恋愛は謎解きのあとで 作:滉大
「新年早々事件とは、幸先が良──いえ、縁起が悪いですね。全くもって、度し難い輩もいたものです」
「そうですね。いますね」
じいぃぃ、と度し難い輩に視線が注がれる。
「貴方は今年も変わりないようで何よりです」
「成長していないと?」
「物事を斜めから捉えるのも相変わらずですね。成長が無いのは事実だけど」
早坂奈央と讃岐光谷は揃って顔を上げた。
2人は鴨川沿いに建つ『リヴェールヒルズ鴨川』を訪れていた。その名の通り『部屋から鴨川が望める』の一点を、執拗なまでに押し出したマンションである。望めるだけで、見えるのは鴨川の切れ端が精々、ほぼ詐欺のようなもの。高級とまではいかないが決して安くはない、そこそこのお値段。
マンションのエントランスには自動ドアがある。奈央はドアの脇にあるテンキーに暗証番号を入力すると、短い電子音がした。ドアの前で室内を見回している讃岐に反応して、ゆっくりと自動ドアが開く。
目的地は最上階にある。2人はエントランスを抜けてエレベーターに乗り込む。
「玄関の監視カメラ、あれ動いてるんですか?」
「稼働してますよ。普段は」
含みを持たせた言葉。讃岐はふっと短く笑った。
「お約束ですね。どうして今は止まっているのですか?」
「電池式の防犯カメラで、12月29日に電池が切れたそうです。年末で何かと予定が入っていたでしょうから、交換をサボっていたみたいですね」
「高い金を払っている入居者には同情します」
「所詮は人が管理していますから」
「犯人にとっては幸運でしたね。もしくは、知っていたから実行したのか」
「後者の可能性が高い、というのが警察の見解です。容疑者は当日被害者と合う約束をしていた友人3人。第一発見者でもあります」
「へぇ、どういった集まりなんですか?」
「それは事件と関係がありません」
讃岐は肩をすくめるだけで、それ以上は追及しなかった。無駄な行為でしかないと十分に理解しているからだ。
「3人が共犯という線は?」
「だとしたら、口裏を合わせてアリバイ工作をするでしょう。ですが、彼らにはアリバイがありません。ちなみにマンションの住人は、アリバイがある、被害者との接点が無く動機が薄いという理由で容疑者から外れています」
「エントランスの自動ドアはオートロックですよね? 犯人の侵入経路はどう考えているんですか?」
「非常階段は封鎖されているので、マンションに入るにはエントランスを通る以外方法はありません。私がやったようにオートロックは、エントランスのテンキーに暗証番号を入力すれば解除される仕組みです。オートロックを解除して被害者の部屋まで行き、ドア越しに呼びかけて被害者にドアを開けてもらう。想定される侵入経路はこんなところです」
「何度もマンションを訪れている友人であれば、暗証番号を知る機会があったと。インターフォンは映像を記録されるので、避けるのは分かります。しかしいくら友人といえど、インターフォンを鳴らさず直接部屋に行くのは怪しいと思いますが……」
「マンションの住人に顔見知りがいて、一緒に入れてもらう事は以前からあったそうです」
「なるほど。監視カメラもインターフォンも犯人は掻い潜れた訳ですか」
ポーン。軽快な音と共にエレベーターが停止した。
奈央と讃岐は目的の部屋に到着する。預かったマスターキーで鍵を開ける。
玄関の左側には下駄箱。下駄箱の上にはハガキや新聞等が無造作に散乱している。
部屋は一般的な3LDK。一人暮らしには十分な広さだ。玄関から真っ直ぐ伸びた廊下の先に、モザイクガラスが嵌ったリビングドアが見える。
ドアを押し開けた奈央に続いて、事件現場であるリビングに踏み込んだ讃岐は眉を顰めた。
「室内は殆ど発見当時の状態を保っています」
広さ10畳のリビング。赤褐色の血痕が残る現場に、悍ましい死体は無かった。入口から2約メートル進んだ所で、死体があった場所を囲むようにして、白いテープが人を形取っている。人型の足はドア側に向けて伸びていた。
少年の目を引いたのは、人型の足元に転がった3つの空き缶。チューハイ、ビール、お茶、全て飲み物の缶だ。
讃岐は手袋をはめて、近くに転がっていた空き缶を手に取る。ためつすがめつ眺めるが、単なる空き缶である事実以外は出て来なかった。
転がった缶を前に首を捻っている讃岐。放っておいたら日が暮れてしまうので、咳払いをして注意を促す。
讃岐は夢から醒めたように目線を上げた。
「貴方に見てもらいたいのは、これです」
奈央は人型の手の部分を指差した。頭の上まで伸ばされた手、その辺りの床には、血液で書かれた文字があった。被害者によって記された血文字、つまるところ──。
「ダイイング・メッセージですか……」
ダイイング・メッセージ。殺人事件の被害者が、誰に殺されたかを伝える為に取るメッセージ性のある行動。犯人を指す文字を書き残す、といった行動は推理小説でも定番である。
讃岐光谷は中腰になって、血文字をしげしげと見つめる。『髙山』、犯人と思しき名前が記されていた。
「真犯人を暴いて、この人物の無罪を証明するのが貴方の仕事です」
「髙山という人物は、容疑者3人の内の1人ですか?」
「そうですね。なので実質、2人の内どちらかが犯人になります」
ダイイング・メッセージなんて垂涎の餌の筈だが、讃岐の表情に笑みは無い。
「この手のシチュエーションは、好みかと思っていたけど」
奈央の瞳には、屈んだ少年の後頭部が映る。少し眺めただけで、讃岐は床に記されたダイイング・メッセージから目を離した。
「フィクションでは好きですよ。ダイイング・メッセージが、事件の謎を解く鍵であると約束されていますから」
「現実はそうもいきませんね」
「そうです! 犯人の偽装かもしれない。被害者の勘違いかもしれない。本人が死んでいる為、メッセージの正当性を保証する人間がいない。どこを取っても不確定、それがダイイング・メッセージといわれる存在です。その為、昨今はフィクションでも、ダイイング・メッセージをメインとしたミステリーは減少し、サブの謎として登場する事例がほとんどです」
「相変わらずよく回る口ですね。ミステリー談義は結構ですので、さっさと調査を始めてください」
「承知しました。……被害者の体勢から、うつ伏せに倒れた状態で、左手を伸ばしてメッセージを残したと考えられます」
「それで問題ありません」
人型の右脇腹の横あたりに血痕が多く残っており、水溜りのような形を作っていた。
「死因は出血性ショック。右脇腹付近を背中から、刃渡り15センチの包丁で刺されたのが原因。ほぼ即死でした。凶器は持ち去られているようです」
「それで血痕が多いんですね。右手は脇腹辺りを抑えていたと思いますが、厳密にはどこに?」
倒れている被害者の写真を、タブレットに映し出す。京都は四宮家のお膝元、事件当時の写真を手に入れる程度はいとも容易い。
讃岐はタブレットを受け取り、ダイイング・メッセージを書いた被害者の指先をアップにした。科学の進歩は目覚ましく、被害者の短く切り揃えられた爪まではっきりと映っていた。
そのまま画面をスワイプして被害者の右手に焦点を当てる。背中の傷口を抑えようとした手は、途中で力尽きたのか腰の辺りで止まっている。長く伸びた爪にべっとりと付着した血は、乾いて赤黒く変色している。
奈央と讃岐は書斎に向かった。リビングと同様、西洋風の家具で統一されており、茶色いアンティークデスクの上にはノートパソコン、本が数冊とペン立てが置かれていた。
讃岐は革張りの椅子に腰掛け、デスクに両肘をつく。組んだ手に顎を乗せたまま、視線だけを動かしていた。
中央にある閉じられたパソコン。右手にある数本のペンが入れられたペン立て。左手のブックスタンドに並んだ洋書。視線は順番にそれらを巡った。
キャスター付きの椅子を軽く引いて、デスクの引き出しを開ける。目ぼしい物はなかったようで、全ての引き出しを確認し終えた讃岐は、背もたれに体重をかけた。ギィと椅子が音を鳴らす。
「高級机のご感想は?」
「座り心地は良いですね。それに机の上にある物の配置は、注目に値します」
再びデスクに視線を落とした後、椅子を回転させて立ち上がった。
書斎の隣の部屋は寝室になっていた。不必要に大きいサイズのベッドは、自分こそが主だといわんばかりに部屋を占領している。
ベッドの横には棚がある。棚の上の目覚まし時計には、寝ている状態でも手を伸ばせば届く。
讃岐は棚に付いている3つの引き戸を、次々と引いては中身を確認した。中に入っていたのは文庫本、薬、アイマスク等々。不審な物は見当たらなかった。
讃岐は寝室をぐるりと見回して、他に物を保管する場所が無いと分かると、夢遊病患者のように、ふらふらとおぼつかない足取りで部屋を後にした。
奈央は開けっぱなしの引き出しに視線を送る。異常な様子の讃岐だったが、探偵という人種は得てして変人なので、心配するだけ無駄だと理解していた。むしろ突拍子もない行動を取っている方が、安心できる。
ガチャガチャと物を探す音を頼りに移動した先はキッチンだった。キッチンはリビングを入ってすぐ左手にある。床に転がる空き缶を避けて進む。被害者の死体があった場所の手前で左を向く。人一人が動き回るには十分な広さのキッチンで、讃岐が食器棚や冷蔵庫を開け回っていた。
部屋中の棚を開いては放ったらかしにする様は、空き巣のようだった。
最後に残った木製の食器棚が開かれる。勢い良く扉を引いた反動で、扉の表面に付いたフックに掛かっていた、お玉とステンレス製の泡立てが跳ねて落下しそうになる。
しばらく黙って中を覗いていた讃岐は、振り返って調理台の引き出しを引いた。箸、スプーン、フォークの食器類と、ピーラー、フライ返し、キッチンバサミ、ゴムベラといった調理器具に分かれて整理されていた。
引き出しの中の器具に興味を示す讃岐は、不思議そうな表情をしていた。開きっ放しの冷蔵庫が発するブザーの音にも気付いていない。
探していた物が出てきたのなら、納得の表情が浮かぶ筈。目的とは違う発見があったのだろうと奈央は推測する。
棚という棚、引き出しという引き出しが口を開けた部屋の中、実行犯たる讃岐光谷はリビングのソファに腰掛ける。悩ましげに、というよりは不思議そうな顔で天を仰いだ。現場を当時の状況に近づけている為、まだ明るい時間帯ではあるが、リビングの照明が灯っている。
「……無いですね」
「空き巣もかくやという荒らしようで見つからないのなら、確かに無いのでしょうね。それで、何が無いの?」
「あるべき物が、あるべき場所にです」
持って回った言い方が鬱陶しいが、奈央にとっては慣れたもの。全然苛立ったりしない。ただ、静かに目を細める。
蛇に睨まれた蛙のように、讃岐はぶるりと体を震わせた。頬に冷や汗を浮かべながら、慌てた様子で言葉を続ける。
「正直なところ、事件の犯人には見当が付いていますし、ダイイング・メッセージについても推理できています」
「まだ容疑者に会ってもいませんが……。そこまで分かっていながら、もたもたしているのには理由があるのでしょう?」
「今回の事件は大して難しくありません。正直期待外れです。例えばこの事件において、最も象徴的であるダイイング・メッセージ。推理小説などでダイイング・メッセージが暗号になっているのは何故だと思いますか?」
「犯人に隠蔽されないようにする為です」
血文字で自分の名前が書かれていたら、犯人は確実に塗り潰して隠蔽するだろう。そうなってはメッセージを残す意味がない。
讃岐は黙って頷いた。
「このダイイング・メッセージを見てください。『髙山』ご丁寧に、はしご高まで正確に名前が記されています」
「自分の名前が残されているにもかかわらず、犯人が隠蔽しなかったのは何故か、そう言いたいんですね」
「その通りです。部屋の明かりはついているので、犯人は文字が見えた筈です。ほぼ即死との診断なので犯人が去った後に、ダイイング・メッセージを残したとも考え難い」
讃岐の視線が奈央に向けられる。奈央の反応を観察しているようだった。
「奈央さんも気付いてるんでしょう? このダイイング・メッセージは作為的過ぎます」
「まぁ、そうですね」
「この程度は僕でなくても分かります。だからこそ不思議なんですよ。奈央さんも警察も、何をもってダイイング・メッセージに正当性を見出しているんですか?」
一足先に状況を把握していた奈央や警察が、怪しいと感じながらも、ダイイング・メッセージの正当性を認めざるを得なかった理由は明白だった。その理由は口で伝えるより、体験するのが早いと奈央は判断した。
「室内は殆ど事件当時の状況を再現している、と言いましたね。では、『殆ど』に含まれない部分を再現しましょう」
「何故最初から再現しないんです?」
「できないからです」奈央は部屋のドアを指差して「一度部屋から出てください」
讃岐は大人しく奈央の指示に応じた。
奈央は1人部屋の中に残り、再現の準備をする。準備にそう時間はかからなかった。1分も経たず、奈央は部屋の外にいる讃岐に声を掛けた。
「どうぞ、入っていいですよ」
ドアが僅かに開いた瞬間、カランカランと物が落ちる音がした。
讃岐は入口付近に転がる空き缶を目で追った。音の原因は空き缶だったのだ。
「ドアの前には3個の空き缶を重ねた塔が立てられていました。リビングのドアは内開きなので、ドアの前に空き缶を置いてドアを閉める事はできません。ドアの隙間に隙間を埋める為の隙間テープが貼られているので、糸を通すなどの物理的なトリックも使える状態ではありません」
「……この部屋は密室だったという事ですか?」
「少しはやる気が出ましたか? 密室である以上、ダイイング・メッセージを残したのは被害者本人以外ありえない」
「それでダイイング・メッセージに拘っていたんですね。缶が重なっていたのは確かですか?」
「確かです。ドアを開けた時の缶が倒れる音もそうですが、ドアのモザイクガラスからも、影が見えたそうです」
讃岐は顎に手を添えて、散らばった3個の飲み物の空き缶を眺めていた。その呆然とした瞳は、目の前の缶を映していないように思えた。
やがて視線が上がる。奈央に向けられた瞳は爛々と輝いていた。
「奈央さん、金属製の物を持っていたら、貸して欲しいのですが」
興奮を抑えているような口調だった。
金属製の物。少し考えて懐からある物を取り出して讃岐に渡す。受け取ろうと手を伸ばした讃岐は、ぎょっとして手を引っ込めた。
「……それしかなかったんですか?」
「そうね」
部屋の明かりを反射させて鋭く輝くのは、折り畳み式で携帯が簡単なナイフ。
「物騒な……せめて切先は収納して下さいよ」
恐る恐る奈央の手から、折り畳み式のナイフをつまみ上げる。
讃岐はナイフを持ったままキッチンに入り、木製の食器棚の前で立ち止まる。
手にしたナイフの切先が、お玉を吊るしているフックに接近する。あと数ミリまで迫ったところで、カチッと音を立てて、吸われるようにナイフはフックにくっついた。その現象に満足した表情を見せ、キッチンを出る。
「実験をしたいので、僕が呼ぶまで隣の部屋で待っていてもらっていいですか?」
「私が出ていく必要はあるのかしら?」
「実際に見て頂くのが一番早いと思うので」
「お待たせしました」10分ほど経って讃岐が顔を覗かせた。
「空き缶が倒れる音がしましたが」
讃岐は恥ずかしそうに人差し指で頬を掻いた。
「聞こえてました? 意外と難しくて……これじゃあサプライズにはなりませんね」
大方、密室トリックを再現したのだろう。さっさとドアを開ける。カランカラン、3つの空き缶が跳ねる。
「はいはい、密室ですね。で、どうやったんですか?」
「スピード感……。急ぎすぎじゃないですか? 僕としてはもう少し余韻というか、驚きが欲しかったんですけど」
ガックリ肩を落としながらも、密室トリックの種明かしを始めた。
「トリックの種はこれです」
そう言いながら、握りこぶしを開いた。手のひらの上に乗っているのは、マグネット式のフック。シンプルなデザインのフックは、奈央の記憶にも残っていた。
「それは、下駄箱と食器棚に付いていた……」
「そうです。ところで、おかしいと思いませんでしたか? どうして木製の食器棚に、マグネット式のフックが付いているのか」
木にマグネットはくっつかない。小学生でも分かる理屈である。
奈央はマグネットを手に取る。フックのマグネット部分には、もう1つマグネットが付いていた。
「磁石が付かない場所でも使える、挟んで使うタイプのマグネットですね」
「扉の表側と裏側からマグネットを付ける事で、磁石が付かない場所でも使える仕組みです。その仕組み上、一般的なマグネットフックよりも磁力が強い。密室トリックには強い磁石が必要だったのです」
倒れた空き缶を拾い集めた讃岐は、その中の1つを奈央に突きつける。突きつけられたのは、お茶の缶。
「詳しく説明すると長くなるので省きますが、一般的にアルミ缶は炭酸飲料を入れるのに適していて、スチール缶はコーヒーやお茶を入れるのに適しています。そしてスチール缶には、アルミ缶にはない特徴があります」
奈央はフックのマグネット部分を、讃岐が持つお茶の缶に近付けた。
カチッと音がした後、お茶の缶から手が離れる。お茶の缶は落下せずその場に止まった。理由は明白で、奈央が持つフックのマグネット部分にお茶の缶がくっついていた。
「スチール缶はマグネットにくっつくのです。犯人はマグネットを使い、お茶の缶を壁にくっつけたままドアを閉めた」
確かにありそうなトリックだが、奈央が納得するには至らなかった。
「食器棚にの扉とリビングのドアには違いがあります」
お茶の缶を讃岐に渡し、開いたドアをフックとマグネットで挟む。すると、フックはドアにくっつかずに、その場で床に落ちた。落下音が虚しく廊下に響く。
「食器棚の扉より、このドアは厚みがあります。いくら磁力が強くても、ドア越しに物を吸い付ける事はできません」
「はい。お茶の缶だけでは、ドアの向かい側からマグネットでくっつける事はできません。そこで必要になるのが2つの缶です」
「その2つはスチール缶ではありませんが……」
「2つの缶は高さを調整する為に使います。缶が積み重なっていたのを思い出してください」
第一発見者が部屋に入った時、ドアの前には缶が3つ積み重なっていた。缶を積み重ね讃岐が当時の状況を再現していく。下からチューハイの缶、ビールの缶、塔の最後にお茶の缶が乗った。
「確かにこのドアの厚さでは、マグネットはつきません。ですがドアには薄い部分があります」
「……モザイクガラスですか。ガラス部分にスチール缶が届くように缶を積んだんですね」
「流石奈央さん。塔が倒れないよう、一番上の缶で下の缶を押さえつつ、閉じるドアと一緒に移動させれば密室の完成です。このマグネットフックは食器棚から拝借した物ですが、犯人も同じように食器棚から使ったのでしょう」
「持参した可能性もあるのでは?」
「犯人にとって密室を作るのは不測の事態でした。予め持参するのは不可能です。それにキッチンの引き出しにはゴムベラが入っていました。僕はあまり料理をしないので分かりませんが、使用頻度が低い泡たてより、ゴムベラが収納されているのは不自然です。フックをトリックに使った為、このような状態になったと思われます。密室を作った後はリビングに入れないので、フックは持ち帰ったでしょう」
以上がこの密室の全貌です。探偵は静かにそう付け加えた。
奈央達がリヴェールヒルズ鴨川を出る頃には、すっかり日が暮れていた。讃岐はリラックスした様子で助手席に背中を預ける。
「何処に向かっているんです?」
「じきに分かります。……引っ掻き傷を負った人物が犯人だと言っていましたが、その根拠を聞きましょうか」
密室を解き明かした後、犯人の目星がついているとの言葉通り、彼は犯人の特徴を口にした。
警察の調査によって、犯人候補は絞られている。その中から引っ掻き傷がある人物を探すのは難しくないだらう。讃岐の推理が間違っていれば、無意味な捜索になるが。
あぁ、と退屈そうな返事。
「部屋でも言いましたが、今回の事件は期待外れです。密室も含めて、犯人の意図が透けて見える」
「ダイイング・メッセージのことですか?」
「ええ、これ見よがしに残されたメッセージ。加えてその正当性を保証する為の密室。犯人はどうしてもダイイング・メッセージに注目して欲しいみたいですね」
「髙山さんを、どうしても犯人に仕立て上げたかったと?」
走っている道が、四宮家本邸の方向と違うのが気になるのか、讃岐は車の外に目を向けながら首を振った。
「指先に血を付けて床に文字を書く、という行動はダイイング・メッセージを残す為であり、それ以上の意味はないと思わせたかったのです」
「その言い方からすると、それ以上の意味があるようですね」
讃岐の視線は車窓から離れていた。行き先を気にしても仕方ないと観念したのだろう。実際、彼が警戒するような場所に行く予定はない。
「まず、あのダイイング・メッセージには不自然な点がありました。指先を血に浸すには、傷口まで手を伸ばさないといけません。被害者は背中の右側を刺されている。であれば、傷口に近い右手でメッセージを残す筈。しかし被害者がメッセージを残すのに使ったのは、傷口から遠い左手」
「被害者は左利きだったのではないですか? 死の間際、咄嗟に利き手が出てしまった、と考えても不自然ではないかと」
「いえ、彼は右利きです」
讃岐は言い切った。
「被害者の机の上に置かれたペン立ては、椅子の方向から見て右側にありました。左利きならペン立ては左側に置くでしょう」
車が交差点に差し掛かる。右折が終わるのを待ってから、讃岐は推理を続けた。
「何故被害者は左手でメッセージを残したか、と疑問に思い僕は左手に注目しました。思った通り、左手に妙な部分がありました」
「そういえば、被害者の両手を熱心に見ていましたね」
「はい。左手と右手の部分を拡大すると、爪の長さが違うのに気付きました。右手に比べて左手の爪は短かった。自分で左手の爪だけを切ったとは思えません」
チラリとハンドルを握る自分の手に視線を下ろす。四宮家の使用人として身嗜みにも隙を見せない。両手の爪が綺麗に切り揃えられているのは、見なくても分かる。
「部屋で探し回っていたのは爪切りね」
「ゴミ箱を漁って切られた爪も探してましたけどね。自分で爪を切ったなら、爪切りや切った爪が残っている筈です。被害者は自分で爪を切っていない。爪を切っているのに、爪切りが存在しない。これらの事実から犯人の行動が浮かび上がります。犯人はとある理由で被害者の左手の爪を切った。そしてその爪切りを持ち去った」
道が混んできて、歩道の人通りが多くなる。目的地に近付いている証拠だ。
渋滞で車が止まる。推理も大詰め、話を聞くにはちょうど良かった。
「ある理由とは?」
「犯人は被害者の最後の抵抗に遭い、体のどこか……おそらく手を、血が出るくらいの強さで引っ掻かれました。右手と同じくらい爪が長かったでしょうから、あり得ない話ではないでしょう。そして被害者の爪に、自分の皮膚と血液が付着した。皮膚はともかく、血液は拭ったとしてもルミノール検査で調べられます。そこで犯人は爪切りを使い、血が付いた部分を切りました。切った爪と爪切りを持ち去れば、証拠隠滅です」
「そうすれば、少なくとも被害者の体からは、自分の痕跡を消せますね。だとしたら、ダイイング・メッセージは何の為に?」
「木を隠すなら森の中、血を隠すなら血文字の中です。不運な事に犯人が被害者の爪を切っている途中、傷口が床に着くか、血が滴るかして床に自分の血液が付いてしまいました。爪のように血が付いた部分を切り離す、という方法はとれません。消せないのなら隠せばいい、そう考えた犯人は、ダイイング・メッセージで自分の血液を上書きしたのです」
「密室を作ってダイイング・メッセージに説得力を持たせたのも、隠した自分の血液に目が行かないようにする為。だから密室は犯人にとっても不測の事態という訳ですか」
「はい、これで一通り事件についての説明はできたかと」
ダイイング・メッセージの血痕を検査すれば、犯人のDNAが検出されるだろう。事件解決の目処は立った。
前の車が進んだのでアクセルを踏む。しばらく直進した後、交差点で左にウィンカーを出すと、讃岐は少し驚いた顔をした。
「目的地ってここなんですか? いや、元日なのでおかしくはないのですが。奈央さんにしては、らしくもない粋な計らいですね」
「何か言いましたか?」
「いえ、何も」
◯
「人が多いわね」
「元日の京都ですからね。清水寺や八坂神社に比べたら少ない方ですよ」
「そこならいつだって多いわよ」
早坂愛と四宮かぐやは、初詣に訪れていた。冷たく澄んだ空気が肺を満たす。息が詰まる四宮家本邸にいたから、余計にそう感じたのかもしれない。
かぐやは正月に相応しく、赤い晴れ着の上に黒いコートという装い。
「寒いわね」
息を白くして、コートの襟を掻き合わせる。
「あっちでお焚き上げをしているので、行きましょうか。ママにも連絡しておきます」
神社に着いたら、四宮雁庵に仕える使用人である早坂の母親、早坂奈央と合流する手筈になっていた。
早坂がスマホで連絡すると、もう着いているとの返事があった。
「お嬢様、明けましておめでとうございます。また遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます」
「ええ、ありがとう」
「早坂さんが、白銀君からプレゼントを預かっているとか」
「讃岐も知っていたの」
かぐやは首に掛けたネックレスを持ち上げた。シンプルな細いチェーンに月のモチーフ。
「このチェーンの長さ、24.8センチよ」
ネックレスのチェーンを指で摘む。
「はぁ……長さがどうかされたのですか?」
普段は何でも分かっていますと言わんばかりの讃岐も、今は困惑した様子。気を良くしたかぐやは、不出来な生徒に教え聞かせるように言葉を発する。
「T=2π√L/gで24.8cmという事は、周期が0.9995。1往復でほぼ1秒になる。分かるかしら? これは振り子時計になっているのよ!」
「?」
「きっと今、会長も同じ物を身につけている筈。『同じ時を生きよう』このネックレスには、そういう意味が込められているのよ!」
半分1人の世界に入っていたかぐやは、はっとして口を噤む。目の前にいるのは、隙あらば主人に罵詈雑言を浴びせるのが趣味な不調法者。
今のかぐやの浮かれようを前にすれば、『お嬢様は浮かれポンチでございますね』くらいは言いかねない。
かぐやは身構えて、従者が口を開くのを待った。
「それはようございました。とても素晴らしいプレゼントでございます」
「…………は?」
それはようございました? とても素晴らしいプレゼントでございます? 早坂とかぐやはその言葉の意味を何度も反芻する。
しかし、いくら頭の中で言葉を繰り返しても、隠された意図は読み取れない。
「讃岐、それはどういった皮肉なの?」
「すみません、光谷君。高度すぎて伝わりません」
「お2人共、何故皮肉だと? 正真正銘、純度100パーセントの祝福でございます」
かぐやは唖然として硬直した。
「どうしたの!? もしかして体調が悪いのかしら?」
「何をそんなに驚いているのでございますか?」
「だってそうじゃない! いつもの貴方なら、アホだの間抜けだの浮かれポンチだのって罵倒するところでしょう!?」
「自覚がおありなようでなによ──ゴホン。私のような一介の使用人風情がお嬢様に罵倒など、とんでもありません!」
ちらりと一瞬、讃岐が横目で隣の様子を伺ったのを、早坂は見逃さなかった。
そしてそれはかぐやも同じ。赤い瞳を怪しく光らせ、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「へぇ、そういう事ね」
「お嬢様、そういう事とは一体……?」
「やけに大人しいと思ったら、奈央さんの前だから猫を被っているのね。どうりで、お得意の無礼極まりない罵倒が飛んで来ない訳だわ」
「…………それでは、そろそろお参りに」
「興味深い話ね」
先導するように歩き出そうとした讃岐の足は、奈央の一言であっさり止まった。
「かぐや様、罵倒というのはどういった発言を?」
「参道も混んで参りました、皆様お早く……」
「そうですね。最近だと『生意気』だとか言われましたね。自分の事を棚に上げてよく言うわ」
「仰るとおりですね」
「お話も良いですが、早くお参りの列に並んだ方が……」
「他にも『アホ』『役立たず』『機械オンチ』」
「…………お嬢様、もうその辺で」
「ほうほう」奈央は何度も頷く。ただでさえ低い気温がさらに下がった気がした。真っ青になって震える讃岐の様子を見るに、単なる気のせいではないのかもしれない。
「それと他にも──」生き生きした声音で続けようとするかぐやを、震える声が慌てて制する。
「おっ、おやめください、お嬢様! 誇り高い四宮ご令嬢であらせられるお方が、教師に同級生の悪行を密告するかの如き、卑怯で恥知らずな所業を……」
「誰が卑怯で恥知らずよ!!」
散々暴露されて開き直ったのか、簡単には覆い隠せない天性の口の悪さ故か、ポロリと溢れ出てしまう罵倒。
ざっ。砂利を踏む音と共に一歩前へ出た奈央は、かぐやに深々と頭を下げた。
「かぐや様、申し訳ありません。讃岐の件は、どうやら私の教育不足だったようです。別邸にお戻りになるまでの間、徹底的に再教育を実施いたします」
アワアワと口を震わせる同僚。まさか、こんなに情けない姿を目の当たりにする日が来るとは。
「ですがお嬢様も、早く東京にお戻りになりたいのでは?」
讃岐は引き攣った笑みをかぐやに向けた。
そうね。かぐやは少しの間黙ってから、菩薩のような笑顔を返した。
「2、3日長引くくらいなら大丈夫ですよ。冬休みはまだありますから」
外面が菩薩なら内心は夜叉。かぐやはにこやかに従者を絶望へと叩き落とした。
日頃の恨みを発散したかぐやは、軽やかな足取りで境内を歩き拝殿へと向かう。奈央もその後をついて歩く。
早坂は未だ絶望で項垂れている同僚の肩に、そっと手を置いた。
「まぁ、完全に自業自得ですよ。数日間頑張ってください」
「年始からなんて幸先の悪い……」
「ほら、行きますよ。かぐや様を見失います」
讃岐はため息を吐きながらも後から付いてくる。
ふと言い忘れていた事を思い出して、早坂は振り返った。早坂が急に立ち止まったので、讃岐は怪訝そうに首を傾げた。
「光谷くん」
「どうしたんだい? 早くお嬢様を追わないと……」
「明けましておめでとうございます」
讃岐はキョトンとして目を瞬かせた。時間がかかってからお決まりの挨拶を返した。
「明けましておめでとう。今年もよろしくね」
暗い表情から一転、讃岐の顔には薄い笑みが浮かんでいた。