三時間目の休み時間になった。
田上は、相変わらず、タキオンの祖父母の家行きが不安だったので、タキオンにこう言った。
「おばあちゃんち…、大丈夫かな?」
「おばあちゃんち?」とタキオンが聞き返した。
「…そう。…大丈夫かな?」
「……まぁ、……ちょっと君の上に乗らせてもらおうかな?」と来て間もなくパイプ椅子に座ったタキオンは、落ち着く暇もなくまた田上の膝の上に座り直そうと言った。
田上はそれを快く受け入れて、タキオンを膝の上に座らせた。
膝の上に座ったタキオンは、愉快そうに椅子を軋ませて言った。
「おばあちゃんちに行くのが不安のようだね」
「そう。……まぁ、何が不安かって言われると、やれることはやりつくしたような気がするんだけどね」
「和菓子はちゃんと届きそうかい?」
「発送のメールは来た」
「それは良かった。……朝の出勤の時はどうだった? それらしいのは居たかい?」
「それらしい記者っぽいのはいなかった。多分、皆俺が寮住まいだと勘違いしてくれているんだろうね」
「そもそも、そんなに興味が無いのかもしれない」
「そう? 昨日、ウマッターを開いたら、トレンドに俺とお前の名前が載っててビビったよ?」
「載ったくらいじゃないかい? そんなに大した話題じゃないもの。それに、すぐに学園側が火消しをしてくれただろうしね」
「……こういう場面を撮ることができたら、もっと見栄えのする記事を作れたのにね」
「ふふふ。…そしたら、君はもっと怯えちゃうから、私は嫌だな」
「……そうだね」と田上は単に答えた。
元より、この話題にそんなに話す事もないので、ここで言葉が途切れて、二人は抱き合い、身を寄せ合う。お互いの肌と肌が触れ合って、匂いが鼻をくすぐるだけで、少々愉快に椅子が軋む。
今が幸せな瞬間だと思って、二人は嬉しそうに抱き合っているが、不図すると、田上の脳裏には祖母の家への不安が付き纏ってくる。
田上としては、ただの臆病気味な自分が、また今回も少々警戒の念を募らせているだけだと思う。実際、田上には他に不安がる節もなかった。結婚とか将来という点から見れば別だが、そういう点で見たって、何だか不安と言うだけで、何が不安という事もできない。具体的に何が不安だと言えているのならば、今頃、ここでこうしてタキオンと抱き締め合って幸福に浸っていないような気もする。
田上はタキオンを抱き締める事で、少々の不安を誤魔化していた。
実際、明日大きな用事があるとしたら、緊張する人は少なからずいるだろう。そして、緊張があるのだから、不安にも思うだろう。神経症紛いな事をして、荷物を度々確認する人も居るかもしれない。
田上もその内の一人である。ちょっとした不安を持って、明日の予定を見つめている。不安は不安で、それ以上でもそれ以下でもないかもしれないと思う。
ただ、結婚とか言う、背後に蠢いているものは存在している。それは少々心残りではあるが、それを今どうこうしたって詮無い事だ。祖母の家には行くし、タキオンは結婚するつもりでいる。
――自分は?
果たしてどうかは知らない。自分の将来がどのような方向へと転がって行くのかは分からない。分からないから、タキオンの様に物事を先へ先へと推し進めていくのは不安なのである。
不安の発生源が、結婚であるのならば、今はどうしようもない。どうしようもないったら、どうしようもないのであるのだが、無視をしておく分だけ不安は残る。その不安が、祖母の家に行ったら解決されるのかと言えば、そうではないだろう。実際、祖母に結婚を許されたとしても、田上は更なる重荷を背負って気が重たくなるだけだ。結婚するかしないかは知らない。このまま流れに乗って行けば、タキオンが自分から結婚を推し進めてくれそうだ。
それでいいのだろうか、とも思うが、何はともあれ、タキオンが自分の事を好きで居てくれる限りは、田上の将来は安泰だろう。あれでも、あの人はしっかりしている所がある。優柔不断な自分よりかは、ずっときっぱりと物事を見つめている。きっぱりすぎて、少々面倒なところもあるが。
田上は、タキオンと昼食を食べていた。マテリアルとエスは置いてきた。タキオンは田上と一緒にご飯を食べたいと言い、その他とは食べたくないと言っていたからだ。マテリアルとエスは、二人でご飯を食べるそうだった。
二人は、ある程度の会話を交わしながらご飯を食べていて、話題を提供してくれるタキオンが話してくれるのは、朝日川家の家政婦の事だったり、祖父母、伯父家族の事だったり、家についての事だった。
庭が広いという話だったので、田上はそこには少し期待をしていた。庭が広くて、植物が植わっている日本庭園らしい。自然は好きだし、お洒落な物も好きだ。自分を着飾るのは、大した面白みもなくて、あまり好きではないが、お洒落に整えられた物を見るのだったら良い。特に、自分がお洒落に整えるのではなくて、見る分だったら尚良い。いや、別に、お洒落に整えてもいいのだが、素人の自分が頑張ってやるよりかは、プロが考えて綺麗に整えてくれたものを勝手に見るのだったら、それで充分だ。どうやら、タキオンの家というのも、庭師が定期的に来て、整えて行ってくれるものらしい。
一つ楽しみができたが、そこにはやっぱり祖母が居るのである。田上が、ご飯をもぐもぐと食べながら、じっとそう考えていると、タキオンがこう言った。
「おばあちゃん、多分、庭を褒めたら喜ぶと思うよ。自分で刈ってるんじゃないけど、見栄にはなるからね。それに、君の様な老人にモテるであろう男児が、興味津々で見てくれたのなら、庭師を呼んだ甲斐があるというものだろうしね」
「………おばあちゃん、もしかして、チョロい?」
「チョロいとも。…そういう心意気で行きたまえ。そして、とにかく、無理に褒める事はしなくていいから、興味を持った物の感想は積極的に口に出したほうが良い。……君の家に絵画はないだろ?」
「…あるわけない。…おばあちゃんちにもないよ」
「私のおばあちゃんちにはある。 絵画を見るのは好き?」
「……まぁ、……芸術志向強くないけど、…印象派の絵は嫌いじゃないよ?」
「印象派……、確か、……複製画のなら、ジョエルの絵があったかな?」
「へー、ジョエル?」
「そう。……確か、『蝶』だったかな?」
「へー、それの複製画?」
「そう。おじいちゃんとしては、――訳の分からない下手な絵よりも、名作を飾れ、みたいな志向だったかな?」
「へー、……お金持ちなのに、オークションとかで買ったりしないの?」
「そういう趣味はないらしいがね。偶に、普通の絵なんかも飾ってあるがね。…偶に、と言うか、大体普通に、どこそこで買ってきたおじいちゃんの趣味らしい絵なんだが、そこに、おじいちゃんが感激した名作の複製画も入れているというわけだね」
「へー」と田上は、感心しながら、ご飯を食べた。「………おじいちゃん、そんな人なんだ」
「そうだね。…まぁ、そこまで厳しい人じゃないよ。そんなに警戒しなくてもいい」
「へー」との感嘆詞の後に、田上はため息まじりに言った「……まぁ、……緊張するのは変わらないけどね」
「……おじいちゃんの方は、君の事はそんなに悪く思ってないと思う。…多分」
「多分?」
「多分そう。よっぽど悪い人間じゃない限り、自由にしなさい的な人だよ」
「……よっぽど悪い人間かもしれないよ?」
「…誰を捉まえてそう言っているんだい? 君程の男はそうそういないよ」
「………お前みたいな彼女を持って、俺は幸せもんだよ」と田上は少々皮肉っぽく言った。それが、タキオンの感情を煽っているようでもあって、ともすれば、タキオンもそのまま反論してしまいそうになったが、彼氏の厭世的な部分だと解釈して、穏やかに言葉を返した。
「そうだろう? …君の好きな人だもの」
「……なんで、お前みたいな人間を好きになったんだか」
「………言葉に気をつけないと、折角の彼女が居なくなってしまうよ?」
「………そうなるのも、寂しいもんだね…」と言いながら、田上はタキオンから目を逸らして、ご飯を食べた。
煽るような言葉を吐いた田上も、その事に気が付くと、言葉の裏に謝罪を忍ばせて、「タキオンが居ないと寂しい」と言ってくれた。
タキオンは、これに満足を覚えた。田上が、寂しい寂しいと言って、自分を求めてくれるほど、タキオンは満足を覚える。田上が、自分を撥ね除けるような言葉を吐く時だって、その裏の方には、寂しさが存在している。タキオンを撥ね除ければ、自分が寂しくなるのを忘れて、そう言ってくるのである。最早、自分は圭一君にとって、なくてはならない存在で、隣に親しい女性がいる温かさを丹念に丹念に擦りこんでゆかなければならないのだ。そして、それはもうほとんど成功している。
圭一君にとって、自分は全てであり、別ち難いものであり、また、少々の矛盾がある者である。自分にとって圭一君が全てであるように、圭一君にとっても自分が全てであってほしい。タキオンはそう思う。支配すれば簡単だが、それだと、向こうはこっちの事など想ってくれはしない。あくまでも、自らタキオンの事を思ってくれなくてはならない。
大概、タキオンに心酔、惚れ切っている田上でも、その心に咎めるものがあるらしいから、偶に、こう言った撥ね除ける言葉を吐く。それに、自分が真面に反応すると、やっぱり、諍いが起きて、双方に不利益になるだけだ。やるのだったら、田上がタキオンを抱き締めて、その愛しさを再確認させなくてはならない。
残念ながら、他の人がいるところで抱き締めさせようとすると、またややこしくなって、双方に不利益が生まれるだけだが、言葉としてなら、間接的に抱き締める事はできる。
ただし、タキオンとしては、もっと身と身を寄せ合って、抱き合う方が断然嬉しい。そして、田上が寂しいと言ってタキオンを抱き締めてくると、少々悪い事をしてないかと気掛かりになる。別れてしまうのはタキオンの本意ではない。できることなら、このまま一生と言わず、来世でも一緒に仲良く暮らしていたい。
今日もトレーニングは無し。だから、二人は放課後の学園をぶらぶらしようとしていたのだが、ここですっかり忘れていた修さんたちへの訪問を思い出した。だから、田上は少々気遣いを持って、タキオンは何の気遣いも抱かずに、今はもう古巣となってしまった寮内へと上がりこんだ。
特に、二人が歩いていても咎められることはなかった。田上は、どうか誰にも声を掛けられませんようにと考えながら、自分も寮の一員であるような顔をして寮の中を歩いていった。
食堂に着くと、二人が夕食の支度をしている。まだ、田上たちには気が付いていないし、飯時でもないので、食堂に人も居ない。田上たちはそんな中をスタスタと歩いて行って、カウンターまで来ると、「修さん、節子さん」と声を掛けた。二人の老人は、すぐに目を上げて、声を掛けてきた人物が誰であるか確認すると、途端に目尻に皺を寄せてにっこりとほほ笑んだ。
「あらぁ、タキオンちゃんに圭一君!」と節子さんが言って、二人の方に近寄ってきた。まな板に置かれた野菜は、無造作にそこに置かれたままである。修さんもにっこりと笑って、「よー来たねー」と言った。
「引っ越してからなんやかんやあったもんで、あんまり来られませんでした」と田上も少し修さんの方言に引っ張られながら、言い返した。節子さんは、ニコニコ笑って、「そうねぇ」と応じた。そして、タキオンの頭に手を伸ばして、よしよしと撫でて、田上の頭には手が届かなかったので、その手をよしよしと撫でながら言った。
「宝塚記念はよく頑張ったねぇ。五着だったけど、よう怪我なく帰ってきたよ」
タキオンは、頭をちょっと下げて「ありがとうございます」と答えた。田上も、それに倣って、「ありがとうございます」と答えた後に、言った。
「次は、優勝狙いたいですね」
「無理はしないほうが良いよ、無理は」と節子さん。
タキオンは、何も答えずに、二人のやり取りを見ていた。それから、節子さんは、「なにかやれるもんはないかな?」と言って、奥へ引っ込んで行ったのちに、飴を二つ持ってやって来た。
「はい。宝塚記念を頑張ったご褒美。……夕食は食べていかんの?」
「ああ、寮生でもないんで、…あんまり駄目かな、とも思って」
「あっ、圭一君、そういや、熱愛報道が出たらしいね?」
「ああ、見ましたか?」
「こっちもちょっと心配してたのよ。圭一君びっくりしてないやろか、って修さんの方も頻りに言っとってねぇ。大丈夫?」
「ああ、まぁ、ちょっとびっくりはしましたが、まぁ、…実生活にそれ程影響も出ていないので、大丈夫かな、と」
「あんまり無理はせんようにね。体壊すのが一番ダメよ」
「ああ、はい。無理ないよう頑張ります」
「タキオンちゃんも怪我だけはないようにね」
「はい」とタキオンは、少々余所行きの顔で頷いた。それから、節子さんは「お茶淹れるけど?」と二人に声をかけたが、流石に、お茶をのんびり飲んでいくほど、ここに留まる予定もなく、「二人で、散歩している途中でここに寄れたので、ちょっとやめておきます」と田上は答えた。
節子さんは、断られたことで特に気を悪くすることもせず、「偶には遊びに来てね、寂しいから」と言って、去り行く二人を見送った。田上は、この実の祖父母ほどの親しさもなく、かと言って、多少は気に入られている自覚もある二人の老人に、どう接すればいいのか判じかねた。そうは言っても他人であるが、他人として見捨てるのには、あまりにも憐れなような気がする。もしかしたら、そう思っているのは自分だけなのかもしれないが、悶々と考えていた田上の横で、タキオンがこう一言言った。
「魔性の男児だね」
田上は、そう言ったタキオンの顔をじっと見つめてから、また考えに耽った。
二人はまた、どこかに行き損ねて、屋上でぼーっと空を見つめていた。空を飛行機が割って進んで行く。田上は、それをぼんやりと見つめていたが、タキオンは、静かに穏やかにトロトロと湿気の入り混じった暑さを感じながら田上の横に寄り添い、半分横たわるようにして壁にもたれていた。
屋上にはあと二人居て、一方は、南校舎側の柵で空をぼんやりと見ていて、一方は、北校舎側の角の柵で、こちらもぼんやりと景色を見つめていた。もしかすると、トレーニングをしている人達でも見ているのかもしれない。
田上たちは、屋上に上がってくる階段を覆った壁に持たれて、影でのんびりとしていた。限りなく長閑で、不図すると、タキオンの息の音が聞こえてくることもある。
タキオンは、ほとんど眠ったようにじっとして、話すこともせずにそこに居たのだが、意識はちゃんとあるようで、田上が身動きをしてタキオンから少し離れると、タキオンもそれに合わせて田上に寄り添ってきた。そして、田上がタキオンの顔を見ると、半ば目を瞑ったり開けたりしながら嬉しそうに微笑んでいた。田上としては少し暑いと思っていた。
もうすぐ夏だ。夏といえば、ノスタルジーだ。あとは、戦争のニュースも多くなったりするし、お盆もある。初盆なんかそうだろう。悲しい思い出だ。母が死んだときの初盆は、特に暑い年だったのを覚えている。
暑い日の中で、寺に入って、坊さんのお経を聴いているときに、力を入れすぎて手が痺れてしまったのをなぜか鮮明に覚えている。辛い。そんな思い出も早いもので、もう十年も過ぎている。それに、恋人までできてしまった。しかも、年下の女子高生とだ。
母さんが生きていたら何と思うだろうか。……さっぱり分からない。果たして、これを良しとしてくれたのか、悪しとしてくれたのか。どちらにも転びそうな気もするが、可能性として、やはり大きいのは、――年下の女子高生に手を出すのはやめておきなさいと言うだろう。ただ、――付き合ったものはしょうがないから、最後まで大切にしなさいとも言いそうな気がする。どちらになるかは自分には分からないが、結局、母さんはもう死んで、過去の人となってしまったのだからしょうがないだろう。
田上は、はぁ…と一つため息を吐いて、空を見つめた。先程空を割って進んでいった飛行機は、今はもう飛行機雲を残すばかりになって、空の彼方へ消え去ってしまっていた。
やはり、夏は死ぬのだろうか? と田上は、空を見つめながら考えた。初盆にしろ、原爆にしろ、終戦にしろ、ノスタルジーにしろ、人間は過去を振り返って死んでいくのだろうか? トンボがご先祖様運んでくるなら良い。東京に出てしまった自分にもどうか先祖を運んでやってくれ。それとも、精霊ウマだろうか?
元来、ウマ娘は別の世界と繋がっているんじゃなかろうか、という信仰がある。だから、精霊ウマもあの世とこの世を行き来できるウマ娘が先祖を連れてきたり、その乗り物となる牛が採用されたりするのだ。
牛にしろ、ウマ娘にしろ、幽霊にしろ、過去を連れてこれるのならば凄いものだ。信仰心の薄い田上は、そのようなことをあんまり信じない。尤も、カフェという人の傍に居ると、そういう怪奇現象を見たこともあるのだが、どっちにしろ、母が見えないのならばしょうがない。母が見えたって、特に話したいこともないからしょうがない。辛うじて話せることといえば、ここ最近彼女ができたよ、ということくらいである。死んでいる母であれば、自分に彼女ができたことは喜んでくれるだろうか?
――喜んでくれるかもしれない、と田上は思った。自分が死んで、あとが見守られなくなる環境にいるのであれば、息子に彼女ができたことだけでも嬉しいだろう。年下で女子高生の彼女でもいいから、大切にして、家庭を作って生きてほしいと思うに違いない。死んでる身からすれば、息子の幸せが第一で、倫理観などそっちのけだろう。
そう思うと、田上もタキオンを大切にしようかな、という気が出てきたが、やはり、田上の脳内にある厭世的な考えには勝てそうもなかった。
タキオンが幸せになるならいい。ただ、自殺という単語が頭から完全に抜けきっていない今の田上では、結局タキオンを幸せにできずに終わってしまうのではないかと思う。そのような女性を目の前にして、憐れだと思わずにはいられないだろう。幸せになることを端から諦めきっている自分に向かって、――幸せになろう、だなんて言うのだから。幸せというものが具体的な形になって、自分の前に現れるのならば、その顔を拝んでみたいものだ。
――それは、タキオンの姿をしているんじゃないか? とも思ったが、タキオンが幸せだということになると、自分には少し荷が重すぎる。もう少し軽くしてほしいものだ。例えばゲームとか、漫画とか、小説とか、そんなことで幸せになれるのならば、自分は喜んでそれを受け入れよう。ただし、今、目の前にタキオンという幸せがあって、それを受け入れるのに苦戦しているから、自分はこんな所で悶々としているのである。
そう考えると、田上は少々自分のことが滑稽に思えて、顔に笑みが滲んできた。耳を澄ますと、タキオンが息を吸って吐く音が聞こえる。眠っているのかどうかは定かではない、ただ、胸に訴えかけてきそうな暑さに微笑みを滲ませて、甘えるように強くタキオンに寄り添った。タキオンは起きているらしく、でも目を瞑ったまま、そっと優しく田上の腕を撫でた。
六月の陽光は暑かった。
家に帰って、靴下を脱ぐ。シャツのボタンを一二個開けて、荷物を放って、畳の上に寝転がると、少々のため息を吐く。明日は、タキオンの祖父母宅行きである。考えただけで気が重いが、頑張っていくしかない。田上は、ネットで買った扇風機をつけて、その風で涼んでいた。
クーラーは、夏までにはつけるべきだろうと思って、来週の水曜につけてくれる業者を予約した。と言っても、夏の七から八月は、ほとんど合宿に行っているので、使うところもない。ただ、七月半ばまで涼めるものが扇風機しかないのは、タキオンが可哀想な為、付けておく分にはいいだろう。結局、自分も暑くなるだろうし、九月だってまだまだ暑い日もある。ただ、やっぱり、来週に付けたとしても、次の週末は自分の父の家に行くから、すぐには使わないのだ。
そう考えてみると、案外予定が詰まっていることに驚いた。
今週は、タキオンの祖父母宅で、来週は、自分の父宅である。
父は相変わらずだろうか? と思ったが、連絡はまめに来ているので、相変わらずである。相変わらずだろうか? と考えたのは、母の命日に会って以来、自分が相変わらずではなくなったからである。
タキオンと付き合ってしまったし、その過程で様々に悩んだ。そして、その結果で、自分の心境も色々と変化した。三月に会った頃よりかはずっと、思慮深いというか、悩み深くなったのではないだろうかと思う。
実際、頭の中で考える量は大阪杯辺りを前後して多くなったのではないかと思う。下手すると、鬱病であるが、それはなんとか切り抜けて今ここに居る。帽子を買いに行かないといけないことを思い出したが、別にKの帽子でもいいのじゃないかと思った。しかし、田上だって、富豪の彼女の実家に行くのに、くだらない駄洒落の帽子をつけて、行きたくはなかった。
そうしている内に、タキオンから電話が来て、「家に帰り着いた?」と聞かれた。田上が「うん」と頷くと、向こうは、「帽子の写真を忘れないでね」と言ってきた。仕方がないので、田上はまた「うん」と頷いた。
タキオンの用件はそれだけだったようで、田上がこれから買いに出かけることを伝えると、二言三言話した後に電話を切った。田上は、出かけなければいけなくなった。元より、買わなければならないものはあったが。
田上は、先に買わなければいけない物を、買い物かごの中に入れて、洋服がおいてある区画に足を運んだ。そして、その中でも、帽子が置いてある所まで行くと、足を止めた。田上の目当ては初めから決まっている。黒い帽子だ。ゲーマーが黒を好きだと言われたら、そんなことはないと思わず反抗したくなるが、大概黒が好きなのではないかと思う。ただ、田上にも一応反論する術はあって、それは、沢山色の種類があっても、選ぶのが面倒臭いということだ。だから、変に奇天烈な色を選ばないで、黒を選ぶのである。ちなみに、田上はゲーマーだからと言って、七色に光るのが好きかと言われたら違う。七色なんてもうとうの昔に見飽きている。無難な黒でいいのだ。
そんな消極的ファッショの田上だから、家の小物などは黒が多いし、殊に服などは、無難に無難を選ぶため、黒を選択することが多い。ただ、黒だけだと、流石の消極的ファッションもバリエーションの少なさにうんざりしてしまうので、偶には、灰色とか白とか、無難に無難を着飾った物を選ぶ。田上の選考基準は、お洒落か否かではなく、無難か否かなのである。
田上は、とりあえず、手近にあった黒の無地の帽子を取って、その写真をタキオンに送ってみた。
『これでいいんじゃない?』
そう送ってみると、タキオンからすぐに返信が来た。
『もっと他にも見せてくれないか?』
タキオンは、少なくとも、他に数種類は見るつもりだ。
田上としては、もうこんなもんで良いだろうとも思うのだが、そもそもタキオンはデートをしたいと言っていた。それが都合によって転じて、こういう形になったのだから、今度は田上が素直に折れて、タキオンに付き合ってやることにした。
田上は、また、適当な物を選んで、タキオンに写真を送った。鷹の紋章が帽子の全面にでかでかと据え付けられた物だ。これについて、タキオンは、『なんだかちゃちくないかい?』と評した。ただのいちゃもんだ。田上は、これでも充分だと思うのだが、タキオンが不服だと思うのなら、別のを選んでやることにした。
今度は、『peace』と書かれた帽子を持って、タキオンに写真を送った。当然のようにいちゃもんをつけられる。
『君はいつから平和主義者になったんだ?』と。それを言うなら、生まれ落ちたときからだから、『初めからだよ』と言い返した。タキオンは、OKと意味の分からないスタンプを送ってきた後に、『次』と催促をしてきたから、田上はまた帽子を選ぶこととなった。
田上は、もうなんだかどうでも良くなってきたので、帽子に行書体で『仁義』と書いた物をタキオンに見せた。タキオンは、当然『本気で選んでるのかい?』と言ってくる。本気な訳はない。流石の田上でも、こんなにいかつい帽子を被って、街を練り歩きたくはない。おばあちゃんの方にだって、こんなに『仁義』を大切に見せびらかす人なのかと思われてしまう。自分は、仁義とは程遠い人間である。被るなら、『弱気』と書いた帽子の方がもっと適当だろう。
『本気じゃない』と田上は送り返した。タキオンは、『良かった。とうとう私の彼氏のファッションセンスも、落ちるところまで落ちたかと思った』と冗談を飛ばして来る。田上はそれにニヤリとすると、返信はせずに、次の帽子を探し始めた。
次は、もう少し真面目に探してみるとする。と言っても、真面目に探してみようと思うと、無難な物は大概似たような物だ。タキオンがこの後に、『他の色はないのかな?』と聞いてきたから、仕方なく別の色を探してみるとする。今までは、全部、黒が主体だった。
更にもう少し見てみると、キャラ物の帽子が置いてあった。しかも、自分の頭には到底入りそうもない、女児向けの帽子だったので、田上は『これはどう?』と言いながら、その写真を送り付けてみた。タキオンの反応は今までとは逆に高評価であったが、こちらもふざけている。こんな物を買わされては堪らないから、田上は早々に『そもそも、俺の頭に入らねえ』と送ると、この話を切り上げた。
タキオンは、『君に似合ってると思うよ』と少し追い縋ったのだが、田上が『無理』と返すと、諦めて『仕方がないか』とのスタンプを送ってきた。田上は、彼女とのやり取りで少し楽しさを覚えると、次の帽子へと目を向けた。
真面な物と言っても、真面な物尽くしで、その中からこれといった特色のある物を選び出すとなると難しい。鷹の紋章がちゃちいと言われるのならば、何がちゃちいと言われるのか分からないから、とりあえず、どこかのブランドのロゴが付いた紺色の帽子を手に取ってタキオンに送ってみた。大概、初めの黒の帽子と変わらないが、反応はそれよりもやや好評。それでも、タキオンとしては、田上との疑似デートをまだ楽しみたいらしく、『あと小一時間くらいは帽子を選んでくれよ』と送ってきた。
この店には、あと小一時間も選べるほど帽子の選択肢はない。田上には大概同じ物に見えてしまう。だから、『お前の帽子を買ってやろうか?』と断ると、タキオンはこう返してきた。
『じゃあ、私の水着を選んでくれよ』
こちらも田上にはできたものじゃない。成人男性が何を好き好んで、女性用水着の区画をうろつき回らなければならないのだろうか? いや、確かに、彼女の水着を選んでいると断れば、それが事実なのだから問題はないのだが、問題は、そんな事田上には聞かないで、ただ――あそこに変な人が居る、とだけの偏見を抱いて見てくる人もいるであろうということだ。
それに、女性の方だって、男性がうろついている前で自分の水着を選ぶのは気分が悪いだろう。少なくとも、怪しい男がうろついているよりかは、うろついていないほうが買いやすいだろう。
田上がそう断っても、タキオンは暫く粘っていたが、やがて、『俺は早く帰って、諸々の事を終わらせたい』と田上が言うと、タキオンも大人しく引き下がった。元々、タキオンの提案から、田上にあの家に引っ越してもらったのである。その事から出る不利益には、自分の方が引き下がらなければならないと、タキオンは考えていた。
結局、田上は、タキオンと相談して、あのブランド物の帽子を買って、帰路についた。流行りのブランドの物だが、鷹の紋章やなんのマークもないよりかはマシだろうということで、タキオンがそれを選択した。田上は、別になんともないので、無地にしろ、鷹にしろ、タキオンの言う事を聞くことだけが全てだった。
そして、また自分の部屋に戻ると、今度こそ靴下を脱いで、畳の上に寝転がって、扇風機を浴びた。
その過程で、スマホも充電器に挿して、一息吐いた。今度こそ、明日まで何もない。明日、夕方に届く菓子を受け取れば、そのまま、タキオンに服を選んでもらって、祖父母宅行きだ。出掛ける彼氏の服を選んでくれるなんて、なんとまぁ健気な彼女を持ったことだろうか? 自分には勿体無いくらいの、健気で優しくて可愛い彼女だ。あんな愛嬌のある人など、この世のどこを探してみたって、そうそう居ないだろう。
そんな人だからこそ、幸せに生きてほしい。自分などという、服の勝手さえ分からない、世話を焼かれるだけの男など放っておいて、是非、タキオンの世話をしてくれる人と結婚してやってほしい。自分などという人間は、ただの偽善者で、敵意を向けられるのが怖いから、人に対して優しくしているだけなのだ。本当の自分というものを見てみれば、ただ腹を黒く濁らせた行き先さえ分からない浮浪者、放浪者なのだ。
そういうものに構ってしまっては、たちまちの内に、構った方の者が黒く濁った腹の渦のなかに囚われてしまうだろう。そんな不幸に、タキオンだけは陥らせたくない。
そうは言っても、憐れで愛しいあの人は自分に構うつもりが満々なのだ。結果だって、果たして不幸かも分からない。災い転じて福と成すかもしれない。福と成さないかもしれない。どちらにしたって、確定事項ではない以上は、このような不安定な自分に近付いてほしくはない。ほしくはないが、止める術もない。抵抗なんてできたものではない。実際、構ってくれることが嬉しいのだから。付き合ってくれている事が嬉しいのだから。
突き放す方法と言っても、今まで散々そうやってきたのに、強情にも彼女は自分から別れようとはしなかった。いや、一度はそうしようとしたのだが、何を血迷ったのか、やっぱり田上は、彼女を自分の腹黒い檻のなかに入れておくことを好んだ。
確かに、自分は悪い女だという状態で別れると言われても、田上にはその後のタキオンが幸せな心境になるとは思えなかったし、別れるのならば、自分のことを心底から嫌って別れてほしかった。
タキオンが自分自身の行いに後悔しないで、田上自身の事を屑だと確認してから別れてほしかった。ただ、引き留めたところで、自分が何を彼女に与えることができただろうか? 少しでも幸せにすることができただろうか? タキオンは、自分の事を悪い女だと思わなくなっただろうか?
否。依然として、タキオンの中に後悔は残り続けている。自分にそれを解決しろだなんて言われても無理な話だ。自分自身の事でさえ儘ならないのに。
タキオンは幸せになってほしかった。自分は幸せになりたかった。けれども、タキオンは巻き込みたくない。しかし、タキオンは幸せの形として、田上の目の前にいる。抱き締められることを喜ぶ。田上は、それを愛おしいと思う。思うだけだ。何もできやしない。結婚しないほうが、向こうにとっても、こっちにとっても無難な策かもしれない。二人共傷付けずに、傷付かずに済む。済むのだ。済んでしまうだろう。
田上は自分の考えがこんがらがって、また、嫌になって、鬱病者のように畳の上で、扇風機に髪を微かに揺られながら寝転がっていた。
そうしていると、不意に、部屋のなかに電話の音が鳴り響く。タキオンからだ。田上は、宛名を見なくても分かっていた。出るのか出ないのか悩んだが、出なかったら、あの口うるさい彼女は学園を抜け出してでも自分の部屋にやって来るかもしれない。そうするよりかは、今、電話に出るほうが遥かに面倒が少なかったから、田上は、電話に出るボタンを投げやりに押した。電話の向こうからは、タキオンの陽気な声が不躾に聞こえてくる。その声を聞くと、落ち込むようでもあり、元気になるようでもある。
「帰り着いたぁ?」とタキオンは彼女面で聞いてくる。正真正銘の彼女である。辛さもあるし、嬉しさもある。田上はそれに戸惑って、タキオンの質問には答えきれなかった。タキオンは、当然「圭一君?」と聞こえているかの確認を取る。答えない田上の電話の向こうで、タキオンはキョトンとする。
「あれ? これ繋がっているのかな?」との声が聞こえる。繋がっていると答えてやりたいが、声は中々出てこない。タキオンは戸惑った調子で、「圭一くーん?」とこちらに向かって呼びかけてくる。今答えると自分の異変に気が付くだろう。何を落ち込んでいるんだいと言うだろう。自分の異変に気付かせたくはなかったが、もうすでに異変は起こっている。
タキオンは、田上の声が聞こえてこないのを、スマホのせいにして、もう一度掛け直してきた。今度はもう出る訳にはいかない。スマホのせいだと誤魔化しは利かないだろう。このまま、スマホのせいだと誤魔化すには、そもそも前の事をなかった事にすればいい。繋がらないのに繋がってしまった。そういうストーリーを田上は作り上げた。暫く、一分くらい着信音が鳴った後、今度はLANEにメッセージが来た音がした。せめて、既読でもつけるかつけまいか悩んだが、悩む内に手は動かないまま終わってしまった。
相変らず、扇風機は動き続けて、田上の髪を揺らしている。
田上の体は動かずに、脳内だけがただひたすらに、目まぐるしく駆け巡る中で、唐突に、チャイムの音が鳴った。タキオンかもしれないと田上は思いついた。田上の頭の中には、タキオンが自分を心配して訪ねてくるというストーリーがあった。
幸い今はまだ門限に達してはいないが、どういうつもりでタキオンは学園を抜け出してきたのだろう。もしかすると、外泊届でも出してきたのだろうか、と考えているうちに、チャイムを忘れそうになった自分を律した。
もし、タキオンでないならば、なにか自分に用があってやってきた状況を知らぬ人である。そういう人に迷惑をかけてはいけないと思ったから、田上はノロノロと玄関の方まで行った。この歩いている時間の中で、待っている人が掻き消えてくれればいいと思ったが、それほど長い時間でもない。掻き消えてくれるはずもない。
田上は、ドアについているレンズで、外にいる人を確認してやろうと思いもしたのだが、万が一タキオンだと自分は開ける勇気を持てなくなる。タキオンも一応合鍵は持っているが、さぁ、果たして、使ってくるのかどうか。
田上はそう思いながら、できるだけ元気に表情を整えながらドアを開けた。見ると、そこには、ちゃんと帽子とマスクを付けて、変装している栗毛の少女が居る。田上には、電話のことなど何も知らないというストーリーがあったため、タキオンの訪問理由も知らないことにして、口を開いた。
「なんでお前が…?」
「いや、電話は繋がった筈なのに、君の声が聞こえなくてね。…まぁ、ここで立ち話も何だし、中へ入れてくれ」
田上もタキオンがここに居るとバレると不味いので、陰気な顔を隠せないままに、部屋に入れた。
「外出届は?」と田上がタキオンを入れながら聞いた。
「ちゃんと出してきたよ。…電話には気が付いたかい?」
「………さあ?」
果たして気がついてほしくて、わざと自分は意味深な間を作ったのか知らないが、タキオンは特に、頓着は見せずに、「そう」と返事をして、部屋に上がった。
「折角、ここに来たんだし、私が夕食を作っていくよ」
「……ありがとう」と田上は陰気に答えた。最早、隠そうとする努力すら見受けられなかったが、タキオンはこれにも然程触れずに、手荷物を置くと、「食べ物はあるかなぁ?」と冷蔵庫を覗いた。
田上は、どこへ座ればいいかも分からずに、少し突っ立っていたが、やがて、扇風機の前に座して、タキオンを見た。その前に、扇風機を少し寒く感じたから、田上は、弱で回っていた扇風機を消した。
その音がピッとなると、タキオンは冷蔵庫から目を背けて、田上の方を向いた。そして、田上が陰気な表情で畳に目を落としたのを見ると、慰めるために表情に憐れみを浮かべて話しかけようとしたが、そこの所で思い止まった。
無理に彼を慰めるのも違うだろう。そう考えたのだ。小バカにするように慰めたって、中身のない言葉を徒に投げかけたって、それはただ自分の心が満足するだけで、向こうには何の影響も与えない。大方、また「俺を騙している!」と怒られるのが関の山だろう。
――自分がするべきなのは、彼に考える時間を与えて、負担をできるだけ軽減してやることだけなのだ。そう考えると、タキオンは、一先ず、田上に「今日作るつもりだった料理はあるかい?」と聞いて、答えられた料理を作り始めた。
田上は、相変らず、畳を陰気に見つめたまま、回っていない扇風機の前に座っていた。
タキオンは、ある程度料理を作った所で、振り返って田上の方を見た。田上は、相変らず、畳をじっと見つめたまま動かない。タキオンも田上に話しかける術を思いついたので、料理の様子を見つつ、こう聞いた。
「調子が優れないようだね?」
田上は、曖昧に顔を上げて、タキオンを見ようとしたのだが、そこまで、顔を上げることはできずに、ただ長い沈黙の末に「うん…」と一言頷いた。タキオンは、そんな田上の表情を少し見つめた後に、話を続けた。
「何かあったのかな? ……おばあちゃんちに関することとか?」
田上は、曖昧に首を横に捻った。タキオンは、調理と田上両方に気配りをしなかったため、今度は少しだけ調理に集中してから言った。
「……おばあちゃんちに行くのは、やっぱり怖い?」
田上は、また、曖昧に首を捻る。
「怖くないのかい?」
また、曖昧に捻る。このままでは埒が明かないと思ったタキオンは、とりあえず、二人分の料理を作って、食べながら話すことにした。
料理を作り終わったタキオンは、時計を見つめた。少し急ぎ目にご飯を食べて、トレセンに帰れば、まだ、門限には間に合う時間だ。その中で、田上の気持ちもできるだけ晴らしてやらなくてはならない。タキオンは忙しかったが、大切な彼氏のためなので、苦でも何でもなかった。
タキオンは、ご飯を急ぎ目で食べながら、早速田上に聞いた。田上は、とりあえず、食卓に座らせ、扇風機は自分が浴びている。額には少量の汗が浮いている。
「やはり、原因はおばあちゃんちかな?」
田上は、もう何も答えなくなったから、タキオンは、持っていた食器を置いて、田上に少し近寄りながら、手を握って言った。
「ねぇ、答えておくれよ。……私に対して怒っていたりするのかな? …無理に私が誘ったせい?」
タキオンがそう聞くと、田上はゆっくりとゆっくりと重々しく顔を上げた。そして、少々泣きそうな表情でタキオンを見ると、言った。
「………俺の事、……嫌いにならないの?」
「何を嫌いになる要素があるんだい? 困っている君の事だって、私は好きだよ?…むしろ、私が迷惑を掛けているんじゃないかって、申し訳ないくらいさ」
「………俺は、………俺が嫌いだよ……」
「……具体的に、どういう所が嫌いとか、あったりするかな?」
「………すぐに、落ち込んだりする所……」
「………君は知らないかもしれないが、そういう人は結構居るよ? …例えば、私とか」
「………」
「他には?」
「………お前に何もしてやれない所……」
「………それは、……私も求めている所はあるがね…」
「…………違う……」
「ふん?」
「……………」
「何かあるのかい?」
「…………何もしてやれてない……」
「何もしてやれてない? ……私は充分にしてもらったと思っているがね? この部屋だって、私が欲しくて君に借りてもらったものだし、料理だって教えてもらった。傍に居てほしい時に、傍に居てくれる。これ以上、君に求め続けている私の方が悪いんじゃないかと思っているんだが、君には、別の考えがあるのかな?」
「…………もっと、……」
「うん」
「……俺じゃない人だったら、…まだ、お前の事を楽にできていた…」
「…うーん……、難しいとも思うがねぇ? 大概、私だって悪い方だ。君は自分ばっかり責めているようだけど、私なんて、君のことを好きで好きで堪らない女だからね? ……未だに、君と二人きりの世界に居たいと思うときのある人間だし。……じゃあ、聞いてみるが、……うーん、………君は、……うーん、ちょっと待ってくれよ? 時間も急いているから、こっちの脳内も忙しい」
タキオンはそう言って、ご飯を口の中に掻っ込むと、また、「うーん」と唸りながら考えていた。
「うーん………、んーん? ……、君は、自分以外の人間だったら、私をもっと楽にできていたと思っているわけだよね?」
「………うん…」
「………んー……、……楽な人間は果たしてこの世にいると思うかい?」
タキオンは、その後に、また、慌ててご飯を食べた。それでも、田上が沈黙の中で俯いたままでいると、また、こう言ってきた。
「……君が苦しむ気持ちも分からないことはないんだがね…。……………私の言葉だって拙いよ。大切な彼氏一人さえ、納得させてやる事ができないんだから。……どうしたもんか…」
と言いながら、タキオンはまた、ご飯を口に運び、「君は食べないの?」と聞いてきた。田上は、首を動かすことすら億劫で、じっと自分の手と、その視界の端に映るタキオンの服を見つめていた。
タキオンは相変わらず忙しいので、ご飯を口に運んだ。そして、早々に食べ終わると、早口にごちそうさま」と言い、次いで、田上に「ちょっと乗せて」と言って、田上のあぐらの上に乗ってきた。
田上は、彼女の少し強引なやり口に感謝しながら、密着してくる彼女を受け入れた。少々暑かったが、タキオンに手を掴まれて、促されるままに動いて、タキオンの腹あたりを抱き締めることとなった。
そこまで行くと、田上も大分リラックスして、大きなため息を吐き、彼女を抱きしめる腕に躊躇いなく力を入れた。遠慮なく力を込められると、田上ももっと落ち着いてきて、彼女を抱き締めながら、ゆったりと呼吸をし始めた。
タキオンは、自分の思惑が功を奏して、少し嬉しそうにしながら、彼氏の頭に自分の頭を擦り付けた。それから、その姿のまま暫く、彼氏に縋るように抱き締められる状況を楽しんでいた。
それ程時間が経たない内に、タキオンももう学園の方へ戻らなければいけない時間になってしまう。タキオンがその事を告げると、田上はより強くタキオンを抱きしめて、「行かないで…」と呟いた。タキオンも嬉しいことには嬉しいが、外泊ではないのに外泊してしまうと問題になる。なんとか田上を宥めて、手を解かせると、自分は荷物を持って玄関へ向かった。
玄関には田上が見送りに来た。その目が少々恨みがましくもあったから、タキオンは、その心を落ち着けようと、言葉を発した。
「……話は、また帰ってから電話でしようね。その時には、ちゃんと出てくれよ?」
田上は、その言葉にうんと頷いたが、まだ少々恨みがましくもあったから、タキオンは言葉を続けた。
「……愛してるって言うと、君に怒られるかもしれないけど、……君の事を私はちゃんと考えてるってことを知ってほしくてね。……愛してるって言いたいよ」
そう言われると、田上は目を泳がせたあと、「ありがとう……」と陰気に呟いた。声の調子は陰気であったが、目の恨みがましさは消えたので、タキオンは名残惜しそうに田上の手を握ったあと、「また、電話するからね」と言って、扉を開けた。手を振ったあとも、田上を元気にするために、もう一度、ドアの隙間から顔を覗かせて手を振ってみせた。
田上は、その心遣いを感じて、少し微笑みながら手を振り返した。