ノルニルの傷痕   作:塩化プラス

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5.うつろう

 

 ぎこちないままの朝が明けて、午前中だけの授業が終わって。レースのためトレーニングに励んでいたら、よそ事なんか考える暇もなく時間は過ぎる。追い込みを掛けなきゃいけない時期だけど、今日はいつもより早上がりだ。トレーナーはそういう機微にすごく敏い。流石大人だって思うけど、どうにも素直に喜べないのが本音ではある。

 だってマストが早く済んだって、そもぎくしゃくってのは時間じゃ解決できないものだ。わだかまりってのは話し合ってようやく溶かしてやれるものだ。現実問題としてボクたちは、話し合うことすら出来ていない。故に何も変わってはいない。唇を奪われかけたあの時から、凍ってしまったんだ。

 唇を這わせたのなんて昨日の夜のことだってのに。まだ、いまだに感覚が触れ合った場所に残り続けている。あの出来事に脳の一角が占有され続けたまんまだ、寝ぼけなんかのごく一般的なものとは違うものによって。

 時計の進み具合はええと、昼ご飯はとうに過ぎたけど、晩ご飯まではだいぶありそうな感じ。首元で留めたフェイスタオルで汗を拭う。冬の空気で冷ややかになったタオルは、ボクの気持ちよりも冷たくなくて、どうしてか憎たらしい。

 鬱屈とした気持ちを抱えたまま夕暮れもまだな府中を歩いて、ボクの身長の何倍もするようなビルたちに目をやって、世界のちっぽけさを改めて知る。あてどなく歩いて、歩いていたらいつの間にか町外れの広い公園についていた。朝の芝生に寝っ転がりながらボクは空を見上げる。絵筆を軽く走らせただけの、薄白く光にけぶる蒼の海。はあ。綺麗だ。綺麗が過ぎて気が落ちる。そのせいか、益体もないことばかりが浮かんでは消えて、繰り返し繰り返しとループし始める。

 幸せにってさ、どうやってなるんだろう。

 ボクは何のために生まれてきたんだろう。

 ボクの欲しかった生きている実感ってのは。

 この一分一秒のなかの、どのあたりで右往左往しているんだろう。

「わかんない」

 声に出しても問題は解決しやしない。何もかもわからないままだから空を見限って、芝生と視線の境を無くす。むせ返るような青い枯葉の匂いが鼻を刺す。味付けが濃すぎて分からないから、部屋に戻る前に整理しよう、一旦。このままじゃ何を見ても何を貰ったとしても、どんな感情よりも先に困惑が立ってしまうから。そうだ、体を動かせば少しは気が晴れるかな。いや、身体は昨日散々動かしたなあ。もう少し考えよう、ここで。芝に背中をあずけたまま。綺麗だ、空がずっと。綺麗が過ぎて、幻が形になりそうなくらい、きれいだ。

 誰かがボクのすぐそばに寝転がる。イマなら元鞘に収まる事もできるんだよ。誰かが耳元で囁く。ほら、後ろを向いてごらん。キミを優しく受け入れてくれる、素敵な関係性が手招きしているよ。誰かが、見も知らぬ誰かたちが、ボクを誘って――バカな想像だ、ぐしぐしと目元を揉んで考えるのをやめる。すると、呼応するかのようにぐう、ひどく能天気な音が鳴った。

「お腹空いたな……」

 空腹を紛らわしたくて空の一番明るいところを注視する。そこには雲に化けた大きな鳥が窮屈そうな素振りもなく翼を広げていて、それがどうしようもなく羨ましくて。なぜボクはあんなふうになれないんだろうと少しだけ憂鬱になった。

 

 

 

 空を見上げてセンチメンタリズムに浸ってとぼとぼした歩調で寮に戻れば、自然と時間は経っていたようで、晩ごはんの香りが廊下の奥からふわり漂ってきていた。流れるように食堂へと向かい、美味しいはずの夕食を無味乾燥のまま流し込み、十分そこらで平らげたのに部屋に戻ることも出来ず、食器を下げてうじうじ悩む。情けないことこの上ないけど、あと少し時間を進めてあげる必要があった。

 どうせ入らなきゃだし、お風呂にでもいこう。替えの下着やジャージとかは肩に提げてたカバンに一式入っている。着替えを持ち歩くのはボクのちょっとした癖だから、別にこういう機会を予測していたわけじゃない、けれど。常に清潔で居たいっていう、偏執的な用意周到さにちょっとだけ救われた気持ちになった。

 ぼうっとお風呂に浸かって一時間。上がって、一息ついて、湯冷めしてしまう前に部屋へ戻ろうか、いや、でも。時計を見るとまだ、まだ八時にもなっていない。ああダメだなあ、ボクらしくないけどさ、勇気が出ないんだ。長風呂のあとは休憩室に寄って時間を潰した。うとうとしたり、窓の外を眺め続けた。スマホは、覗く気になれなかった。

 更なる時間が牛の歩きのスピードで経っていく。有マ、ケンカ、ボクの不安。色んなものに答えを見つけてあげる必要がある。声をかけに来る友だちや、先輩後輩とのとりとめのない会話をする合間に、ボクはほんの少しだけ考えた。理由を見つけようと試みた。この鬱屈とした悩みを解消するためにはどうするべきかを。考え抜くことはしなかったけど導き出せた、誰かに気持ちを吐き出したいってことを。たぶん、たぶんだけどこの気持ちは、ひとりで抱えていても解決できないものだって。小一時間ぼうっと物思いにふけってわかったから。ボクはいま、栗東寮のつやつや明るい廊下を歩いている。もちろん、足の向いているさきは自分の部屋じゃない。

 今日は土曜日、つまり明日は学園もトレーニングも多分おやすみ。そういう日は大体の生徒が夜更かしさんになるって相場が決まっている。ということは少しばかり迷惑を掛けてもさほど問題はないはず。時刻は八時。寝るには流石に早すぎる時間。部屋に籠っているだけじゃ解決できないのなら、信頼できる助っ人に頼るしかない。辿り着いた扉の前、こんこんこんとノックして、起きてるだろう友達が戸口にやってくるのを待つ。

「はーい、どちらさま~?」

 ドアの奥、見えないところから聞き慣れたゆるい声がして、廊下と部屋をつなぐ短い道にスリッパが鳴る。かちん、ロックの外れる音。見えてくる、甘栗みたいな髪の毛の色。

「あれ、テイオーじゃん。どしたの急に」

「ネイチャ、話、聞いてもらえる……?」

「ん……? あー、まあネイチャさんは別に構いませんけど……本当に一体どうしたの?」

「わっ、テイオーだ! お話聞く聞く、マーベラース! 入って入ってーっ!」

 ちらり、ネイチャの背中ごしからキラキラ輝く瞳が見える。相変わらずこう、すごく素直な子だ。思わず口元が緩む。

「あがっても、いい……?」

「あー、はいはいどうぞどうぞ、大した座敷じゃございませんが……」

「ネイチャ変なキャラー! おばちゃんみたいだよ!」

「うっさいよー、ネイチャさんは平常運転ですよー。とりあえずおあがんなさいよ」

 許可をもらったボクは靴を脱いで上がり框を踏みしめる。

「さささっ、テイオーこちらへどうぞーっ!」

「はいはいどんどん進んで下さいなー」

 ネイチャとマーベラスに連れられ部屋の中央までやってきて、来客用なのか良く分からないちっちゃな椅子に座らされる。

「よっし。んじゃアタシはちょいとお茶汲んでくるから。そのあいだは、マーベラス頼んだからねー」

「りょーかい! でもでも、先に聞いときたいよテイオー。今日のご用件はなに?」

 玄関先で全部聞かんでよーと口にしているネイチャを無視して、マーベラスは言う。

「あのね……」

 込み上げてくる想いが大きくて喉元でつっかえる。言葉にしたくはないけれど、遅かれ早かれ言わなきゃいけない。だってそのためにボクはここに来たんだから、足踏みしたって意味は無いんだ。なら、もうここでぶちまけてしまってもいいはずだ。

「うーん、なになに?」

「マヤノにキス、されちゃったんだ」

「んー……ん?! へ?! ほんとに!?」

 驚愕するマーベラスとほぼ同タイミングで、どたばたがたがた、雷でも落ちたみたいなけたたましさが、四分の三開きぐらいになった扉らへんで轟いた。驚きつつ振り向いてみればどういうわけなのか、ホラー映画にでも出てきそうな振り向きポーズでネイチャが固まっていた。

「へっ……? だいじょうぶ、ネイ……」

「ア、アタシは大丈夫。テイオー、ちょっと待ってて。ちゃんと聞くから。マーベラス、本題進行は一旦ストップで、ちょっと、ホントにちょっとだけ待ってて」

「ふんふん、わかった! でもたぶんここで驚いてちゃダメだよネイチャ!」

「ダイジョーブ、わかってる、わかってるから。でも落ち着かせて……いや、アタシのことは良いわ、とりあえずホント、ちょっと待ってて、ね」

 そう言い切ると壊れるんじゃないかって勢いで扉が閉じられた。あそこまで慌てるとは思ってなくて、ぽかんとしてしまう。

「んー、ねえねえテイオー。ネイチャが戻ってくるまでどうしよっか?」

「ええと、ボクはぼうっとしててもいいけど……」

「まっててって言ってたし、そうだなあ、マーベラスとゆびすましよーっ!」

 そんでちょこちょこゆびすましてたら、二、三分くらいでネイチャが戻ってきた。何故だか汗だくで、息も絶え絶えの状態で。

「走って来なくても良かったのに」

 運んできたお茶とお盆を机の上に置いて、一息ついたあと。ネイチャはそんな疑問を諌めるような口調で言った。

「いや、ほっとけんでしょ数分でも……」

「おひとよしだよね、ネイチャって!」

「マベきち、アンタに言われたくないっての!」

 軽口を叩くマーベラスを慣れた風にあしらいつつ、ネイチャは折りたたみ式のちっちゃい座卓をベッド下から引き出して組み上げる。薄く埃の被った表面がウエットティッシュでさっと拭かれれば、人数分のお茶と何故かお茶請けまでもがリズミカルに置かれた。

「なんかおばあちゃんちみたい☆」

「はいはい、お仕置き罪でマーベラスのぶんは無しね。テイオーさんやぜんぶ食べていいですよー」

「がーん……」

「うそうそ。本気で沈みなさんなって、アンタの分もちゃんとあるから。お食べやマベ。んで、テイオー。さくっと本題。ええと、ちゅー、的なやつじゃなく?」

「うん。多分あれはキス……かな?」

「まうまう……うまうま……ひゃー……ホント?」

 想像以上の驚きようなせいで、逆にボクがてんやわんやする。おほん、咳払い一つおいて、暴れ回る二人の尻尾が落ち着いたのを確認してから、もう少し詳しく分かるように伝え始めた。いわゆるところのマウストゥマウス、ってやつじゃなく。ほっぺた上方に交わされたきらめくような浅瀬のキスのことを。

「むぅ、なるほど」

「なるほどねえ……」

 話を聞く気があるんだかないんだか。神妙な面持ちで頷くとかいう、おんなじような反応が二人から返ってくる。

「……ゆめ。だったのかも知れないんだけどさ」

「でも、テイオー。アンタには夢には思えなかったんでしょ?」

「うん……でも……」

「でも?」

「夢だったらいいのになって」

 本質ってやつはいつも本心から転び出る。夢だったら何もかも許容できた、かも知れないから。汚い自分の心を表側に晒しながら、しかし自分を腐らせすぎないよう、ぺろりと舌を出して続ける。

「……そう、ほんのちょっとだけ。思っちゃったんだよね」

 現実は酷で非情だ。水深数センチのキスに足を取られているんだから、本当キスってやつは恐ろしい。消えない傷を残してくれる、噛まれるよりもよっぽど。

「ん、まあ……なるほどね……」

「夢かどうか。分からなくなって、どうしたらいいかわからなくなって……」

「色んなひとに聞いてみようってなったの?」

「……うん。で、さ。ネイチャは、好きな人からキスされたら、どうする?」

「ん~……アタシは……ってはあ?!」

「マーベラスは?」

「んーと、アタシは嬉しいよ、すっごく。誰かが好きになってくれるのって、それだけでスゴイことだもん! ホントーにそれだけでも嬉しいの、マーベラス!」

「あはは。マーベラスらしいや、ありがと。じゃあネイチャは?」

「いや、そりゃアタシも嬉しいけど……そうじゃなくない?!」

「でも、ネイチャ。トレーナーのこと好きでしょ?」

 あんまりにも直接的なマーベラスの一言に、ネイチャは困ったような表情を浮かべて、照れくさいのかぽりぽりと頬を掻く。

「まあ……そうね、まあ。たはは……」

「事実から目を逸らして照れちゃダメだよネイチャ!」

「にゃああ、うっさいもう! あーダメだなもぉ~なあ~……」

「良かったら……聞かせて?」

 他人の気持ちを慮るために、察せられるものは幾つでもあって。絞り出したようなボクの願いにも、同じだけの質量が乗っていたらしい。チョコの包装紙を剥がしながら、ネイチャは口からじゃなく鼻から溜息を吐いた。目を瞑って、開けた直後の面差しは、夏日のような温度感を伴っていた。

「……ま、他ならぬテイオーさんの頼みなら、しょーがない喋ってあげちゃうかあ」

「ありがと、ネイチャ……」

「借りとか思わんくていいからね……でもまあ、改めて喋ろうとするとなんだろ。アタシは夢みたいに思っても、夢だったらいいなとは思わないかもしんないや。突き放すみたいになっちゃうけどさ。アタシが思う好きって気持ちと、テイオー、アンタの思う感情は一緒のところにないんじゃないかなとは思うから。キスに込める想いが同一かどうかは……アタシにはわかんない。それが本音なんだ」

「……好きだから、するんじゃないってこと?」

「ん~、ちょっと違うんじゃないかね。もちろん、好きって気持ちはあると思うよ。それこそ当たり前のように。でも、それだけじゃないと思う。どうしようもなく身体を動かす燃料みたいなヤツってさ、それだけじゃ火は付かないって思うから。なんかボヤっとしててゴメンって感じなんだけどさ、アタシの言わんとしてること。マーベラスわかる?」

「わかる、わかるよネイチャ! 言いたいこと分かるよ、そこが一番大事だよねっ!」

 一番大事とうそぶかれるそれに、ボクは全く見当が付いていなくて。何も知らないこどもみたいな純粋さで訊ねた。

「一番大事って、何?」

「大事なのは……ほら、マーベラス言ってやりな!」

「おっけー! テイオーは、マヤノにキスされて、どんな気持ちになったのってこと!」

 

 

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