陽が昇り、暮れて二十四を数えて四十八もまもなく過ぎる。ボクらにとってのこの二日は息を調えるためだけの時間だった。朝起きて、形式ばかりの挨拶を交わして、それ以上は何も声にせず一人で登校して、有マと運命に向き合うためによそ事を振り切れるぐらいトレーニングへと精を出して、話すのも面倒になるぐらいに疲れたらさっさと眠る。そんなことの繰り返しで昨日と今日を過ごした。
息苦しくないようにコミュニケーションすれば良かったんじゃないかって言われたって困るんだ。だってそう、事ここに至った時点で、仮面をかぶって接することにどれほどの意味があるのかって話だし、だったらもうレースで全てを詳らかにすればそれでいいんだから。
あれから結局激しい何事もなく。やっとこさで訪れたのは待ちに待った、なんてことは一切ない日。セツナって言葉の速度でもって、とうとうやってきてしまったこの日。トレーナーにいざなわれて、もう一つ産まれた運命の舞台であるここに。勝負服を身にまとい、模擬レース場に立つボクらは。語れるはずの言葉の一切を交わさないし交わせない。あと敢えて言わずとも察して貰えるとも思っていた。この想いの丈は脚でしか、レースでしか解消できないって理解していた。
腕を回す、軽く腿をあげる、目を瞑り想いを巡らせる、コンディションは悪くなかった。アップを兼ねて数周走って、スタートラインに付く。石灰で描かれたゲートのような形。白いラインだけじゃかけっこのしるしみたいなのに。なんでだろう、そこからは閉じる直前のゲートみたいな雰囲気が確かに漂っていた。夜の染みた白、ううん深緑の枠組に入って、ボクは左側に感じる気配へと目を向ける。
マヤノ。
やっぱり声は出さない。奥歯をなぞる舌の動きに留めるだけ。
ゲートに。ここに入った以上、もう何だって言葉は発せない。
この狭い内側で許されるのは、息をすることと胸の鼓動に耐えること。コンセントレーションの時間に、模擬も本番も関係ない。走るっていう生き甲斐をこなしたい、そんなウマ娘でいたいなら。否応なく思考を研ぎ澄まさなくてはならない、戦う直前のために用意された準備エリア。足を踏み入れた時点で震える意味はおろか、思い悩むことすら必要のないものに変化する。握り拳を作ったり、溜まった力を開いて放ったりを何度か繰り返して、俯き加減だった自分にお別れを告げるために前を、向いた。
勝とう。多分、この場において。勝敗を分けるものはスピードでもスタミナでもない。ただひたすらに覚悟と言う名の力だ、何もかもをまとめた、そんな力に違いないと思うから。あとは気持ちの問題なんだ、何もかも。
内バ場のなか、ラインすぐそばのラチ付近から。少しだけ気の抜けるような、位置について、よおいが響いて、すぐ。ゲートの開く音の代わりに、澄み切った夜空に向けて空砲が撃ち鳴らされた。
「はあ……っ!」
「……勝つッ!」
出足は良好。出遅れなんて許されない。この世界を先に行くためには最初こそが肝心だ。今日二人で戦う距離は二千と半分。年末の祭典と同じだけの長さ。別にボクが指定したんじゃない。もちろんマヤノが選んだんでもない。純然たる実力差を勘案して、その上で距離を決めるつもりだった。けど、ボクらの所在を証すならこの距離になるのかなって、ぼうっと思っていたら、知らず知らずのうちに結局この距離を走ることになった、ただそれだけだ。
内ラチに沿うように走るのはボク。その数メートル後方にずっと気配を感じている。右目で確認する、カーブと直線。左目で確認できないのは、マヤノの姿。ボクはずっと右に流れながら、前だけを見ている。風が頬を撫でるどころか、柔肌を切り裂いて後ろへ走り抜ける。前だけを見ている。だからほとんど同じ位置で走るマヤノをボクは見れない。数百メートルなんて秒で終わる。ハロン棒の数字は加速度的に減っていく。ボクは走りながら夢ばかりを見ている。あれだけカッコつけたセリフを吐いてたくせに、現実を直視するのがすごく怖かった。
走る、筋肉疲労でもなんでもないもので足がもつれそうになる。一位かドベか。最終的な結果として表れるのは二つのなかのどちらかだ。時間より光より想いよりも速く疾く走る。走り続ける、服の袖でラチに火花を散らせるくらいに。勝ちに最も近いだろう最短距離を攻めて攻めて対戦相手を打ち負かす。遠くに光る無数の星々に誇示するんだ、トウカイテイオーはまだ走れるんだって、咲き誇ったこの花はまだ散っちゃいないって、それを一足早く今日、みんなに証明するんだ。
走る、泥に塗れた短い芝が空に舞う、踏み込む、圧を掛けられた砂が煙となって空に散る。駆けて駆けてハロン棒、数字が回って一桁に変わる。中盤の終わり、終盤の始まりが、走っているだけで訪れた。
思わずともこの一年、ずっと傍らに恐怖があった。それは骨が折れたことじゃない。苦しかったリハビリでもない。単純に、心が先に折れてしまわないかってこと。心はもろい。だから。心の有り様について考えることすらこわかった。昔通りのストライドで芝を翔けているいまでも、まだこわい。
真剣に走りながらなのにボクは、どこか自己陶酔みたいな下らないことばかりを考えている。自分がもし今のままの気持ちで、美しいものを魅せつけられたなら。その輝きにボロボロになるまで打ちのめされたい、だとか。自分が最も美しいと思うもので殺し合えたなら、こんなに苦しくはなかったのかな、とか。やっぱり生きるには身体の存在が邪魔過ぎる。もっと、溶け合う方法は無いのかな、とか。
あはは。歳、取りたくないのかな。この一瞬に浸るだけで生きていけるのなら。ボクはそれでいいのかな。そんなことないと思う、夢を見ていたいだけで生きている訳じゃないって分かってる。でもさ、本当に。なんで走っているんだろう、ボクは。走るだけの理由なんてとうに見つけていたはずなのに。胸を張って答えられるモノを持っていたはずなのに。
なんで見えなくなるのさ、明日って。そんなに意地悪しないでよ、昨日のくせに。全力でレースを走れない日々ばかりが積もっていって、うず高く積み上げられたせいで見上げてももう何も見えなくて、希望に眩しかったあの近未来は、遥か彼方の更に向こうに行ってしまって、姿かたちはどんどん茫洋になっていき、そしてここに来てついに、ボクの足をブレさせる材料に変化してしまった。
もっと、戦うための理由がほしい。もっともっともっともっと、理由に意味がなくなるまでほしい、無敵になりたい、生きている意味をどうしようもなく知りたい、何も知らなかった頃と同じぐらいの熱情がほしくて、泣きたくなくて、唇の裏側を強く噛んだ。
その瞬間。
背後、ニアバイサイド。
ボクの真後ろで、無音の風が巻き起こる。
「なっ――?!」
抜かれる、そんな、この場所で?!
想像以上に仕掛けが早い、追い込みにしても差しにしても早すぎる。自分に迫る圧力を視認しようと瞳が向ければマヤノは、真剣な眼差しと不敵な微笑みを合わせてボクを食おうと画策していた。
「こんなもの、じゃ、ないでしょ!?」
「マヤ、ノ……!」
走る、走る、ボクらの脚は回り続ける。
「前を向いて、マヤに負けるの?!」
負けるわけには行かない、そんなこと分かってる。
「負けたく……ない……!」
「勝つって、言ってよぉ!」
「う、あ、あああああああああッ――!」
「見せてよ、見せてみてよ、テイオーっ!」
そうだ、勝つ、勝ちたい、勝っていつかその先へ。
ああ。殺せ、殺せよ、過去の自分を。
嗚呼。進め、進んで、未来の自分へ。
だけどさ、それって要は理想だから。
わかるよ、ボクにだってそれぐらい。
焚きつけられて本意気で走って、脚が千切れ飛びそうになってもなお、ボクはどこか冷静だった。そうさ、ニンゲンそんなにすぐには変われない。変化ってのは経験を繰り返すことによって、気づきもしないぐらいあとに、本当に遅まきに訪れるもの。この場で世界の全部を変えられるような、地球を三回転は回せる意思の力なんてどこにだって持ち合わせがない。
「ボクは……ボクは……!」
だから、これはぜんぶ前から持ってたボクの衝動だ。そうに違いないってことを誓うよ、ボクという存在を証明するためだけに。誰にも恥じない自分であるために。止まれるか、止まれるもんか。力を燃やせ、走り抜けろ、ボクはなんのために生まれてきた、どこに存在を示すためにここにいるんだ、譲るな奪え掴み取れ、噛まれて出来た無数の傷たちが表皮の五ミリ下で疼こうとも、脚は止まらない、走ることを止められない、先に、前に、ボクは、ボクらは、ウマ娘だから、いや、それ以上に、トウカイテイオーとマヤノトップガンだからこそ――
「進まなくちゃ、いけないんだああああ――ッ!」
傷ついたまま、それでもなお透明であろうとし続けた自分を、切り捨てたい。痛みと、涙と、愛と、選ばなかった全部を、眩しかった過去を、明くる日の憧憬を、滞るだけの昨日までの自分を、いままでとこれからを積み上げて出来たいつかのボクを。生きているだけの意味と理由を、ああ、きっと。たぶん青臭い諸々を切り捨てられそうにないけれど。生まれ変わらずとも、ぜんぶぜんぶ引っくるめて、新しくなることは出来ると思うから。
「ボクは、勝つんだあああああっ!」
「マヤだって、負けられないんだからあああっ!」
無茶苦茶な走法で、息も整えずに叫びながら、ゴールテープのそのまた向こうを目指して走り続ける。横に並び走ろうとするマヤノはもう、顔を向けずとも左の視界の端っこに見えている。レースの終わりが近いってわかる、踏み締める芝の感触に、現実感が無くなってきている。通過点が終わる、終わってしまう。理想が近づいてきている、脚が止まるまできっと、あと数十秒しかないってわかる。わかって、わかってしまって、寂しさが込み上げる。
「――しいね!」
そんなとき、声。
隣から、笑顔が。
「楽しいね、テイオーちゃん!」
花火のように咲いて、聞こえた。
「あはは、うん!」
聞こえたから、笑い返して、ふと思ったんだ。
寂しさは、まだいらない。
だってまだ、ボクはまだ何者でもないんだろうから。
積み重ねた歴史だってまだまだちっぽけだ。
でも。
「ホントに、そうだね!」
それでも、きっと。
ボクはいま、ここにだけ、いる。
ここにきてようやく思い出せたの、バカみたい。
でも、でもさ。
これからなら、ずっと、遠くへ。たぶん、進めるよ。
ありがとう。ありがとう、みんな。
ボクは、トウカイテイオーだ。
トウカイテイオーは、ここにだけしか。いない。いないよ。いないんだ。
それだけは、絶対。
絶対に間違いなく証明、できる。
「マヤノ!」
誇りにするよ、それだけは。
どこまでも自分本意だけど、それだけは。
否定、できないんだ。
それだけは、紛れも無い事実なんだから――