なろうでも
遠くまで晴れ渡った空は青く澄み切り、浮かぶ白い雲はゆっくりと流れて行く。
春風が甘い花の香りを運びながら周囲を包み込むけれど、聞こえて来るのは家族や使用人達のすすり泣く声、自らの墓の上に浮かんで葬儀の様子を眺める中、私の心には喜びと申し訳なさが溢れていた。
良き夫、良き父、良き主であろうと生き、私の死を悲しんでくれる姿は理想とした姿に少しは近付けたのだろうと誇らしささえ覚えた。
出来るならばもっと皆の側に居たかった、皆と笑いあいたかった。
だが、世の中には運命という物が存在する。
「私の死は安らかな物だったのだ、だからそんなに悲しまないでくれ。我が生涯に一片の悔いは……いや、存在するか。私が皆に慕われる男になれた切っ掛けが。あの日、私が見捨ててしまった少女の存在が……」
皆の悲しむ姿に一瞬忘れてしまったが、あの日以来私の頭から離れない哀れな少女の姿が今でもハッキリと頭に浮かぶ。
あの日、私が手を差し伸べてさえいれば救えたかも知れなかった彼女の事を思い涙する中、私は徐々に空に向かって吸い込まれ始め、天から降り注ぐ光に包まれる。
「ああ、これが天国に迎え入れられるという奴か。あの子は……マッチ売りの少女は天国に行けたのだろうな。だが、それで幸せだったとしても、あの痩せぎすだった子には健康的な体で人生を謳歌して貰いたかった……」
私は眩しさに耐えかね、心に残った悔いを口にしながら目を閉じる。
思い出すのは五十年以上前、私が漸く小さいながらも自らの店を持ててから最初のクリスマスの夜の事、商談相手に夕食に招かれた私が相手の家に向かっている時だった。
「マッチは要りませんか? マッチを買って下さい」
雪が降り続け吐く息が白い中、家から漏れる明かりに家族団欒の様子を思い浮かべながら先を急ぐ私の目に入ったのはボロボロの薄汚い服を着た幼い少女の姿だった。
手はあかぎれで血が滲み、体も満足に洗えていないのか少し臭いが漂って来る。
そんな彼女は必死でマッチを売ろうとするも誰も少女が見えないかのように横を通り過ぎて行くばかりだ。
あの時、私はクリスマスの夜に嫌な物を見たと不愉快に思い、彼女の声に耳を貸さずに横を通り過ぎる。
その時に一瞬だけ視線を向ければ少女の体には殴られたらしい痣があったが、私は少女を不愉快に思っただけで硬貨の一枚を恵んでやりもせずに立ち去ったんだ。
見ず知らずの子供がどうなろうと知った事ではないとね。
……翌朝、取引先と意気投合し、大口の取引が決まった後で酔いつぶれた私は朝早く町を歩いていた。
空は澄み切った青で昨夜の大雪が嘘みたいだったのを今でも忘れられない。
「……何だ?」
途中、人集りが出来ているのに気が付いた私は周囲の者と同様に興味本位で見に行き、其処で昨夜の少女が幸せそうな顔で死んでいるのを目にした。
せめて暖を取ろうとしたのか使い終わったマッチが周囲に散乱する中、彼女を眺める人々は哀れみの言葉を口にする。
「あ……ああ……」
昨夜、私が邪険に扱った少女は、私が暖炉の前で酒を飲みご馳走を食べている間も寒空の下でマッチを売り続けたのだと気が付いた時、思わず走り出していた。
この日から私の頭には少女の姿が焼き付いて消えてくれない。
少女を誰があんな目に遭わせたのか、それを考えれば直ぐに思い浮かぶ
少女を痣が出来るまで殴っていた奴だ、其奴がきっとボロボロの服だけで寒空に放り出して彼女を死なせたのだ。
怒りがこみ上げ、私は其奴に一言言ってやらねばとの衝動に襲われる。
マッチ売りの少女を働かせていたのが父親だというのは直ぐに分かり、家を突き止めて怒鳴り込んだのは数日後だ。
朝から酒臭く、家の中には酒瓶が散乱している。
酒代のせいで少女が食べる物を減らす事になったのだと理解した私は父親の胸ぐらを掴んで罪を糾弾してやった。
娘が死んだのだ、せめて悔いて過ごせと強く思って。
「そう言うがな、アンタ、彼奴になんかしてやったのか? マッチは一個も売れていなかったし、金を恵んで貰った様子も無い。寒空の下で餓鬼を働かせたのが俺なら、寒空の下で働く餓鬼に見向きもしなかったのは何処の誰だよ?」
「それ…は……」
言い返せない、言い返せる筈が無い。
私は少女がどの様な姿なのかを分かっていながら何もしなかった。
見捨てたのだ、煩わしさから。
……この日からだろう、私が今の私みたいな男になれたのは。
貧しい子を雇い、教育を施し、一人でも多くの貧しい者の救いになればと私財をなげうって炊き出しも行った。
理解のある妻とも出会い、子も優しく育ち、店だって大きくなった。
救えはしたのだろう、それは嬉しい。
だが、私がマッチ売りの少女を見殺しにした罪は消えはしない。
「……はっ!?」
突然景色が一変し、見覚えのある狭い部屋の粗末なベッドから私は飛び起きた。
私が死んだのは春にも関わらず窓の外では雪が降り、鏡を見れば若き日の私の顔が映し出される。
「まさか過去に戻った…のか……?」
有り得ない話ではあるが、周囲を調べれば調べる程に事実であると裏付けられる。
そう、私はあの日に、少女を見捨ててしまったあの日に戻ったのだ。
「神よ、感謝致します」
時計を見れば私の店が大きくなった切っ掛けである商談相手との約束の時間まで余裕がある。
店を大きくしたからこそ差し伸べる事が出来た手は多い、だから店は大きくするとして、今はマッチ売りの少女を救いに行こう。
「あの父親とは引き離さなければならない。そうだ、住み込みの小間使いとして雇おう。ちゃんと教育もして、本人が望むなら嫁入り先も探して……」
難しくはない、何度も行って来た事だ。
五十年以上経った事で私が死んだ時期にはこの頃とは大きく町は変わっていたが、それでもハッキリと覚えている。
少女がマッチを売っていた場所へと急ぎ、後は曲がり角を一つ曲がるだけという場所まで来た時だ、見せ物でもやっているのか大勢のざわめき声と獣臭が漂って来たのは。
「一体何が……」
見せ物をやっているのなら、未だ少女は来ていないのかとも思いつつ右に曲がった時、視界に筋肉が飛び込んで来た。
「むんっ! ふんっ!」
通行人の吐く息は寒さから白くなるが、そのマッチョからは動く度に筋肉が脈動する音と共に熱気が放たれる。
戦う為の筋肉というよりは魅せる為というのが相応しいであろう膨れ上がった四肢と腹筋、私の胴回りに匹敵するであろう太もも、大木を思わせる二の腕、首は大の大人が数人で締め上げても平気だろうと思わせる程に力強く……服は幼い少女が好むであろう物が筋肉によってピッチピチになっており、その顔は私が生涯忘れられなかった少女の物だ。
「マッチを! マッチや森で狩りたての獣は要りませんか! ふんぬ! はんぬ! ぬぅぅん!」
少女……うん、少女の足下にはマッチを入れた籠、背後には胴回りが強烈な力で締め上げたようにへこんでいる熊や頭に拳の跡が刻まれた猪。
「私が素手で狩って来たばかりの新鮮な獲物です! 入院しているお父さんの為にも買って下さい!」
流れるような動きで行われる力強いポージングを行うマッチ売り……いや、マッチョを売りにしたマッチと獣売りの少女。
前回は見窄らしさから、今回は少女の幼い顔と逞しい肉体のアンバランスさから誰も買おうとしない。
「君、私が買おう。全部くれるか?」
だが、私は動いた。
あの時の願い、少女に健康的な肉体を神が与えた上で私にやり直しの機会を下さったのだ。
なら、今度こそ彼女を救ってみせよう。
「それと私は店を立ち上げたばかりなのだが今日から働かないか? 用心棒として」
「ぬぅぅぅぅん! お願いします、おじさん!」
マッチョが売りの少女は
あっ、小間使いだったのに自然と用心棒って言ってしまった。
まあ、良いか。
……尚、肉体は父親にこき使われたら自然と出来上がり、父親が酔って暴れたのですがりついて止めようとしたら全身の骨をへし折ってしまったらしい。
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