ノルニルの傷痕   作:塩化プラス

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3.にげかた

 練習が終わった。一日が終わった。明くる日が始まり、また一日が終わったなら、有マはもうほど近い。蹄鉄の鳴る音、ボクに近づいてくる有マの足音が聞こえる。雌伏の終わりが近い。終点に近づいていく列車の悲鳴が鳴り響いている。あと、一週間程度時間が経てば、復活するために励んできたすべてを、ぶつけるための舞台が始まってしまう。

「……あーむっ」

「……いった!」

 譲りたくない夢の戦いが目前に来てなお、ボクらのやり取りはついぞ変わらない。ボクらだけの寮室に鍵をかけて今日も秘め事に興じている。

「こら、もー……」

「えへへ……」

「ワザとやったでしょ。血出ちゃうよ」

 本気で顔をしかめたボクに対して、悪びれる様子もなく。

「テイオーちゃんもかんでみる?」

 いつもと同じくらいの小悪魔っぽい瞳の色で、唾液に濡れた艶めくリップで、ボクに囁く。

「ボク……? ボクは……」

 顎に手を当て少しだけ考えてみる。噛めるのかな、ボクは。当然の疑問を消化するために脳みそを回して、すぐ答えに辿り着く。

「……やめとくかな」

 ボクがマヤノを噛むことはまだ出来ない。ボクが携えた牙で噛み付いてしまえば、確実性のあるキリングバイトに成り得てしまう、そんな気がする、

「えー、ちょっとザンネン……」

 ほっと息を吐いて苦笑いする。マヤノを噛むことはやっぱり、出来そうにない。噛めば何かを失うような、殺してしまうような気がするって、そんなところまでしか自己解釈が進んでいない。噛むということ。そこに理性だとか理由だとかを付加させて、もっともらしい意味を捻り出すことが出来ていない。

「テイオーちゃん、なんでだめなの?」

「んー……なんかりんご味しそうだから?」

 差し出された首筋を押し退けて、枕を抱き締めるように壁を向く。

「えー、べつにいいにおいなのになあ。テイオーちゃんが教えてくれたやつなのに、キライなの? グリーンアップルのスキンミルク」

「まあイヤじゃないけどさ、それじゃ味わかんないじゃん」

 程度のいいマッサージに思えるようなぽかぽかなんて殴り付けに、くすぐったいものと仄暗いものを覚えてしまう。傷にならない痛めつけは、気付かれないように息を吐いて、自虐する。ボクは噛まれることに快感を覚えている、のかな。純粋培養されてきたはずの女の子にあるまじき思考の帰結、だと思うけど。増えていく生傷を確かめる余裕すらなく時間だけが過ぎていくと、色々と凝り固まるんだ。それでも、最後のラインだけは越えてはいけないって。ボクは心底から思えている、まだ。それだけは救いだと思い込めている。

「においで打ち消されちゃうんだから、食べたってわかんないよ」

「じゃあ……」

 思い込めている、はずなのに。

「……マヤノ?」

 とさり。音がするかしないか、はっきりしないぐらいの強さで。腰掛けていたはずのベッドに押し倒される。機嫌の悪い猫みたいにボクの体に手と足をついて。動けないように胸とお腹をおさえて、憂いのある瞳で心に訴えかけながら。

「本当に味がしないかどうか、試してみよーよ」

「ちょっと、マヤノ……やめてって、あはは、冗談になってないってば!」

「冗談じゃないもん」

「……え?」

 逃げのために用意した笑みが、本気に抵抗できずに死んでいく。

「マヤのこと、すき?」

 そんな日に限ってマヤノは、ボクの心への距離を詰めてくる。差し込むように、レースみたいに、逡巡のひとつも許さない速度で。

「どうしたのさ、急に?」

 ボクは優し気な微笑みを顔に貼り付けて抵抗を試みる。

「だって、イヤじゃないんでしょ?」

 でも、マヤノはおかまいなし。弱気に拒んでも無駄だと言わんばかりの、獲物を前にした爬虫類の瞳でボクをみつめる。

「ねえ、こたえて……?」

 深い戸惑いに論理的な思考が勝てない。

「マヤのこと、好き……?」

 教えてもらわなきゃ理解できそうにない、女の子の感情を叩き付けられて。息の出来なさに喘ぐばかり。

「マヤ、ノ……」

 うごけない、うごけないから。受け入れるしか残されてない。

「テイオーちゃん……」

 感覚神経をちりばめた、はなぶさの一部を。

「もらっちゃうね……」

 噛もうと、食べようと、ボクらという二人の関係を終わらそうと、唇の奥の犬歯が近づく。

 ああ、ボクにとってそれが、たぶん初めてのキス。そんなものになろうとしている。

 ふれたもの、みえたもの、ふれてしまったもの、みえてしまったもの。

 なにもかもすべてが水色に透明で、ビビッドをパステルに変えていく。

 掛け合わされて混ざり合って。これまでが色を変えてゆくなかでボクは。

 ゆめかうつつかわからぬままに、かつてのボクを想起しようとして。

「むり、しないでね……」

 受け入れそうになったそこで、たったそれだけのいたわりを聞いて――

「……やっ」

 温度と質感に触れかけた瞬間、ボクは。

「えっ……」

 決して強くはない力でマヤノを突き飛ばして。

「ダメ……」

 散りかけた好きな花、ボクの好きなアザミの花を。

 控え目に、例えようもなく、守り抜く。

「ダメだよ」

 薄桃色に染まった、夜間際の目つきから感じる。

 あなたのことが、すき。

「ちがう」

 肺の底から呼び出された、重たい息の温度から感じる。

 あなたのことを、あいしてる。

「違うよ」

 違う、違う、全部違う。噛み合わないんだ、その全部が。ボクの思考と、マヤノの判断がてんで噛み合わない。信じてきたものじゃない、したくてするキスじゃない、こんなものボクは知らない。

「ダメ」

 否定を並べ立てるたび、つややかだったはずの心が泥に塗れていく。

「ダメだよ、マヤノ」

 マヤノのボクにしか、いいやボクにも判別出来ない煩悶を、どこにも放出できないまま、何が何かを掴めないまま。勢いよく部屋を出るなんてこともなく、苛烈に引き留められることもなく。気付けばボクは極めて静かにその場から逃げ出していた。

 

 

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