『あのー、すみません』
歩行者天国で賑わう雑踏の中、マイクを携えたリポーターらしき人物が、足を止めた男女の二人組に声をかけている。
画面の右上には『ピックアップ』という文字。その横に並ぶ『話題のガジェットって?』という題目は、事情を知らない者が見れば何に関する特集なのか見当もつかないに違いない。
だが。
この都市の光景をよく知る者が注視すれば、誰もがある奇妙な変化に気付くはずだった。
行き交う人々が、誰一人として片手に板状の端末を握り締めていないのだ。
ほんの数週間前までなら、老若男女を問わず誰もが液晶の画面に視線を注ぎ、信号待ちの僅かな時間すら惜しむように指を動かしていた。
しかし。
今の街中では、歩行者達の両手は不自然なほど自由になっている。
その代わりに、人々の左耳に装着された小さな“電子機器”の存在が、やけに目立って映っていた。
それこそが、近頃の光景を劇的に変貌させた元凶に他ならなかった。
『その耳につけているものは何ですか?』
『はい、これですか?』
問いを投げかける報道関係者の眼光には、あらかじめ正解を把握していることへの愉快さが潜んでいた。しかし、公の電波に乗せる職務上の建前として大袈裟な感嘆の表情を繕いながら、マイクを若い男女へと差し向ける。
呼び止められた若者は待望の機会を得たと言わんばかりに、自らの左側頭部に指をさす。
その傍らに佇む連れの女性も、誇らしげな笑みを見せて静かに首を縦に振る。
『これは“オーグマー”です!! 最近発売されたばかりの最新の端末です』
『やっぱりオーグマーですか!! 今街を歩く方の多くが身につけていらっしゃいますよね。これまでの四角いスマートフォンと比べて、一体何がそんなに違うんでしょうか?』
巧みな誘導尋問に応じるように青年は上半身をわずかに前傾させ、熱弁を振るい始めた。
『とにかく全部が変わりましたね。まず、画面を見るために下を向く必要が一切ないんです。歩いていると目の前の景色に重ねるみたいにして、道案内の矢印や友達からのメッセージが浮かび上がって見えて。両手が完全に自由になるのが本当に便利なんですよ』
補助を試みるように隣の女性も髪を耳の後方へと掻き揚げ、滑らかな会話の連鎖に加わる。
『デザインもすごく軽くて、アクセサリー感覚で着けられるんです。今流行りの街歩きゲームもこれを着けて歩くだけで、現実の公園や広場がそのままファンタジーの世界に変わるんですよ。もう家の中で寝転がってゲームをする時代は終わったかもって思うくらいです』
二人の弾んだやり取りを、カメラは少し角度を変えながら捉えていく。
『なるほど、日常のあらゆる場面がデジタルと融合するわけですね!! 皆さんご覧ください。このように、彼らの視界には今、現実の空間に鮮やかな電子情報が重なって見えている状態です』
突如として画面が切り替わり、番組が制作した解説用の映像が挿入された。
街のレストランに目を向ければ、建物の壁面にメニューや利用者の評価が自動的に浮かび上がり、駅の改札口へと進めば、切符を提示することなく耳元の端末が反応して速やかに通過を許可する。その一連の流動的な人々の営みが、社会の仕組みが静かに変革していく予兆のように、小気味よい速度で編集されていた。
映像は再び、陽光の照らす路上へと戻る。
リポーターはさらに興味深そうに、しかしどこか大衆の反応を代弁するような視線を向けながら、質問を重ねた。
『先程、寝転がってゲームをする時代は終わったというお話もありましたが。やはり運動面での変化も大きいのでしょうか?』
今度は女性の方が、テレビの前に映ることへの緊張を忘れたかのような弾む声で答えた。
『そうなんです!! 日々の歩数とか消費カロリーの計算はもちろんなんですけど、ゲーム感覚でランニングを楽しめるアプリがすごく充実していて。ゲーム内でアイテムを手に入れるために、ちょっと一駅分歩いてみようかな、っていう気持ちになるんですよね。おかげで最近、運動不足がすっかり解消されました』
男性も深く同意するように自らの腕を軽く叩いて見せる。
『これまでの仮想現実のゲームって意識だけをあっちの世界に飛ばすから、体そのものはベッドの上で動かないままでしたよね。でもオーグマーは違います。自分の足で走り、自分の腕を動かし、健康管理と娯楽がこれ以上ない形で一つになっているんです。国が推奨しているのも納得ですよ』
若者達の口から語られる素朴な賛辞は、それ自体が現代における価値観の劇的な転換を証明していた。
かつて肉体を置き去りにする電脳世界への没入を古い世代が危険視していたのに対し、この新たな道具は肉体の躍動をそのまま娯楽の対価へと昇華させる。その大義名分こそが、急速な社会浸透を後押ししているのは明白だった。
リポーターはレンズの向こうに佇む膨大な視聴者へ向けて首を傾け、電子的な情報網が齎らす未来の展望を総括するように語り出す。
『まさに、次代を担う生活様式の定着と言えそうです。重いヘッドセットを被る煩わしさから解放され、時間や空間を選ぶことなく、日常の合間に最先端の便益を享受できる。驚異的な普及速度を誇るこの微小な端末は、一時的な流行の枠組みを超え、私達の社会構造そのものを作り替えようとしています』
彼らの背景で行き交う無数の通行人達も一様にその側頭部に微小な光を宿し、現実の舗装道路と電子の階層が交差する狭間を、迷いのない足取りで歩き続けている。
『以上、今もっとも熱い変革のうねりを見せる、新世代情報端末の最前線からお届けいたしました』
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現地の熱気を余すことなく伝えていた記録映像が滑らかに収束すると同時に、画面は高い天井と無機質な機能美を誇る報道スタジオの光景へと瞬時に切り替わった。
テレビ局特製の机を挟んで座る男性解説員が手元の電子資料からレンズの向こうに佇む膨大な視聴者へと視線を移し、訓練された明瞭な滑舌で総括を始める。その一挙手一投足には、情報の伝達者としての矜持と、時代の最先端を解説することへの静かな自負が漲っていた。
『はい、ご覧いただいた通り、発売されるや否や“オーグマー”という最新機器が齎した影響は、単なる個人向けの通信手段という枠組みを大きく凌駕しています。スタジオではその内部構造と社会全体への多角的な波及効果についてまとめた、特製の補足映像をご用意しました』
解説員の合図と共に画面は再び色彩を変え、今度は半透明の構造体を模した立体的な透過図が映し出された。
工学的な美しさを湛えたデバイスの設計図が回転するのに合わせ、視界への光学的照射システムや、鼓膜へと直接微振動を伝える音響伝達経路の仕組みが洗練された矢印と共に詳細に開示されていく。
『この端末の最大の強みであり、従来の携帯型端末と一線を画する要素は人間の知覚のうち視覚・聴覚・触覚の三領域に対して、現実の物理空間を一切遮断することなく高解像度の電子情報を重層的に配置できる点にあります。これまでの据え置き型の計算機や、机の上に縛り付けられていた液晶画面のように、利用者を特定の閉鎖空間や不自然な姿勢に拘束することがありません。歩行する、走行する、あるいは周囲を見渡すといった日常の活動そのものが、そのまま電子的なやり取りにおける入力動作として機能するのです』
画面上では流動的な街並みを背景に、ビジネスマンが足を進めながら空中に浮かぶ半透明の電子書類を指先で軽やかに弾いて処理していく姿や、高齢の市民が朝の散歩を楽しみながら、景色の随所に配置された健康管理用の数値をゲーム感覚で収集していく様子が詳細な注釈と共にテンポよく流れていく。
付けていない者からすればただ手を無造作に振っているようにしか見えない。一昔前ならば変な目で見られてもおかしくない光景だったろう。
しかし、今はこれが最先端。
そして新時代だ。
それは、都市機能の全てが一個人の生活圏に寄り添うように調停されていく、極めて理想的な未来の世界そのものであった。
『さらに注目すべきは、公共の社会基盤としての優れた即応性です。すでに主要な大都市圏においては、道案内のみならず、災害時における個別の避難経路の提示において、この拡張現実を用いた視覚案内システムが試験的に運用されています。視線を下に落として地図を確認する手間が根本的に省けるため、前方不注意に起因する歩行中の接触事故やトラブルが劇的に減少したという、極めて有意義な統計データも報告されているほどです』
カメラの焦点が再びスタジオの主軸へと回帰すると、隣の席に控えていた女性の司会者が感嘆の意を込めて上品な笑みを湛えながら言葉を添えた。
『これまでは最先端の電子技術というと、どこか専門的な知識が必要であったり、大掛かりな装備を頭部に装着しなければならないといった心理的な障害が少なからずありましたけれど、これなら朝のお出かけの際に耳に引っ掛けるだけですからね。世代を問わず、誰しもが等しく高度な技術を使用できる点が非常に画期的だと感じます』
『その通りですね。かつて社会的な議論を巻き起こしたような人間の意識そのものを現実から切り離して仮想の空間へとダイブさせてしまう技術と比べると退化してしまうと思われがちですが、それは大きな間違いです。覚醒状態での使用と同時に、現実での問題点だった不注意による事故も減少し、周囲の物理的な危険を敏感に察知しやすいという安全面での利点が各方面の専門家からも極めて高く評価されています。まさに、人間の生活圏を少しも縮小させることなく、その可能性だけを無限に押し広げる、理想的な情報端末の完成と言えるでしょう』
二人の息の合った流暢な進行は、この新たなデバイスがいかに正当な手順を踏み、社会的な大義名分を完璧に揃えて市民権を獲得したかを見ている者へ強く印象付けていた。
単なる娯楽の提供という枠に留まらず、都市全体の利便性の向上や国民の健康促進といった公的な価値を内包したその姿は、新時代の幕開けを告げるに相応しい輝きに満ち溢れている。
『むしろフィットネスや健康管理目的のために利用するユーザーも増えています。そしてその一例が────“オーディナル・スケール”と呼ばれるARゲームです』
画面が切り替わる。
白い画面の真ん中にはそのゲームを象徴する言葉、『毎日を冒険に』という文字が表示される。
その極めて簡潔でありながら洗練された標語は、見る者の冒険心を刺激するのに充分な意図をもって配置されていた。
続いて番組の制作陣が用意したプロモーション映像が、軽快で高揚感を誘う旋律と共に流れ始める。映し出されたのは見慣れた東京の代々木公園や、高層ビルの立ち並ぶ新宿の広場といった、日常の延長線上にある馴染み深い風景の数々であった。
しかし。
その平穏なはずの景観は、耳元のデバイスを起動した瞬間、一変する。
レンズが捉える光景の中、普段は多くの人々が行き交うだけの広大な敷地に光の格子が走り、空から光の雨が降り注ぐかのように、壮大な城壁や電子の古戦場が物理空間へと重ねられていった。
そこに現れるのは、空想上の怪獣や鋭い爪を持つ異形の敵達である。
インタビューを終えたキャスターが、その華やかな映像を背に、一段と声を弾ませて説明を補足していく。
『ご覧のように、このゲームの最大の特徴は、現実の空間そのものがそのまま遊び場になるという点にあります。これまでの仮想現実のゲームのように専用の部屋に籠もって楽しむのではなく、普段の通学路や散歩コースが、一瞬にして手に汗握る戦いの舞台へと姿を変えるのです。これによって、多くの若者が自発的に外へ連れ出され、自然な形での運動を促す結果となっています』
画面の向こうでは、カジュアルな服装に身を包んだ大勢の参加者達が、一瞬でその身に装備を纏い、それぞれの手に握った剣型の専用コントローラーを掲げ、仲間達と連携しながら巨大な敵へと立ち向かっていく姿が電子映像となって描かれていた。
彼らは自らの肉体を動かし、地面を蹴り、汗を流しながら勝利の瞬間を分かち合っている。
そこには、かつてデスゲームと化した仮想世界の檻に囚われ、社会問題にまで発展した悲劇の影など微塵も存在しない。
誰もが安全に、健康的に、そして笑顔で最先端の娯楽を謳歌している。
そのあまりにも健康的で活気に満ちた人々の姿は、フルダイブ技術が齎した暗い記憶を世間から綺麗に拭い去るための決定打として、視聴者の意識へと深く刷り込まれていく。
『さらに皆がこのゲームに熱中している理由は、“ランキングシステム”です。ゲームをプレイするプレイヤー全員に順位を表す数字が与えられ、どんどん敵を倒すことでランキングが上がっていきます。この順位が上がればポイントが得られ、上位に上がるとゲームの枠を超えて共産企業から様々なサービスを受けられるようです』
解説員の滑らかな説明に合わせて、画面には序列を示す無数の数字が人々の頭上に表示され、整然とした電子の列となって降順に並び替わっていく視覚効果が挿入された。
頂点に君臨する一桁の数字から、底辺に位置する膨大な桁数に至るまで、参加者全員が厳格な格付けの檻へと組み込まれていく。
だが、その競争を促す演出は決して陰鬱なものではなく、むしろ挑戦者の闘争心を心地よく煽る意図に満ちていた。
画面は再び切り替わり、今度は現実の店舗でゲームクリア報酬を謳歌する若者達の姿を映し出す。
序列の中でも高い場所に位置する者が行きつけのカフェの受付で自らの耳元にある機器を提示すると、端末が軽快な電子音を鳴らして認証を完了した。
それだけで、彼らは一切の支払いを要求されることなく、特製の飲料や食事を笑顔で受け取っていく。
あるいは、高級な衣類を扱う店舗で特別な値引きを適用され、周囲の歩行者から羨望の眼差しを向けられる場面がこれみよがしに描写されていた。
『サービス開始直後から、通信状況緩和のため各地に飛んでいるドローンも、新たな景観を生んでいるようです』
その言葉を合図にするかのように、画面は地上から大空を見上げる広角の構図へと切り替わった。
映し出されたのは、雲一つない青天の下、大都市の超高層ビル群の合間を縫うようにして、整然と浮遊する無数の無人航空機の群れであった。白を基調とした滑らかな外殻を持つそれらの機体は、四つの回転翼を規則正しく稼働させながら、まるで意思を持つ巨大な鳥の群れのように、一定の間隔を維持して上空を飛び回っている。
膨大な数の利用者が一斉に高容量の電子的情報を送受信する状況において、電波の途絶や遅延を未然に防ぐため、中継局としての役割を担うそれらの機械は、今や都市の新たな歯車として機能していた。
カメラがさらに焦点を絞ると、機体の底で淡く明滅する赤い光や、地上に向けて不可視の通信網を放射し続ける精密な発信部の構造が工学的な美しさを伴って克明に捉えられていく。
太陽の光を反射して銀色に煌めくその機体群は、まさにSF映画の物語が描いた近未来の風景をそのまま現代へと引きずり出したかのような実感を見る者達全員に与えていた。
映像は再び地上へと戻り、行き交う人々の頭上を影のように横切っていくドローンの軌跡を追う。
繁華街の喧騒にかき消されるほどの微細な駆動音を響かせながら、空を巡る監視者のように滞空するその姿に対して、歩行者達はもはや警戒を抱く様子もない。
それどころか、拡張現実の娯楽に興じる若者達は、空中の機械が提供する強力な電波による恩恵を全身に受けながら、手元の武器を掲げて歓声を上げている。
大地を駆ける人々の熱狂と、それを見守るように天を回る無機質な知性が、これ以上ない調和を保って一つの社会を形成していた。
その圧倒的な光景は電脳技術が通信の枠を超え、物理的な環境そのものを完全に制御下に置いた証拠として、画面の前に佇む人々の胸へと強烈に刻み込まれていく。
『このように、“オーグマー”と“オーディナル・スケール”の勢いは止まることを知らず、ますます加速していきそうです』
<><><><><>
「────ってことになってるんです」
「··········そうか」
クラウドは特に表情を変えることなく、アスナの説明を黙って聞いていた。
空中に展開されていた高精細な半透明のメニューウィンドウが説明の終了と共にアスナの細い指先によって静かに払われ、粒子となって淡く四散していく。電子的な光が消失したリビングを再び支配したのは、壁際の大きな暖炉で焚き木が爆ぜる微かな音と、卓上に並んだ大皿から漂うスープの温かい香気であった。
新生アインクラッド第二二層の森の奥、外の冷気から遮断された木造の室内には、これまでにないほど多くの顔ぶれが集っている。
ソファの端に腰を下ろしたクラウドのすぐ隣にはティファが心配そうな眼差しを湛えて寄り添っていた。彼女は膝の上で自らの指先を小さく絡めながら、先程まで映像に映し出されていたキリト達の世界の巨大都市の熱狂と、その背後にある機械の異質さに眉を顰めているようだった。
室内の空気は、どこか奇妙な重みを孕んでいる。
キリトは自身の黒髪を弄りながら、複雑な陰りを帯びた視線を床の木目へと落としていた。
かつて過酷な仮想世界の檻を生き抜いた彼にとって、現実の肉体を動かして順位を競い合うという新たな娯楽の思想は、手放しで歓迎できるほど単純なものではなかった。
と言っても、他のみんなはそう思っていないようで。
「ホント、これが意外と便利なのよね。どこでもテレビ見られるし、スマホよりもナビは使いやすいし、天気予報は助かるしね」
「お店が提供しているゲームをクリアすればポイントと交換して無料のクーポン券とかもらえますしね」
リズベットとシリカは“オーグマー”にすっかり魅了され、身振り手振りを交えながら現実の都市生活に溶け込んだその利便性を熱心に肯定していた。彼女達の瞳には、技術の進歩が齎した快適さへの純粋な賛辞が宿っており、そこに疑念の色は全く見当たらない。
その言葉に誘われるように、大人しくハーブティーの杯を温めていたリーファが弾んだ調子で会話に加わった。
「私の部活の友達もみんな着け始めてるよ。ランニングのルートに沿って自動的に最適なペースを教えてくれる機能があるから、毎日のトレーニングがすごく楽になったって言ってた。運動を続けるための動機付けとしては本当に便利だと思うな」
「それは確かにあるかもしれないわね」
リーファの言葉に応じたのはシノンだった。
彼女は頭の猫耳をピコピコと動かしながら、その性能を認めるような口調で言葉を継ぐ。
「案外あれのおかげで生活費が助かるのよね。サービスが充実してて、ゲームをするだけでクーポンも貰えるのならみんな喜んで参加するでしょうし」
女性陣の肯定的な意見が飛び交う中、部屋の隅に陣取っていたクラインが豪快に自身の頭を掻きながら、隣のエギルへと同意を求めるように視線を向けた。
「なあエギル、ビジネスの観点から見てもこれってとんでもねえ発明だろ? だってよ、ゲームでクリアするだけで現実の系列店で使える特別な割引券が手に入るんだぜ。俺の仕事仲間も、みんな必死になって仕事帰りに寄り道してんだからさ」
「まぁ、市場の経済を循環させる手法としてはこれ以上ないほど巧妙だな」
エギルは深く低い笑みを漏らしながら、頑丈な両腕を胸の前で組み、この機械の利便性の高さに頷いた。
「単なる娯楽に留まらず、地域の商業施設と利用者を直接結びつけている。これまでの据え置き型のゲーム機では、ここまでの購買意欲を湧かせるのは不可能だった。開発者の見る目は確かだよ」
「私も、最初はみんなが耳に怪しい機械を着けてるのを見て少し驚いたんですけど·········」
キリトの言葉に卓上に温かいスープの器を並べ終えたアスナが、柔らかな微笑みを浮かべながら会話の締めくくりを担うように口を開いた。
「実際に使ってみると、お買い物だったりとか目的地までの道案内もすごく親切ですし、何より手を塞がないから、日常の一部として自然に馴染んでしまうんですよね」
「そうなんだ、すごいね」
楽しそうなアスナ、そんな彼女にティファは微笑み返した。
帰還者達の多くにとって、この新たなデバイスは過酷な闘争の記憶が染みついた機械とは異なり、平穏な日常をより豊かに彩るための正当な道具として受け入れられていた。
「·········」
しかし。
その弾んだ談笑の輪の中にありながら、卓の上の料理を虚ろげに見つめるユウキの態度には、どこか他者とは異なる気配が漂っている。
彼女にとって、街を歩き、走り、周囲の風景を真の五感で堪能しながら楽しむというその娯楽の前提そのものが、自らの置かれた厳しい現実の壁を冷たく突きつけるものに他ならなかった。
病室から離れることが叶わず、仮想世界という精神の安息所でのみ自由な活動を許されている彼女の立場からすれば、現実の肉体を動かすことを前提とする新たな流行は、共有したくとも決して手の届かない、遥か彼方の出来事のように感じられているに違いない。
賑やかな室内の温度と、ユウキが胸の内に抱く静かな疎外感。
クラウドはそうした仲間達の細やかな感情の変化を、ただ無言のまま視線だけで追っていた。
彼のすぐ隣でティファはリズベット達の楽しげな会話に話を合わせつつも、時折キリトの険しい眉間に刻まれた皺や、クラウドの不自然なほどの沈黙を交互に見つめている。
現実の変貌が齎らす影の気配を、この部屋の中で正しく感知している者はほんの僅かしか存在しなかった。
「ま、だから今どこのVRMMOも人が少なくなっていて、予定していたイベントも延期。結果こっちの世界に来る理由も薄くなって、みんなARの方に夢中になってるってわけだ」
「·········そうか」
キリトの説明にクラウドは短く生返事を返した。
彼にとって、この仮想の大地を包む経済的な不況や、異世界の人間達が夢中になっている最新式の端末など、本来であればどうでもよい出来事のはずだった。
自身の故郷における神羅カンパニーの急速な技術革新や社会の変貌をどこか想起させはするものの、今の彼を引き留めているのは、もっと別の、言語化をすることが難しい薄暗い予感であった。
クラウドの酷く素っ気ない応対にキリトは肩を竦めて苦笑いを浮かべたが、その心の奥には電子の檻を見つめ続けていた者特有の鋭い懸念が未だに引っ掛かっている。
「まあ、俺みたいに現実をほっぽり出してこっちの空気に浸りたがる人間の方が、今や少数派ってことさ。アスナ達が言う便利さも理解できる。だけど········」
キリトはそこで一度言葉を切り、暖炉の赤々とした炎を見つめながら自身の考えを整理するように呟いた。
「だけど、どうしてもなぁ········ARは生身の体を使うから、本来の動きができなくて俺に合わないんだよ」
「········」
クラウドはそんなキリトの発言に思わず目を細めた。
まるで呆れたような目線で。
「だから俺はどちらかと言うとあんまり使いたいとは思えなくて、確かに便利ではあるんだけどな」
「
「な········ッ!?」
クラウドの指摘をきっかけに、皆が思わず吹き出してしまった。
張り詰めていたリビングの緊張感は突如として放たれたクラウドの簡潔な一言によって、一瞬にして消え去った。
最初に声を上げて笑い出したのはリズベットだった。
彼女は自身の腹を抱えるようにしてソファの背もたれに体を預け、涙の浮かんだ目元を拭いながら拍手を送る。
「ちょっとクラウド、それ最高!! 言うようになったじゃない!! そうよキリト、アンタ現実の世界じゃ普通の学生なんだから、仮想世界でのシステムを利用した動きを基準にして現実の肉体を語るのがそもそも間違ってんのよ!!」
「う、うるさいな········!! 俺だって、別に運動をサボってるわけじゃ········」
顔を真っ赤に染めたキリトは自らの反論の言葉が続かず、視線を泳がせながら隣のアスナへと助けを求めるように視線を向けた。
しかし、そのアスナまでもが口元を細い指先で覆いながら、肩を小刻みに揺らして静かに笑いを漏らしている。
「でもキリト君、クラウドさんの言うことも一理あるかもしれないわね。最近お家の中で調べ物ばかりして、あまり外を歩いていないでしょう?」
「ア、アスナまでそっち側に付くのかよ········」
「良かったら良い運動方法教えてあげるよキリト、まずはスクワットしてみるといいかも。クラウドもいつもやってるよ?」
「ティファまで········!?」
予期せぬ方向から飛んできた柔らかな追撃に、黒の剣士はもはや返す言葉を失い、両手を上げて降伏の姿勢をとるしかなかった。
普段は寡黙を貫いている異世界のソルジャーが放った的確な指摘と、格闘家であるティファの茶目っ気豊かな提案は室内の温度を一気に最高潮へと押し上げていく。
シノンと同じソファに座っているクラインは、あまりのおかしさに自身の膝を激しく叩きながら木造の天井が振動するほどの爆笑を轟かせ、エギルもまた頑丈な胸板を揺らしながら笑みを堪えていた。
「おいおいキリの字!! あの大剣を軽々と振り回すクラウドに基礎体力の差を突きつけられちゃ立つ瀬がねぇな!!」
「だがスクワットは結構いいかもしれないぞ。全身の大きな筋肉を鍛えることで基礎代謝が上がり、太りにくい体質にもなる。体幹も強化されて、日課にすればそれなりに強くなれるからな」
「だとよ。ほら、今やってみろよ。ティファちゃんに直接指導してもらえって!!」
「二人まで面白がるなよ········!!」
盟友達の容赦のない野次に、キリトは自身の頭を抱えるようにしてソファに沈み込む。
その斜め向かいではシノンが呆れと可笑しさが半々に混ざった微笑を浮かべながら、手元のお茶を静かに啜っていた。かつてあの世紀末仕様の世界で鋭い銃弾を交わした仲間のあまりにも情けない姿を眺める時間は、彼女にとっても日常の愛おしい一幕であるに違いなかった。
何より、この場を包み込む屈託のない歓声の渦は、先程まで卓の上の皿を虚ろげに見つめていたユウキの顔に、これ以上ないほどの鮮やかな光を取り戻させていた。
身体的な制約故に現実の街歩きという流行の輪には加われなかった彼女だったが、気心の知れた仲間がこうして一人の少年を囲んで無邪気に戯れる遊戯の空間においては、何の隔たりもなくその精神の共有を許されている。
「あはは!! キリトのスクワット、それちょっと見てみたいかも!! クラウドも後で手本を見せてあげてよ!!」
「ユ、ユウキ········お前もか········!!」
鈴を転がすような声でユウキが身を乗り出すと、クラウドは特に表情も変えないまま、でもちょっと悪戯っぽく口角を上げた。
からかいの集中砲火に曝されたキリトが恨めしげな視線を向けるものの、クラウドは追撃の言葉を重ねることもなく、手元に配られた温かいハーブティーの杯を静かに傾けるだけであった。
その徹底した泰然自若の構えが却って若き少年の敗北感を際立たせ、室内の愉快な空気をさらに助長させていく。
「もう、みんなキリト君をからかいすぎですよ。キリト君もそんなに拗ねないの!!」
「········はい」
アスナの優しい宥めの言葉に従うように、キリトは小さく肩を竦めると、ようやく観念したように配られた杯へと手を伸ばした。
室内を優しく包み込んでいたハーブティーの芳醇な残り香と、気心の知れた仲間達の屈託のない歓声の余韻は穏やかに収束していく。
陶器の器が触れ合う微かな音もやがて途絶え、暖炉の薪が静かに燃え尽きようとする頃、居間の空気は自然と落ち着きを取り戻していった。
<><><><><>
茶会が一段落した後の小屋の居間では、卓の上の器が片付けられ、代わりにこれからの動向を話し合うための、どこか引き締まった気配が満ち始めていた。
クラウドは自らの手元を見つめたまま、室内の中心へと視線を戻す。
「········それで、これからどうする予定なんだ?」
クラウドの口から発せられたその静かな問いかけは、日常の平穏から次なる歩みを進めるための現実的な確認へと、場の意識を鮮やかに転換させた。
その言葉を受けて、最初に口を開いたのはキリトだった。
先程までの弄られ役としての締まりのない表情は完全に消え去り、その瞳には、この仮想世界の現状を見据える剣士としての真摯な光が宿っている。
「そうだな。さっきアスナが説明してくれた通り、現実世界での流行のせいでこっちの攻略の進展はない。予定されていた大規模な討伐戦や新しいイベントも参加者が集まらなくてしばらく延期されることが決まってる」
キリトはそこで一度言葉を切り、自らのメニューウィンドウを空中に軽く呼び出して、現在の予定表を指先でなぞった。
「だから俺達のしばらくの予定としては、ARの方に集中することになると思う」
「········」
クラウドはキリトの言葉を予想はしていたものの、それはつまりこの広大な浮遊城の空の下で彼らとの交流の時間が、当面の間は途絶えてしまうという事実に他ならなかった。
各々が生活の基盤を置く現実世界へと回帰し、新たな流行の波に身を投じる以上、この仮想世界に集う頻度が劇的に減少するのは当然の結果でもあった。
異界から流れ着いた自分達にとって、目の前の少年達はこの世界との数少ない繋がりであり、その対面が少なくなるという現実を、彼は無言のまま静かに受け止めていた。
キリトの宣言に対して、周囲の仲間達からは反対の声は上がらなかった。
リズベットは『まあ、現実のお客さんがそっちに流れてるんじゃ、商売もあがったりだしね』と小さく肩を竦め、シノンもまた自身の生活もあるためポイントの稼ぎをしたいと言い、何よりその端末へのそれなりの関心を見せるように深く頷いている。
クラインやエギルといった大人組も、社会の流行に抗うことの無意味さを理解しているのか、これからの活動の準備について互いに目線で合意を交わしていた。
「そっか········しばらく会えなくなるんだね」
クラウドのすぐ隣で、皆の今後を聞いていたティファはほんの僅かにその瞳を膝の上に落とした。
彼女にとって、この世界の平穏な空気と、ここで育まれた温かい絆は、過酷なあの闘争を経てようやく手に入れたかけがえのない安息の場であった。それが現実の都合という不可抗力によって一時的に引き裂かれ、再び静寂の中に置き去りにされるかのような寂しさが、彼女の胸を微かに掠めていったに違いない。
「ま········仕方ないよね」
そして何より。
その決定が齎らすもっとも残酷な意味を、あの少女が理解していないはずはなかった。
皆が活動の舞台を『現実』へと移していくということは、楽しさを共有するというその資格を根底から剥奪されているユウキにとっては、皆との距離がさらに遠くなることを意味していた。
仲間達が新しい流行の光の中に向かう中、彼女だけは誰もいなくなったこの電脳の森に留まり続けなければならない。
アスナはそんなユウキに、
「心配しないでユウキ。ティファさんも。何もずっとダイブしないって言ってるわけじゃないし············!!」
そんな風に焦燥の混じった顔で言葉を重ね、大切な友人達の心を少しでも和らげようと必死に弁明を試みていた。
彼女の瞳には、離れ離れになることへの純粋な申し訳なさと、置いていかざるを得ない境遇への痛切な配慮が痛いほどに滲み出ている。
しかし。
その過剰なまでの気遣いこそが、却って空間の境界線を明確にしてしまうことを、聡明な少女は誰よりも早く察知していた。
「ううん、気にしないでアスナ」
向けられた同情の影を綺麗に払拭するように、ユウキはいつものように快活な笑みをその顔に咲かせ、自らの両手を小さく振ってみせた。
「ボク達は大丈夫だから!! 何も心配しなくていいよ!!」
「ユ、ユウキ··········」
彼女の弾んだ発声は湿っぽくなりかけた居間の空気を一瞬にして撥ね退けるだけの、力強い輝きに満ち溢れている。
自らの身体が置かれた過酷な境遇を呪うこともなく、ただ純粋に現実という舞台で新たな挑戦を始めようとする仲間達の背中を祝福の感情で見送ろうとするその精神の気高さは、見る者の胸を深く締め付ける。
ユウキの健気な言葉に呼応するように、ティファもまた自らの瞳をゆっくりと上げ、アスナの不安を優しく包み込むような抱擁を伴った微笑みを返した。
「そうだよ、アスナ。みんなが現実で頑張っている間、こっちの世界の留守は私達がしっかり守っておくから。だから心配しないで? 現実を存分に楽しんできて」
「··········ティファさん」
ティファの柔らかな声は取り残される側の寂しさを完全に消し去り、むしろ仲間達の帰るべき場所をこの地に繋ぎ止めておくという、確かな義務感へと昇華されていた。
皆がユウキ達に対して心苦しさを抱えていると、
「少なくとも··········みんながそのゲームを楽しんでいる間、俺とティファとユウキは、キリト達が絶対に味わえない娯楽を楽しんでる」
「「「「「「「「え?」」」」」」」」
クラウドが真顔で急にそう言い出した。
そして。
「ユウキにはまだまだ見せたいものがあるからな。
突如として室内の静寂を破ったそのあまりにも規格外な宣言は、聞く者達の思考を一瞬にして停止させるのには充分な破壊力を秘めていた。
驚きの声を揃えた一同は、まるで信じがたいものでも聴いたかのように目を丸くし、ソファの端で平然と言い放った異世界の剣士へと一斉に視線を集中させる。
キリトの脳裏にはかつて己の手で基礎を構築し、異世界の優秀な頭脳であるチャドリーの手によって完成へと至った、あの端末の機構が瞬時に思い浮かんでいた。
想像の姿だが、現実のクラウドの肩に違和感なく固定されたあの小さなドーム状の端末────《視聴覚双方向通信プローブ》。
それこそが、次元の壁を突破して高解像度の視覚情報と聴覚の震えをリアルタイムで双方向に転送し、病床の少女の意識をそのままクラウドの歩みに同調させる、奇跡の媒介であった。
彼女がこれから体験するのは、現実の東京の舗装道路に電子のデータを継ぎ接ぎしただけの薄っぺらな拡張現実の娯楽などでは決してない。クラウドが歩みを進めるたびに、その肩に据えられたレンズを通じて、美しい星の風景や地平線の彼方まで続く圧倒的な大自然の息吹が、そのまま彼女の知覚へと流れ込んでくるのだ。
「あ!!」
ユウキは思い出したように声を漏らす。
真の意味での『異世界転移』というその極上の娯楽を独占する特権が今、自らの手の中に差し出されたのだと、ユウキは完璧に理解していた。
「お、俺達の味わえない娯楽って·········おいクラウド!! 約束したじゃないか!! 誰でも行けるように改良したから次は俺も案内してくれるって!!」
「知らない」
「そんな!?」
異界の剣士から返ってきたあまりにも無慈悲で簡潔な一蹴にキリトは言葉を失い、大裟裟に天を仰いで崩れ落ちた。
さらに周囲の仲間達の顔に浮かんだのは、クラウドが齎らす『特権』に対する隠しようのない強烈な羨望の色である。
クラインは思わず身を乗り出すようにしてクラウドへと詰め寄る。
「おいおいクラウド!! そりゃあいくら何でもずるすぎるだろ!? 頼むから俺達も一緒に案内してくれよ!!」
その悲痛な訴えに追随するように、リズベットも『そうよそうよ!! ずるいわよ!!』とクラウドを責めつつも、その顔には羨ましさのあまり悔しそうな表情が現れている。シリカもまた羨ましそうに使い魔の小竜を抱きしめ、『私もクラウドさん達の世界の綺麗な風景、一度でいいから見てみたいです·········』と本気で落胆したような声を漏らす。
エギルですら商人としての冷静さを一時的に忘れたかのように、深く息を吐いて唾を呑み込むようにしてクラウドを見つめていた。
普段は冷静なシノンもまた、クラウド達の世界の話題に強い興味を示していた。ただ羨んでいる周囲とは少し異なり、何か遠い記憶を呼び覚まされたかのようにその視線はどこか熱を帯びている。かつてあの世界で、自分を絶望から救い出してくれた“彼”の存在が脳裏を過ったのか、僅かに頬の辺りが朱に染まっていた。
次元を越えた未知の世界を探索する価値が、現実の街中を歩く流行など比較にならないほど高価な体験であることを、この場にいる全員が痛烈に理解していた。
そんな大人達の猛烈な嫉妬と羨望の渦の只中にあって、ユウキの胸を占めていたのは、他者には決して侵食し得ない優越感に他ならなかった。
「そうだね·········楽しみだねクラウド!!」
隣で弾んだ声を上げた少女の満面の笑みを受け止め、クラウドは相変わらず表情を崩さないままであったが、その瞳の奥には微かな光が宿っていた。
「ああ。行ける日になったらいつでも声をかけろ」
「うん!!」
短く、けれど確かな信頼を込めて返されたその返答は、ユウキの胸を満たしていた優越感をさらに強固なものへと変えていく。
周囲では未だに『ずるい』と小声で言い合っているクラインやリズベット達の視線を余所に。
ティファもまた、少女の純粋な歓喜を祝福するように優しい目元をいっそう細めて深く頷き返していた。
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ひとしきり続いた強烈な羨望の応酬も、夜の帳が深く降りるにつれて、穏やかな終息の時間を迎えていく。
明日のそれぞれの現実における歩みを見据え、賑やかだった会合は自然とお開きの手順へと移行していった。
「それじゃ、またな」
「あぁ、またな」
クラウドが投げかけた簡潔な別れの言葉に、キリトやユウキを始めとする仲間達がそれぞれの愛着を込めた微笑みを浮かべて手を振り返す。
その直後、彼らの身体が電子の光の粒子となって空間に溶け込み、一人、また一人と電脳の世界からその姿を消失させていった。
「じゃあ私も先に行ってるねクラウド」
「あぁ」
ティファもログアウトの手順を済ませ、現実へと意識を戻す。
やがて、室内に一人残されたクラウド自身もまた、メニューウィンドウの一番下にある離脱の項目へと指先を触れる。
直後。
視界の全てが白い電子の光へと反転し、感覚が遠退いていく。
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電子的な信号が肉体へと戻り、五感が本来の鋭敏さを取り戻していく手応えが皮膚の裏側から這い上がってくる。
遠退いていた思考が明瞭になり、瞼を押し上げる筋肉の感覚を自覚したクラウドは、慣れ親しんだ現実世界のあの質素な天井が視界に飛び込んでくるのを無意識のうちに待機していた。
「········?」
しかし。
その瞳が捉えたのは、見慣れた居住空間の天井ではなかった。
戸惑いを含んで開かれた彼の視界を満たしたのは、どこまでも深く、どこまでも澄み渡る、底知れない『碧色に染まった神秘的な空間』の中であった。
壁も床も存在しないその空間では、微小な燐光の群れが星の血流のように絶え間なく流動を繰り返し、静謐でありながらも圧倒的な生命の脈動を感じさせる輝きを放ち続けている。
電脳世界が模倣した単なる記号の羅列などでは決して到達し得ない、人間の魂の根源を揺るがすようなその光景は、かつて彼の故郷において全ての命の源であり、帰るべき場所でもあった、あの『ライフストリーム』の世界を強く想起させる神聖さを秘めていた。
──────アミュスフィアの切断エラーなどではない。
状況の異常性を瞬時に察知したクラウドは、意識が曖昧な精神の内で、ソルジャーとしての鋭い直感を張り詰めさせる。
「!!」
すると。
周囲を巡る碧の光の合間を縫うようにして、彼の視線の正面。
僅か数歩と離れていない距離に──────“一人の人影”が音もなく佇んでいた。
その身を包んでいるのは汚れなき純白の布地で仕立てられた、深く頭部を覆うフードである。
顔はそのフードに遮られ、その佇まいから性別や素性を正確に判別することは叶わない。
静止した世界の中で辛うじて視認できたのは、フードの裾から僅かに覗く、微かに形を変えた唇の輪郭のみであった。
『 』
「?」
何か言っていた。
しかしそれは言語化されず、聞こえない。
クラウドは決して、他者の唇の動きから言葉を読み取る特殊な技術を修めているわけではない。
にも拘わらず。
その未知の存在が言葉の代わりに放った無音の意思は、物理的な次元の壁を容易く突破して、彼の意識へと直接響かせてきた。
ほんの僅かな時間の、極めて短い意思の揺らめき。
脳に浮かび上がった確信に近い予測が、その静かな唇の動きの意味を彼の頭へと鮮烈に翻訳してみせる。
──────“
意味が分からなかった。
どういう意図でそう言ったのか、もしくは自分の解釈を間違えたのか。
疑問を持つ隙もなく、周囲の光が激しく明滅し、白い人影が視界の彼方へと消え去っていく中。
クラウドの精神は今度こそ、本当の目覚めへと向かって急速に引き戻されていった。