「どんな気持ち、かあ……」
マーベラスに言われたフレーズを反芻しながら自室に戻る。足取りは依然重いままだ。こういうときアニメとかのヒーローだったら、真紅のベールかマントなんかを翻して、戦うべき舞台に向かって本気だぞって気合を入れられるんだろうけど。お生憎とボクにそこまでの力はない、ほとんど理解できている物事の、その本質を見つめることなんてしたくもない。力ない歩みで戻った部屋には、朝と同じく暗澹とした雰囲気のみが漂っていた。
「おかえり」
「ただいま」
どんなにこじれてしまっても、形式通りのやり取りだけは交わしてしまう。日常に紐づけられた言動って、ホント笑っちゃうよね。とっくに壊れているはずのものなのに、インプットされた昔を忘れられずに繰り返してしまうんだから。
「ねえ、聞かせてよ」
顔を合わせないようにベッドに座り、彼女がボクに声かけようと振り向くよりも早く。
「マヤノはさ」
声に出して、吐き出して、わかる。行き場を失った感情のカタチを。こんなにどろどろしてたっけ、苦しみに彩られてたりしたっけ。ボクの信じてた好きって気持ちは、心の底から恋するって思いは、こんなノロイみたいなモノなんだっけ。漫画やアニメで見るヤツは、もっと甘いモノだった気がするんだけどなあ。飴よりはちみつよりケーキよりも甘くて、なのに不思議とさわやかに飲み下せるモノだったはずなのに。
「ボクのこと、好きなの?」
どうしてここまで、好きは、愛は、恋するって、なんでこんなに粘っこいんだろう。舌の上で転がすたびに甘さが、重たく、苦しくて、泣きそうになる。しくしく、代わりに泣くのはボクの脚。過去に波及する痛みがボクらの現実と未来を蝕み、うすももいろした想いたちをいともたやすく捻じ曲げてしまった。
「噛み付いてしまうのって、そういうことだったの?」
優しい二人だから明言してなかったけれど。ボクには分かるのさ、好きと大好きには乗り越えられないほどの隔たりがあるってことぐらい。乾いた血の色した自嘲で内側を嬲って、仄暗い悲しみをかすかに明るい喜びに変換し、無聊の慰めに充当する。
「ボクを、ボクなんかを?」
どうして、こんなに。自分から率先して傷付くことを望んでるんだろう。
「ボク、好きになってもらう資格なんて、あるのかなあ」
「……っない」
ベッドの端で俯くボクの、頭上に暗い影が掛かる。
「……マヤノ」
見上げればそこにマヤノが居て、ひらがな一文字の疑問符が連鎖して、口をついて出るより前にマヤノは続けた。
「わかってないよ」
「……え?」
遅れて飛び出るクエスチョンを弾き飛ばしながら、まだ続ける。
「マヤが思ってること、伝わってるって思ってた。でもテイオーちゃん、なんにもわかってない。噛んできたことも、噛ませて貰ってたことも、ぜんぶ、ぜんぶ、全部分かってない!」
悲し気に眉根を下げて、裏切られたような顔をして、心底から悔しそうに歯噛みしてマヤノはその視線をボクから遠ざける。
「マヤのこと、本当に何にも。テイオーちゃん、わかってない」
叩きつけられた見下しの三行半に、はちきれんばかりの怒りが呼応する。
「……勝手に!」
握り潰した空気たちが破裂して、手のひらのもっと内側で苦しそうに爆ぜる。気付かぬうちに用意されていた戦いの幕が、知らずのうちに切り落とされる。地球に引かれて落ちて行く、体裁上なんてコドモらしくないマジックワード。
「分かってるとか分かってないとか、何もわかんないよ!」
決めつけないでよ。
「じゃあ、じゃあボクはなんなのさ!」
キミの、マヤノの、好きなようにしてきたのに。
「勝手はどっちなの?!」
ボクの叫びが昏い場所でぬらりと光る。光の質感と味わいが、果実を噛んだときみたいに爽やかでないのは、叫ぶ都度跳ね返ってくる後悔のせいだ。立ちはだかる『二人の』壁。目の前には二人いるんだ。実体のあるマヤノも、リアルな幻のボクも。二人とも悲しそうな目で、憂いや憐れみを感じる色で、ボクを見つめている。
怒りが抑えきれない。子供だ、ボクは。お子様だから見えるものすべてに苛立ちを感じる、まぼろしだと割り切れない、ボクの偽物に取って代わられる恐怖感だけが増していく。
ねえ、ニセモノ。本物のボクはどこ。
ねえマヤノ、みえないよボク。前が、半透明に濡れて見えない。
キミはいまどこにいるの。ボク、もう止まれないよ。
いつもみたいに噛んで、せきとめてよ――
「押し付けないでよ、マヤノ!」
止まれなくなって、走り始めようと身体はうごく。
速度に乗って走り去ってしまいたくて、いますぐ逃げた過ぎてたまらない。
走り続けていたい、内心で渦巻くこの力に従ったまま。
走ってるつもりでいるの、お願いだからこのままでいさせて。
止めないでよ、お願い。止めてほしくないんだ。
暴言とも付かない感情たちが、無数にある傷口から吐き出されている。
ボクらは走ることを辞められない。なら、走ったまま苦しみから逃れたい。生まれ変わりたい。古い自分を、忘れてしまいたい。
「待ってよ、行かないで、テイオーちゃん!」
逃げ出そうとするボクの身体が、マヤノに腕を引かれたことで大きく前につんのめる。
「離してよ!」
「離さない!」
前と後ろにかかる力が、平行な天秤みたいに均衡している。まったくと言っていいほど動けないのに、横目で見る風景は高速で移り変わっていく。めくるめくスクリーンのなかで、手を伸ばせば届きそうな位置にいつでもあるのが、プレパラートを割っちゃうぐらいの容易さで破壊できそうな、大人と子供の境界線。神さまの定めた因果のレールは、古めかしいスケルトンカラーで出来ていて、あるんだかないんだかボクにはもうわかんない。
「マヤは、押し付けてなんかない!」
「だったらなんだって言うのさ!」
「マヤは、マヤは……うぅ~……!」
一雨来そうな光景から目線を外して、限りなく冷徹に自分の内心を見つめる。ああ、目の前に見えるなにもかも、壊しちゃうべきなのかな、どうなのかな。ここはきっと駅のホーム。ボクはいま前に進む電車と、後ろに帰る電車とにサンドイッチされている。そのどちらもどこに行くか、どこが終着なのかはわからない。電光掲示板も路線図もなにもない無人駅にいまボクとマヤノだけがいる。
「言いたいなら、言えることがあるんなら言ってよ!」
燃える涙を振りかざし、
「だって、傷つくようなこと、いいたくない!」
猛る想いで攻撃すれば、
「言えもしないならなんだって言うのさ!」
叫びに耐えきれずはちきれる、
「言葉にしてよ、マヤノ!」
確かめることのできない他人の心。
「まえを……っ、前を向いてよ、テイオーちゃん!」
それを最後に。ボクは呼吸が、出来なくなった。
「まえ、を……むいて、ない、なんて」
「マヤ、くるしいの……わらってよ、テイオーちゃん……」
「決めつけ……」
ないでよ、と。吐き捨てようとしたのに、舌がもつれて言葉が出ない。ぐずる赤ん坊のように脚が泣く。痛い、あの日と同じくらいに泣いている。
「――入るからね、二人とも!」
遠く遠くから寮長の声。けたたましく開かれる部屋のドア。ああ、ここにきてまさしく、ボクの世界は変転を始めた。変わりたくなんてなかったはずなのに、世界はボクの意思と噛み合わずに進んでいく。放置していた剥き出しの牙が、拒めないところまで食い込んでしまった以上、もう。マヤノに腕を引かれている現状じゃ、この子に見せないよう拳を握ることなんて出来ないから、代わりに奥歯を噛み締めて。終わりの始まりを静かに受け入れるより他に何も出来なかった。