小説は難しいですね
「美味しい!」
「ふふ、喉に詰まらない様にね?」
ファミレスの一角にて、俺はナイフで切り分けたハンバーグを口に突っ込んでいる。
本来奢る相手である朝比奈さんは向かいの席でお茶を飲んでおり、『何か頼まないのか』と聞いても『食べている姿を見るだけでいい』とだけ。
うーん、まあ他人の胃袋事情など把握できるわけがない。
俺もここで買うはずのなかったハンバーグを食べる理由として昼飯を食っていないとあるが、恐らく朝比奈さんはちゃんと昼ごはんを食べているのだろう。
とはいえ、飯だけでは気分が上がりきらない事もある。
サラダを口に入れながらどうしたものかと考えていると、表情に出ていたのか朝比奈さんが問いかけてきた。
「和久井くん、体調でも悪い?」
その言葉に対してすぐに野菜を飲み込み、フォークを置いて『何でも無い』と振る舞った、が。
それでも彼女は視線を外さない。
心の防護壁すら貫くほどの眼力だ、隠しておくことはできないだろうと、俺は観念して語り出す。
それは、今日の授業でのこと。
もとより勉強はそこまで好きでは無いし、そこに輪を掛けて嫌いなのが数学だ。
好きな人には大変申し訳ないが、何かよくわからない式だとか当てはめようにもとんでもない答えになる事がある公式とかを見て『パズルみたいで楽しい!』と言っている人の気がしれない。
そんな数学の授業中、先生に当てられて答えを言う場面があった。
後から見れば俺でも分かる、大変簡単な問題だ。
先生も気を遣ってくれたのだろう。
『ほい和久井、ここの答えは?』
『えっ、あっ......と......』
しかし俺は口に出せなかった。
理由は分かる、他人からの視線が集中することによる緊張感や『自分の答えがあっているのかあっていないのか』それがわからないという自身への疑心暗鬼。
それと、間違えれば何処かから母親の怒号が聞こえてくるんじゃ無いか、という恐怖。
それが喉の奥を締め付け、本当はあっていた答えすら封じ込めてしまった。
『なんだ
『うーす。』
それも一度や二度ではない。
どうにかしなきゃと勉強に必死になった事もあったが、それでも不安は付き纏った。
「どうにもならなくて......
間違えて覚えろ、と言う人はいますけど、それが怖いんだからどうしようも無くて。」
......これもまあ、体調が悪いと言うことに入るかもしれない。
心の不調だ。
それを親身に聞いてくれた彼女はスッと鞄の中を探り始めると、何故か数学の教科書を取り出した。
皿を退けて、開いたページはちょうどこちらが言った問題が載っており、朝比奈さんは手慣れた口調でその問題を教えてくれる。
それは驚くほどにわかりやすく、パンパンの脳内をすり抜ける様に入ってくる。
「すごい! 何となくで出してた答えに明確な理由が入ってくるみたいで、なんて言うか......」
「自信は持てた?」
「はい!」
驚嘆の息を漏らし、目を輝かせて彼女に感謝する。
どうにも取れなかった突っ掛かりが吹き飛んだ様で、スッキリした心は曇天を吹き飛ばした様な晴天に包まれている。
「いやー、凄いですね。 夢は教師とかなんですか?」
「......ううん、医者。」
「?」
何だろう、あまりにどうでもいい会話だったはずだ。
でも、俺の間違いを訂正して夢の存在を語った彼女の目には今まで見なかった曇りが現れた。
その曇りは俺の中の時を止め、それから目が離せなくなってしまう。
ふわふわとした意識の中、次に意識が帰ってきたのは彼女がトイレに行く時。
「ちょっと行ってくるね。」
「あ、はい......」
何か......踏んではいけないところ、と言うか。
彼女が心の淵に置いておいたものを、もう忘れようと思っていたものを拾い上げて掲げてしまった様な感覚。
......不思議で仕方がない。
彼女はさっき見た通り、教えるのも上手くて気も回せて、多分成績もいい。 俺とは真反対の人間だ。
でもどこかに影が見える。
笑うあの顔の向こうに。
その影が何なのか、と言うところまでは分かりそうにないが、どうしてだろう?
自分がこんなに気持ちの悪い男だとは思いもしなかったが、どうしても彼女のことが気になっている。
「......本当に笑ってるのかな?」
これは...... 何だろう?
と、そんな疑問をうんうん言いながら考えていれば、テーブルの横から見知らぬ手が伸びてくる。
すべすべとした子供のもので、その手のひらにはタバスコが握られていた。
ハテナを浮かべながら状況を知る為、そのタバスコが向けられた方向を見れば── なんと、朝比奈さんのコーヒーへそれが垂らされているではないか。
「こ、こらー!」
「あははは!!」
慣れない怒り方をしながら子供を追い払うが、既に辛味の液体は相当量コーヒーに入ってしまった。
しかも間が悪い、朝比奈さんが戻ってくる。
彼女は少し急いでいる様で、コーヒーカップを掴んで
「ごめんなさい、そろそろ門限だから!
今日はありがとう、和久井くん!」
「あ、はい、お金は払っておきますね!」
何事もなかった様に店を出て行った彼女の後ろ姿から目を切り、自分の前にあったコーヒーカップの中身を覗き見る。
そこには確かに溶けきらなかったタバスコの赤みが残っていて、この目で見たものが確かな真実であることを再認識した。
──その日の帰り道、俺は右手にスーパーで買ったタバスコを、左手に缶コーヒーを持っていた。
両方の蓋を開け、もったいないとは思いつつも缶コーヒーとタバスコを混ぜて飲み干そうとしたところ──
「ゲホッゲホッ...... まっずい!」
やっぱり。
少しずつならまだしも一気に飲むなんて無理に決まっている、苦味と辛味の人間が受け付けない苦痛を体に入れるなんてやるべきではない。
──だが、彼女は顔色変えずにこれをやった。
俺は彼女を、朝比奈さんを不思議だと評したが、これで少しその評を変える気になった。
痴漢されても気にせず、『別によかった』と言い残す一面と、さっきの様に物を教えてくれる、まるで
それに加えて
不思議どころじゃない、どこかがおかしい。
渦巻く疑問と不安が隣にいる様で、彼女に恐怖心が何かを抱きそうになる。
......スマホを取り出し、一つのメッセージを送る。
彼女の内側は、いったい何なんだ?
『今日はありがとうございました。
良ければ今後も勉強を教えてください。』
スマホを手に持ったまま、視線を車窓の外へと戻した。
騒がしい人だった。
話一つ一つに身振り手振り、リアクションも大きくてうるさいし、だからと言って明るいわけではなく影がある。
クラスの女子からは好かれそうにない男性だ。
そんな彼から良ければまた、と、できる限りの理由づけをしたのであろう文章が届けられる。
......何もこうして送らなくてもどうせ電車の中で会うのだからそこで言えばいいだろうと思ったが、あの慌ただしい人の事だ、そこまで考えが及ばなかっただけ。
断ってもいい。
彼としても義理は果たしただろうし、関わる理由は私にも無い。
『しばらくは無理かな』そう入力して送信しようとした時、何故か指が止まった。
同時に記憶の中から特定の景色を呼び戻す。
それはトイレから戻ってきた時。
『......本当に笑ってるのかな?』
彼はあの時、私の顔に疑問を持っていた。
私は帰る理由に門限を使ったが、本当はまだまだ先だ、今から帰ったところで余裕で間に合うほどに。
であれば── 私は何故帰った?
私を暴かれたくなかったから?
──疑問に答えは出ない。
この感覚の答えを知るには、こうするべきだろう。
『うん、よろしくね。』