今にも崩れ落ちそうな天気だった。まるで灰色の絵の具で塗りつぶしたように薄暗い。そんな空を掻き分ける元気なんて、今のお天道さんには無さそうだった。ジメジメと湿度だけが肌に残る。嫌だねぇ。
そのねっとりと肺に絡みつく大気は、6月の専売特許だ。──うん、仕方ない。そんな陰鬱にヤレヤレと妥協して、私セイウンスカイは校舎裏へ向かう。壁に寄りかかって待っていたのはニシノフラワーだった。先に声をかけた。
「ほらさ……元気出しなよ」
──ヘタクソな言葉。他にも色々あったじゃないか。
彼女はポカンと夢の虚ろい。そのマシュマロみたいに柔らかな頬が一筋に濡れている。私の顔を見るなりキュッと目尻を緩ませた。
ポロリと朝露が。
「あっ、ごめんなさい。こんな朝方から……」
良いんです。セイちゃんいつも甘えてますからね。泣きたい時に泣いて下さい。しっかりとお話し、聞きますよ。
聞くとは言えども、その内容は予測できる。
こうやって朝練習終わりに呼び出されるのは、決まってレースに負けた後。きっと、他愛のある話を聞いて欲しいのだろう。
2人で肩を並べて、学内庭園に足を運んだ。どの花壇もシットリと土が湿っている。フラワーのスペースは端っこの方だった。日が当たりにくそう。
でも、ちゃんと花が上を向いている。それを見て私は思った。手入れが行き届いてるなって。大事にされてるんだね。
“たわけ”さんに植えられた背高のっぽの向日葵とは正反対の。丸みを帯びたお花たちが私たちをつぶらに見上げている。黄色に白、黒、紫。彩り豊かなデイジーが所狭しと、おしくらまんじゅう。
まだ私達は体育着を着たままで。その姿で花壇を囲うレンガの上に座る。そうやって赤いデイジーを演じる。隠れるためというか、何と言うか。その花々と調和するために。
はい、お邪魔します。
それじゃあ真っ赤なウソは無しにしよう。折角周りに誰も居ないことですし、本心を聞かせてね。
「どうしたの? お悩みとあらばセイちゃんにお任せを⭐︎」
「実は──」
概ね予想通りだった。オークスで7着に沈んじゃって辛いんだって。
いつものように私はフラワーの背中をさすった。“敗北”を飲み込ませる為のお手伝いとして。互いに3分くらい黙っていた。その屈辱を納得するまでの沈黙。私は嫌いじゃない。
一言目を切り出したのはフラワーからだった。
「バ体が小さいとレースに出たらダメなんでしょうか?」
「うぇ?! そんなことないよ〜。どうして?」
「1着の子から『そんな小さい身体でよくレース出られるね。ブロックから抜け出すパワーもないのに』って言われて……」
「あー……」
ニシノフラワーは希代の天才だ。それこそ数十年に1人単位の。初等部から中等部へ飛び級をしたウマ娘は多分、彼女だけ。当然ながら嫉妬を産むわけで。勝った娘から、たまに煽られるらしい。なんとも度し難い。
きっとフラワーは言い返さない。言い返せない。サボって昼寝する私に毛布をかける様な娘だから。奥底に不満を溜め込んで孤独に悩む、それが彼女。
この相談場所を初めて設けたのも、私からだった。
「やっぱり“差し”は合ってないんですかね……」
うーん……。
セイちゃんは“逃げ”ですから、差しのことは分からない。
それでも1つ、言える。
「そんな煽り文句なんて聞かなくていいって。己を突き通しな。ほら、セイちゃんもずーっと逃げてばっかでしょ?」
「そうなんですけど……」
何か言いたげに彼女はユラユラと尻尾を揺らした。
うん。大いに共感できる。
私も小柄で、競り合いに勝てる程のバリキがない。
苦労したよ。
でもセイちゃん、そんな挫けそうな時だからこそモリモリとパワーが湧くおまじないを知ってまして。
今から君に掛けちゃいます。
「“ありがとう”」
「はい……。どうも……」
「ホラホラ、そんな辛気臭い顔してないで復唱!」
「え?え?」
「はい、せーの!」
「「ありがとう」」
あと5回言わせた。
フラワー恥ずかしそうに頭の後ろに手をやった。
「ありがとうって言うと力が湧いてくるでしょ? だから、その文句言ってきた娘にも心の中で『ありがとう』って言ってやろうよ」
「どうやってですか……?」
「『ご指摘ありがとう。自分を見つめ直すキッカケになりました』とか?」
「なんだか皮肉っぽいですね」
「イエス! でも悲しい時に下向いてるより、感謝して上向いてる方が、よっぽど次に繋がるよね〜」
そうなんです。どうしても嫌味に聞こえるよね。
でも、フラワーは他人に対して強く出ることを覚えた方が良い。
その未発達な背中をポンと叩いてみる。
彼女はフンと鼻を鳴らして、両拳をグッと握りしめた。
「頑張ってみます。前向いて、はい……」
「いいね〜。じゃあ練習してみよっか。“ありがとう”って思えた出来事を1つ、帰るまでに報告ヨロシク〜」
「えぇっ。突然すぎませんか?!」
ごめんね。だって「はい」が少し濁ってるから、自信ないのかなって思った。てことで、その後ろにびっくりマークがつく程度には払拭してみよう。
黄色いデイジーがピクリと、震えた。
†
結局、空は崩れ落ちた。まるで水バケツを蹴り倒したような土砂降り。まだ夕方ですらないのに、トレーナー室のLEDが白く灯っていた。
「おーい、起きろー。そろそろトレーニングだから着替えてきな」
「んー……」
授業終わり。セイちゃんはソファとお友達になっていた。いくら脱力しても全力で受け止めてくれる。このまま結婚したい。まぁ、ムリだけど、それに似た存在を知っている。
──あぁフラワーだ。膝枕してくれないかな、なんて。
そんな妄想をしながら扉に目線を配る。ドアはウンともスンとも。──当たり前だね。視線を戻す途中に、雪原のように白く霞んだ窓ガラスを見た。
(おー、こりゃスゴい)
水蒸気のフィルムが、ガラスにピタリと張り付いている。向こう側にうっすら透ける世界は、横殴る雨粒のとっかえひっかえ。なんだか中に入りたがっているみたい。
同じ水滴でも窓一枚を隔てただけで、随分と趣が変わるものだなと思った。くわぁっと気怠げに欠伸をかいてから、そう言えば梅雨だったことを自覚した。私を睡魔に勝たせたのはトレーナーさんだった。
「雨降ってるからパワートレーニングやるぞ! 目指せダンベル90キロ!」
「え〜……。何でそんなにやる気あるんですかね〜……」
「デスク周りの仕事が早めに片付いたからさ!! 」
「こんな日くらいはのんびりと働きましょうよ〜」
「なんつーか、雨の音って集中力増すんだよな。余裕持ちつつもテキパキ進む。梅雨は落ち着くから好き」
「へー」
セイちゃんは嫌い。そんな「名前に青雲とあるから」みたいなオシャレな理由ではない。それは単純に、トレーニングも授業もサボれないから。私を見下ろす彼に「変わってるね」って悪態をついたら、おでこをピシッと弾かれた。痛いなぁ。
「ねぇトレーナーさん、コッチコッチ」
身体を起こして彼を窓際に誘導した。ガラスに出来た結露のキャンパスを人差し指でなぞる。キュッキュと鳴る度に雫が細かに、弾ける。
簡易的な傘を描いてからテッペンに♡のマークを添える。いわゆる相愛傘ってやつ。右側に「セイウンスカイ」と書いた。
左側は。
「ホラホラ〜これ昔やったことあるでしょ? 傘の中に2人の名前を書くと結ばれるってやつ。さてさて左に来るの誰ですかね〜?」
「えっ、俺書いて良いやつ?」
「どうぞ〜」
名前を刻もうと、トレーナーさんは右手を持ち上げた。私の頭よりも高く位置した瞬間に私は策ってやつを講じる。
(今だっ!)
彼に背を向けるようにして、クルリと踵を返した。でも、扉に向かって一直線とは行かなかった。何かにつまずいて転んだ。反射的に顔を上げる。彼のつま先が立っていた。
「はいストップ。まぁ、そう来るよね。たっぷり時間あるし、トレーニング頑張ろっか」
彼はニヤリと不敵に笑った。こりゃ一本取られた。
「……やっぱバレてました?」
「普段なら相愛傘なんてやらないじゃん。策士、策に溺れるってやつ」
「も〜、休みにしましょうよ〜。ジメジメしてると眠くなっちゃって。明日から頑張りますから。ね?」
「だーめ。ほら行くぞー」
制服の首根っこを掴まれた。両手を上げて白旗を振ったら離してくれた。──さて、頑張りますか。ドアを開けようとノブに手をかけた。扉の向こうから声がした。
「あの、セイウンスカイさんは居ますか……?」
──本当に来ちゃったよこの娘……。
扉を引いた。廊下にフラワーが立っていた。その華奢な両腕で、茶色い紙袋を抱きかかえている。開け口がセロハンテープで留められて中身が見えなかった。この時間に訪問とは珍しい。
「トレーニングはどうしたの?」
「少しだけ融通効かせてもらって。えっと、コレ」
その紙袋から、3つの小包みを取り出した。まるでマトリョーシカみたいに、全く同じ色形のヤツを。その小さなお手手に握っている。トレーナーさんに1つ、私に1つ。手渡されて中を見た。
「あっ、アイシングクッキーだ」
色とりどりのデイジーが、小袋の中に咲いていた。美味しそう。どうしたの、コレ?
「『ありがとう』の報告のやつですよ」
「あぁ、そう言えば」
「報告出来ることはいっぱいあったんですけど、やっぱりスカイさんに話を聞いてもらったのが1番だったので……。お礼の意味も込めて作っちゃいました」
「良い子過ぎでは?」
「パワーを貰えたので、それくらいお安い御用ですよ」
袋の中から取り出してみる。掌にお花を乗せるのって、少し不思議な気分。花びらと比べて少し重いけど、この重みが嬉しいね。
「ありがとう」
フラワーは照れ臭そうに人差し指で右頬を掻いた。
「なぁ、俺も貰っていいのか……?」
「もちろんです! 」
「サンキュー」
「トレーナーさんも知ってましたか? 力がモリモリと湧いてくる、スカイさんの魔法」
「いやー?」
「『ありがとう』って口に出すだけで、不思議と強くなれるんですよ」
「へー、確かに。フム……。なぁスカイ」
「はーい。って、なんでそんなニヤニヤしてるんです?」
「いや、いつもありがとな」
「えー、なんかやけに素直。まぁ嬉しいですけども。セイちゃんこそいつも助かってますよ〜」
「力貰えた?」
「えぇ、まぁ」
「よしっ!じゃあ今日のパワートレーニング頑張ろっか!
「うわっ」
やられた!そういうことか。変だとは思ってたけれど、まさか。普段から感謝なんて口に出さないから警戒すべきだった。もー、ぬか喜びしちゃったじゃないですか。
「嘘じゃないよ」
そう言って、トレーナーさんは私の頭にポンと手を置いた。
──なら良いけどさ。
クッキーを一口かじる。サクサクと音を立てて、口の中で溶けた。湿度過多で潤った口の中を程よく中和してくれる。
「──甘い」
外に目をやった。相変わらずザーザー降りだし、トンネルの中に居るみたいに薄暗い。でも、フラワーのほっぺたに雨が降るよりはマシだと思えた。
「ほらスカイさん、一緒に頑張りましょう!!」
「いっちょやりますか〜」
午後のトレーニングも頑張れるような気がした。
梅雨も悪くないなって思った。
こんな感じのやり取りしてそうですよね。読了ありがとうございました。