「進藤さん」
対局が終わり、検討のため再び盤を挟んでいた時だった。
「はい?」
「君、本当に院生になって二ヶ月?」
福井さんは苦笑いを浮かべながらそう言った。
「えっ……」
「いや、疑ってるわけじゃないんだけどさ。途中の中央の一手、あれで完全に流れを持っていかれた」
そう言いながら、福井さんは問題となった中央の石を指先で軽く叩く。
「あそこで左辺に来ると思ってたんだ。実際、普通ならそうなる。なのに君は一回外した」
「…………」
「多分、僕が“左辺しか見えてない”って気付いたんだよね?」
図星だった。
あの時、福井さんの視線はずっと左辺に向いていた。
中央はまだ大きい。でも、すぐには動かない。
だからこそ、一呼吸置く意味も込めて中央へ向かった。
「いやぁ、参ったな」
福井さんは頭を掻きながら笑う。
「完全に打ち回されたよ」
「そんな、私も必死だっただけです」
「それでも勝ちは勝ちだよ」
そう言って福井さんは盤上を見つめた。
「でも安心した」
「え?」
「今年の院生、面白くなりそうだから」
その言葉に、周囲で検討を見ていた院生たちも反応する。
「福井さんがそこまで言うなんて」
「進藤、マジで本物かも」
「でも次は蒼葉だろ? あれも強いぞ」
蒼葉さん。
次の研修で当たる予定の、一組二位。
「ヒカリちゃーん!」
噂をすれば、である。
部屋の向こうから蒼葉さんが勢いよく駆け寄ってきた。
「見てたよ今の対局! すっごかった!」
「ありがとうございます」
「特に中央! あれ絶対誘ったでしょ!」
「え、えっと……」
「やっぱり!」
蒼葉さんは楽しそうに笑う。
「いやー、次ほんと楽しみになってきたなぁ」
その笑顔を見て、ヒカリも自然と笑みが零れる。
強い人と打てる。
それが、純粋に嬉しかった。
「でも」
蒼葉さんは不意に真面目な顔になる。
「次は負けないからね」
「……はい」
その瞬間。
空気が変わった。
さっきまでの柔らかい雰囲気とは違う。
院生同士の、静かな闘志。
友達でもある。
けれど同時に、全員がライバル。
プロになれる人数は限られている。
その現実を、ヒカリは改めて感じていた。
「さてと」
福井さんが立ち上がる。
「そろそろ次の対局の準備しようか」
午前の手合いは終わった。
だが、院生研修はまだ半分。
午後の一局が残っている。
「はい!」
返事をして立ち上がるヒカリ。
その瞳には、もう次の勝負への光が宿っていた。
――同じ頃。
日本棋院、上階の対局室。
「ありがとうございました」
静かな声と共に、一局が終わる。
「ふぅ……」
進藤ヒカルは軽く肩を回した。
リーグ戦。
相手はタイトル経験者の九段。
終盤まで縺れたものの、結果は半目勝ちだった。
「相変わらずお前の終盤は気味悪ぃな」
検討室で倉田が呆れたように言う。
「そうですか?」
「褒めてねーよ。ったく、昔より余計に読めなくなってやがる」
そう言われながらも、ヒカルはどこか上の空だった。
「……なんだ?」
「いや」
ヒカルは窓の外を眺める。
今日は院生研修の日だった。
つまり――。
「ヒカリ、どうだったかなって」
その言葉に、倉田がニヤリと笑った。
「なんだよ、ちゃんと兄貴してんじゃねーか」
「茶化さないでくださいよ」
「でも気になるんだろ?」
「そりゃまあ」
ヒカルは苦笑する。
妹が、自分と同じ道を歩き始めた。
それが不思議でもあり、少し嬉しくもあった。
「ま、そのうち嫌でも耳に入ってくるさ」
倉田は煙草を咥えながら続ける。
「強ぇ奴ってのは、すぐ噂になるからな」