幻の夢を追いかける花 作:或る記憶
競馬場へと現れた無名の馬と人。
期待はされず、注目もされない、背景の存在。
「旅をしよう」
いつしか、誰もがその馬の名を口にする…
夏の猛暑も過ぎ去り、冬の寒さへと突入し始めるこの季節に私は勝負服に身を包みその時間を待っている。
緊張は、していない。
只、私の走りをするだけである。
少し緩んだ耳飾りのリボンを結び直して、今一度鏡で全体を確認する。
和服と洋装をミックスした様な形の勝負服は、ファッションに疎い私に変わってトレーナーさんが考えてくれたものである。
大丈夫だと分かりつつも、靴紐を結び直す。
やっぱり緊張しているのかもしれないな。
「今大丈夫か?」
3回のノックの後に、くぐもったトレーナーさんの声。
その声に了承の言葉を返せば、トレーナーさんが控え室へと入る。
「緊張は、してないか」
「……しているかも、しれません」
「そうか。でも、お前なら大丈夫だよ。確かに、少しスランプにも悩まされたが、トレーニングは完璧にしてきた。後は当たって砕けろだ」
「砕けちゃ駄目でしょう?」
「それもそうだな」
少しの小言を言い合って、笑う。
あの日、日本ダービーで2着を取ってから私はスランプに陥っていた。
いつも通りの筈なのに勝てなくなって、怪我をしている訳では無いのに上手く走れなくなった。
あの日から、鹿毛のあの子へ追い付く所か影すら踏めなくなった。
それなのに、そんな私なのにこの名誉あるレースへと招待が掛かって、これで勝てなければ本当に私は終わりだな。なんて、考えて。
「そろそろ時間か。パニックにはなって無いな」
「はい。教えられた事も忘れてません」
「良しッ!じゃあ、やってみようか」
「……はい」
初めての感覚に未だ戸惑う私は、トレーナーとの会話も上手く出来ない。
レースに出るのが"怖い"と思った。
目線はずっと下がったままで、トレーナーさんの顔すらも見る事ができない。
「アセビボタン!」
「へ!?あ、は、はいっ!」
「俺はボタンの走りを見た時に心を奪われた、惚れ込んだ!夢を応援したいと思った!でもよ、絶対に勝てるとも、絶対に勝てなんて言葉は俺の身分では言えない。だからさ、もう1度。俺にアセビボタンが笑顔で走る姿を見せてくれ」
「笑顔……?」
突然名前を呼ばれて、突然手を大きな両手で包まれる。
これも、初めての経験で今までトレーナーさんにされた事の無い行為。
だけど、どうしてか、酷く心が落ち着いた。
「あぁ、気付いて無いだろうけどな。あの子に勝ちたい、勝負結果はどうでも〜なんて言ってるお前、レース中も1着を取った時も最高に良い顔してるんだぜ?」
「そう、なんですか」
「そうなんだよ。だからさ、その顔を何万人来てるかは知らねぇが、観客に見せつけようぜ」
「なんですか、それ」
「担当トレーナーからのお願いだよ」
「……えぇ、そうですね。見せつけてきます、だから、1番良い所で見ていて下さいね?2,000メートルの旅なんて、2分もあれば終わっちゃいますから」
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苦しい、煩い、バ群に飲まれて身動きが取れない。
体力は残ってる筈なのに、周りを囲まれた所為で心が削られていく。
バ群は苦手だ。走る音しか聞こえなくなる。
他のウマ娘達が持つプレッシャーに脚がすくんでしまう。
【さぁ!各ウマ娘最終コーナーへと差し掛かります!1番人気のアセビボタンはまだバ群の中か!?】
誰の声も聞こえ無い。
只の、雑音に包まれる。
「行けーッ!!ボタン!!走れッ!!」
—頑張りなさいッ!
【先頭はメカニカルバイパーまだ逃げる!3バ身開いて……おぉっと、ここでアセビボタン抜け出した!ラストスパート、凄い脚だ!やはり、このウマ娘は強いぞ!メカニカルベイパーとの一騎打ちになるのか!】
声が、聞こえたんだ。
私を応援する声が。
きっと向こうから聞こえてきたあの声はトレーナーさんで、釣られて思い出したのはお父さんの声。
お父さんも、私が競走をする時はお兄ちゃんと一緒に応援してくれていた。
「ボタン、走れ」、「頑張りなさい」って。
まさかトレーナーさんから同じ台詞で応援されるなんて思ってなかったけど
「ここで、頑張らないといけないんだッ!!」
【アセビボタン!今1着でゴールッ!凄い末脚で3バ身あったメカニカルベイパーとの差を交わす所か、5バ身の差へと変えた!!"王者と言われた1輪の花がこの府中にて、再び咲き誇りました!!"】
「……見て、いてくれましたか」
「見たさ。この目で、特等席でな」
天皇賞(秋)
1着アセビボタン
2着メカニカルベイパー
3着ドカドカ
人を愛した馬と、馬を愛した人。
心を通わせ、共に走る。
魂は、1度の敗北では砕けない。
アセビボタン。その旅路に、誰もが目を奪われた。
耳に届いたあの日の言葉。
1輪の花は再び咲き誇る。
「完璧すらも超えて行け」