今年の劇場版の前日譚です。
これが仕事上の顔か、と感心に近い感情がじわじわと広がっていく。
同時に脳内で警報が鳴り響く。受け答えを間違えるな、感情の揺らぎを表に出すなと潜入捜査官としての本能が叫んだ。
いま目の前で笑っているのは、巨万の富をもつ財閥で働く一流の商売人だ。
「……何故、これを僕に?」
いつも何かと差し入れを抱えてポアロを訪れる小袖だが、今日のそれは差し入れと言えるような可愛らしいものではなかった。
無機質で厚みのある茶封筒。その中には、おおよそ民間人が知るべきでない情報が丁寧な報告書としてまとめられていた。
あくまでもいつも通りの顔で微笑んでいる小袖は、何かおかしなことをしましたかと言わんばかりに首を傾けた。
「私立探偵の安室さんなら、警察のほうにも何か繋がりをお持ちかなと思いまして」
斧江財閥の件はご存じでしょう、と小袖の柔い視線は揺るがない。
「怪盗キッドがビッグジュエルでないものを狙うときは、たいてい対象の背後に後ろ暗い事情が絡んでいますからね。少し気になって調べてみたんです」
北海道で巨万の富を築いた斧江財閥初代当主、斧江圭三郎。彼は死の直前、財産の一部を金塊に変え、どこかに隠したと言われている。しかしこの金塊は、実は強力な武器であったという説があるという。
とはいえ、世界中のどこにでもそれらしい噂や伝承はいくらでもある。それに人手を割けるほど警察は暇ではない。
問題なのは、それを信じ動いている者がいるということだ。
「金策に頭を悩ませる斧江財閥の子孫がそれを探すのはまだ理解ができますが……」
「笑っちゃうでしょ? そんな眉唾な噂を鵜呑みにした
近くチャリティーイベントのために北海道を訪れるという日系アメリカ人の投資家、ブライアン・D・カドクラ。チャリティーに熱心な慈善家とされているが、その正体はアジア一帯で手広く商売をしている武器商人。俗に言う「死の商人」だ。
小さく息をはいた小袖は、馬鹿だろ、と表情を変えないまま口の中だけで呟いた。
「ぞろぞろと物騒なボディガードを引き連れて来日するそうです。チャリティーイベントにテロ予告でもあったんですかね」
「……無茶をやる可能性が高いと?」
「商売の基本は安く仕入れて高く売ることですよ。当たり前の話ですが、仕入れ値が安くなれば安くなるだけ利益も大きくなります。仕入れについてどこまで手段を選ばないかは当人次第ですが、俺はあまり彼の良識には期待しないほうがいいと思いますね」
金を積んで「買う」ならまだいいですけど、と小袖はさらりと付け加えた。言葉にはしなかったが、言いたいことはわかる。「買う」より安く済む手段があるのだ。
武器を扱う人間が、手段を選ばず「宝」を「奪い」にくるのだとしたら。
つい背筋に冷たいものが走るが、小袖は涼しい顔のまま言葉を続ける。
「今回キッドが狙う脇差は東窪榮龍という刀鍛冶の打ったものです。特に名の売れた刀鍛冶というわけでもなく、ビッグジュエルとの関連も見えませんでした。ただ、最近カドクラも別に日本刀を入手したという情報がありましてね。ほら、関係あるような気がしてきたでしょう」
「東窪滎龍の刀が斧江財閥の宝と関係していて、キッドもそれを知っている、と?」
「可能性の話ですよ。まあそこはいいんです、そちらについてはある程度、北海道警も情報を掴んでいるでしょうし。何か熱心に調べてる刑事さんがいるみたいですから」
俺が伝えたかったのはその次、と促されて黒いダブルクリップで留められた書類をめくる。次のページに並んでいた英字に、今度こそ頭痛を覚えた。
「……小袖さん、」
「ええ、カドクラが『安く仕入れる』ことについては北海道警も考えていると思います。ただ『高く売る』ことへの対策は、おそらく道警だけでは難しいのでは、と」
そこにあったのは、カドクラと取引がある思われる組織や個人の名前――つまりカドクラの顧客のリストだった。しかも、「宝」の取引に乗りそうな可能性が高い者については、資産の概算まで記載されている。
こんなもの、調べようと思ってもそう簡単に調べられるものではない。どこの捜査員だお前は、という目を向けても、腹の底の見えない同期の微笑みは揺らがない。
「金の流れを見ていれば多少のことはわかりますよ」
「……法には触れてませんね?」
「もちろん。あくまでもただの予測ですし」
とにかくですね、と小袖はゆったりと両手をひらいた。
「カドクラが日本に持ち込めるのは、せいぜい物騒なボディガードと自分のところの物騒な商品だけでしょう。斧江財閥の『宝』がどんなものであれ、輸送の手段まで持ち込んでいるとは考えにくい。しかもカドクラは表向き慈善家をアピールしているんですから、『宝』の所持自体がもはやリスクと言える。つまり、」
「――『宝』を入手次第、すぐに取引を行う可能性が高い、と」
カドクラの手で運び出すのが困難なら、顧客のほうから来てもらえばいい。日本が島国である以上、陸路はない。航路も難しいだろう、重量の問題もあるし何より目立つ。となれば一番確率が高いのは――海路。
それはつまり、武装の必要があり、かつ資金力のある何者かが、海から密入国を企てる可能性があるということを意味する。このリストの中のどれが正解だったとしても、かなりの大物に違いはない。なるほど、確かに北海道警だけで対応するのは難しい案件と言えるだろう。
ゆっくりと瞬きをし、穏やかにコーヒーカップを傾ける小袖を正面から見据える。
「小袖さん、……これ、よく僕に相談しようと思いましたね?」
「キッドの件で毛利先生が北海道に向かわれることはご存じだったんでしょう? それなのに、先生でなく僕に話をもってきたのはどうしてですか?」
小袖が僕のことをどこまで理解しているのかはわからない。しかし確実に警察と繋がりがあり、名探偵として名高い毛利小五郎でなく、その弟子に過ぎない
何故、と繰り返すと、そうですねえ、と小袖は少し姿勢を崩して眉を下げた。
「毛利さんにお話しすべきかは確かに迷いました。ただ、……毛利さんに話すと、かなりの確率でコナンくんにも伝わるでしょう?」
コナンくん、と意図しない名前に思わず繰り返す。ええ、と小袖はどこか申し訳なさそうに視線を下げた。
「怪盗キッドだけならともかく……というのも本来はダメなんですが。――怪盗キッドは、盗みはしても人を傷つけるようなことはしない。これまでの犯行から、それは断言してもいいと思ってるんです。だから、そこにコナンくんを巻き込むのは、……いや、ダメなんですけど、俺としてはギリギリ許容範囲内というか。あの子に小学一年生とは思えない頭脳と行動力があるのは事実ですし」
でも、と小袖は言葉を続ける。
「俺は、子どもを危険に晒したいわけじゃない」
それはもちろん、まだ高校生である蘭さんや園子さんについても同じだという。
「これについては旦那様も同感だと言ってくださいました。今回の件は斧江財閥の問題ですから、旦那様にも手は出せません。ですから園子お嬢様にはあえてお仕事を任せ、北海道行きを諦めさせました。蘭さんやコナンくんについては他人様のご家庭のことなので口出しはしませんが、こんなことを知ってしまえば自ら危険に飛び込みかねないコナンくんに、積極的に情報を渡したくはなかったんです」
まして今回は同じく好奇心の強いご友人が大阪から向かわれるようですし、と小袖は遠い目をする。
「逆に情報を渡して身を守ってもらうことも考えたんですが、まあ……とりあえず警察が知っていれば必要になってしまったときには伝わるかなって……」
だから毛利小五郎を通さず、警察だけに伝えたかったのだと小袖は言った。それも、一般からの通報では相手にされないかもしれないから、ある程度警察の信頼を得ている人間を通して情報を渡したかったのだと。
そう困ったように言う様子は完全にいつもの小袖進のもので、本心からの言葉であることが伺えた。あくまでも良識のある大人として、子どもを危険から遠ざけたいがための行動であるらしい。
もっとも、警察との繋ぎ役に僕を選んだ理由として納得できるかと言われれば微妙なところだが、今回はこれで誤魔化されてやるとしよう。すぐに報告をあげ、対策を講じなければ間に合わないかもしれない。
めくっていた書類をならして整える。分厚い紙束がぶつかり、どん、とカウンターが思いのほか強く鳴った。
「わかりました。僕も警察には多少の伝手があります。毛利先生には内緒で、僕から情報を流しておきましょう。きっと動いてくれると思いますよ」
「助かります、安室さん」
ほっとした表情も、いつもの小袖のものだ。
思うところがないではないが、善良な一般市民からの情報提供だ。有り難く頂いておくとしよう。
大人の良識を見せた一流の商人は、万が一カドクラ参加のチャリティーイベントに影響が出たら
「ええ、貴方が良識のある商人でよかった」
特に含みを込めたつもりはなかった。が、小袖は僕の言葉にきょとんと目を丸くし、一瞬視線を左上に逸らしてからにこりと笑顔を取り繕う。
「やだなあ、そんな金の亡者じゃありませんよ、俺は!」
「自首するなら付き添いますよ」
「真面目なトーンで言うのやめてほしい」
法律は遵守してます、それは何より、信じてなくないですか、信じてますよ、と軽いキャッチボールを交わしながら新しいカップをカウンターに乗せる。
「しかし、人間が左上に視線を動かすのは記憶を掘り起こしているときだと言います。過去に何か後ろ暗いことでも?」
「自分が良識だけで動かないことは自覚してるのでちょっと記憶を探っただけですよ。俺も慈善家ではないですからね」
小袖はおもむろにシュガーに手を伸ばした。真っ黒な鏡に細かな白が降りそそぐが、それらはすぐに色を失って消えていく。
彼の珈琲の好みはいつも気まぐれだ。割合で言えばブラックのときが多いが、かと思えばミルクを入れたり、砂糖を入れたり、そのときどきで色を変える。最初のうちは何か法則性があるのかと観察していたが、どうやら本当にそのときの気分に任せているらしい。
彼は、固定の色をもたない。
「……小袖さん」
そんな彼だからこそ腹の内を探りたくなるのは、僕の悪癖だろうか。
良識をもちあわせながら、良識だけでは動かない。お金儲けが大好きなのに、利益のためでも手段は選ぶ。まったく不可思議な人間だ。だからこそ、面白い。
趣味の良くない問いだとわかりながら、好奇心には勝てなかった。
「武器の売買は莫大な利益を生むと聞きますが」
「まあ、本当に『宝』が強力な武器なら、桁の違う金額が動くでしょうね」
「貴方は興味がない?」
「そんな嘘か本当かもわからない噂に賭けるくらいなら、確実に利益を取れる事業にリソースを割きます」
「では、仮にこの噂が本当だったら?」
「え?」
「莫大な利益を生む強力な武器が目の前にあったら。貴方はどうしますか?」
ゆらり、と小袖の目の色が変わったような気がした。
真っ黒であることに変わりはない。しかし確かに、先ほどまでとは何かが違う。
彼の前で隙を見せてはいけない。穏やかに微笑んでいるだけのはずなのに、何故だかそう思ってしまう「何か」。
これだけの雰囲気をもつ人間が、あくまでも「一般人」だとは。
「――ひとは、生きている限り金を使います」
音もなくカップがソーサーに戻される。
「ひとが死ぬことで動く金もありますが、結局金を動かすのは生きている人間です。金を動かす人間はひとりでも多い方が経済は健全に、活発に動く」
まあそれぞれ意見はあるでしょうが、と彼は目を細めた。
「だから俺は、ひとを
何せ現代において「平和」は世界的なトレンドですから、とぱっと表情を切り替えた小袖は、またいつも通りの。
無意識に肩を強張らせていたことに気付く。ふっと息を吐いて身体の力を抜き、僕も安室透の笑顔を表情に乗せた。
「……変なことを聞いてしまいましたね」
「いえいえ」
そろそろ行かないと、と少し冷めた珈琲を一気に飲み干した小袖は、気分を害した様子もなく軽やかに立ち上がる。
会計を済ませた小袖は、ごちそうさまでしたと笑顔を見せ、一瞬視線を下に降ろしてからすぐにまた顔を上げた。何ら気負いのない、何気ない声色だった。
「――俺が清く正しく真っ当に、平和に楽しく景気よく金を稼ぐためには、世間が平和じゃないと困るんです」
その言葉の裏に、込められたものは。
「……!」
つい目を見開いた僕に構うことなく、彼はドアの取っ手に手を掛けた。
「またね、降谷」
「安室です」
お決まりの言葉を返し、相変わらず真意の見えない彼を正面から見返した。
小袖が何をどこまで理解しているのかはわからない。だが、どんな思惑があるにしろ託された以上は応えなくてはならない。
それは間違いなく、
『あとはまかせろ』
そう唇だけ動かしてみせると、彼は愉快そうに肩を揺らした。
数日後、北海道からほど近い海上にて大がかりな逮捕劇が繰り広げられたという。
9月1日、大阪のイベント出ます。
降谷さんと小袖くんの再会エピソードを足して「鈴木財閥の苦労人」新刊出します。
あと「六花」のこれまで出した既刊もちょっとずつ全部持って行きます。詳細はXにて。