空を飛びたいウマ娘と山奥の装蹄師の話   作:小松市古城

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19:船中の一夜

 

 

 

「今頃は船上でどのようなことになっているのだろうな…」

 

 シンボリルドルフが誰に聴かせるでもなく独り言を呟く。

 

 しかしそれを受け止めるものが居たために、独り言は独り言ではなくなる。

 

「…あの朴念仁がなにかを成せるとでも思っているの?ルドルフ」

 

 いつものバー、良く磨き抜かれた一枚板のカウンターでシンボリルドルフの右に並んでいる東条ハナがカクテルグラスを傾けつつ、そう応じた。

 

「そうっすねぇ…これっくらいのことでどうにかなるなら、先輩は今頃とっくに誰かの尻の下に敷かれてるっス」

 

 ルドルフへの慰めとも男への蔑みともつかない辛辣な言葉を吐きながら、左隣では装蹄師の男の後輩がウイスキーをロックグラスで干す。

 

 それぞれの反応を聞いたルドルフは耳をくったりと折り、それでも不安な気持ちの置き場を探し続けていた。

 

「…それぞれが幸せを追い求めることに異存はあろうはずもない。それが私の理念だからな。ましてやエアグルーヴの幸せなぞ私は願わずにはいられない。しかしそれぞれの幸せがかち合う時というのもまた、存在する。世間が単純な善悪だけで区別できないように…そこに正誤は存在しない」

 

 ルドルフはグラスの氷をじっと眺めながら唱える。

 

「今夜のルドルフは哲学者ね」

 

 東条ハナは教え子の言葉に保護者のような柔らかい微笑を浮かべて、バーテンダーにおかわりの目配せをする。

 

「…まぁ、気持ちはわかりますがね。そういうことに悩むのは学生時代に済ませておくもんだと思ってたっス」

 

 隣に遠慮するように反対方向を向いて煙草に火を着けた後輩は、ため息交じりに煙を吹き上げる。 

 

「この娘たちの学生時代は女子校みたいなものだし、生活も普通とはかけ離れてるから…ましてやタチの悪い年上の男に気持ちを持っていかれてたら、こうもなるわよ」

 

 項垂れたままのルドルフを挟んで、二人はやりとりを続ける。

 

「俺っちも男子校出身なんで、わかんなくはないんスけどね。それにしてもなんなんスかねあのオッサン。いや、ビジネスパートナーであり尊敬する先輩を悪く言う気はないんスが…それでもちょっと非道くありませんかね。シリウスさんまであの館に引き込んでますし」

 

 お前がそれを言うのか、と東条ハナは意外そうな、それでいてどこか非難がましい色を纏って後輩を見やる。

 

「シリウスの件は私が差配したんだ。兄さんへの償いをしてもらう必要があったし…彼女はシンボリ本家筋からもいろいろ言われて難しい立場でね。何か定職についてもらう必要があったんだ。尤も彼女自身、本家から何を言われようと気にする性格ではないが」

 

 ルドルフがアルコールの効果かいつもより角が取れた調子でそう話す。

 

「ルドルフも難儀な性格してるわね。筋は通っているけれど、わざわざライバル増やすようなこと…」

 

 東条ハナはさすがに呆れた様子だ。

 

「…何を今さら。これだけたくさんのライバルが鎬を削っているんだ。一人くらい増えたところで、というところだよ、おハナさん…」

 

 余裕があるんだかないんだかわからない謎の懐の深さを披瀝したシンボリルドルフであったが、ほどなくして彼女の強靭な身体の分解能力を越えたアルコール摂取量に負け、瞼を重くさせてグラスに手を掛けたままカウンターに上半身を沈めていく。

 

 普段の皇帝たる態度も形無しな様子に、東条ハナと後輩の男は顔を見合わせ、苦笑を浮かべる。

 

「なんともまぁ…皇帝と呼ばれたお方がこんな姿になっちまって…おいたわしや…まぁ、この姿を俺っちなんかにさらしていただけるほどには気を許していただけてるのは光栄の至りっスけども」

 

 後輩は眠り込んでしまったルドルフの、美しくもどこかあどけない寝顔を眺める。

 

「ルドルフは立派にやってくれてるわ。現役時代はもとより、今もね。教え子として誇らしいけど…私自身はこの娘の個人的な幸せも、ないがしろにしてほしくはないのよ」

 

 ここにない何かに思いを馳せながら、ルドルフの背中をさすりつつカクテルグラスを傾ける東条ハナの横顔もまた、筋の通った理知的な表情で、綺麗なものだな、と後輩の男は思わずニヤつきそうになる。しかしここで下世話な表情をつくることも憚られ、緩みそうになる表情を引き締めて煙草を吸い込んだ。

 

「…ん…んぅ…兄さん…」

 

 寝言を呟くルドルフに、思わず二人は顔を見合わせて、微笑みとも苦笑ともつかぬ表情を浮かべてしまう。

 

 年長者としての役割を感じた大人たちはその晩、後輩が迎えの車を手配し、東条ハナが部屋まで送り届けることで、その責務を果たした。 

 

 

 

 

 

 

 大洗と苫小牧を結ぶフェリーは船の大きさを表現する総トン数で11,400トン、全長は190mにも達する。大型船といって差し支えない堂々たる船といえる。

 

 しかし陸上と違い、水という不定形なものに文字通り浮かんでいるため、いかに大きいとはいえ揺れとは無関係ではいられない。

 

 もちろん多少の波があったところで航海の安全に支障のあるものではないし、技術の進歩により横方向への揺れは昔に比べればかなり軽減されてもいる。

 

 しかし進行方向からくる波には、舳先で波を切り裂いて進むために船首が持ち上げられ、乗り越えて落ち込む動きを繰り返すために、時としてそれなりの揺れになることがある。

 

 エアグルーヴと装蹄師の男が北海道へ向かうフェリーに乗船したその日は、不運にも太平洋上に低気圧が存在しており、船内でもそれなりの揺れが予測される旨の船内放送が流れていた。

 

 

 

 エアグルーヴと装蹄師の男の二人の時間はゆったりと揺れる船内のツインルームで、エアグルーヴの覚悟を決めた挑発的な言葉から始まった。

 

「…私も大人になったからな…今回は少し職権を乱用させてもらって、先生と18時間、二人っきりの時間をつくらせてもらったんだ」

 

 覚悟を決めた瞳でそう言い放つエアグルーヴに、やれやれといった表情で装蹄師の男は溜息をついた。

 

「こないだは酔ったルナがいつのまにかベッドに潜り込んできてたし、まぁ別にいいけどよ…そもそも急に拉致られて着替えも持ってねえよ俺。こういうことは一応事前に言ってほしいもんだな、それこそ、大人なんだから」

 

 そう言ってサラッとエアグルーヴの鼻っ柱は折られる。生真面目なエアグルーヴは言葉を真に受け、勢いを削がれてぐっっと言葉に詰まってしまう。

 

 エアグルーヴは勢いをつけるために1本目の缶ビールをぐっと飲み干し、2本目に手をつけた。

 

「おぉ。良い飲みっぷりだなぁ」

 

 缶を叩きつけるようにテーブルに置くと、アルコールが回りだしたのか白い肌を上気させたように赤くしたエアグルーヴは、スーツのジャケットを脱いで、眼鏡を外す。

 

「…覚えているか、先生と私が初めて会った時のこと」

 

 椅子に足を組んで座りなおしたエアグルーヴは視線を男にじっと定めて問うてくる。

 

 男は一瞬、すっとぼけようかと思ったが、彼女の真剣な眼差しを一瞥し、諦める。

 

「あぁ、覚えている。ま、とがってたよな。お互い」

 

 エアグルーヴとの最初の出会いは、おそらくお互いにとって最悪のものであった。

 

 生徒会というトレセン学園での絶対的な存在でもって多少の無理でも押し通してしまうような姿勢で、装蹄師の男に対しても恭順を求めるような話を持ち込んできた。

 

 それを大人の理屈でやり込めたのが、当時学園所属であった装蹄師の男だった。

 

 しかし、実績もあり能力もあり、スターであろうとも年端も行かぬ学生相手である。大人の理屈で真正面からやり込めてしまったことに、男自身もそれこそ少々大人げなかったと反省したものだ。

 

「あの一件で私の視野は劇的に変わった。それまではレースを走り、勝つことで己の能力を証明して、それがどこまでも通用すると思っていたんだ」

 

 ため息を吐きながら目を伏せるエアグルーヴ。

 

「あの後、私は宝塚記念で負けて…先生の前で、無様な姿を晒したこともあったな」

 

 缶ビールを呷りながら、白磁の肌を朱く染めて、少し照れながら話す。

 

「あんときはまぁ、お前さんが負けたことどうのこうのというよりも、鉄のオンナと思っていたお前さんが泣いたことが俺には驚きだったな」

 

 茶化すように男が言うと、エアグルーヴはあの時の悔しさを思い出したかのように歯を食いしばった。

 

「くっ…砕かれたプライドの消化の仕方が…あの頃の私ではうまくできなかったのだ…」

 

 苦し紛れにそう話すエアグルーヴは、溜息をついて肩の力を抜いた。

 

「…今のところ、異性に涙を見せたのは先生だけだ。少しは光栄に思ってもらいたいものだな」

 

 装蹄師の男は「光栄に思え」という言葉そのものに今を以て彼女の気位の高さが健在であることを再認識する。しかしそれはそれとしてあの時のことをこうやって酒の肴にできるということは、月日の流れと彼女自身の成長を感じ、感慨深いものがある。

 

「そうだなぁ。今もURA史に刻まれている女帝の涙姿とあっちゃあ…もし、誰かに取材されたら話してもいいか?」

 

 男の軽口にエアグルーヴはきっと鋭い視線を差し向ける。

 

「わかったわかった。俺の心だけに仕舞っとくよ」

 

 視線を受け止めてそう返すと、エアグルーヴは満足そうににこりとした。

   

 

 

 

 

 船内客室の中でもグレードが高い部屋を確保していたとはいえ、揺れと無縁でいられるわけではない。むしろ眺望の観点から船首近くに配されることが多いから、前後方向の揺れに対してはより影響を受けやすい位置にある。

 

 

 出港から1時間ほどが経ち、装蹄師の男との語らいを楽しんで、装蹄師の男は喫煙と追加の飲み物や軽食を求めて一旦部屋を出、その間にエアグルーヴはシャワーを浴びてしまおうと立ち上がった時、それは起こった。

 

「う゜っ…」

 

 この航海におけるエアグルーヴ自身の意気込みとそれに伴う緊張、そしてそれをほぐすためのアルコールと船の揺れは、不幸なマリアージュを成して彼女に襲い掛かった。

 

 酒に酔い、船に酔ったのである。

 

 なんとか気を紛らわしながらシャワーを浴びはしたものの、それまでであった。

 

「あ゛あ゜…」

 

 自ら仕組んだとは言え、極度の緊張を強いられるこの装蹄師の男とのツインルームでの二人きり。考えてみればこうなることも予測はできたはずだったが…。

 

 大きくゆったりと揺れ続ける室内で悪心を堪えながら、部屋着に着替えたエアグルーヴはそのままベッドに倒れ込む。

 

 ほどなくしてその姿は、部屋に戻ってきた装蹄師の男に発見されることになった。

 

 男から見て彼女の顔色は、無残にも白を通り越して青くなっていることが伺える。

 

「おい…大丈夫か…」

 

 装蹄師の男は声をかける。

 

「う゜っ…」

 

 エアグルーヴはベッドにうつぶせに伏せたまま、尻尾を力なく折って動かなかった。

 

 

 

 

 

 エアグルーヴはアルコールで勢いをつけなければこの緊張を乗り切れないとばかりに缶ビールを立て続けに3缶飲み干し、それでも酔いきれずにさらに缶の梅酒を追加していたのが仇となった。

 

 装蹄師の男は下戸であるから酒は飲んでいないし、若かりし頃にモータースポーツで鍛えられた三半規管はそれなりに鈍感で、船酔いしたような様子は見えない。

 

 エアグルーヴの話を聞く装蹄師の男の表情はいつになく柔らかく、今この瞬間の彼の視界には自分しかいないことが、エアグルーヴの気分を高揚させた。

 

 しかしそれにより自身の体調について気が回らなかった点には忸怩たる念を抱かざるを得ない。レースで掛かったような状況に陥っていたと、悪心に苛まれながら思う。

 

(一体、どれだけ舞い上がっていたのだ、私は…)

 

 エアグルーヴは悪心と自ら体調を崩しにいってしまうようなペースで吞んでしまったことの情けなさ、この二人きりの時間を涙を呑んで了解してくれたライバルたちへの不甲斐なさと申し訳なさに苛まれ、押し寄せる胃の不快感に時折呻き声を上げながらも枕に顔を埋めたまま、動くことができないでいた。

 

 

 

 

 装蹄師の男はベッドサイドに椅子を持ってきて座り、ひとつ小さなため息をつくと、エアグルーヴの頭を優しく撫でてやりながら、独り言のような調子で語り掛けた。

 

「…お前と出会ってもう、だいぶ長いこと経ったんだなぁ…」

 

 エアグルーヴと反対側にある窓に目をやれば、沿岸の夜の灯りが遠くに見える。

 

 ふと、なぜこんなところでこんな時間を過ごしているのだろう、と男は考える。

 

 自問して返ってきた答えは、自分が良き仲間、良き娘たちに囲まれているから、であった。

 

「…お前たちのおかげで、俺もだいぶ遠くまで連れてきてもらったな。ゴールドシップが誘ってくれなきゃ飛行機なんて作ろうとも思わなかったし、ただ時代遅れの装蹄師として細々と食いつないでいくだけだっただろうに」

 

 今時船内は基本的に禁煙であるため火はつけないが、ほとんど無意識に煙草を一本取り出して銜える。ふと見ると、エアグルーヴの耳は弱々しくはあったが、こちらに向けられていた。

 

「エアグルーヴもあれやこれや日々忙しくしてるんだろう?半分以上は俺らのせいだろうけどな…船もこの揺れだし調子悪くなっても無理はない。いずれは今日のこともいずれは笑い話になるんだろうから、気にするな」

 

 うつぶせに枕に頭を埋めたままのエアグルーヴの頭を、装蹄師の男は再び優しくひと撫ですると、ベッドサイドから立ち上がろうとする。  

 

 すると、不意に男の手がエアグルーヴによって掴まれた。

 

 視線を彼女に戻せば、枕から顔を上げて、青白い顔色と苦しそうな表情のまま男を見つめていた。

 

「……だ」

 

 エアグルーヴがぼそりと呟く。

 え?と男が聞き返す。

 

「…膝枕だ。寝付くまで頭を撫でるのも。私が多忙な原因が理解できているのなら、そのくらいの反対給付は求めてもよいと思うのだが」

 

 この夜に賭けていたエアグルーヴは、今おのれにできる最大限の勇気を振り絞り、男に給付の履行を求めた。

 

 

 

 

 

 

「おいシリウス!もっと高度下げろよぉ!これじゃ見えねーんだよぉ!」

 

 ゴールドシップがドでかい双眼鏡を覗きながら操縦席のシリウスシンボリに檄を飛ばす。

 

 調布飛行場のオープン時間に、その日の一番機として離陸したシリウスシンボリの所有機は、一路北へ向かって飛行していた。

 

「低気圧のせいで風がな…揺れるが、我慢しろよ」

 

 シリウスはスロットルを絞り、さらに高度を下げる。

 眼下には既に海の波頭がはっきり見える高度であり、AISの情報と照らし合わせるならばもうすぐフェリーが見えてくるはずだった。

 

「まったくゴールドシップ君ときたら…先生とは普段一緒に過ごしているんだから、こんな時くらいそっとしておいてやるような気遣いはないのかい」

 

 そう言いながら自らも双眼鏡を構えるアグネスタキオン。

 

 そしてもう一人、腕を組んで瞳を閉じたまま微動だにしないウマ娘がいた。

 

「おや、皇帝サマは気にならないのか?アンタの意中のお兄様が船上で手籠めにされているかもしれないのに、随分と落ち着いたモンだな」

 

 操縦席からシリウスが揶揄うが、シンボリルドルフは意に介す様子もく、泰然と応じる。

 

「なに、既に私たちも大人だからな。仮にそうなるならそうなったで、仲間として祝福するのが筋だろうと思っているよ」

 

 余裕たっぷりにそう応えたシンボリルドルフだったが、それは建前であることが耳の様子から見て取れた。

 

「全く、こんな時でも建前だけはご立派だ。そのしおれた耳での発言でなけりゃ、説得力もあるんだがな」

 

 シリウスはルドルフの内心を見透かすようにそう告げる。ルドルフは図星を差されてやや居心地が悪そうに咳払いをした。

 

「あ、見えたぞ!おーいおっちゃーん!」

 

 届くはずもない声を張り上げるゴールドシップをよそに、シリウスはフェリーに異常接近で通報されないように慎重に距離を取りつつ、船と並走するコースに機体を乗せた。

 

 遠く水平線には、既に北海道の大地が見えている。

 

  

 

 

 

 

 夜が明けて、いくらか船の揺れは和らいでいた。

 

 装蹄師の男は一晩中、エアグルーヴの頭を膝にのせて頭を撫で続けた。

 

 端正なパーツが整った彼女の頭は軽く、ショートの艶やかな髪を撫で続ける行為は男の理性的には拷問に等しい行為だったが、その肌の色と眉間に皺がよりがちな様子を見れば、睦事というよりは看病に近い心持ちで夜を明かした。

 

 明け方にいくらかうとうととしたおかげで、朝の装蹄師の男も眠気はそれほどでもなく、北海道について接岸してしまえば、目的地まで再び運ばれる身の上であるため、睡眠はそこでとればいいと割り切ることもできた。

 

 目を覚ましたエアグルーヴは酒が抜けたおかげでいくらか体調も回復し、揺れによる不快感はまだいくらか残るものの、昨夜のようなどうにもならないというほどではない。

 

 装蹄師の男がエアグルーヴの覚醒と体調の回復をを確認して煙草を吸いに行ってしまうと、手早くシャワーを浴びて化粧とスーツへの着替えを済ませ、いつも通りの仕事の出来るエアグルーヴに変身してしまう。

 

 部屋に戻ってきた装蹄師の男はその姿を見て、至極残念そうに呟いた。

 

「スッピンのエアグルーヴも、いつもより柔らかい雰囲気で可愛かったんだけどなぁ」

 

 揶揄い半分の軽口ではあったが、血色の戻ったエアグルーヴの顔を赤らめるには十分な威力はあったようで、その反応をみて装蹄師の男は魅力的な大人となったエアグルーヴの寝姿を前に、一晩理性を保ち続けた反対給付とした。

 

「食えるようなら朝飯でも食いに行こう。北海道へ着くのは昼頃だそうだから、そのあとはまたのんびりしてたらいい」

 

 装蹄師の男の言葉に、エアグルーヴは照れ隠しに厳しい表情をしたまま、こくりと頷いた。

 

 

 

 フェリーのレストランでビュッフェ形式の朝食を向かい合って摂った後、少し船内を散歩したのちに2人は部屋に戻った。

 

 エアグルーヴはノートPCを取り出してオフラインでこなせる仕事に手を付け、装蹄師の男はベッドで仮眠を取ったりゴロゴロして、時々何事かを話したりするという形で各々時間を過ごした。

 

 室内は昨夜の緊張感とは打って変わった和やかな空気感であった。

 実体としては何もなかった一夜ではあるが、確実に二人の距離感は前日までとは異なり、妙な力みや緊張感のない状態といえた。

 

 一晩看病した身とされた身ということで、何よりもお互い無言でも気にならないという空気感は心地よい。

 

 装蹄師の男はカタカタと鳴るエアグルーヴのタイピング音を聞きながら、うとうとと時間を過ごした。

 

 いよいよ北海道が見えてきて、到着まで1時間あまり、という船内放送が流れる。

 

 それを聞いた男はエアグルーヴを誘い、露天甲板に上がることにした。

 

 

 

 

 甲板は船の速力による合成風が吹き、それなりに肌寒い。

 

 前方の水平線上には北海道らしき陸地がうっすらと見え始めていた。

 

「おーおー。ようやく見えたか」

 

 装蹄師の男は行く手に見え始めた陸地を眺めながら呟く。

 

 遠くに見える陸地は少しずつ存在感を増し、大きくなってくる。それは船酔いに苛まれたエアグルーヴには安心感をもたらすと同時に、寂寥感も同時に抱かせた。

 

「もう、着いてしまうのだな…」

 

 甲板の欄干に片手を添えて風に髪を乱されながら、エアグルーヴは呟く。船は昨夜よりもだいぶマシなものの、未だに揺れはそれなりにある。

 

 エアグルーヴは欄干を握る手を持ち替えようとしてふらついてしまった。

 

「…っと…大丈夫か」

 

 昨日までより距離感の近くなった装蹄師の男が、エアグルーヴの肩を抱くように支えてくれた。

 

 

 

 

 今回の件については、当初の目的からすれば失敗であったな、と思う。

 

 それでも得られたものはあるし、今まで進捗の無かった装蹄師の男との関係もひとつ深まった、と思う。まるで収穫がなかったわけではない。  

 

(…………)

 

 肩をかき抱かれて、甲板上の冷たい風の中で装蹄師の男の体温を感じる。これはこれで悪くはない、と思う自分がいた。

 

 エアグルーヴは今の状況に、昨夜も話題に上がった宝塚記念の敗戦のあとの、装蹄師の男との帰りの車内での出来事との相似形を見出していた。

 

 あの苦くも好ましい思い出のおかげで、今の自分があることを自覚する。

 

 そうであるならば、きっと今回のことも自分の糧となるだろう。

 

 そう自らを納得させた。 

 

 

 

 

「あ…あれ…」

 

 エアグルーヴを腕に抱いたまま、装蹄師の男が呟く。

 

 船の後方遠くに視線を飛ばす装蹄師の男。その先には、空にぽつんと点のようななにかが浮かんでいるように見えた。

 

 エアグルーヴの耳がすっと立つ。

 

「…音が……」

 

 ウマ娘の優れた聴覚は、波を切り裂いて進む船の水音のほかに、異質なものを聞き分けていた。

 

 それと同時に、点のように見えていたそれがみるみる大きくなり、飛行機だとわかる。

 

「…まったく…」

 

 呆れたような、怒ったような、それでいてどこか安心したような、それらが複雑に絡み合った声音で、エアグルーヴが呟く。

 

「あいつら、あれで来たんだ…」

 

 装蹄師の男はシリウスシンボリの所有機と理解し、大きく手を振った。

 

 

 

 シリウスの機体は一定の距離を保ちながら、フェリーをぐるりと2周したあと、翼を振りながらお先に、とでもいうように北海道方面へ飛び去った。

 

 

 

 





【ご参考】
    
・エアグルーヴさん初対面
https://syosetu.org/novel/260592/13.html

・エアグルーヴさん初泣き
https://syosetu.org/novel/260592/27.html

などなど…
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