別に何か特別な理由があったわけじゃないって思うんだ。
秘め事にせざるを得ない奇癖のやり取りが始まったことについては。
転換点、ターニングポイント。そういう手合いなやつはたぶん、こそこそ忍び寄るように訪れていて、そいつらがボクに見えたのが一年とちょっと前、クラシックの中頃ぐらいだった。あの頃のボクには色々と考えなきゃいけないことが多過ぎて、正直余裕があまりなかった。でも、そんなときに。そんなときだからこそ突き刺さったんだろうけど、本当に何でもないようなタイミングで、マヤノがボクの腕を揺すった。
「なあに、マヤノー?」
「テイオーちゃん、親指、かませて?」
「……へ?」
ニンゲン、あまりにも世界の違うことを言われると思考が停止してしまうらしい。ベッドに腰かけながら小説を読んでいたときボクは、マヤノから突然そんなことを告白された。聞いたとき確かボクたちの部屋には、カフェっぽい落ち着いた曲が流れていたはずだけど、ほんとうにしーんとなったんだ。
音のない世界を経験してから、いくら経っただろう。ええと、三百六十五掛ける二十四は、八千とんで七百六十。それだけの時間が経ったようだけど忘れやしない、忘れられない。あんまりにもセンセーショナル過ぎて、一万を臨むような時間が経ってもなお鮮明に克明に思い出せる、この続きだってそう。素っ頓狂な声を上げて固まるボクを無視してマヤノは続けた。
「なんかね、なんか、えと……その……そう、分かる気がするの!」
「ん~……へえ……?」
「もーっ! テイオーちゃんマジメに聞いてるうっ?!」
「いや聞いてるけどさあ……流石にヤダよ?」
ボクからのにべもない却下に、マヤノは目を大なり小なりみたいな形にしてぷんすか怒っている。にしてもなんというか。こんなに突拍子もない子だったっけ、ボクのルームメイトって。言い方が悪くなっちゃうけど、マヤノは別に頭の悪い子なんかじゃない、むしろ逆。フィーリング主体ではあっても、ロジックを突き詰めて答えに向かうタイプじゃないとしても。地頭は同年代の子に比べて一歩も二歩も先を行っている子だ。
「分かるって何が……?」
「だから、分かるったら分かるのー!」
人となりをある程度理解しているが故に、ぶつけられている理不尽な怒りに戸惑う。女の子を好きになるって気持ち自体は、正直な話トレセン学園じゃ珍しくもないってのがホンネなところ。そう、ここはトレセン学園。選ばれたウマ娘たちだけが通える実質的な女子校だ。だから同年代の男の子なんていないし、密接な関係になるとしたら……担当になってくれたトレーナーとか、外部からの講師とか、学校の先生くらいなもん。あとは幼馴染とかそういうところじゃないかな。ノーマルよりアブノーマルが先行バとして存在するような、変な話危うい場所だから、いつか誰かがキューピッドの矢を放ってきてもおかしくはないって。理解はしていた、頭では。
「こうすればいいって、そんな気がするの、マヤには」
どきりとした、微妙に。物事の本質を貫くための、真面目な顔が真正面からボクを捉えた。はあ仕方ない、こうなったらテコでも動かない子だ。諦めを乗せた溜め息を吐いて、二、三瞬きして生命に覚悟を示したら、不条理を引きずる余地がボクの中からつゆと消えた。
「……一回だけ、ね?」
お姫様が騎士に手を差し出すように。手の甲をそっと彼女の口元に近づける。骨に届く、肉に割り込む音。表現すると笑っちゃいそうな、濁音まみれの擬音。悦にでも入るような痛烈な刺激がボクを貫いたのも今や昔――
「――トレーナー、どう?」
「うーん、少し落ちてるかも。ちょっと内容見直してみるね、十五分休憩で」
こくんと頷き、手にしたスポドリを喉に流し込む。薄くて苦あまい、そのくせ浸透するのだけは早い。
「やっぱり苦手だなあ」
「なんかね、一応はちみーっぽい味のスポドリとかもあるらしいよ。そっちに……あはは、ごめん。やめとくね」
相当不満げに聞こえたんだろう、たぶん。トレーナーの口元でからかい上手ないたずら悪魔が、意気揚々と飛び跳ねてすぐ消える。
「はあ、まあいいや。マヤノー、今日は慣らしの並走、よろしくね」
「こちらこそ! 気抜いたらマヤ、勝っちゃうからね~?」
不敵な笑みを浮かべ、横髪あたりにピースサインを添えて。マヤノはそう宣言した。これまで特に違和感なく受け入れてきたものが、何故だかいま明確な異物となって喉の入り口でつっかえた。
「……ちょっとおトイレ行ってくるね、トレーナー」
「はいはい、行ってらっしゃい」
ノートに目を落としたトレーナーを確認したら、ストレッチをしていたマヤノに小声で話しかける。
「……ちょっといい?」
「……うん、いいよ?」
悟ったような目つきへと変わったマヤノの手を引き、練習場を離れる。もやもやが消えない。ああ、誰か教えてよ。ここは祭壇ってヤツなんだろうか。何かを捧げて祈って、満足するためにあるだけの場所なんだろうか。きっと違う、でも違う理由はまだ分からない。理解できない憤懣を、抑えきれない衝動で打ち消す。マヤノはきっと言わずとも分かってる、あの顔は間違いなくその感傷をボクに伝えてくれた。
戦うための場を二人で抜け出して、優しい温もりで満たされているだろう逃げ道へ身体を動かす。練習場の隅に置かれたトイレへ向かい、着いたら即座に彼女を個室へと追いやって、一人きりにしないようにボクも雪崩れ込む。
「テイオーちゃん?」
「うん……」
「噛んでほしいの?」
「……うん」
くぐもった頷きだけを渡して、ボクは無言を貫く。うんの後は頷きもしない、一言だって発さない。だけどそれで、それだけすべて理解してくれる。ボクとマヤノは既に『そういう』関係になれていた。
親指から始まったはずの秘め事は、いつしかボクのからだ全部に波及している。何者にもなれないボクらが起こす、色付かない透明な嵐は、狭い個室の中でも一切構わず吹き荒れる。嵐のもとに噛み付かれた瞬間、自分にわからない激情が全身に満ちていって、内側で淀んでいたすべてを掃き散らしてくれる。ホント便利だよね、からだって。
「マヤノ、ドラキュラみたい」
奪われていないボクの片手が飽いているから、さらさらした手触りの、綺麗な橙の小振りな頭を撫でてやった。手櫛で梳いてあげるついでに、マヤノのつむじをマッサージする。くすぐったそうに身体をよじらせる姿がなんだか面白くて、つい、とうなじから首筋までをなぞってしまう。
「ひゃっ……!」
「わっ、ごめん」
「やめてよもぉ、えっち」
ぽっ、バカなこと言って頬を赤らめるマヤノの頭をはたく。
「いったーい!」
「じゃあ、走りにもどろっか」
「もぅ、テイオーちゃんのいけず」
「はいはい、そうだね」
ぷんすかするマヤノを一蹴したらポケットをまさぐり、日常に戻るためのふきんを探す。用意は周到に行うべきものだから、練習着にだって当然忍ばせてある。いざというときのために常備した、ぺらぺらのおしぼりを探り当てる。開いて取り出して傷口をぐっと拭い取る。甘いしびれに満たされた、感じ慣れた傷の痛みが、足首のあたりに縛鎖となって絡みつき、天からボクを引きずり落とす。
「テイオーちゃん」
「うん、何?」
どんな問いかけになるか、想像するまでもなかった。マヤノの表情がすべてを悟らせてくれた。
調整に調整を重ねた、長い一年の最後。
「有マ、大丈夫そう……?」
行けるはずと踏んで決めた輝かしい復帰戦、それがもうすぐ訪れる有マ。
「……あははっ、ボクはテイオーさまだよ? トーゼン、大丈夫!」
胸を張って、そう答えて。心の奥がしくしく痛む。
「心配しないでよ、マヤノ。ありがとね!」
虚勢じゃないのかな、いまのぜんぶ。心配そうにボクを見つめるマヤノの、茶色に明るい頭をわしゃわしゃと撫でてあげる。多分それだけでこの子は理解する、内心に抱えるボクの不安を。
「でも……そうだなあ、ボク……」
有マ、本当にこのままで……
勝ちを目指して行けるのかな……ボクは。
「……練習終わったら、マヤ。また噛んでもいい?」
「うん……いいよ」
そうこぼしてしまったら、頭の中で描くだけだった物語が形になってしまいそうでこわい。それに不安を眉に載せてしまうとボクはまた甘えてしまうから。噛むことと噛まれることを拠り所にして現実から逃避する。そう、今はただひたすらに。支配されたいわけじゃないって思い続けるよりほかに。ボクにやれることは悲しいけれど、走ることぐらいしか有りはしなかった。