような視線にも強い圧がある。
「なんかさ......お母さんみたいだね。
雰囲気というかさ、母性?」
おっと。
どうやら血縁者にはバレるらしい。
別に、シンゴのように心の中で母親を飼っている、と言うわけじゃない。
これからの戦いは結局先に相手の怒りを顔に出させた方が勝ちだと思う、だからこうして所作など母親を真似ているのだ。
個人的には少し、そうやって親に似ていると言われることに嬉しさを覚える。
「......どういうこと?」
「ああ、えっと......
奏さんカレー口についてるよ。」
......母性に関しては単純に、世話焼きなだけだと思うが。
これから対峙する者の事を考えて母の真似をしていると奏さんに説明すると、彼女は軽く顔を曇らせた。
曇った理由は、また僕が何かを演じている、ということに対してだろう。
でも安心して欲しい。
これは
「大丈夫、みんながいるから。」
軽い伸びをして、渾身の笑顔を奏さんに向ける。
少し遠目の鏡に写った僕の顔は、彼女の胸の中で泣いていた頃より格別に柔らかい笑みを浮かべていた。
「イチャつくのは良いが......そろそろ来るぞ。」
「うん。
......これを乗り越えたら、お父さんって呼んでも良いかな?」
「......嫌、とは言わねえよ。
呼びたきゃ呼べば良い。」
店長からの言葉を受け、咲は抱えていた私を席に下ろして立ち上がる。
入り口から外を見て彼が片耳に付けたイヤホンはわたしが付けているものと同じで、ナイトコードの音声が流れている。
『かおるん照れてるねー。
うんうん、これもある種のギャップなのかも!』
『まあ確かに、咲がタメ口を使ってるとこもあんまり見ないしね。』
「そうかな?」
......そう考えると、思ったより咲はタメ口を使っている気がする。
これは別に悪いと言うわけじゃなくて、今まで距離を取るために使っていた敬語が剥がれて、距離が縮まったと考えればかなり良い事だ。
視線の先にいる彼は母の形見らしい革手袋に手を通し、ただ真っ直ぐな目で外を見つめている。
惚気では無い、では無いが、その姿を見て初めてかっこいいなと思った。
『......奏、どういう顔なのそれ。』
「えっ。」
表情に出ていたか。
そんな事ないだろうと鏡を見るが、やはりいつもと変わりない顔だ。
いきなりまふゆが言うものだから驚いた。
『自分ではいつも通りだと思ってるだろうけど、すごい笑ってたよ。
......さっき、付いてたカレーを拭かれた時も、膝の上で抱かれてた時も。』
「そんな......
つぼみさん、わたし笑ってた?」
突きつけられた事実から逃れようと、隣でケーキを食べるつぼみさんへ逃げる。
彼女は何かを察したような笑みを見せると、咲との知の繋がりを感じさせる表情でこう言った。
「はい、それはもうニッコニコで。」
「うう...」
恥ずかしい......
「......僕も結構恥ずかしいんですけど、その話。」
『まあでも、色々あって奏の表情も柔らかくなったよね。
前まで仏頂面って感じだったけど。』
瑞希の言うようにわたしも変わっているのだとしたら、これは救われていると言うことになるのだろうか?
それはそれとして今の瞬間だけは、恥ずかしい。
何よりもわたしの笑顔がナイトコードの方にフルで流れていたと言うのが。
そこから1分ほどして、勢いよく扉が開かれ空気が変わった。
空気が変わる元となった元凶はそんなことはつゆ知らず、咲がいることを確認するや否や笑みを浮かべてその巨体を揺らし咲の肩に手を置いた。
ツヤのある額に照明を反射させながら、はあはあと息を切らして口を開く。
「咲!
いやあ心配したんだ、ここ最近めっきりこの店から居なくなって!
さあ座って、父さんお前を連れ戻そうと話をしに来たんだ、
自分の家ではないのにまるで自身の城のように振る舞う彼は咲を椅子に座らせようとするが、咲はその手を平手で力強く払う。
パチン、と空気が破裂するような音が店内に響いた。
困惑する彼へ、咲は極めて冷静に冷たく他人事のように言葉を吐き捨てる。
「━━では
私も少々言いたいことがあったんです、藤田、陸土さん?」
「まず、どうして私を連れ戻しに来たんです?
甚だ分からなかったんですよ、『寄るな』とまで言ったあなたが、私を迎えに来るなんて。」
店内に落ちた泥を塵取りと箒で掃除しながら、まるで『話は片手間で十分だ』と言いたげに、気怠そうに咲は問うた。
その泥を持ち込んだ原因はその様子をいに介する様子も悪びれる姿も無く、さも当然かのように足を組んで口を開いた。
「簡単だ、つぼみがどうあっても言うことを聞かず、俺のメシも作らず!
挙げ句の果てにはこんな場所へ入り浸る始末!
まったく、これも全て園児だった頃、種美に全て教育を任せたせいか......?」
今の瞬間で数個の地雷を踏み抜いたことは、言うまでもない。
母親を死後であろうと容赦なく貶めた事、妹を奴隷のように使おうとしていた事、この喫茶店をこんな場所と言い切った事。
その全てが咲だけでなくこの場にいる全員の琴線に触れる、触れるだけでなく紙やすりで削るように撫でた。
「......わたしは。」
「いい、何も言うなつぼみ。
今この時は、咲に任せろ。」
反論しようとするつぼみさんを制し、店長は真っ直ぐ咲を見つめる。
だが店長の手には固い拳が作られ、握りしめるその力は今にも皮膚を突き破らんとしている。
彼はやれやれと首を振りため息をついているが、咲は変わらず椅子に座った彼を見下ろしたまま。
変わったところを強いて言えば、その目がさらに冷たい視線を送り始めた事だろうか。
「......私が戻ったところで、何があるんでしょうか?
こちらへのプラスが何かありますか。」
「言わずもがな分かるだろう!?
藤田と言う家は全てにおいて有利に働く!
就職も、仕事についた後のエリートコースも俺の元に帰ってくるだけで手に入るんだ!
蹴る理由は一つもないだろう?」
「そこに幸せは、あるんでしょうか?」
熱を持ちメリットの説明をする彼の言葉を切り捨て、咲はそこに幸せがあるのかを問う。
母親の日記を見て、そこに彼と共にいて幸せだったと書かれていなかったからこその質問。
その答えは、彼が本当に母親を見ていたかどうかを量るための材料となる。
自信満々な表情を崩さず、彼は当たり前だと言う。
「幸せだろう?
ただ自身の気の向くまま、女も迎え入れられるし酒も食べ物も全てが良いもの。
藤田家の者と結婚した奴も同様に、幸せだと思っているだろうよ。」
「ああ。」
決別の音がした。
咲が他意も無く吐き出した『ああ』と言う言葉が、負の感情の最低ラインを突っ切った事を教えてくれる。
演技すらも無くなりただ無表情で見つめる咲の目の前に彼は立ち、その腹を揺らして答えを急いだ。
「どうだ咲、こんなところから帰りたくなったろう?!
今すぐにでもウチヘ━━」
「いや、もういいです。」
「......もういい?」
彼は一瞬ハテナを浮かべ、また明るい表情へと戻った。
どうあっても自分の思い通りに世が動いていると思っているらしい、余程甘やかされてきたのだろう。
彼はもういいと言う言葉を『もう話はいい、帰る』と誤認した彼はまた咲の肩へ手を乗せようとするが、ひらりと躱されその身を地に叩きつけた。
訳もわからずぶつけた頬を抑えていると、冷たい笑顔の咲がただ見下ろしているのに気づく。
「ねえ陸土さん。
......いや、もう呼び捨てでいいね、陸土。
僕はあなたが嫌いだ。」
「は......?」
「どちらかと言えば、最初から嫌いだったと付け足すべきか。
お母さんに負担ばかり強いて、自分は会社付き合いと言う名の風俗通い。
好きになる理由が無い。」
取り繕ったような冷笑が咲の顔に浮かび上がる。
その顔の裏には、赤く燃えて煮えたぎるマグマのような、どろりと粘度の高い怒りが渦巻いている。
「それどころか『藤田』の名前を笠に着て僕たちに理想を押し付け、個性や情の全てを焼き払おうとしたあなたを嫌いにならない理由を探すほうが難しいだろう。」
「な、何を......」
「思えばさ、あなたは僕に『自分の子供である事を信じられない』とか、好きな物を否定して『そんなもの』と吐き捨てた。
......あと、『さっさと大人になれ』とも言っていたね。
そっくりそのままお返しするよ、あなたを血のつながった親とは思わないし、藤田の名とかそんなもの、僕には必要ない。」
床に倒れている彼に目線を合わせるためしゃがみ、まるで意趣返しの様に咲は吐き捨てる。
その顔に張り付いた冷笑は、次の瞬間激昂した彼に胸ぐらを掴まれるまで剥がれることはなかった。
「貴様ぁ!!」
彼は膝立ちの様な形で体制を直し、ワイシャツの襟をギリギリと音が鳴るほど握りしめる。
それに対して咲は、気怠そうに天を見上げた。
「よくも父親に対してそんな口を......!
あの頃の様にわからせてやる!!」
そう言って彼は右手を天に振り上げる。
が、まるで子供騙しのマジックを観る様に咲は失笑し、『で?』と弾む様なゼラチン質の疑問を投げかけた。
依然として手を振り上げたままの彼は、こんなはずではと言いたげな表情を見せる。
「まだそんな脅しで従うと思ってんなら、ひどく滑稽だよ。
結局あなたは大人になれていない、都合のいい様に自分の言葉を捻じ曲げる子供でしか無い。
子供に人生をやるほど、僕とつぼみの命は安く無いんだよ。」
「ぐうっ......」
「『子供が舐めた口を』とでも言いたげな顔だ。
でもね、僕はもう子供じゃ無いのさ。」
咲はそう言うと笑みを浮かべたまま、その顔を彼の耳元まで近づけ、最大級の侮蔑、軽蔑、嫌悪を込めて囁いた。
「あんたの知らない恋も愛も友達も知って、僕は大人になったよパパ。」
その言葉を聞いて、彼は咲が自身の手の中に戻らない事を悟った。
ならば、と半ば脅迫の様な形を取り始める。
「......ならば、俺の100万を返せ!!!
こっちは盗まれましたと通報出来るんだ、返せなければ咲を━━」
「おらよ。」
その言葉を待ってましたとばかりに、店長が札束を投げつける。
紙帯で止められたその札束はどうやら、ゆうに100万を超える額が入ってる様子だ。
彼はそれが返されるとは思っていなかったようで、狼狽を隠せない。
「咲の持ってた100と、妹が嫁入りするときにそっちから親に行った30万、キッチリ返したぜ。
......金如きで子供を縛れると思ってる奴が。
「あ、ああ......」
彼はその札束を持ったままへたり込み、助けを求める様につぼみさんへ視線を向ける。
だが、帰ってきたのは舌打ちのみ。
プライドはズタボロになり、咲の挑んだ勝負は静かに終わりを告げた。
『いやあ、凄かった......』
『本当、見てるこっちが疲れた...』
「まあ助かりましたよ、皆が見て、聞いてくれていたからこそ落ち着いてやれた訳ですし...」
耳から慎重にイヤホンを外し、一言ありがとうと伝え奏さんに返す。
ワイヤレスと言うのは便利だ、今度給料が出たら、奏さんと聞いて買ってみようか。
未だ立ち上がらずブツブツと呟いている他人を尻目に、彼女の首筋に顔を埋めて、吸う。
ああ、生を実感する。
ドーパミンが凄いことになって、幸せな気分だ。
「咲、ここでは......」
「......もう少しだけ...」
信じられないものを見る目でおじさんとつぼみがこちらを見ているが、大きな事柄をこなしたのだ、これぐらいは許してくれ。
ニーゴの皆に見られるのは......まあ、慣れた。
そんな幸せな時間を壊す様に、床にへたり込んだ他人がボソリと呟いた声が聞こえてくる。
「......その女が、いなければ...
咲は俺の言う事を、聞いたはずなのに......
この......
何も言わずに立ち上がり、男の前に立った。
そのまま何を言うでも無く男の首を掴み、地に叩きつけて馬乗りになる。
ただ一つの抵抗もできない様、両腕は膝で挟み込み完全なマウントを取った。
男は自身に起こった事がわかっていない様で、キョトンとした油だらけのツラを晒している。
「今なんて言った。」
「え...?」
「今なんて言ったって聞いてんだろうがカス!!!」
人生で初めて、抑えきれない怒りを身体中に迸らせる。
俺を貶すのならまだいい。
だが、彼女を。
心の恩人を、僕の愛した人を、皆を救おうと曲を作る奏さんを。
何も生み出さないお前が侮辱するな!
「お前は人を救えるのか?
誰かのために身を粉にして何かを作れるのか?
出来ねえよな、名前にかまけて自身での努力を怠る男が、そんな事できる訳ねえよな!!?」
「そん、そんなことは......」
「どうせ今も、『子供は親の言うことを聞けばいい、それが正しい』とか考えてんだろ?
そんな正しさ要らない、彼女を馬鹿にする男の正しさなんて、正々堂々正面突破で間違えてやるよ!!」
「
また来たら二度と笑えなくしてやるからな、藤田陸土!!!」
マウントから立ち上がり、半ベソをかいて扉から出て行くその後ろ姿を見送る。
きっともう会うこともないだろう。
振り返り、奏さんにごめんと謝る。
「......許せなくて。」
「ううん、嬉しかった。
そこまで思ってくれてる事と、わたしのために怒ってくれた事。
ありがとう。」
つい、嬉しくて抱きしめた。
頬を染めて恥ずかしがる姿も、こうして恥ずかしげも無く礼を言えるイケメンな姿も、大好きだ。
彼女もその細い腕を僕の背中に回し、ぎゅっと密着する。
「好き......」
「ありがとう、わたしもだよ。」
その状態のまま数分が経ち、おじさんが申し訳なさそうに咳払いをして2人の世界を切り開く。
忘れていたが、ここは一応店内だった。
「あー、悪いが嬢ちゃん......奏ちゃんでいいか?
後1日2日、咲をそっちの家に置いといてくれねえか。
まだやる事が色々あっからよ、出来たらでいいんだ。」
「大丈夫です、わたしも咲がいると助かるので......」
「おう、よろしくな。」
後2日奏さんの家に宿泊する事が決まると、おじさんはこちらへ視線を移す。
その目には初めて会った時に一瞬だけ見せた、優しい炎が灯っている。
「━━お疲れ様。」
「ありがとう。
......ちょっとそこのスマホ取って、
お父さんはギョッとした表情で感嘆の息を漏らし、すぐに下を向いて笑った。
ほい、と投げられたスマホを受け取り、互いに笑顔を交わす。
「もうちょっと心の準備をさせてくれよ。
危うく心臓が止まるところだった。」
「嬉しかった?」
「まあな。」
手を振り、そのまま奏さんの家へと向かう。
頬を掠めて飛んでいった花屋のカーネーション、その花びらが、背中を押してくれた、気がする。
一度喫茶店に振り向き、藤田咲であった自分の残滓にさよならを告げる。
皆が望む
さようなら。
「......おじさん、泣いてるの?」
「そりゃ......まあ、泣くだろ。
ヘッタクソな笑顔を見せてたアイツが、あんな表情を見せたら。
ああクソ、今日は早めに店じまいだな......
ひさびさに、酒が飲みたくなっちまった。」
『nineを怒らせちゃいけないって言うのはわかったわ。』
『......大丈夫かな、僕、そこまで上手く無かった頃の歌を皆に聞かせちゃったけど。』
『胸倉掴まれて、耳元で叫ばれるかもね。』
『ええ?!
許してほしいなー...なんて......』
『ダメでしょ。』
『ダメじゃない?』
『うわーん!
無情だー!』
「みんなにはやりませんよ!
別に人を馬鹿にしたりしないでしょう?!」
25時。
月は太陽の光を反射し暗い夜を照らしている。
「さ...nine、これ、歌詞出来たよ。」
「はい。
......パンチ効いてる歌詞ですね...」
送られてきた画像ファイルを開き、歌詞を確認する。
ひとしきり覚えてヘッドホンを付け、呼吸を整えた。
ここまで、歩いてきた。
熱中症の奏さんを助け、家事手伝いとして入り浸り。
ニーゴと出会って、メンバーとして入れてもらって。
奏さんを何故か振って、篠田さんが来て、色々あって付き合った。
僕の中からシンゴは消え、奏さんと本当の意味で分かり合い。
戦うべきものを乗り越えた。
ただの真っ白なキャンパスだった僕は、みんなのおかげ、で
だから歌う。
僕が救われた様に、皆を救う為に。
「じゃあ歌います。
『ビターチョコデコレーション』」
心のままに、一糸まとわず生きる様に。
次回最終話です。