「......」
シンクを流れる水の音。
「......」
静寂を許さぬテレビの声。
久々に涼しい気温の中、2人だけの店内はさらに冷たい冬の様に凍り付いていた。
からり、氷の音が、目の前にいる宵崎さんの手元のコーヒーから鳴った。
絶え間無く流れてくる音が、気まずい空間を確かなものにする。
......僕が一体何をしただろうか?
実のところ、宵崎さんは今日唐突に来たわけではない。
先日も店まで来てくれてカレーを食べ、『ご飯を作ってほしい』と言われたため仕事終わりに作りに行った。
『望月さんとは違う味で、四宮さんのも美味しい。』
作る者として嬉しい感想を貰い、今度はしっかり8時に帰って来た。
よくよく思い出してみたらその時も今と同じように、何かを聞きたいが聞けない、なんとも言えない表情をしていた気がする。
食器を乾燥ラックに置き、取り敢えず一息ついた。
現在17時30分。
18時で閉店と考えると、もう少しで宵崎さんにも帰ってもらわなければならない。
そう言えば外のプランターに水をやるのを忘れていた。
本来店員と客の関係、報告など必要無いがちゃんと年上と知っている手前、報告癖が炸裂してしまう。
「...少し、外に出て来ます。」
「......うん。」
律儀に返してくれてありがとう、という気持ちだ。
美しい銀の髪を尻目に、ジョウロに水を入れて外へ出る。
幾らか涼しいはずの外は何故か2人きりの空間より暑く感じ、気のせいか寂しさを感じる。
水を含んでだんだんと色を変えていく土を見ながら、僕が宵崎さんに思う感情について考えてみた。
関係で言ったら、ご飯を作りに行く仲。
それ以上でもそれ以下でも無い、家政夫と雇い主みたいなものだ。
そこより先にも後にも進まない関係だと、心は理解している。
だけど、目は追ってしまうのだ。
美しい髪を。
吸い込まれそうな瞳を。
細く華奢なその体を。
決して、口に出していうことのない感情だ。
こんな事を幼稚園で言ってしまえば、男子園生に
『おーまえそんな事いうとかきもいぞ!!
こいつ女子のことばっか考えてる、みんなこいつエロだ!!!』
......って言われる。
と言うか言われている子がいた。
ジョウロの中に水がない事を確認して、店内へ戻る。
そもそも、本当の笑顔を失った男がそれの答えを得ようとしても無理な話ではある。
働き始めて数ヶ月、今のところは笑顔がハリボテである事はバレていない。
そこに関してはあくまで失ったのが笑顔だけと言うのがプラスに働いたのだろう。
数多の感情、喜怒哀に一片の嘘、楽を混ぜれば、それが偽物と分かりはしない。
コーヒーにほんの少しのコーラを混ぜたところで、色も味も大して変わりはしないのだ。
時間を見れば18時ギリギリ前。
名残惜しいが閉店時間を告げる。
「宵崎さん、一応閉店時間の18時なんですけど......」
「...うん、ありがとう。」
宵崎さんは一瞬、ほんの一瞬表情を曇らせ、それをかき消す様にしてアイスコーヒーを飲み干して立ち上がる。
去り際を見送ろうとしたその時、先日に続いてまたテレビからニーゴの曲が流れて来た。
「あ、ニーゴ!」
「四宮さん、知ってるの?」
ついテンションが上がり、声が大きくなる。
今度は『ジャックポットサッドガール』が流れていた。
何か驚愕の混じった宵崎さんの質問を、1割の嘘を混ぜて答えた。
「はい、この前聞いてから好きになって!
『ヴィラン』とか好きですね、不規則なリズム? が。」
宵崎さんは少々考え込み、意を決した様に聞いて来た。
「ねえ、それって何処から知った?」
「何処って......
あのテレビからですね。
テレビから知って、知り合いのる...男の人に聞かせてもらいました。」
何が故の質問かはわからない。
まあ嘘は言っていないはずだ。
テレビで知って、類さんのスマホから聞いた。
暁山さんの録音については... 別に良いだろう。
おそらく知らない人が、僕の歌を録音したと言ったところでなんの情報になろうか。
そもそも暁山さんには『不特定多数に見せないで』と言ってある、類さんも知っている事だ。
流石に宵崎さんに伝わっている事はないだろう。
「......そう...」
あの後直ぐに宵崎さんは帰り、僕も戸締りなどを終え自室へ戻った。
おじさんが住んでいるのはこの喫茶店ではなく歩いて5分の一軒家なので、実質僕の一人暮らしとなる。
その上この時間には周りに人が居ないため、練習には丁度いい。
なんの練習かと言われれば当然、歌の練習である。
「みすたーくれいじーヴィランヴィラン...」
あの後ちょくちょく類さんにスマホを借りて、ニーゴの曲を耳に焼き付くほど聞いた。
おかげでリズム、速度、メロディーは脳内で完全再現が可能になった。
後は音程とかを練習するだけだ。
とはいえ大声での歌など学芸会以来、9年どころか10年やっていない。
その上でコントロールの効かない自身の声。
とっ散らかった物を一つにまとめるのは大変だと実感する。
ニーゴにハマった結果、学べた事は歌い方だけではない。
13時、とか16時とかの24時間での時間の呼び方を覚えられた。
先程宵崎さんに閉店時間を伝える際も、午後6時と言えばいいのについ18時と言ってしまった。
思考もそこそこにちゃんと歌おう。
25時どころか18時だが、もう眠くなって来た。
「ふぅー...... きっと手を繋ぐだけで━━」
「......工事で通行止めなんて、はあ...」
帰り道が工事で通行止めであったこともあり、一旦喫茶店の前へ帰って来た。
一応ここの路地から迂回路があったため、そこから帰ることにする。
...結局、わたしから彼に向けて、瑞希の前で歌ったか。
それを聞く事はできなかった。
その上小さなきっかけからそれとなく聞いてみても、おそらく違うという始末。
何故だろうか。
彼にはきっと、ある種の魅力がある。
庇護欲を掻き立てると言うのだろうか、ミステリアスとでも言うのだろうか。
そう言う類の魅力が彼を、四宮咲を包んでいる。
それは一種、怖いとも言える魅力。
歳に見合わぬ幼さと、達観する様な冷静な立ち居振る舞いが同居しているなんてあり得ないはずなのに、彼はそれを繊細にやっているのだ。
その繊細さがわたしの中の心と、未だ知り得ぬ感情を刺激する。
『嫌です。』
『貴女は美人だから』
『よければお店にも来てください。』
......瑞希には悪いが、彼がいる事でアイデアは滝の様に溢れて来ている。
さっさと帰ってこのアイデアを纏めようと、小走りになったその時。
「あ━━」
歌が、夜に走った。
わたしの耳を通り抜けて空へと消えていく。
白くまっさらな、大きな画用紙の様に如何様な色にも染まる歌声。
優しく安心する様な歌、激しく感情をぶつける歌。
決して特別上手くはない、だが心に響く多様な歌声が、わたしの足をその場に止めた。
10分程度経って、声が止まると同時に私は歩き出す。
家に帰って早々に編集ソフトを開き、得た物を詰め込む。
予定していたよりもずっと早く、新曲が完成した。