ダンジョン15階層。
「ぷっ……ふふっ……っ」
湿った空気が石の香りとともに灰色の岩窟内を漂っている。洞窟状の通路は薄暗い。乏しい灯りが天井の近くで篝火のように揺らめき、不規則に薄闇の一部を切り裂く。断たれた闇の奥で、地面を踏みしめる音が複数と、堪えようとして堪えられない笑い声が零れ落ちていた。
「アリーゼ、いつまで笑っているのですか?」
「い、いや……だって、ごめん……つい、思い出しちゃって……ぶっふぉwwww」
「おーい、兎がめっちゃふくれっ面になってるからほどほどにしてやれよー!」
「わかってるわかってる、でもごめんなさいベル! あんたやっぱり見てて飽きないわ!」
「……」
物資を詰め込んだ大きなバックパックを背負ったベルが、俯き気味に前髪で目元を隠しつつも、先頭を歩くアリーゼにジトリとした眼差しを向ける。隣を歩くマリューやチラチラと振り返って様子を確認するノインやリャーナ達が「まあまあ」と苦笑しながらベルを宥めるが、ベルとしてはこの胸のモヤモヤを解消できずにいた。
この日、【アストレア・ファミリア】は『遠征』を行っていた。ベルにとっては初参加の『遠征』であり、アリーゼ達の方針で今回はサポーターとして姉達の後をついていく。
「まあ……本拠を出る前から……朝からなんてものを見せてくれるのでしょうかこの兎様は……などと思っておりましたが」
「そう、そうなのよ! 初めての『遠征』だからって……ほとんど眠れてないってだけでも笑っちゃうのに、朝から皆が見てる前でアストレア様と漫才始めるし、
「う、ぅううぅぅうううう」
ベルは今にも爆発するんじゃないかというほどに、アリーゼの物言いに顔を真っ赤にした。周りの姉達の顔をチラッと見てみたが、彼女達はベルと目が合うとぷいっと反らして肩を小刻みに揺らしていた。
「これが……『萌え』なんでしょうか?」
セルティが言う。
「アストレア様に、お留守番ちゃんとできますか?って言ってるベル……やばい、ぷふっ……あ、ごめっ、ベルごめん! 尻尾引っ張らないで!?」
一番ベルの近くにいた狼人のネーゼの尻尾が、むぎゅうっと握られ一七〇
「ベル君が私達の派閥にいてくれてよかったあ……日々の癒しだよ……」
肩を揺らしながら、マリューが薄紅色に染まった頬に手を当てる。
「も、もぉおおおおおおおおおおおおっ!!」
「あ……ベル!? 待ちなさい!?」
『ブォオオオオオオオオオオオオオオッ!?』
堪らず。
羞恥に耐え切れなくなったベルは、バックパックを下ろし剣を抜き、リューの制止も無視して前方にいたミノタウロスへと突撃した。魔法すら使っていないというのに、迅雷の勢いでミノタウロスをビーフパティへと変えていった。
× × ×
時は少し遡って『星屑の庭』
「いいですかアストレア様」
「はいっ」
朝食を済ませ、身を清め、各々が
「何してんのアレ」
「アストレア様が本拠で一人になっちゃうって心配なんですって」
「アーディが護衛も兼ねて来てくれるんでしょ?」
「そうですが心配なのでしょう……」
「リオン、耳が赤いわよ。熱?」
「いえ、その……可愛らしいなと思いまして」
そしてそんな女神と少年のやりとりを、ほっこりした顔で見物している女傑達が十一名。
アストレアとベルだけだった時にもアーディが泊りに来たり、碌に休んでくれないアミッドを「引きずってでも休ませてくださいアミッド様が休んでくれないと私達が休めないんです!」と言ってベルに連れられて泊りに来ていたこともあるので、ベルが『遠征』に行ったとしても女神のことはアーディが護衛してくれるし問題ないというのが彼女達の考えなのだが、ベルの頭からはすっかり抜け落ちてしまっている。
「おい輝夜、お前がこの間リオンと
「「らぶちゅっちゅ言うな」」
「安心しろライラ、本番はしていない。というか、本番をしたらベルが死ぬからできん」
「あー……輝夜とするときは解毒薬がいるのよね。大変ね、あんたの実家って」
「ああああ、やめろやめろ、思い出したくもないことを思いだしてしまいそうだ」
忌々しい
「外出される時と、眠る時は必ず戸締りをしてくださいっ」
「ええ、もちろん」
「アストレア様は可愛くて、綺麗で、優しくて、えっちなんですから……その、世の男の人達は『おかず』っていうのにしているかもしれないんですから、気をつけてください。僕いやですよ、アストレア様が他の男の人に手を出されるなんて」
「私は貴方一筋よ、安心して頂戴」
「えへへ……」
「ふふふ」
頬を撫でられて甘えるように笑みを浮かべるベルと、そんなベルを見てほくほく顔をするアストレア。ベルの口から聞こえちゃいけない言葉が聞こえた気がして、即刻女傑達はキッチンに行った輝夜を引きずり戻した。尋問である。
「急になんだ、おい、引っ張るな!」
「輝夜ちゃん……ベル君に卑猥な言葉とか教えた?」
「…………は?」
「ベルの口から『おかず』というワードが出ました。少なくとも私は教えた覚えがありません」
「何なんだマリューにセルティは……おかずぅ? 食事のあれか?」
「いやまあ、ある意味、食事だよな」
「ベッドの上の話ね」
「……ああ、自慰ネタか」
「「「「自慰ネタ!?」」」」
何てことを教えてるんだこの女は。
しれっと自分達のいないところで
「僕がいなくても、ちゃんと眠ってください」
「今の内に抱きしめ溜めしておいていいかしら?」
「む…………いいです、よ?」
「はぁ、これからしばらくはベルを抱きしめて眠れないのね……寂しいわ。ベルがいるいないじゃ睡眠の質が違うの、不思議よね」
「すぅー…………っ」
「ア、アストレア様ぁ!?」
猫吸いならぬ
その後も「濡れた髪で眠ってはダメですよ、僕がいなくてもちゃんとしなきゃダメですよ」だとか「朝昼晩、ちゃんと食べてください」だとか、ライラ達が思わず「いや、お前に言われなくてもアストレア様はやるよ?」と言いたくなるようなことチラホラ。
「ベル……ベルっ」
「んにゃ……アリーゼさぁん?」
「なんで蕩けてるのよ……羨ましいわね……あんたも今の内にアストレア様を補給しときなさい? しばらく会えないんだから! あ、ちなみにベルの次は私だから! みんなアストレア様の谷間の匂い嗅ぎたいなら並びなさい!」
「「「不敬だからやめろぉ!!」」」
「……どれくらい会えないんですか?」
「うーん……そうねえ一週間から二週間くらい?」
「問題が起きたらその限りじゃねえなあ」
「そんな……死んじゃう!?」
「「「「死なんわ!!」」」」
「すぅー…………っ」
「あ、あらあら……さすがに恥ずかしいのだけれど?」
「「「ベル、やめなさい!」」」
そんな一連のやり取りの後、見送りをするとアストレアと共に
「ねえベル君?」
「はい?」
「何か忘れてない?」
「?」
「行ってきますのぎゅーは?」
「!?」
「ほらほら」
「あ、や、その、皆見てるから流石に……」
「ぎゅーっ!」
「はわわわっ!?」
衆目の前だろうがお構いなしに、リューにそうするようにアーディはベルに対して真正面から抱き着いた。両脇に腕を通されて背中でガッチリとホールド。最早逃げ場はなく、力関係的にも抗えない。
「ア、アーディさぁん……見られ、見られてます……!」
「ア、アーディ!? 公衆の面前でやめなさい! 離れなさい! すぐに!」
「大丈夫大丈夫、しばらく会えないんだしその分、ベル君を補給しているだけだから。あ、吸っといていい?」
「だから何で吸うんですか!?」
「すぅー…………っ!」
「「や、やめろぉ……ッ!!」」
肩に顔を埋めるアーディがそのまま一息に
× × ×
時は戻って現在ダンジョン24階層『大樹の迷宮』
【アストレア・ファミリア】の一行は15階層から18階層に入り、18階層で休憩を取った後、そのまま19階層へと入り24階層へ足を伸ばしていた。ベルの目の前で、白兵戦に長けた輝夜と二つ名に相応しく疾風となってリューが戦場を舞い踊っていた。
「輝夜、前から『マッド・ビートル』! リオン、二時の方角からまた『蜂』がくるぞ! セルティとリャーナで『巣』を潰せ!」
「「「「了解」」」」
矢継ぎ早に飛ばされるライラの指揮に合わせて輝夜が大昆虫を真っ二つに斬り捨てる。遅れて轟く断末魔を他所に、さらに次から次へと輝夜の刀が線を縫うようにモンスターを切り裂く。昆虫型モンスターの体が樹皮の床に転がる。
羽音を撒き散らす漆黒の蜂『
「オオオオオオオオオオオオオオオンッ!!」
『―――ガッ!?』
狼の咆哮が鳴る。
狼人のネーゼが一七〇
そして――。
「【
手や足、更には剣にまで炎が鎧のように
「兎ぃ、魔石の回収いけるかー?」
「もうやってるよ、ライラさん」
「うし」
戦闘終了。
足元に転がるモンスター達の懐から、ベルが『魔石』を抜き取っては袋に詰め込んでいく。
「ベル、バックパック開けるよ」
「どうぞ、ノインさん」
「ドロップアイテムが落ちてるからね、入れておかないと」
「もっと下まで行くんだよね?」
「そうだけど?」
「今から沢山入れて大丈夫?」
「うーん……でもあるだけあった方が儲かるからね」
「ふーん」
「ほい、終わったら手を綺麗する」
「ありがとう」
作業が終わり、ノインから手ぬぐいを手渡され身綺麗にした。
いつもよりドロップアイテムが何故か落ちやすいことに女傑達は首を傾げつつも、ベルの発展アビリティ『幸運』の効果なのではないかとひそひそと考察していた。
「アリーゼ、どうする? このまま25階層に入って『水の迷都』へ行くのか?」
「水の迷都……?」
「行けばわかるよ」
聞いたことのない名称に、首を傾げるベルにリャーナが言うがその顔色はあまりすぐれない。リャーナだけではなく、ライラに聞かれたアリーゼや輝夜達も同じく言葉を発するのに躊躇いがあるようだった。
「うーん……その前に10分くらい休憩取りましょうか。27階層までは可能ならさっさと通過してしまいたいし」
「全力で走り抜けますか?」
「却下だ馬鹿リオン。それが出来んのはアリーゼ、輝夜、リオン、ネーゼぐらいだろ。初見の兎もいるんだぞ、ナシだ」
「…………何かあるの?」
「………と、とにかく、休憩っ!」
「?」
疑問にまったく答えてくれないアリーゼ達に訝し気に見つめつつも、ベルはイスカ達と一緒にモンスターが産まれてこないように
「アルフィア……ごめんなさい、ベルは私達が幸せにするからね……っ!」
「……どうしたんだろう、アリーゼさん」
「そっとしておいてやれ、ベル」
「輝夜さんも……体調、悪い?」
「いや、そんなことはない。少しばかり苦手な場所というだけだ。それより、お前は大丈夫か? かなり早いペースで進んでいるかもしれん、お前はまだ冒険者になったばかりなのだからキツイならすぐに言え」
「うんありがとう。でも大丈夫だよ」
ベルはもたれるように隣に座り込んできた輝夜と時間いっぱい、これから進む階層の話を聞かせてもらった。
× × ×
夜『星屑の庭』
「やっぱり何度見ても女神様の裸って綺麗ですよねえ」
「あらあら、あなたも素敵だと思うわよアーディ」
「いえいえ、女神様には敵いませんよ。ベル君が夢中になるのも頷けます」
留守番をしていたアストレアと、女神の護衛として泊りに来ていたアーディは湯船に浸かって足を伸ばし、腕をぐぐっと伸ばして一息ついていた。隣で同じく湯船に浸かっているアストレアをチラリと見て、アーディはごくりと唾を飲み込んだ。
――大きい。そして綺麗。
「お背中流しますよ!」と言って背中を洗っては「じゃあ交代ね」と言われて女神に洗ってもらったアーディ。最早私は【アストレア・ファミリア】の眷族なのではないだろうかと、鏡に映る自分の顔を見てそんなことを思ってしまう。そしてこんな言ってしまえば、優しいお姉さんみたいな女神というか、女神の中の女神なんて言われるアストレアと抱き枕にされているとはいえ同衾しているベルはよく理性を保っていられるなと感心さえ覚えた。お湯に浮く大きな果実がきっと押し付けられているんだろう。
――羨ましい、そしてけしらかん。
「アーディ?」
「は、はい!? なんでしょうか!?」
「私の胸に何かついているかしら?」
「おっきな、おっぱいが、あります!」
「え、ええっと……?」
「ベル君はよく我慢できますよね!」
「う、うーん……?」
「もしかしてアリーゼ達のを見て、慣れちゃったのかな」
「それはー……どうかしら……?」
「触ってみてもいいですか?」
「構わないけれど……なんだか邪なことを考えていないかしら?」
「そんなことないですよ!?」
下から持ち上げるように触って来るアーディにアストレアは苦笑する。「ふぉおおおお」とか言っちゃってるアーディに眉をひくつかせて苦笑する。言えない、言えるわけがない。抱き着いて眠っている
「あ、アストレア様。最近ベル君とデートとかしました?」
「? アリーゼにもこの間似たようなことを言われた気がするけれど……普通に買い物に行くとかではないのよね?」
「多分、違うんじゃないでしょうか?」
「じゃあ、していないんじゃないかしら?」
「誘ってもらったりとかは?」
「うーん…………」
「え、嘘でしょう!? あの子は……もうっ!」
「そもそも誘うってことをわかっていないと思うし……?」
ベル君、ダメだよそういうのー!とアーディは心の中で叫びあがった。その手でアストレアの豊満な果実を揉みしだきながら。
× × ×
ダンジョン28階層
【アストレア・ファミリア】は、25階層~27階層を駆け足気味にしつつも油断なくベルに無理のない範囲で通過していった。『水の迷都』に初めて足を踏み入れたベルは、言葉を失っていた。そこから見える大瀑布『
「ネーゼさん、ありがとう」
「ん? いや、いいよ『
「前にヘファイストス様の所に行ったときに見かけて教えてもらったんだ」
「意外と勉強してんだなあ……偉い偉い」
わしゃわしゃ、と頭を撫でられる。
ライラがいうには上手く交渉すれば三五〇万ヴァリスは稼げるほどの価値のある採取物。見つけたのはベルで、取りに行ったのはネーゼ。戻ってくる時に大蛇のモンスター『アクア・サーペント』が水面を勢いよく爆発させて姿を現したが、空中で体を捻ったネーゼが強烈な蹴りで顔を蹴りつけて二本の牙を叩き折り、リャーナが魔法を炸裂させるということもあったが、女傑達は至って急に現れたモンスターに驚くこともなく冷静に対処していた。
「アストレア様にあげたら喜んでくれるかな?」
「売らないんだ」
「どうしよう?」
「そのまま上げたってしょうがねえんじゃねえぞ? 加工するなりしねえと……ただの置物になっちまう」
袋の中で光り輝く珊瑚と真珠を見つめて女神に渡そうかと口にするベルに対して女傑達は反対はしないまでも、そのまま渡しても……と諭す。むむっと考え込むベルに、今度はマリューが話題を振った。
「そういえばベル君、『遠征』の前にギルドの掲示板を眺めていたけど……なにか面白い
「うーんと……たしか、『迷宮に響く歌』……下層域で聞こえてきた歌の正体を突き止めて欲しいっていう内容だったかな」
「モンスターじゃねえのか?」
「歌っていえば、
「聞き惚れてしまうほどの美しい歌声らしくて、歌の主は人なのかモンスターなのか、それともダンジョンなのか……依頼人の人は気になって夜も眠れないんだって」
「眠れるようになると良いわね。あ、輝夜おかわり頂戴!」
「はいはい団長様は育ち盛りのように沢山お食べになられますねえ……ベル、お前は?」
「あ、じゃあ僕も」
天幕を張り、輝夜が作った極東の料理『おじや』が振舞われている。
金のように輝くとろとろの溶き卵に、細かく千切った干し肉と緑の薬草、そして木の実が散りばめられた雑炊は【アストレア・ファミリア】の団員達の胃袋を簡単に刺激した。湯気が立ち上るそれを輝夜に木のお椀によそってもらい、同じ木の匙でぱくりと口に運ぶ。
「おいひい」
「輝夜、あんた中身が残念なほどヒネくれてるけどきっと素敵なお嫁さんになれるわ!」
「「「一言余計だ、馬鹿団長」」」
「輝夜さん誰かと結婚するんですか……?」
「な・ん・で、お前がショックを受けている!?」
「知りませんでした……輝夜、あなたに相手がいたとは。それでベルに手を出していたとは。良くありませんよ、二股なんて」
「お・ま・え・も・か!?」
相手はお前じゃい!と頬をむんずと摘ままれてぐわんぐわん体を揺らされるベル。おまけとばかりにリューの眉間に輝夜のデコピンが炸裂。憐れな二人の口からは「ふっぐぅうう」と無様な悲鳴が鳴り響く。
「団長、貴方のせいで余計な誤解を受けた。私は寝るぞ」
「ええ、いいわよ? 私と……イスカ、いい?」
「見張りでしょ、いいよ」
「というわけだから、皆食べたらとっとと寝て頂戴。あ、でもベル、手を出したい気持ちはわかるけど夜這いはダメよ?」
「しませんよ!?」
「ほらベル、私がお前を抱き枕にするからさっさと行くぞ」
「むぐぅ!?」
輝夜にガッチリと腕を組まれて天幕に連れ込まれていくベルは、そのまま大和撫子の抱き枕と化した。初めての遠征で前日、良く眠れなかったせいか、ベルは輝夜に胸を顔に押し付けられながらそのままぐっすりと意識を飛ばした。
こんな調子で【アストレア・ファミリア】の面々はベルに『遠征』についてや、冒険者としてまだ教えていないことを教えつつ、遠征を無事終わらせた。深層に入った後のベルはそれはもう……世界が違いすぎて怯えていたとアストレアは報告を受けた。