「はっはっは……」
着の身着のままの状態で、冬の空気を裂くように二十数キロの速度で走る。生まれて初めてのことだ、こんな深夜に一人きりで逃げ出して、きらめく夜空の星を眺めるだなんて。消灯以降の無断外出。バレたら反省文どころじゃ済まないけど、やってしまった以上過去のことだから、必要以上に苦しんだって損だ。身体が外に出てしまったついでとしてボクは、お気に入りのランニングコースを流している。十数分は軽く走っただろうか、うっすらと汗ばみ、学園と寮の姿がすっかり見えなくなったあたりで周りを見渡した。
ふしぎだ、深夜の遊歩道は極端なまでにリアルから置き去られていて、驚くほど居心地がいい。どこにも居場所のない人間を、抱き締めてくれるためだけに存在してるかのようにすら感じさせる。悲しみに結び付いた嬉しさが消せない。無造作に設置されたベンチに腰掛け、ボクは冷静に自分を見つめ始めた。背もたれに身体を預けながら、だらしない恰好で空を見上げる。
もしかしてを空に投げて、返ってくるのは自問自答だ。
ついに子供をやめるときがきたってことなの?
でも子供を辞められたからってすぐさま大人になれるものなの?
そもそもアレはほんとうのことなの?
ほんとうなんだとしたら、ボクはキミに何をすべきなの?
「責任……」
ツーバイフォーの日本語を闇夜の草影に投げ捨てる。バカだ、投げたって仕方ない。一時しのぎにもなりゃしない、無駄だらけの行為だってわかってるのに。ボクがボクである以上、この問いかけは捨ててもまた拾わなくちゃいけない、必ず解かなきゃいけない難題だって理解してるのに。だってそうでしょ、目前にある結論を放り出して、現実に起こったことから目を逸らしてのうのうと生きるなんて、哲学でもなんでもなく率直に死んだも同じ話なんだから。ポケットに放り込んでいたスマホを取り出し、電源ボタンに触れる。点る画面の数列、時間はもう一時が近い。あとメッセージの通知が数件。はあ、にしたって、帰ってから何を言えば良いんだろう。ごめんね、ボクが悪かったよ、傷ついてないかな。許されたいわけでもないのに、頭の中では謝るための言葉がたくさん浮かび上がってくる。
「てゆーか……」
噛まれるのはいいのに、キスされるのは嫌だなんて。なんだか変な話だと思う。食べられてしまうより、奪われてしまう方がこわいだなんて、理由にならないというか。考えようによらなくても、虫が良すぎるんだ。からだを噛んでもらうっていう、キスより危ない橋を既にわたっているのに。そのへんのふわっとした感情に、ボクは上手くカタチをあげられていないから。たぶんだけど、このタイミングで考えたって無駄なんだろう。
「ボクらは……」
どうあるべきなんだろう、やっぱりその一点に何もかもが収束する。ただの友達として受け入れられる範疇なんてとうの昔に越してしまっているし、だからといって今更イロとテとシナを変え関係性を刷新しても、そんなことにどれだけの意味があるのか分からない。
キスをすれば変わるのかな?
キスを断れば終わるのかな?
たぶん、たぶんそんなことは無いんだろう。二人して自分に納得できないと一生このままの関係性から離れられない。噛むことをキスにすり替えても、ボクらの世界は何も変わらない、死ぬまで夢を見続けたままだ。
「帰らなきゃ」
バカだけどさ、言うだけならタダなんだ。本当はまだ帰りたくない。朝になっても帰れるか分からない。考えても考えても、マヤノが見せてくるあの景色に、ボクは答えを返せそうにない。
マヤノ、キミはどうして。ボクを噛みながら無理をするなと囁くの。無理ならとうにしてるのに。気付かないほど鈍感なキミじゃないのに。どうして、ボクを噛もうと思ったの。どうして、どうしてなの。自問自答しか出来ないボクは自分の手を見た。傷痕は無い。無傷で透明の肌色が頼りない夜の明かりに照らされているばかりだ。
「あ……ぐ……」
思考を巡らせるより早く噛み付いて、自分で与えた痛みに目が潤む。痛い、美味しくない、何が甘いんだこんな肉の塊のどこが、良いって言うんだ、マヤノは。親指の付け根から歯をはずすと、残した傷痕には血が滲んでいた。痛いだけの傷、快感のない痛みだけの傷。そうだ、マヤノは。なんで、一年前に。突然点と線が繋がり出す。そういえば、これまでずっと考えてなかった。そうだ、どうして。
どうして、マヤノはボクのことを噛もうと。そう、思ったんだろう。
「……ただいま」
「あっ……テイ……!」
誰にもバレないよう慎重に部屋へと戻ってきてすぐ、マヤノはボクに近寄ってこようとした。でも、ボクはどうしたらいいか分からなくて、視線を彷徨わせて、謝ることもできず、呼吸もままならなくて、あえぐ前に息を止めた。
「ゴメンね。マヤノ、ただいま。寝よ?」
「うん……」
二つ三つ言葉を交わして、汗の始末だけを軽く済ませたら。ボクはベッドに身を預ける。刺さる視線に背を向けて、掛け布団を羽織り目を閉じる。言葉で交わせない感情って、こんなに始末に負えないものなんだなあ。明日、起きたら。どんな顔してマヤノにおはようって言えばいいだろう。どうして、ボクはこんななんだろう。自信に満ちていたボクはどこへ行ったのかな。らしくないやりきれないや、考えることが多すぎるよもう、イヤになっちゃう。
そうしていつの間にか眠りについて、レム睡眠の合間に色彩の薄い、淡い、淡い夢を見る。ボクは海の真ん中に沈んでいて、ただ落ちていくばかりで、一つだって浮上することはない。だけど、手を伸ばし続けている。上に、かすかな光の見える上の方に。てんで意味のないことだって分かっていてなお、届きもしない空に向かって手を伸ばし続ける、ただそれだけの夢を。
息が出来ないことはない。だってボクは魚のようなものだ。水の中から酸素を取り込み、自分の身体に転化できる。逆説的に陸では生きられない存在で、塩水の中だけに生を見出すことが出来ると信じている、みたいだった。
信じているみたいだなんて曖昧なことしか言えないのは、ボクが多分ひとだからだ。もっと正しく説明するなら、ボクが女の子だからだ。ひとは、女の子は、息ができなきゃ生きてけない。真実は曖昧に溶けていき、瞬き一つに連なってその色を変える。ああ、そろそろ目覚めが近いっぽいや、そんな気がする。
起きる前にすこし。愚痴を言わせてよ自分自身に。仮にボクが、キミに噛まれることに命を感じて、その反応だけを糧に今を過ごしているのなら。
ボクのこの気持ちは誰のもの?
ねえ、マヤノ。
わかってるならおしえてよ。
すきって、いったいなんのこと?
『ごめんね……』
ボクが問いかけただけなんだから謝らないで、そう言葉にしようとしたとき、ふと嗅ぎ慣れた香りがした、ような気がした。ボクのほっぺた、少しだけ骨の浮いた場所にぱちぱち、瞳を何回か瞬いてみると、寝ぼけ眼は朝焼けにかすむ。ああ、考えてるうちに寝ちゃってたんだ、ボク。肩口の温もりを確かめようと軽く首を傾ける。布団がはだけてしまった部分に、ボクのじゃないタータンチェックのブランケットが、カラダを労るように掛けられていた。
ああ、じゃあさっきのはぜんぶ夢、かあ。なんだか、ちょっとだけ疲れるなあ。だとしたらまあ、きっと。魔が差したってやつなんだろう。でも、一応確認しておかなきゃ。夢だとすればボクの妄想に過ぎないはず、まどろみが作った幻に過ぎないはずだもん。
仮定と理想に縋りつきながらボクは、キミの姿が見えるように寝返りを打つ。律動的な寝息を立てるマヤノの、ほのかに日焼けが残る頬を眺めながら。ボクはかすかに残る感触の方へと指を寄せて。目尻と頬の真ん中あたり、辿り着いた唇のあとを、ぱちぱちと。指の腹でもって小鳥のようについばむ。確かめに確かめきったら、指先を滑らせて鼻先に持っていき、くん、と息を吸えば。ふわり、マヤノの好きな乳液の香りが、わずかにかすかにだけどやっぱり確かに漂った。桃色にシトラスが滲むような香りが、そうきっと。マヤノにしてみればボクだけのものなはずの場所から。いい匂いなのに不思議なもので、なんだか嫌いになれそうだった。