徐々に順応していく観客のボルテージが上がっていた。
状況は互角に見えるものの、調子を上げる不二がわずかに押しているようにも見える。
試合が白熱する中、突然乾がぽつりと呟く。
「……橘のプレースタイルが違うな」
青学ベンチの全員が耳にした。
視線は乾に集まり、彼が発する言葉に注目が集まる。
「以前の橘はもっと攻撃的なプレーヤーだった。攻めに特化して積極的に前へ出て、得意なのは速攻とボディショット。公式戦最短試合の記録もいくつか作っていたようだ。だが今日のプレーは徹底して基本に忠実なもの」
「手ェ抜いてるってことっスか?」
フェンスの外から覗き込んできて桃城が尋ねる。当然答えたのは乾だ。
「いや、どうもそうは見えない。本気で勝負しているように見えるからおそらくプレースタイル自体を変えたんだろう。若干攻めの傾向が強いとはいえ、臨機応変に対応している」
「自分のテニスを丸ごと変えたってことっスか。そりゃ結構な大問題っスね」
「ああ。しかし九州から東京へ引っ越してきた事実を考えれば、プレーを変える何かがあったとしても不思議ではないと思う。が、その辺りのデータは足りないから想像でしかないな」
乾の言葉を聞いて、言うべきか黙っておくべきか、悠介は一瞬逡巡する。
青学テニス部の部員としては部の役に立つための情報は言うべき。しかしその時、悠介の脳裏にはふと杏の顔が浮かんで、言ってしまえばまるでスパイのような行動をすることになる。そのために彼女に近付いたわけではないと罪悪感を覚えていた。
言うか否か、悠介が思い悩んでいると隣に居るリョーマが気付いた。
黙っているはずもない。彼は冷静な声で指摘する。
「何か知ってるよね?」
「えっ⁉ いや、そんな大したことじゃ……」
「なんだよゆーすけ~。隠し事かー?」
「宮瀬。何を知ってるんだ?」
菊丸がブーブーと文句を言い始めて、乾が有無を言わさぬ様子でじっと凝視してくる。本人たちに深い考えはないのかもしれないがこうなると悠介は弱い。
彼は基本的に先輩に甘えるのを好むタイプの人間。逆らえないのではなく、逆らいたくないという考えが根底にある。
「あー……橘さん、一時期テニスをやめようとしてたらしいです。なんでも自分のプレーで同級生をケガさせちゃったとかで」
「へぇ~。よく知ってんね。なんで隠すんだよー」
「なるほど。ボディショットを狙わない理由としては十分過ぎる」
「それじゃあ、自分が得意としてきたプレーを封印した状態で不二と戦ってるのか」
驚きを隠せない様子で大石が呟く。
詳細はわからないとはいえ事情は伝わった。誰かを怪我させてしまって、もう二度と同じ被害を生まないためにプレーの内容を変えた。正しい情報であれば理解はできる。
一方で橘桔平は昨年“九州二翼”と呼ばれた全国区のプレーヤー。本来の力量を発揮できない状況にあるというのは敵ながら複雑な気持ちになる。
不二が楽しんでいるのは日常的な付き合いがある彼らにはわかっていた。お眼鏡にかなったようなのだがだからこそ決着が気になる。
大石は隣に座る手塚へ視線を向けた。
「怪我をさせて本領発揮できない……それでもあの実力か。不二は楽しそうだけどどうかな」
「ああ。油断はできない」
手塚はいつも通り、相手が誰であろうと油断していないようだ。
それと同時に不二を心配する様子はないように見える。
多くを語らないものの、人一倍部員への信頼が強く、大きな責任を抱えている男だ。相手への尊敬は常に忘れないが自分たちの強さに関する自信も持ち合わせていた。
「不二なら心配はいらない。やるべき時はやる男だ」
「ハハ、俺たちとは見方が違うな……不二は勝つのが当たり前くらいに思ってるのに」
不二と桔平の試合は白熱していく。どちらもボルテージを上げていくが、やはり不二の方が余裕が見えた。
桔平は技術力の高さとは裏腹に、時折極端に動きが悪くなって、まるで何かを我慢しているかのような挙動が目についた。
本調子ではないというより、自身のプレーに対する戸惑い。それが理由だ。
「技術自体は前大会の時点で高かった。プレーを変えること自体はできるかもしれない」
前の試合より忙しそうにノートへペンを走らせながら、乾が淡々と呟く。
「だが自分と同程度の実力を相手にした経験は多くないのだろう。九州からこっちに引っ越してきてからあまり時間もなかったはず。無意識的に出てくる本性を、気合いで強引に抑え込んでいるといった感じかな」
いつもと変わらない様子だが、乾は普段と比べて明らかにテンションが上がっている。珍しく自ら攻める不二のプレーはもちろん、桔平のプレーにも注目しているのは間違いない。
あれが不二の本気なのか。
半信半疑で気になるところだがまだ限界ではない気がする。
どちらが勝ってもおかしくない一戦。
会場は不二が繰り出す技に見惚れ、思わず声を漏らしてしまうほどの衝撃を覚えている。
明らかにテンポが速くなっていて次々に得点が重ねられていった。
気付けば4-3。不二がリード。
まだ先があるとはいえ、試合のムードが変わりつつある。
「普通に見ればこのまま不二が行きそうだが……」
乾が視線を向けていたのは桔平だった。
落ち込んでいるとか、追い込まれて怯んでいるとか、そういった類の反応ではない。かといってゲームを奪われて怒っているわけでもない。
桔平から尋常ならない雰囲気を感じた。次の瞬間に乾を含めた多くの人間が呆気にとられる。
桔平が両手を合わせて目を閉じ、拝むような姿を見せる。深く息を吸い、吐き出す。自らの心を落ち着けているのは明らか。
精神統一。そして危険な雰囲気は鳴りを潜めて消えていく。
「自分の感情を抑えたな」
手塚が不意に呟いた。
深く息を吐いてから目を開き、桔平は冷静な面持ちで不二を見る。
にこりと笑いかける余裕がある反面、先程の威圧感はなかった。
果たして意味がある行為なのか。無駄だとは思えないが、自らの感情を抑え込むことが強さに関わるのかが気にかかる。
「なんのために……いや、そうか。おそらく不二を怪我させないために」
「頭を冷やしたのか。本気でやらないんじゃなくやれないようだ」
疑問を感じた直後、ハッとした様子の大石が呟くと乾が反応する。
果たしてこれを有利と呼ぶべきなのか。少なくともおいそれと喜べる雰囲気ではない。
悠介は、不二を応援する気持ちの傍ら、桔平を心配してもいた。
試合の内容は今日この目で初めて見たとはいえ彼は強い。少なくとも他校の後輩、ましてや対戦相手の学校の生徒に心配される筋合いはないだろうが、事情が事情だけに気になった。
プレーは続き、得点が加算されていく。
一進一退の攻防が繰り広げられるものの、どこかぎこちなさが残ったまま。
集った観客のほとんどが気付かなかっただろうが、青学と不動峰の選手は気付いており、言いようのない想いを抱いて言葉を飲む。
そうして、やがて試合は呆気なく終了した。
「ゲームセット! ウォンバイ青学! ゲームカウント6-4!」
真剣な表情をする不二は、喜んでいる様子には見えない。
対して、桔平はフッと爽やかに笑い、自らネットへ歩み寄って口を開く。
「参った。俺の負けだ。あーあ……案外いい線行ってたと思ったんだがな」
「今の、やっぱり本気じゃなかったんじゃない?」
嘘を許さないという目で質問された。桔平は困ったように苦笑する。
「言い訳はしねぇよ。これが今の俺の精一杯だ。練習不足だったってことだな」
「そう……」
不承不承という態度。明らかに不満そうで落ち込んでいるようにさえ見える。
気を取り直したわけでもないだろうが、多少気を使って不二はにこりと笑いかけ、桔平に対して握手を求めた。
「僕もこれで勝ったとは思ってない。次は本気の君と戦いたいな」
「ああ。次は俺が勝つぞ」
盛大な拍手を浴びる中、握手をする。
消化不良で試合が終わってしまったとはいえ、別れは良いものだっただろう。
踵を返した両者はベンチへと帰っていく。
戻ってきた不二にタオルを手渡しながら悠介は心配そうな顔をしていた。
思わず笑ってしまって不二が優しく声をかける。
「大丈夫だよ。怒ってないから」
「いや、まあ、怒りはしないでしょうけど、モチベーションとか」
「悠介が僕のことどう見てるかよくわかったよ」
「いえ変な意味ではっ」
ヤバい、地雷を踏んだか、と悠介が怯む一瞬、不二はタオルで汗を拭いながら不動峰ベンチに目を向ける。
落ち込んでいる雰囲気はあるものの、心底絶望している風には見えない。特に空気を良くしているのは桔平の存在だ。
「彼、強いね。でも全力を出せなくてもどかしそうだった」
「そうですね……でも地区予選は突破しましたから、まだチャンスはありますよ」
「うん。早く慣れて、また戦いたいな」
やはり彼の狙いはそれだった。
多少不満そうなのは拭えないがまだ先がある。不二のことなら心配はいらない。それよりも不動峰の雰囲気が気になる。
悠介は不二同様、彼らの様子を離れた位置から眺めた。
桔平が戻ってきた時、後輩たちは一様に悔しそうに項垂れていた。
彼らが気にしていたのは自分たちの不甲斐なさだ。
橘桔平は間違いなく不動峰最強。しかし今日は彼らしいプレーができていなくて、それはなぜだと考えれば後輩たちの指導に注力し、彼に匹敵するプレーヤーが居ないために自分のための練習が満足にできていなかったからだろうと結論付ける。
ダブルス2戦の敗北に加えて、普段の練習で彼の相手を務められない現状。俺たちはなんて弱いのだと自分たちを責めている。
そうした心情を理解しているのだろう、桔平は呆れた顔で彼ら全員へ声をかけた。
「辛気臭い顔してるなぁ。お前らどうしたんだよ」
「す、すいません、橘さん……俺たち」
「悪かったよ。勝ってやれなくて」
彼らの謝罪なんて聞こえていないかのように、桔平は自らが謝罪を始めた。
「俺が勝ってれば勢いがついてこの後に続けただろうに、俺が負けちまった。部長名乗ってるのに不甲斐ねぇなぁ」
「どこがですかっ⁉ そんなことありません!」
焦った様子で怒鳴るように神尾が言った。
他の部員も同意しており、何も言わず目だけで訴えてくる。
「俺たちが不甲斐ないから……! 橘さんのっ、練習相手にならなくて! 俺たちがもっと強ければこんなことには……!」
「おいおい、何言ってんだ。もう終わりみたいな口ぶりだな」
桔平は悔しそうな神尾に笑みを向けて冷静に語る。
「大会はまだ始まったばかりだろ。俺たち全員、まだまだ力が足りなかった。だがこの敗戦は俺たちにとって意味のないものじゃない。そうだろ?」
問いかけると部員たちの目つきが変わる。
いつだってそうだった。先頭を進む彼の背を追いかけるようにして練習してきた。
今もまた桔平が導いてくれる。
「これからだ。俺たちが強くなるのも、全国への挑戦も」
「はい!」
「俺たち、もっと強くなります!」
「そんなに気負わなくても心配してねぇよ。チャンスはまだまだある。いずれ青学にリベンジして全国へ行こう」
はい! と声を揃えて不動峰の面々が意志を同じくした。敗北したとはいえ、遠目に見ても士気が高いのは伝わってくる。
結果だけを見れば3-0で敗北。しかし決勝まで余裕を持って勝ち続けている。
折れるどころかもっと誇っても良さそうなものだが、かなり意識が高いことがわかり、全国へ行くという言葉が本気なのだとも思えた。
彼らのベンチを見て、志の高さを知ることができた。
大石はちらりと手塚の様子を確認する。
感情を顔に出さない男ではあるが、そういった態度を喜んでいるのではないかと思ったのだ。
「良いチームだな」
「ああ。次に戦う時は脅威になるだろう」
「それは期待してるってことかな?」
手塚は多くを語らない。だが否定はしなかった。
穏やかに微笑んだ大石は一目ではそう見えないものの、無表情の手塚を見て嬉しそうだと判断していたようだった。
地区予選全ての試合が終了した。
会場はざわついていて落ち着かない空気が存在している。
集まった観客は凄いものを見たという感動を共有しており、青学が優勝した事実にわずかな安堵を覚えながら、これが当然と語る声がある反面、不動峰の敗北を残念がる声も少なからずあった。
地区予選は優勝した青学と準優勝の不動峰が都大会へ歩を進める。次の試合を期待する声は早くも会場のあちこちから上がっていた。
後片付けの手が進まず、会場をぼんやり眺めていた悠介は気の抜けた顔で突っ立っていた。
ふと気付いたリョーマが不思議そうに声をかける。
「ねぇ、どうしたの?」
「ん、いや……青学が勝つのは例年のことなんだけどさ」
注視せずともわかる。彼は喜びを噛みしめていたのだ。
「俺がこのジャージ着てるのは初めてだから、なんか……改めてよかったなーって思って」
「ふーん」
「ふーんって。お前も初めてだろ。なんかこう、もっと感動とかないのか?」
「別に。全国行くならこれくらい当然でしょ」
「くっ……! 生意気な奴め」
「こんなんで喜んでないでよ。もっと活躍してもらわなきゃなんないんだしさ」
素っ気なく言ってプイっと背中を向けられる。
彼の性格はわかっているつもりだ。その言葉で、期待されているのかもしれないと感じ取る。
悠介は微妙な顔で頬を掻き、困ったかのような様子ながら、表情に喜びを滲ませていた。