幻の夢を追いかける花 作:或る記憶
「皆様、ご機嫌よう」
その日、サンダウンレース場の上で1人のウマ娘がお辞儀する。
毛先のみが黒い芦毛に和服を基調とした勝負服を纏う彼女は遠い国からやって来た本日唯一の“名無し”のウマ娘。
「精一杯努めるので、どうぞ宜しくお願い致します」
惚れ惚れする所作ではあるが、その声は他のウマ娘や観客に殆ど伝わら無い。
彼女から発せられる日本語を理解させるにはその場所は酷くアウェーだったのだ。
130年を超える歴史を持つ、イギリスの「出世レース」。
エクリプスステークスが始まろうとしていた。
ーCoral-Eclipse now! It has started!
踊り出ろ。
踊り出ろ。
その名を知らぬウマ娘達の、隙を突いて、踊り出ろ。
日本と違う水分を含んだ地面。凹凸のあるコース。質感の違う芝。走り辛く、体力の持っていかれ方が違う。
だがそのウマ娘は既にその違いを学び終わった後だった。
ー Oh my god! Legs that don't look like Japanese Uma Musume!
踊り出ろ。
踊り出ろ。
お前を知らないウマ娘達より前へ、踊り出ろ。
彼女との約束を叶える為に。
ーThe winner of Coral-Eclipse was the French horsewoman Flocon! And second place went to Tulyar from Ireland!
深く息をする。
脚が震え、感じた事の無い疲労感に襲われる。
ーOh, my God! What a surprise!!! Asebi Botan from Japan finished 3rd in Coral-Eclipse!!!!
興奮した実況の声、握手を求めるヨーロッパのウマ娘。
それに応え、目線を上げる。
「これで……もう、走れますね。次は、ヨークの地にてインターナショナルステークスでお会いしましょう」
日本からやって来た芦毛のウマ娘は、観客席のただ1人に向かってカーテシーをした。
「ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、ボタン」
トレーナーの様な見た目の男性と他にも沢山のスタッフを連れた彼女と、トレーナーさんと2人きりの私。
ビデオ電話を除いたら実際に顔を合わせるのは2回目になる。
「良い、レースにしましょうね」
「全力でお相手させて頂きます。ハイクレアさん」
金糸をふんだんに使った美しい装飾、紫と赤のコントラスト。並び立つだけでその差が歴然と分かってしまう存在。
でも、勝負の舞台で負けるつもりなんて無い。
そこにどんな身分の差や能力の差があろうとも、私は全力でぶつかるのみ。
ーstandby
ゲートに入り、呼吸を落ち着かせる。
今日は私を除いて出走人数は9人。
10人目がゲートインを終えた音。
集中し、目の前が開けた瞬間に勢い良く飛び出す。
ーThey’re off the ten Superstars!
踏み出し、走り出して直ぐに横目に映る地面の起伏を分かり易く伝えてくる柵。
勢いを少しだけ落ち着かせ、自分の位置を陣取らせて貰う。
日本のバ場で海外のウマ娘が上手く走れない様に、私はこのバ場を上手く走れない。
今だってたった数百メートルを走ったくらいなのに息が上がりそうになっている。
ーGroup 1 Juddmonte International has passed about three furlongs from the start, but Britain's Highclere is leading the pack! Japan's Asebi Botan is behind!
目の前を美しい勝負服のハイクレアさんが走っていて、私はその後ろ。綺麗に並んで3人程の集団でその背中を見つめている。
恐らく2バ身も無い様な差。
それでも、走り慣れていない私にとっては今直ぐにでも埋めてしまいたい程の10バ身にも感じられる差。
今一度、視線を動かして距離を確認する。
トレーナーさんと事前に研究したレース場で覚えた風景から考えて1000メートルは通過している。
ここからが正念場。
本当に怖い、適正の壁と莫大な経験との戦いだ。
ーWith five furlongs to go, the horsegirls in the back of the field are gradually starting to advance their legs! Come on! It's now the moment of truth!
日本のレースでも苦手な蹄鉄を踏み込む音が鮮明に頭に響く、少しだけ心がザワザワとして思わず脚を進めそうになるが、理性で必死に押さえ付ける。
まだ動かない、もう少しだけ、あと、ほんの少しだけ。
ーCome on! The lead Highclere has gone for the last spurt!
ハイクレアさんだけが1人、最後の直線に入る。
私も遅れて、並んでいた2人のウマ娘さんと後方から追い上げて来たウマ娘さんに追い抜かされて、漸く直線に入る。
「……ここっ!」
牡丹色の花弁が視界に舞う。
電撃が走る様に身体が震え、蹄鉄を踏み込む脚に力が湧く。
世界に今、色は要らない。
今いるのは、あの背中を追い越せる力と、狙いとなる輝く金糸の色だけ。
日本では味わえない。一世一代の大勝負。
私、凸凹の地面を走るの得意なんです!
俺の担当するウマ娘は、イギリスの地面を踏みながら得意げにそう言った。
「どうしてだ?」
心の底から出た疑問を投げ掛ければ、担当であるアセビボタンは自分の思い出をポツリポツリと話し始める。
「実家が山の近くで、昔からよく山で遊んでいたんです。山道って自分でも驚く程に凸凹で、歩き辛くて、後は」
日本だけど、今よりもずっと完璧でない様なターフの上を走っていた。
「そっちは夢ですけどね」
頬を掻きながら、照れた様に話す姿を見てこれが世に言う“ウマソウル”なのだなと考える。
例え夢だろうが、例え現実で無かろうが、イギリスのバ場に対応出来るのなら願ったり叶ったりで、こちらにも指導に力が入る。
「大丈夫だよ、ボタン。君の凸凹を走る力は、本物だ」
俺の目の前をバ場の違いをもろともせずにスピードを上げて行くボタンの姿。
そもそもの話、彼女はとても頭が良い。どんなレースでも、どんなバ場でも一度走れば覚えてしまう。ウマ娘にとって、チートに似た性質を持っている。
「君は、このレースで一番完璧なんだ」
その身体と記憶に刻まれた力があれば、君は最強だ。
アセビボタンならばきっとヨーロッパの最高峰と渡り合える。
1人、2人、3人を抜かす。
目の前にはあと2人。
でも、それでも、距離が足りない。
せめてあと100……いや、50でも残っていれば彼女の背に追い付くのに。
駄目だ、足りない。
ーHighclere wins Juddmonte International! And in second place was Asebi Botan from Japan!
ゴールした瞬間にがむしゃらに走った分のツケが回ってくる。先月、エクリプスステークスを走ったよりも段違いな疲労と、身体中の痛みに顔を顰める。
歓声もお互いを称え合う声も聞こえない。
そんな世界の中で唯一耳に入った音。
「ボタン。世界の壁、まだ高いでしょ?」
ほんの少し滑舌の甘さがある流暢な日本語。
目線を上げれば息が切れた程度、私とは正反対な様子の
何度か深く呼吸をして、途切れ途切れに声を絞り出す。
「えぇ……ほん、と、に」
「でも!本当に怖かった!……有難う。ワタシと走ってくれて、なんだか過去の自分を超えた様なの!!……愛しているわボタン!」
途端、私の身体は彼女の勝負服に包まれる。
背中に回された両手。私も今だけなら許されるのだろうと思って、その腰に、両手を回す。
「わ、私もです……ハイクレアさん……それにしても、疲れました」
「ふふっ!明日はワタシと一緒にベッドでゴロゴロ、ね!」
「それはなんとまぁ、素晴らしい提案です」
悔しさの味と、微笑みの暖かさ。
次に来る時は、リベンジを。