うつらうつらしていた意識が、徐々にはっきりしていく。
ゆり籠のようなゆったりとした揺れが、心地良い。
ここは、どこだろうか。
目を開けるとそこは小舟の上だった。
帽子をかぶった船頭が規則的にオールを漕いでいる。
あたりは暗く、夜のようだった。
しかし、空を見上げても雲はなく星の1つも見当たらない。
光源といえば、水平線の彼方だけが、かろうじて薄ぼんやりと白んでいる、それだけだった。
黒い絵の具で塗りつぶしたような海が、どこを見渡しても延々と広がっている。
「おお、やっと目覚めたかい」
太く芯のある声だった。
見上げてみたが、見知った顔ではない。
ただ、漆黒の帽子と添えられた梅の花にはなぜか見覚えがあった。
「この船は、どこに向かっているのだ」
船頭は穏やかに笑う。
「どこかに向かっていると言えば、向かっている。どこにも向かっていないと言えば、向かっていない」
「はは、まるで問答だな」
静かに進む舟は、時折その体を軋ませる。
このままではまた寝入ってしまう。
そう思い、身を乗り出すと波のない穏やかな水面にすうっと手を差し入れてみた。
――驚いた。
普通の水とは思えないほど、冷え切っていた。
言葉通り、背筋が凍るようだった。
「気をつけるんじゃぞ。底は浅いとはいえ一度舟から落ちれば、簡単には戻れなくなる」
真っ黒な海を覗き込み、ぶるりと震えた。
しかしふと、違和感を覚え、再び水を覗き込む。
――息を呑んだ。
さざ波さえない凪なのに、鏡のような水面には伸ばした手も、顔も、なにも映っていなかったのだ。
無人の舟だけが、水の下にあった。
ぞっとして乗り出した身を引いた時、自分が何者かさえ忘れていることに気がついた。
「すまない、御人。己れが誰か、知らないか」
「知らねぇなぁ。わしはただ、お前さんを送り届ける。それだけだ」
胸騒ぎがした。
何か、忘れている。
自分の顔や、名前などではない。
きっと、もっと大事な何かを。
胸を内側から掻きむしりたくなるほどの苦しみを伴い、それでも決して手放すことは許されない、何かを。
忘れてはならない、誰かを。
「己れは、行かねばならない」
「……どこにだ?」
わずかに逡巡したが、体は待ってくれなかった。
「わからない。だがわかるのだ」
胸のざわめきに突き動かされるままそう告げて、舟から飛び降りる。
水は跳ねることなく、音も立たなかった。
船頭の言う通りそこまで深くなく、水面は腰の位置にとどまった。
どうしようもないほどの冷たさに、意識が飛びかけたこと以外、問題はない。
「……達者でな」
「あぁ、ありがとう」
見れば、オールを漕いでもいないのに、舟は滑るように離れていった。
不思議な光景だったが、ここではそれがごく当たり前のように感じられる。
軽く会釈をし、踵を返して歩き出す。
光のない闇に向かって、ただひたすらに黒い水を掻き分けていく。
魚も鳥も、虫もいない。
人の気配などもってのほかだ。
黒い海と空には、命と言うものを一切感じられなかった。
集中を切らせば、すぐにまぶたが重くなる。
幾度となく、水に頭から倒れ込みそうになった。
それでも顔を叩き目を瞬いて、死の海原を、気が遠くなりそうな距離を、一言もしゃべらずに、歩き続けた。
果てしなく長い時間が、過ぎた気がした。
いや、そんなに長くもないのかもしれない。
時間の感覚は、とうの昔に失われていた。
気がつくと、浅瀬に立っていた。
腰までにあった水の高さも、今やくるぶしを軽く濡らすだけ。
どうして自分がそこに立っているのかも、なぜ今まで歩き続けていたのかも、わからない。
しかしその答えは、目の前にたたずむ巨大な法螺貝の、閉じられた扉の向こうにある気がした。
なぜならその扉には、見覚えがあったからだ。
それどころではない。
この場所は、繰り返し繰り返し、決して忘れぬよう胸に刻みつけた光景に違いなかった。
その取っ手を、硬く閉じられた戸を、無理矢理にこじ開ければなだれ出てくるであろう雑多なゴミ達も、まるで未来を見るかのように頭の中で再現することができた。
しかしまだ、わからない。
なぜこれほどまでに、この場所に自分が固執しているのか。
なぜこれほどに、胸が締め付けられるのか。
震える指先で、扉に触れる。
すると、カチャリ、とひとりでに扉が開いた。
暖かな光が灯る法螺貝の中から、蒼い角を生やした少女が顔を出す。
「どなたでしょう、こんなところまで訪ねてくる方は」
「すまない、それがわからないのだ。ただ心の赴くままに歩き続けていたら、ここにたどり着いていた」
「そうなのですね。もしよければ、上がっていきませんか。唇が真っ青です。体も震えています。そしてなにより、あなたは――今にも泣きそうな顔をしています」
「己れが、泣きそうだと?」
「ええ、まるで悪いことをした子供が、怒られるのが怖くて、日が沈んでもおうちに帰れないときのように」
「そんなはずは……」
頬に手を当て、うろたえた。
少女はクスリと笑い、鉤爪のような指先で手招きをする。
誘われるまま、法螺貝の中へと入っていった。
机と椅子だけの簡素な客間へ通される。
少女はどうやらここに1人で住んでいる様子。
にもかかわらず、椅子は2つ用意されていた。
「他に誰か住んでいるのか」
「いいえ」
「では訪ねてくる者がいるのか」
「いいえ」
「なぜ椅子が2つあるのだ」
「さぁ……どうしてでしょう」
机の上に目をやると、花瓶に梅の花が飾られていた。
あの船頭の帽子に刺してあったものと非常によく似ていた。
「どうしてあの花をお主が持っているのだ」
「あなただって、持っているじゃないですか」
言われて初めて気がついた。
胸元には少女は持っているそれと同じ大きさの梅の枝が差してあった。
驚きに目を丸くしていると、少女はクスクスとまた笑う。
「はは、ははは。――っと!」
つられて笑ったその時、半歩引いた足でなにかを踏んづけた。
……なぜか、コップが床に転がっていた。
理由は定かではない。
しかし、長い時間歩きすぎたためか、足元がおぼつかない。
バランスを崩し、つい、壁際の戸棚に右の手をついた。
「あっ、そこはっ!」
叫びに似た声が、反響する。
少女が伸ばした手が、やけにゆっくり見えた。
右から左へ、襲いかかってきた大量のなにかに、視界が覆われていく。
次に目を開けたときには、簡素だったはずの部屋は、物で埋め尽くされていた。
なんとか物の雪崩から這い出し、息を吸う。
頭の上から、ヤマガラの置物が転がった。
「~~っ!! だからあれほど言ったであろう! ものは詰め込むのではなく、きちんと整理整頓しろと! 聞こえているか、伐難っ!」
声を張り上げて、硬直した。
「……待て。己れは、今、なんと言った……?」
自らの口に手を当てて、目を見開く。
口をついて出た名前に、当惑する。
顔を上げて、更に驚いた。
少女の頬を、涙が伝っていた。
「あ、あぁ、すまない、部屋を荒らしてしまった。そんなつもりはなかったのだが――」
取り繕って謝罪しても、少女は返事をしない。
ひとつ、ふたつと、涙の落ちる速度だけが、早くなっていく。
いよいよ不味くなってきた。
物の山から慌てて足を引きずり出し、ホコリを払う。
「いや、改めて謝罪させてもらう。本当に、申し訳なかった」
少女は唇を震わせながら、首をふるふると横に振った。
「なにが、悪かったのだ」
やはり、少女は首を振った。
なんども、息を吸い込み、やっとのことで口を開く。
「伐難は、伐難は……ずっとずっと、待っておりました」
「……なにを、待っていたというのだ」
「伐難は、ぜんぶ、ぜんぶ、思い出しました。伐難は、悪い夜叉でした。敵も味方もわからなくなって、伐難は、伐難は……大切な人さえも、この鉤爪にかけてしまいました。伐難は……本当に悪い夜叉でした」
「…………」
しゃくりあげながら喋る少女は、涙を拭くどころか、好きなだけ溢れさせておけばいいといった様子で、勢いに任せて言葉を続ける。
その姿に、ただただ、圧倒された。
なぜだかわからないが、胸が、熱くなる。
「でも、そんな悪い夜叉の伐難でも、ちいさな、ちいさな、夢がありました。ここでずっと待っていたら、伐難のお慕いしているあの方が、いつか、きっと、迎えに来てくれる。そんな夢です」
「…………その夢を、今も持ち続けているのか……?」
伐難は首を激しく横に振る。
そして涙にまみれた顔で、微笑んだ。
「いいえ、伐難は、もう待ちません……」
「そうか。その者は、馬鹿者だな。このような可憐な少女を待たせておいて。名を聞いてもよいか。もし旅先で出会ったならば、己れが道というものを説いてやろう」
すると少女の瞳がきらりと輝き、大粒の涙が、音を立てて床に落ちた。
「馬鹿者では、ありま、せん。だって、その方は、弥怒殿は、こうして今、伐難の前に、立ってい゛まず、がらぁ……」
嗚咽とともに、少女が崩れ落ちる。
慌てて駆け寄り抱き寄せて、ふと、思い出した。
己れはかつて、この少女を、こうして抱いたことがあると。
華奢な背中に添えられていた掌を、じっと眺める。
かつて、その手にはべっとりと赤い血がついていた。
少女の鉤爪を見る。
かつてその爪は、己れの体を、貫いていた。
己れは――己れは。
「……いつまで、泣いておるのだ、伐難」
「あ゛い……」
そうだ。
彼女の名は、伐難。
己れの、己れの名は――。
「己れの名は、弥怒。仙衆夜叉が一人、心猿大将の弥怒だ。思い出させてくれて感謝する、螺巻大将、伐難よ」
もう、すべてを思い出した。
二度と、手放すものか。
再び力強く、肩を抱き寄せる。
「っ! 伐難は、伐難は……罪を犯しました。伐難は、夜叉失格なのです」
驚いた伐難が、わずかに身じろぐ。
それさえも、まとめて抱擁した。
「いいや、お主は夜叉だ。あの時代は厳しい時代だった。己れ達は、最後まで戦い抜いた。それ以上でも、それ以下でもない」
「でも……!」
「この顔が、お主を許していない顔に見えるか」
「っ! いいえ………!」
「心猿大将の弥怒は、それほどに心の狭き夜叉か」
「いいえ!」
「……待たせたな、伐難。迎えに、来たぞ……!」
「…………はい、……はいっ! 弥怒殿っ! ずっと、ずっと待っておりましたっ! 伐難は、ずっと、ずっと……」
――――――
――――
――
「もう、よいのか?」
法螺貝を振り返り、尋ねる。
「よいのです。もう、あの法螺貝は、必要ありません」
「そうか。だがこれからどうする。この暗い海では、どこへ向かえばよいか……」
深くため息をつき、頭を抱える。
すると伐難が、ぴょん、と角を立てて、水辺へと駆け寄った。
「弥怒殿、なにか、なにかが近づいてきます!」
「敵襲か?」
「いいえ、なにかが、水の上に浮かんでいます。温かい……それもたくさん!」
「おぉ……」
思わず、吐息が漏れた。
水の上に浮かぶそれらは、ぽつ、ぽつと一つづつ明かりを灯していく。
気づけば、海原に光の道ができていた。
「これは……灯籠……か?」
「伐難の目にも、よく見えます。きれい……」
それは、あまりにも美しい光景だった。
色とりどりの灯籠が、水面より次から次に浮かんでくる。
よくよく見れば、形も様々だ。
一つとして、同じものはない。
「お前さん方、運がいい。この光を目印にここまで来てみて正解じゃったわい」
声がする方を振り返ると、あの黒い帽子を被った老人が岸に舟を寄せていた。
「これはこれは。わざわざ迎えに来てくださったのか。なんと礼を言えば……。すまぬ、己れはあの時、名すら聞かずに舟を飛び降りてしまった」
老人はかっかっかと、陽気に笑う。
「いいってことよ。名なんて大したことじゃない。なあに、どうしても呼びたいんじゃったら、そうじゃな、胡じいとでも呼ぶがいい」
「では改めて、感謝する、胡じい殿。そして、頼みがある」
胡じいは頷き、弥怒と伐難を交互に見る。
「申してみぃ」
「己れ達を、導いてはくれぬだろうか」
「ふっ、最初から、そのつもりじゃよ。ほれ、乗りなさい」
二人が舟に乗り込むと、舟は音もなく岸から離れた。
あっという間に、法螺貝が遠くなり、闇へと消えていく。
対象的に、舟は光り輝く灯籠とともに、水平線へ向かって進み続ける。
「しかし、よかったなぁ。ちょうど海灯祭の時期じゃねぇか。しかも、この灯籠の量。ははぁん、さては、前世でよっぽど徳を積んだ、英雄様ってところじゃな?」
弥怒は首を振った。
「違う。己れは、いや、己れ達は、確かに多くの民を救った。だが、英雄ではなかった。影に生き、影に消える。そういう存在だったのだ」
「にしては、この灯籠、ちっと多すぎやしないかい?」
弥怒は懐かしそうに、目を細めた。
「己れを、このどうしようもない夜叉を、英雄にしてくれた者がいたのだ」
「ほう、一体、その者とはどういう関係かのぅ?」
弥怒は腕の中で目を輝かせているばつなんに目配せをしつつ、誇らしげに語った。
「その者は、力もなく、特段賢くもなく、才能もあるわけではなかった。だが、痛みを知り、誠実とはなにかを知り、勇気とはなにかを知っていた。こうして黄泉の旅路さえも、おせっかいに照らしてくれる。その者は、いや“平安”は、我が人生、最高の――友である!」
「かっかっか、それはいい。そいつがもし、孫と同じ時代に生きていて、孫にちょっかいを掛けたりしてなければ、なおのこといい!」
老人の笑い声が、灯籠の灯火を微かに揺らした。
弥怒はパン、と膝を叩く。
「そうだ、胡じい殿、伐難。聞いて欲しい話があるのだ。まだまだ道のりは長いのであろう? ではこの記憶が掠れて消える前に、何度でも話そう。どうしても、誰かに話しておきたいのだ。傑作だぞ、聞いてくれ。この物語の始まりは、己れが、その最高の友と出会った日に遡る――」
護法戦記(完)
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あとがき
大変お待たせいたしました。
更新が大幅に遅くなり、誠に申し訳ございません。
プライベートのごたつきがようやく落ち着き、小説執筆に戻ってこられました。
これもひとえに、皆様のおかげです。心より感謝申し上げます。
本作品はこれにて終了です。長い間応援いただき、ありがとうございました。
今後の活動ですが、藍色あけびという1次創作用の名義で、カクヨムにて連載を開始しております。
ジャンルはSFですが、MiHoYoファンの皆様でしたら納得頂ける内容かと。
(ランキングにも上がってきましたので、ちょっとは楽しんでいただけるかと思います)
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