練習が終わった。一日が終わった。明くる日が始まり、また一日が終わったなら、有マはもうほど近い。蹄鉄の鳴る音、ボクに近づいてくる有マの足音が聞こえる。雌伏の終わりが近い。終点に近づいていく列車の悲鳴が鳴り響いている。あと、一週間程度時間が経てば、復活するために励んできたすべてを、ぶつけるための舞台が始まってしまう。
「……あーむっ」
「……いった!」
譲りたくない夢の戦いが目前に来てなお、ボクらのやり取りはついぞ変わらない。ボクらだけの寮室に鍵をかけて今日も秘め事に興じている。
「こら、もー……」
「えへへ……」
「ワザとやったでしょ。血出ちゃうよ」
本気で顔をしかめたボクに対して、悪びれる様子もなく。
「テイオーちゃんもかんでみる?」
いつもと同じくらいの小悪魔っぽい瞳の色で、唾液に濡れた艶めくリップで、ボクに囁く。
「ボク……? ボクは……」
顎に手を当て少しだけ考えてみる。噛めるのかな、ボクは。当然の疑問を消化するために脳みそを回して、すぐ答えに辿り着く。
「……やめとくかな」
ボクがマヤノを噛むことはまだ出来ない。ボクが携えた牙で噛み付いてしまえば、確実性のあるキリングバイトに成り得てしまう、そんな気がする、
「えー、ちょっとザンネン……」
ほっと息を吐いて苦笑いする。マヤノを噛むことはやっぱり、出来そうにない。噛めば何かを失うような、殺してしまうような気がするって、そんなところまでしか自己解釈が進んでいない。噛むということ。そこに理性だとか理由だとかを付加させて、もっともらしい意味を捻り出すことが出来ていない。
「テイオーちゃん、なんでだめなの?」
「んー……なんかりんご味しそうだから?」
差し出された首筋を押し退けて、枕を抱き締めるように壁を向く。
「えー、べつにいいにおいなのになあ。テイオーちゃんが教えてくれたやつなのに、キライなの? グリーンアップルのスキンミルク」
「まあイヤじゃないけどさ、それじゃ味わかんないじゃん」
程度のいいマッサージに思えるようなぽかぽかなんて殴り付けに、くすぐったいものと仄暗いものを覚えてしまう。傷にならない痛めつけは、気付かれないように息を吐いて、自虐する。ボクは噛まれることに快感を覚えている、のかな。純粋培養されてきたはずの女の子にあるまじき思考の帰結、だと思うけど。増えていく生傷を確かめる余裕すらなく時間だけが過ぎていくと、色々と凝り固まるんだ。それでも、最後のラインだけは越えてはいけないって。ボクは心底から思えている、まだ。それだけは救いだと思い込めている。
「においで打ち消されちゃうんだから、食べたってわかんないよ」
「じゃあ……」
思い込めている、はずなのに。
「……マヤノ?」
とさり。音がするかしないか、はっきりしないぐらいの強さで。腰掛けていたはずのベッドに押し倒される。機嫌の悪い猫みたいにボクの体に手と足をついて。動けないように胸とお腹をおさえて、憂いのある瞳で心に訴えかけながら。
「本当に味がしないかどうか、試してみよーよ」
「ちょっと、マヤノ……やめてって、あはは、冗談になってないってば!」
「冗談じゃないもん」
「……え?」
逃げのために用意した笑みが、本気に抵抗できずに死んでいく。
「マヤのこと、すき?」
そんな日に限ってマヤノは、ボクの心への距離を詰めてくる。差し込むように、レースみたいに、逡巡のひとつも許さない速度で。
「どうしたのさ、急に?」
ボクは優し気な微笑みを顔に貼り付けて抵抗を試みる。
「だって、イヤじゃないんでしょ?」
でも、マヤノはおかまいなし。弱気に拒んでも無駄だと言わんばかりの、獲物を前にした爬虫類の瞳でボクをみつめる。
「ねえ、こたえて……?」
深い戸惑いに論理的な思考が勝てない。
「マヤのこと、好き……?」
教えてもらわなきゃ理解できそうにない、女の子の感情を叩き付けられて。息の出来なさに喘ぐばかり。
「マヤ、ノ……」
うごけない、うごけないから。受け入れるしか残されてない。
「テイオーちゃん……」
感覚神経をちりばめた、はなぶさの一部を。
「もらっちゃうね……」
噛もうと、食べようと、ボクらという二人の関係を終わらそうと、唇の奥の犬歯が近づく。
ああ、ボクにとってそれが、たぶん初めてのキス。そんなものになろうとしている。
ふれたもの、みえたもの、ふれてしまったもの、みえてしまったもの。
なにもかもすべてが水色に透明で、ビビッドをパステルに変えていく。
掛け合わされて混ざり合って。これまでが色を変えてゆくなかでボクは。
ゆめかうつつかわからぬままに、かつてのボクを想起しようとして。
「むり、しないでね……」
受け入れそうになったそこで、たったそれだけのいたわりを聞いて――
「……やっ」
温度と質感に触れかけた瞬間、ボクは。
「えっ……」
決して強くはない力でマヤノを突き飛ばして。
「ダメ……」
散りかけた好きな花、ボクの好きなアザミの花を。
控え目に、例えようもなく、守り抜く。
「ダメだよ」
薄桃色に染まった、夜間際の目つきから感じる。
あなたのことが、すき。
「ちがう」
肺の底から呼び出された、重たい息の温度から感じる。
あなたのことを、あいしてる。
「違うよ」
違う、違う、全部違う。噛み合わないんだ、その全部が。ボクの思考と、マヤノの判断がてんで噛み合わない。信じてきたものじゃない、したくてするキスじゃない、こんなものボクは知らない。
「ダメ」
否定を並べ立てるたび、つややかだったはずの心が泥に塗れていく。
「ダメだよ、マヤノ」
マヤノのボクにしか、いいやボクにも判別出来ない煩悶を、どこにも放出できないまま、何が何かを掴めないまま。勢いよく部屋を出るなんてこともなく、苛烈に引き留められることもなく。気付けばボクは極めて静かにその場から逃げ出していた。