六花、欠けることなく   作:ふみどり

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本にしたときの書き下ろしです。


クロノスタシス

 ふわ、ふわと意識が揺れる。

 酒にはあまり強くない(と言われるけど別に俺が弱いのではなく周りが強いのではと疑っている)のだが、宅飲みでくらい酔っぱらっても罰は当たらない。そう内心で開き直りながら、目の前で繰り広げられる馬鹿騒ぎを肴にまたビールを呷った。

「あってめヒロ、何しれっとひとの皿から唐揚げ奪ってんだ!」

「あ、バレた。ごちそうさま~」

「まあまあ陣平ちゃん、そんな怖い顔しなさんな。俺たち同期、酸いも甘いも仲良く分け合っていかないと」

「それらしいこと言いながらひとの皿に手を伸ばすな、萩原(ハギ)。これは僕の唐揚げだ」

「お前らなぁ……ほら、これやるから喧嘩せずに、ってコラ一斉に来るな!」

 大皿一杯の唐揚げ、誰が揚げたと思ってんだろうな。

 そう思っても口には出さず、また新しい缶のプルタブに指をかける。ぷしゅ、と空気の抜ける音が景気よく響いたが、誰も気づいた様子はなかった。そりゃまあ、適当に流しているテレビの声すらあまり聞こえないほどの騒がしさだ。

 防音はしっかりしているとはいえ、時間帯を考えれば多少は自重してほしい。が、何故だか今日はあまり諫める気にはなれなかった。

『最近、賑やかだねぇ』

 今朝、そう俺に声を掛けたのはこのマンションのオーナーだった。年に数回くらいしか顔を見ないおじいさんなのだが、昔からここに住んでいるので付き合いは長い。

 うるさかったですか、とつい謝ろうとした俺にゆっくりと首を振り、オーナーは緩く微笑んだ。かつてよりずっと皺の増えた顔に、今さらながら時の流れを実感する。けれど目尻に刻まれた皺は、老いよりも温かみを感じさせた。

『良かったねぇ』

 え、と目を見開いた俺に構うことなく、オーナーはゆるゆると歩いて行った。

 良かったねと、そう言われた理由。そりゃ、それがわからないほど鈍くはなかった。長く付かず離れずの距離感で接してきたひとにそれを言われたのは意外だったけれど、実は見守られていたのかもしれない。そう思うと少しばかり胸の奥がくすぐったい。

 相変わらず部屋の中は「賑やか」を軽く飛び越えて騒がしい。一人暮らしの部屋に響く、いい歳した野郎どもの馬鹿騒ぎ。普段は炭酸の弾ける音すら大きく響く空間が、今はどうでもいい音で満ちていた。

 父さんと二人で暮らしていたときですら、こんなに騒がしいことはなかった、……いや、喧嘩のときはもしかしたらこれくらいうるさかったかもしれない。

 特に、俺の進路についての話になるとひどかった。

『警察なんざ絶対ェ許さねえって言ってんだろクソガキ‼』

『進路には口出さねえっつった舌の根も乾かねえうちにそれかよクソ親父‼』

 相当に怒鳴りあったし、まあ手と足もちょっと出た。

 さすがに現役のSP相手に対等な喧嘩はできなかったが、何故だかうちの親父は俺の顔を殴ることができないのでそのアドバンテージは存分に活用させてもらった。それでもいつも最終的に締め上げられて頭に拳骨を喰らったのだけれど。

 父さんは、警察官になるのだけはやめろと言った。初めて俺が父さんに警察官になりたいと言ったのは確か中学のときだったが、それ以来幾度となく喧嘩した。俺が何を言おうとも聞く耳をもってはくれなかった。

 その理由はわかっている。あのクソ面倒な組織、その中で生き残るには飲み下さなければならないものが多すぎる。

 父さんは、誰よりそれをわかっていた。

『……お前の正しさが通用しない場所だ、あそこは』

 お前ならどこでだってやっていけるのだから、あえてそこを選ぶな、と。

 だったら何でアンタはそこに居続けるんだと言い返してみれば「俺はいいんだよ」とか言いやがるクソ理不尽なオッサンだったが、俺を思っての言葉だったことはわかっている。わかっているが、俺も折れるわけにはいかなかった。

 どんな理不尽が待っていても、自分を貫けるだけの準備をした。父さんという警察官の背中を見ながら、俺に足りないものをひとつひとつ数えて身に着けてきた。

 そうやって辿りついた先に俺の求める答えがあるのなら、そこがどれだけ汚かろうが苦しかろうが、ひたすらに孤独だろうが構わない、と。

 覚悟に覚悟を重ねて自分を磨いてきたというのに、――蓋を開けてみたら。

「ちょ、やけに静かだと思ったら旭ちゃんこれ全部飲んだの?」

「えっ珍しい。大丈夫? 気持ち悪いとかない? とりあえず水飲もうな」

「お前な、自分の酒量くらい把握してんだろ」

「急性アルコール中毒は馬鹿にできないんだぞ。……柊木? 僕たちがわかるか?」

「こりゃアウトだな。柊木、水飲んで横になれ。片づけはちゃんとしとくからよ」

 まっすぐに受ける五人分の視線。そこにある温かさ、気遣い。

 俺を囲む騒がし過ぎる気配は、うるさいけれど嫌じゃない。

「……ふふ、」

 口から勝手に笑いが漏れる。諸伏から渡された水ごと身体が揺れ、手の中で大きく水が跳ねた。

 なあ父さん、今の俺を見てみろよ。辛そうに見えるか。苦しそうに見えるか。警察官になった俺を見て、どう思うか教えてくれよ。

「ふ、くく……、」

 笑いながら身体が揺れる。床に落としかけたコップをすんでのところで降谷がキャッチし、倒れかかる俺の身体を伊達が支えた。

「あーもう濡れちゃったよ旭ちゃんってば。着替え探してくるわ」

「オレ床拭くもの取ってくるね」

「んだよコイツ、こんな笑い上戸になるやつだったか?」

「疲れがあったのかもしれないな。それにしても珍しいが」

「オイオイいつまで笑ってんだ柊木。箸が転んでもおかしい年頃じゃあるまいに」

 ふわふわ揺れる頭に、くらくらと回る視界。

 ああ飲みすぎた、と頭の端っこに追いやられた理性が呟くが、俺の身体はただ笑う。真上から覗き込む皆の顔が、何かもう、とにかく笑えた。

「あ、はは、」

 なあ父さん、覚えてるか。どれだけ反対されようが絶対に警察官になってやるって啖呵切った俺に、何て言ったか。

 アルコールで揺れる頭でも、その声ははっきりと思い出せた。

『警察官になったら、……お前は、絶対に後悔する』

 奥歯を噛み締め、絞り出された言葉。あのクソ親父の心からの忠告。父さんがそこまで言うなんて、と初めてほんの少しだけ心が揺れた。

 だけど、それでも諦めてやれなかった俺はやっぱり親不孝者なのかもしれない。

「……ふ、」

 まだ肩は揺れている。腹筋の痙攣が止まらない。

 しょうがねえなという声とともに、力強い腕がそんな俺を抱き起こした。

「ったく、吐くなよ柊木」

「ふらぐ……?」

「じゃねえ! というか聞こえてんじゃねーか!」

「は〜い旭ちゃんお着替えしようね〜」

「まあ、会話ができるなら大丈夫か?」

「念のためにビニール袋も取ってきたけど」

「ああ、枕元に転がしといてやるからヤバかったらちゃんと使えよ柊木、明日のベッドが大惨事になってたら笑ってやっからな」

 あれよあれよという間に服を着替えさせられ、半ば無理やり水を飲まされ、米俵のように持ち上げられたと思ったらベッドに放り込まれた。相変わらず軽いなとか言うな伊達このやろう。

 俺をベッドに転がして布団を頭からかぶせた伊達は、柊木、と薄暗い部屋に静かな声を落とす。

「体調悪くなったらすぐ呼べよ。スマホ、届くところに置いとくからな」

「う……」

「とか言いながら起き上がろうとすんな馬鹿」

 反射的に起き上がろうとした額を即座に押さえ込まれ、うぐっと変な声が出た。それにククッと喉の奥を揺らした松田は、寝ろよ、といつになく穏やかな声で言う。

 その肩口から俺の顔を覗き込んだ萩原は、駄々っ子だねえと愉快そうに笑った。

「旭ちゃん、今日は大人しく寝な? また明日あそぼ~ね」

「おまえはしごと」

「何でそういうとこだけしっかり反応すんの?」

 それでこそ柊木、と肩を揺らす諸伏は枕元のチェストにペットボトルを置く。

「明日の朝はオレが用意するからゆっくり寝てていいよ。冷蔵庫のもの適当に使っていいよな?」

「ん……」

 ぽやぽやする脳みそに、諸伏の優しい声が染み入ってくる。その気遣いはありがたいのだが、何でこいつらただの酔っ払い相手にこんなに手厚いのだろう。

 それが不思議なような当たり前のような、妙な心地のままぼんやりと視線を動かす。すると、諸伏の灰色より少し高いところにあった蒼と目が合った。

 ぱちりと瞬きをした蒼は、一瞬の間を置いて柔らかく細められる。

「……おやすみ、柊木」

 そう言われてしまえば、大人しく布団にくるまらざるを得ない。俺が諦めて脱力したのを見て、五人はそっと部屋を出て行った。

 ドアひとつを隔てるだけで、あの賑やかさがやけに遠く感じる。

 頭は睡眠を求めているのに、妙に目が冴えている。ぼんやりと目を開けたまま視線を揺らすと、ふとベッドサイドに置いた時計が目に入った。夜光塗料の乗った時計の針は薄暗い部屋のなかで浮き上がって見える。

 目に付いたときは一瞬動きをためらって見えた秒針。しかしそれはただの錯覚で、秒針は確かに一定のリズムで進んでいく。時を刻む音は止まることなく、巻き戻ることも決してない。

 容赦なく突き進んでいく秒針に、いつだって俺の前を歩いていた背中が重なる。自分になんぞ付いてくるなと、こんな獣道を選ぶなと言いながら、俺にその道の歩き方を教えてくれたその背中。いや、教えてくれたという言い方は正しくないだろう、その背を見て俺が勝手に学んでいただけだ。何せ父さんが教えてくれたことなんて喧嘩の仕方くらいで、それだって実地で殴り合って教えられたという程度だ。

 ただずっと、俺の前を歩いていてくれた。立ち止まってくれないどころか、とっとと俺を置いて過ぎ去ってしまった。精一杯の忠告だけを遺し、振り返ることもなく。

ふは、とつい息が漏れる。知らず、口角が上がっていく。

 時計から視線を外し、天井を見上げる。瞼を閉じ、隣の部屋から漏れる光から逃れるように目元を腕で隠した。

 瞼の裏に現れた記憶の中の面影に、腹の底からの本音を投げつける。

 

 

 ――ざまあみろクソ親父、後悔どころかめちゃくちゃ楽しいわ。

 




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