歳はとりたくないもので、ボクもついつい何か身体を動かす拍子に「よっこいしょ」などと口から出るようになってしまったのであるが、この「よっこいしょ」……あるいは「どっこいしょ」は、本を正せば「
この説によると、江戸時代に盛んになったという信仰的な富士登山、いわゆる
この六根清浄なる語の由来は、有名なところでは般若心経、正しくは『
能忍受之 其罪畢已 臨命終時
得聞此経 六根清浄 神通力故
増益寿命 復為諸人 広説是経
が典拠のようである。
ザッと現代語訳すれば「これをよく忍んで受け、その罪は既に終わって、生命が終わる時に至り、法華経を聞くことを得れば、六根は清浄となり、神通力をもって寿命が伸び、また、諸人に広く法華経を説く」ということで、これは同章
語の直接の典拠としてはそういうことになるのだが、同章を読んでもここでいう“六根”とは何であるのか、“清浄”とは具体的にどうなるのか、はわからない。これを詳しく述べているのは、その前章となる法華経第十八章“説法師の功徳”(妙法蓮華経
先に結論しておくと、この法師功徳品と富士講信仰には直接の関係はなく……少なくとも常不軽菩薩は山登りをして六根清浄を得たのではない……単に語の響きだけが好まれて転用されたもののように見える。同様の例として、やはり江戸時代の民間信仰に、妙法蓮華経
つまりこれらはある意味において、妙法蓮華経の本文それ自体がダーラニー、要するにその含意を一切問わない呪文として利用されるようになった(第7話参照)ことを示す事例なのであるが、こうした用法が法華経教団にとって不本意なものであるか、と問えば、これまた違うのであって、そもそもその発端は本章に遡るのではないか、というのが今回のテーマとなる。
*
本章における釈迦の相方は
だれか
上引用が、本章冒頭の釈迦……クドいが言わせてくれ、法華経教団の傀儡であって歴史上の釈迦その人ではない……の常精進菩薩に対する語りだしとなる。ここで言われる眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根が六根であり、これが極めて清浄になるというのであるから、まさに六根清浄、そのものなのである。ご覧の通り、六根清浄は元来は法華経を会得し、受持し、読み、教示し、解釈し、解説し、誦んじ、書写したりした結果得られるものだったのであって、富士登山の功徳ではなかったのである。
それはともかくとして、要するにコレは「法華経の法師になったら六根清浄の功徳を得る」と言っているのであるが、よくよく考えてみると同じく“法師”の語を章題に含む第十章(第1話)の以下の論述、
この大衆の中にあって法華経の一詩句を聞くか、一句を聞いただけでも、あるいは、一度でも発心し、この経典に随喜したとしても、
に比べて、主張が後退してしまってはいないか。
いや、もちろん信仰の立場からこれを読めば、無上の正しい覚りを得た結果、当然、六根も清浄となるのである、ということになるのかも知れないが、素直に読む限りにおいては、片や一詩句を聞くか、一句を聞いただけで無上の正しい覚り、片や会得し、受持し、読み、教示し、解釈し、解説し、誦んじ、書写した挙句に六根清浄、なのであるから、どうにも釣り合いが取れていない。ひとまずここでは、この問題点を指摘するに留め、先を読んでいくことにする。
本章は、法華経の他章と比べてその文体に顕著な特徴が見られる。ここまで見て来たように、概して法華経の文章は極めて冗長であり、無駄な重複が多く、たまに箇条的なまとめをやって見せても項目毎に言っていることが被ったり矛盾していたり、ということが頻繁にある。対して本章の文は、冗長という点では同じなのであるが、意図的に構造化されているように見える。
その人は清浄な眼根であるから、父母から受けた肉眼によって、三千大千世界の内外、山や密林とともに、下は阿鼻大地獄から上は世界の有頂に至るまで、そのすべてを生まれながらに受けた肉眼によって見るであろう。
以上は、先に引いた部分の次下、最初に要約された眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の順に一つずつ詳述される下りの冒頭となる。察しの良い人は既にこの後の展開が想像できるのではないか、と思うのだが、一足飛びに、続く耳根の節を見てみると、
この明瞭で清浄な耳根によって、下は阿鼻大地獄から上は世界の有頂に至るまで、三千大千世界において……(中略)……生まれながらに父母より受けた耳根によって聞くのである。
となっていて、眼根が耳根に換わっただけで、ほとんど同じ文であることがわかる。同様に、それぞれの下りは後半に偈を伴うのであるが、その末尾部分を、やはり眼根と耳根において比較すると、
<眼根の一節の末尾>
彼は父母から受けた肉眼によって、この世界の内外にあるすべてを見る。弥楼山、須弥山、鉄囲山の山脈のすべてを見る。また、もろもろのその他の大山の集まりも、そしてまた、大海も見る。
下は阿鼻地獄から上は有頂に至るまで、かの勇者はすべてを見る。彼の肉眼はこのようなものである。
彼にはいまだ天眼がなく、また地獄から有頂まで知り尽くしてはいないが、彼の肉眼の届く範囲はこのようなものである。
<耳根の一節の末尾>
下は阿鼻地獄から上は有頂に至るまで、この三千世界のすべてにおいて、内でも外でも、多くの音声を出す衆生たち、そのすべての衆生の音声を聞いても、彼の耳はかき乱されることがない。彼の鋭い耳根はかれこれを知るが、それでもその耳根は父母より受けた耳根にすぎない。
彼はいまだ天耳を得るために尽力しておらず、その耳は生来のままである。それでもおじ畏れることなくこの経典を持つ人には、このような功徳があるのである。
といった具合に、やはり高い相似性を示す。となると、もう実物を示さなくてもわかると思うが、本章は以下これを、鼻根・舌根・身根・意根、と六回繰り返して、それで終わってしまう。
もちろん、このような構造を有するのは、法華経中本章のみではない。たとえば、連載中の初出以降“定型フォーマット”で示してきた授記や、第十一章の三千大千世界からの如来の参集(第10話)がそうである。が、これらが連続しない複数章にまたがっていたり、あるいは成り行きで中途半端に割愛されていたり、と存外無計画で……有り体に言えば、思いつくままに書き飛ばされているのに対し、本章の六根清浄の下りは、冒頭に要約列挙されたものが、正しく章内ですべて同じ文体で説明され、それを以って章が完結するという点において、極めて計画的・確信犯的なのである。
法華経が、その誕生時点においては暗唱による語り聞かせを前提にしていることは繰り返し述べてきた通りであるが、おそらくは、その創作に際しても同様なのであって、今日の我々が当然と考えているところの、文字で以って紙面に草稿をものしこれを推敲しつつ文章を練り上げていくといったプロセスを、法華経教団はおそらく採っていない。
そもそも、建前上は法華経の教説は、
が、この方法で本章のように計画的に構造化された文章を生成するのは極めて困難と思われるし、仮にそのような技術が本章時点で確立されたのであれば、以降の章もそうなっていて然りである。が、実際には、全体として短文化の傾向こそ認められるものの、ついぞ意図的な文章の構造化は、見られないどころか、最末期には、せっかく綺麗にまとまっていた構造を自ら壊す、といったことまでおこなわれるのであるから、法華経教団総体としては、経典の文を構造化すべき、との考えを組織的に有したことはないのであって、本章における極めて計画的な文章の構造化は、本章創作に際してのみ起こった特別な事象なのである。
そこには、何らかの意味が隠れているはずだ。
彼は、まだ、天の鼻を得てはいないが、彼の鼻根の力はまさにこのようなものである。それは、かの煩悩より離脱した無漏の天の鼻を得る前の状態にあるものである。
続く鼻根の下りの末尾は上引用の通り。余談になるが、鼻根について述べたこの部分は、他の五根に対して長行・偈ともに倍以上の長さを誇る。そうであるべき合理的な理由があるとも思えないし、
彼は女や男の体臭を嗅ぎ、童男や童女の体臭を嗅ぐ。
(中略)
神々の娘たちや神々の妻たちの香りも嗅ぐ。神々の童児たちの身体の香りも嗅ぎ、神々の童女たちの身体の香りも嗅ぐ。
(中略)
懐妊している女性が、その疲れた身体の胎内に宿している胎児が童子であっても童女であっても、彼はそこに宿る胎児が童子か童女かのどちらかを匂いによって知る。
……等々と、それってここでどうしても言わなアカンの?と首を傾げざるを得ない変態的な言及があったりして面白い。本章の書き手は匂いフェチだったのだろうか。それはさておき。
さて、まず前稿にて提起した「六根清浄は無上の正しい覚りに比して主張が後退していないか?」という疑問を解いておきたい。
上引用にもその解の一部が含まれている。煩悩より離脱した無漏の天の鼻を得る前の状態とあるのがそれである。無上の正しい覚り、すなわり繰り返し法華経に登場するバズワードとなっているところの
ということに思いが至れば、繰り返される父母から受けた〜との不可解な言い回しの真意も理解できるようになる。これは、例によって輪廻転生観を前提とした上で、ここで言う六根清浄を得るのは、父母から受けた今この身体においてのことだ、と言っているのだ。対して、一句一偈を聞けば得られるのは無上の正しい覚りを得るであろうという予言なのであって、これは来世以降の話ということになる。
従って、法華経教団の主張は後退したのではなく、むしろ、いわゆる現世利益へ向かって前のめりしているのだ。ここで敢えてこれを
童女の体臭を嗅ぐというのは本人の心掛け次第では実現するかも知れないが、神々の童女となるとそうはいくまい。また、続く身根の部分に目を向けると、
その身は清浄であり、完全に清浄であって、その肌の色は清浄な瑠璃のようであり、衆生たちに対して美しいものであろう。
とあって、これは素直に読めば法華経の法師になることは美容に良いということになろうが、常識的に考えればこれは素材次第としか言いようがない。いや、むしろ裏切られる人の方が多いのではないか。
このように、現世利益を謳うことは、その期待される訴求効果以上に、結果的に逆効果となるリスクが潜在している。そんなリスクなど負わなくとも、来世の成道のみを売り物にしていれば教団経営的には無難だったのではないか、と思わないのでもないのであるが、同時にこれは、本章の書き手はそのリスクを負ってでも、この時期に強く訴えたいことがあったことの現れ、と理解することもできよう。
さて、それは何であるか。六根の最後に登場する意根の下りに、その真意と思しき下りがある。
彼がその完全に清浄な意根によって一詩句を聞いただけでも、それに対する多くの意義に通達するであろう。その義を了解したのちに、それゆえに、彼は一か月間も法を詳しく講説するであろう。また、四か月間も、一年間も、法を講説するであろう。そして、彼はいかなる法を説いても、それを記憶して忘失することがないであろう。
本章の書き手が、その読み手・聞き手に期待しているのは、まさにここに述べられていることである。これは、法華経教団の新たな法師……法華経を諳んじ諸人に広く法華経を説く(常不軽品の偈)人材……の求人広告なのであり、言わばその報酬が“六根清浄”なのである。そして、彼らがこの空手形となるリスクの極めて高いオファーを示さざるを得なかった理由は、それだけ教団の法師の人材不足が、この時点で深刻化していたからではないか、とボクは見る。
理由は二つ。
第一に、第十二章のいわゆる二十行の偈(第4話)から、法華経教団が勝手につくった俗悪な教法を教えるとの批判を受け、その結果として僧院から追い出されたことが読み取れるが、これは
繰り返し述べているように、法華経教団は当初はある出家者集団内の少数派異端であったと思われるのだが、第三期初頭の法華経教団は、一定の在家衆の支持を得つつ、出家者集団からは追放されていた可能性が高い。こうなるとたちまちに困るのは、新しい法師の確保だ。経典の暗唱読誦は特殊技能であり、もっとも手っ取り早い確保方法は、既に一定の訓練過程を終えた出家者集団から一本釣りすることになるが、彼らはそこから締め出されていたのである。
第二に、本章に後続する直近……必ずしも成立時が近いとは断言し難いものの……に第二十一章“ダーラニー”があるのは偶然ではあるまい、と思うがゆえである。法華経教団は、長期的に見て「やってみたけども、ちっとも六根清浄にならないじゃないか」とクレームされるリスクを覚悟の上で求人を出してみたものの、存外応じてくれる人が少なかったのだろう。かくして、新たな対策として、言わばワンランク妥協したプラン、すなわち法華経本文ではなく、より単純化したダーラニーの読誦、を実践の一形態として示さざるを得なくなったのだ。
総じて言えば、これは、法華経がそのセントラルドグマの成立時点から胚胎していた反知性主義、反権威主義のツケが、この時期に一気に表出したものではないか、と思う。これは要するにポピュリズムと言い換えてもよかろうと思うが、一般庶民から一定の支持を得て短期的な教団経営は可能になったとしても、長期的な活動の継続を望むとき少なからぬインテリの存在が必須となるが、法華経教団はそもそもそうしたインテリを切断排除する論理の上に成り立ったため、世代交代の時期に至って矛盾が露見したのである。
本章の書き手は、よもや遠い未来に自らの生み出した“六根清浄”のフレーズが、極東の登山の合言葉になろうとは夢々考えてはいなかったろう、と思う。が、意外なことに、法華経教団が本章の延長線上にダーラニーに辿りつくことと、富士講の人々が背景も何もかも一切合切無視して、ただただ現世利益に期待して「どっこいしょ」と唱えながら富士を登ったことは、その思考の根底に不気味なシンクロニシティを垣間見せている。
以上を以って、第十八章“説法師の功徳”の
ところで、こうして法華経全章釈義を行じるボクもまた法華経法師であり、ということは六根清浄なのであって、当然そこには鼻根の清浄も含まれるから、当然ボクにも童女の体臭を嗅ぐ権利が生じていると思うのであるが、思うのみに留めることとする、実践はしない、本当だ。