捧ぐよ、キミとボクのために。
――走り終わって、アウトランも終えたから。芝生の上にお尻をつけて、ボクのトレーナーが差し出してくれた、嫌いな味のスポーツドリンクを飲み下す。あーやっぱり、すごくマズい。舌を出して空気の味で甘苦さを無理矢理誤魔化す。
「二人とも、大丈夫?」
「うん、平気だよトレーナー」
「マヤも大丈夫!」
「そう、なら良かった」
アイシングとかの道具一式を抱えたトレーナーは胸を撫で下ろした。ボクらの状態が問題ないことをちゃんと理解すると、いつもと同じようにてきぱきとレース後のケアを行ってくれた。
「速いなあ、やっぱり。マヤよりも」
「いろいろボクのほうが先輩なんだから、トーゼンでしょ」
「あーっ、カワイくない! テイオーちゃんカワイくないーっ!」
「へへーん、勝ったのはボクだもんねー!」
あれだけ色々あったけど、結局は七バ身差でボクの勝ち。それがボクらの、ボクらだけのレースの結果だった。当たり前の結果、だけど。これは勝って当然の結果じゃないってことを、走り切った今だからこそわかっていた。
「ふふ、テイオー?」
「んえ? なに、トレーナー?」
「言わなきゃいけないこと、あるんじゃない?」
「うん、マヤになんか言ってよ、テイオーちゃん!」
「……あはは、欲しがりだなあ」
「はーやーくーっ!」
「……ただいま!」
「……おかえり!」
「あのさ、マヤノ……その」
「ううん、言わなくていいの、たぶん。分かってるから」
「じゃあさ、色々。こうやって話すのって多分、初めてだから。ちょっとだけ聞いてもいい?」
「もっちろん! なんでもマヤに聞いてみてごらん、何でも教えてあげちゃうよ!」
自信たっぷりに胸を叩くマヤノに自然と笑みがこぼれる。ほっとしてそこで、自分に息が出来たことを知って、覚悟が決まる。
「……トレーナー」
「うん、何かあったらすぐ連絡してね」
三人だったレース場の傍らが、二人きりの空間に変わるまでおおよそ数分。
ボクらの耳にも去る足音が聞こえなくなったタイミングで。
ひとつ、聞いてもいい?
「うん、いいよ?」
静寂を割ってボクはマヤノに問いかけた。
一年間の疑問、その最たるところを。
他ならないマヤノの口から聞きたかった。
「なんで、あのとき。噛もうって思ったの?」
「……痛かったら、まぎれるかなって。思ったの」
全部、言ってもいい?
「うん、いいよ」
マヤノがボクに問いかける。
秘められていた想いは、ボクの許しと願いによって明らかになり始める。
「辛さを吸い出してあげられるかなって。走りたいのに、走れないって気持ち。でも、思いっきり全部をぶつけちゃ、よしよしってしてあげるだけでもダメだって。どうしてか思ったの。だから、噛もうって……わかる?」
「あんまし分かんないけど、わかるよ?」
「もーっ、マジメに言ってあげてるのにーっ!」
「ごめんってば、あはは。だってさ、まさか噛ませてーって来るとは思わないじゃん?」
「噛むのはキライじゃないよ?」
「そっか、キライじゃなかったんだ、ならいっか。いいのかなあ?」
「いいんだもん、あっ、勝ったごほーびに……ううん、もう。大丈夫だよね?」
「……そうだね、もう。大丈夫。マヤノ、優しくしてくれたのにも理由、ある?」
「理由……はないかなあ。あのね、うまく説明できないけど、そのマヤのおかげ……ううんマヤが誰かを助けてあげられたら、きっとみんなうれしいってそう思ったからかな?」
「ふーん、じゃあなんでボクにだけなの?」
「んーとね、んー……マヤのお気に入りだから!」
「あはは、なーんかゼツミョーに納得しない答えだなあ」
「まあいいでしょ! きっと、たぶん。答えなんかいらないよ、たぶん」
「そうだね、すごく。そんな気がする」
結局、どこまでいってもボクらは。二つの足で立ち尽くす、ちっぽけな動物に過ぎないみたい。そうさボクらは意地汚い動物だ。自分を明らかにするために、満ち足りない己を証すために、永遠に戦っていくしかない生き物だ。蒼くて、生っぽくて、汚くて見たくもない。でも、それがボクたちなんだ。落ち着けないけど心を調える、上手く吸えないから息を吐く。勝負服の袖で瞳の湿度を拭い取り、かまぼこの形をした月を見上げた。
まぶしいね、マヤノ。
そっちこそ、テイオーちゃん。
夜のレース場に笑い声がこだまする。ねえ。静寂を破るのはボク。
「マヤノはさ、ボクにどうしてほしい?」
「どうって?」
「諦めて欲しい? それとも立ち向かって欲しい?」
いつになく真剣な顔で、好きとも恋とも違う顔で、ボクを見つめた。
「……生きてて、ほしい」
「……うん、わかった」
真摯って熟語がぴったりハマるような、真面目な思いの詰まった瞳がボクを、ボクだけを見つめていて、見つめられたままじゃ切り替えせない気がした。弱みだけは見せないよう、ニッと笑ったらボクは背を向ける。一回、二回。すうとはあを行って、踵に力を込めて、百八十度回転した。
「マヤノ!」
「へっ、なに、テイオーちゃん?」
「どすこい! みたいな感じで手、出して!」
かたっぽでいいから、ボクがそうお願いすると、マヤノは一度自分の手のひらを見つめた。それから、伸ばしたボクの手へと自分の指先を添わせる。ほとんど同じ大きさの手から伝わってくる、うっすらと震えてるのが。微細な揺れは不安のリズムだ、きっと。だったら笑え、ボク。キミを拒絶するためにそうさせたいわけじゃないんだって、そう言葉に出来ないのなら。可愛くなくていいから、恰好良くなくていいから、不細工でいいから笑えよ、ボク。浮かべた笑いは多分恐らく泣き笑い。それでも、思った通りの笑い顔には違いない。
「ありがとう、マヤノ」
それだけを独り言ちて、心に伝わるすべてを、合わせたこの手からすべてを感じたままに受け取る。ああ、ボクらはいま、この世界で最もつながっていられている。ほとばしるのは、具体性に乏しい確信。爪の先から手の中へ腕を上り、心臓に届いた瞬間全身に満ちていく。
「本当に、ありがと……」
キスやハグ、コトバでしか知らないけどセックスとか。艶めいていて毒々しくて触れづらいような、生々しいなかで生きているものだけが、肌と肌を触れ合わせる方法じゃないし、お互いを証明できるわけでもない。それになにより、大人になろうって思っただけで実質問題ボクは子供だから。踏み出し方も繋がり方も分相応ってコトバの範疇に捕らわれてしまう。けれど、多分。いま触れ合っているこれは、ボクたちがいつの時代にいたとしても。間違いなく正解の一つなんだって深く頷けた。このおっかなびっくりした感じの方が、より深くまで繋がれているような気すらしていたんだ。それが、本当にたとえようもない事実だった。
「ああ……」
青く蒼い紺碧の下で。目を閉じる。涙がこぼれる。頬を伝ってやがて静かに、夜空に彩られた砂地を叩く。こんなに、こんなにも違うんだ。トーゼンだよね、ボクとあなたは同じじゃないんだ。指の高さ、血の熱さ、肌の柔さ。そう、何もかもが違う。だからこそ、その中に何を見出すか。そこが何よりも大事なんだ。テイオーとマヤノ。ボクらはどこまで行っても同一同質じゃない。だからこそ、だからこそ、ボクとキミで同じものは何なのかを探る。白く白く染まりゆく、心の響きをソナーにかえて。もっと更により深みで眠るものを探す。深くまで探して、心ゆくまで理解したいんだ。
「ボクのこと、わかる?」
こくん。マヤノが静かに頷く。真理と理解の入った宝箱は深みにない、一呼吸あれば拾い上げられる場所にあった。でも、これまでずっと気づきもしなかった、探せもしなかった。遠くを、一年間ずっと遠くだけを見ていた。だから不思議だ、こうしているとすごく落ち着く。心が通い始めた気にすらなる、この感覚は年月が与えるものなんかじゃない、だって産まれた時間なんて、数年としない一年と数か月の差だもん。
「……わかる」
でも、それでも。
一つ余さず分かる、分かるんだ。
不確かさなんてどこにもなく、マヤノは生きている。
マヤノが、いまここに生きていることを。
「生きてるよ、ボク」
伝えて初めて実感が胸を貫いて、全身に波及し始める。瞳は想いに呼応して、睫毛の端を更に潤ませていく。
「わかる。マヤ、分かるよ」
つたえたものがかえってくる。これは叫びだ、思い出の放つ魂の咆哮だ。噛み締めるようにつぶやくと、これまでの物語が繋がり、ボクらの曖昧さが分かり、判って、解っていく。ああ、わかるよ、ボクもわかる。わかるからさ、なにもかも。泣く必要なんてどこにもないじゃん、そんな顔しないでよ。つられちゃう、ボクまで泣きたくなっちゃうじゃん。あはは、ダメだなあ、つられたよ。肩口の布地に海と同じだけの塩味を吸わせた。
「マヤノ」
「うん」
「気付けなくて、ごめん」
「ううん、いいの……わかるでしょ?」
「……うん」
「マヤがそうしたかった、それだけだから」
「……ずっと、励ましてくれてたんだね」
「……うん」
「ずっと……」
胸に滲むもの、これが多分。愛、なんだ。知ったかぶりだったみたい、実は知ってなかったみたいだよ。人に愛されるって、こんなに激しいものなんだね。指先が光の粒になったみたいだ。冬にのしかかる寒い空気もぜんぜん痛くないし、猛るような胸の高鳴りも祝福のベルに聞こえる。痛くはない、響き伝わる思いの丈は、痛みよりも鮮烈な刺激で記憶を脳裏に刻んでいく。
「ごめんは言わない、言えないや」
合わせた手のひらが涙に濡れている気がする。そんなわけないよね、手と顔はだいぶ離れてるから。あーでも、手汗だとしたらちょっとばかし恥ずかしいや。仕方ない、もっと恥ずかしいことで上書きして、ボクは照れ臭さに対抗した。
「だから。これまで、ありがとう」
やわらかく広げられた手の平を握りしめるように、指と指のあいだをボクのてのひらで抱き締めて。さらに深く、深く深くまで彼女を理解するために。その温もりを受け渡し、そして取り込んで。
「ボク、わかっちゃった」
そうしてようやくハッとした、何故か分かった、わかっちゃいないと糾弾されたことの意味を、わかったつもりでいたのは違っていたんだってことを、少しだけ。マヤノが教えてくれたのかな。分からないなりに分かったんだ、いま。なら、ボクにはやるべきことが、伝えるべきことがあるはずだ。感傷にだけ浸るのをやめて、閉じてしまっていた目を開いて、端からこぼれ落ちる涙一滴を無視して、にこりと微笑む。
「負けたくない。だからさ、負けない」
ほんとうは、いつだってそこにある。
勝ちたい、ううん。負けたくない。
誰にも、誰にだって、自分にだって負けたくない。
「いま、ここで」
「……うん」
だからさ。手を離して、一歩離れて。
ボクは言うよ。
キミが掛けてくれた魔法を解くための、たったひとつの願いのコトバを。
「マヤノ」
「……なあに?」
「噛ませて、キミを」
最初で最後の傷跡を、遺すから。
運命よりも濃い誓いで、消えないように刻むよ。
「ボクを受け取って欲しいから」
「わかってたよ、テイオーちゃん」
こくり。いつかにボクがしたのとは違う、手を取ってと言わんばかりの差し出し方で。優し気な微笑みを湛えながら、マヤノはボクに左手を捧げた。小さくて柔らかかったマヤノの手の甲を、ボクの、ボクだけの手の平でうやうやしく包み上げ、そのまま、ゆっくり口元へ。指先を近づける。手を、顔を寄せていく。
これまでの幸福を失くすまであと数秒。
四を越えて、三をかすめて、二を終わらせて、一を数え切るよりも早く。
ボクは、マヤノの指先の。
林檎より甘く、マシュマロよりも硬い、小指の根元に、噛み付いた。
「ああ……」
「……泣かないで、おねがい」
噛み付かれてすごく痛いはずなのに、マヤノは優しくボクの頭を撫でてくれる。苦しい、痛い、どうして、どうしてこんなに、お肉を食べるのと一緒なことのはずなのに。どうしてこんなに涙が止まらなくなるんだろう。傍から見たらきっと、ものすっごく格好悪い体勢でボクは泣いているんだろうなって、ぜーんぶ分かっているはずなのに。マヤノにも泣かないでって言われたのに、ダメだ、ダメなんだ、ボク、ああ、キミが分かったことが全て分かってしまったから。込み上げてくる熱いものを、隠すことなんてもう一切出来なかった。
ずっと。ずっと思ってたよ。ボクはずっと。人に噛み付いて、何が分かるんだろうって。キミにされながらずっと、ずうっとそう思ってた。それがいま、さっき言葉でマヤノに伝えた以上に、自分のなかで途方もなくぜんぶわかりきった。ずっと受けてきた無償と有償の愛ってやつを、本当に心の底から。分かって、あまりにも分かり切ってしまった。
「あり……う、マヤ……」
肉を食みながらじゃ声も満足に出せやしない。肌に吸われて唇のあたりで震えるぐらいの力しかない。だったら、想いを。この祈りを。ボクの、テイオーの終わりを。キミに、マヤノだけにあげる。初めて噛んでわかったのは、渋くも甘い汗の味。これまでに理解しているものは、噛まれて、吸い上げられて、もう一度強く歯が食い込むあの感覚。
想起しよう、罪の精算を兼ねるために。痛みはやっぱり痛みだから、いまからかつてを想像することは容易いはずだ。この場でキミにボクが与えているだろうイマは、きっとボクがキミから味わったカツテと同じものなはずだ。
噛んで、舐めて、嘔吐きに堪えながら探し、ふかくを探り、根元に辿り着いてボクの意志で歯形を付ければ。がり。骨を噛む鈍い響きが、流した涙の裏側で弾け散る。理解するという喜びを、厳かに受け取った唇がわななく。
血の味はやっぱりしない。だけどものすごく濃厚な味だ。うまく形容できないのも当たり前。ボクに前を向かせようと応援してくれる、たった一人からしか噛み締めることのできない味だから、何かに例えようとしたって今のボクには。理解が、いや違うや。まだすこし、言葉がきっと足りていないんだ。
ひたすらに深く噛み締めて、分かるために強く味わって、ようやくキミを受け取ったのだから。ボクは、前を向く。前を向いて、二人向き合う。しばらくのあいだ静かな、音のない世界を過ごした。マヤノ。ボクが発した。テイオーちゃん。マヤノが口ずさんだ。それだけでもう大丈夫、今日の分で必要な言葉はたったそれだけで足り切った。途方もない時間のあと目をつぶれば、闇の中に星が散っていて、潤んで、溶けて、白く眩しくて、不思議なまでに心が熱くてたまらなかった。
キミがくれた全部の痛みと優しさを、返し切ることも出来ないまま、キミの身体から歯をよける。月の下でよだれの糸が艶めくように白くひかる。ポケットに手を突っ込んで、おしぼりを探して、手元に開けたらマヤノの手を拭いてあげる。ひとしきり拭き終わったら、今度はごみをポケットに突っ込んだ。
「えへへ、ありがと。キレーになっちゃった」
「そっちのが良いでしょ、やだった?」
「ん~、手のえーと、くぼみのなみだ。きれいだったからなあ」
「……マヤノってさあ、たまにシュミ悪いよね」
「ええっ、そんなことないよお! ……あ、ちょっとストップ、動いちゃダメだよ?」
そういうと、マヤノがボクの目元を自分の袖口で拭ってくれた。夜闇の暗がりの方がだいぶ強い、ポンコツなレース場のライトでも、マヤノの勝負服の袖が濃い色に変わっているのは目視出来た。
「そんなに泣いてたんだ、ボク」
「スーパーハリケーンってカンジだったね!」
「からかわないでよ、もうっ」
不格好になっても良いからと割り切ってボクは笑った。それを見てマヤノも笑ってくれた、ボクが言うのもなんだけど年相応の笑顔だった。ひとしきり笑って、笑い尽くすとボクら二人の息遣いだけが聞こえる世界がやってきた。星を見上げた。タイミングを見計らったかのように、星はキラめいた。
「ありがとう」
「ううん、マヤがしたかっただけだから、ぜんぶ」
「あはは、ありがとう。でも、うん。これで、ぜんぶ」
「うん」
「おしまいには、しよう」
マヤノの眉根が寂しそうに下がる。名残惜しさは感じないけど、周りの空気がどことなく悲しそうな雰囲気になる。
「そう、だね」
憂い気に呟くマヤノ。でもそこまでは想定内、ここからが運命の分岐点。躊躇う必要なんてない、これ以上湿っぽくなる前にボクは言った。
「でさ、提案なんだけどさ。代わりにね?」
「……んと、かわりに?」
「うん、代わりに。新しく始めようよ、ボクらを!」
「んーと、マヤたち、生まれ変わるってこと?」
「違うよ、生まれ変わるんじゃないの、新しくなるだけ!」
全部、これまでの全部。ボクらの大事な軌跡だから。
汚れてしまってもいい、穢れを残したって構わない。
大人になるってきっと、そういうことだから。ボクは胸を張って、堂々と伝えた。
「捨てなくていいって、分かったから。全部。大切なものだから。でも、時間は進むから。ボクらはきっと止まれない。だってボクたちはさ、走ることが大好きでしょ? だから、ここにずっとは留まれない。キミが与えてくれる痛みを、ここに居て良い理由にしちゃいけない……唐突かも、だけどさ。これまでずっと、ボクが辛い間ずっと。夢を与えてくれてありがとう……」
「……そっか。だから、新しくなる……んだね。嬉しい、けど……さみしいなあ……」
「えー……マヤノ。なんか勘違いしてない?」
「えっ? だってありがとう、って。そこまで言ったらお話おしまいでしょ? ちがうの?」
「ちっちっち、そんなわけないじゃん。ここで終わったら提案じゃないでしょ。こっからが本題。言ったじゃん、新しくなろうって。だから、ボクらはさ……」
ごくり。いつになく真剣な表情でボクの一挙手一投足を見つめるマヤノ。ちょっとだけからかいたくなっちゃうけど、そんなことしたら話の収拾がつかなくなっちゃうから。ひとつだけ咳払いを置いて、ボクは。今日初めてちゃんと、マヤノトップガンを見つめた。
「これまでよりも次のステップへ、新しくなるために! ボクらだけの新しい約束をしようよ!」
ボクらの最後を伝えるためにしっかりと、見た。
「未来に進むために!」
運命に恋した痕だけを残して、未来へと進むために、マヤノを見た。
「未来に行くために!」
優しいマヤノの胸を借りて、ボクは胸を張って叫ぶ。
「勝手だって分かってるけどさ、ワガハイは無敵のテイオーさまだから!」
流してしまった涙だけをここにおいていかなきゃ、ね?
「ボク、待ってることにしたからさ!」
終わらない夜を越えるために。
「未来で、キミを!」
途方もない旅の路を進むために。
「テイオーちゃん……」
「どう、マヤノ?!」
「……うん、わかった! 約束ね、テイオーちゃん!」
手を、差し伸べるよ。運命の残した傷痕を食らいつくすには。
新しい約束の後押しが必要だって思ったから。
もう、忘れるだなんて、どこにも意味がないんだ。
「約束ついでにさ、マヤノ!」
ボクは、ボクはいまから。
「有マ、ゼッタイ見ててよね!」
新しい私に、変わるから。
「見せつけるからさ、全部!」
少女の時間はもうおしまい。ボクのモラトリアムはここでフィナーレを迎える。別に一人称を変えるとかじゃない。単に覚悟の話なんだ、大人になるっていうのは。
踊るように進もう、眩しくて見えない未来の話へ。ゆこう、ゆくよ、ボクはきっと前へと歩いていくために、この脚とこの生を与えられた生きものなんだって、心の底からそう思っているから。
子供から大人に進んでいくために、ボクはボク自身を過去に飾る。これからは、そう。私の物語が始まるんだ。ボクは、私は、世界を壊していまこそ羽ばたく。物語の更に先へ進む。運命たちの傷痕は、そこでようやく一新されるはずだから。
「見せつけて、終わって、サークルの中まで、全部見終わったら!」
ねえ、マヤノ。
「マヤ、わかるよ! そのときに、約束しようって言うんでしょ!?」
もう二つぐらいワガママしてもいいかな?
「あははっ、そうだけどさ! でも言わせてよ、もうひとつだけ、約束をしようよって!」
ボクさ。
先明後日の朝を、ちょっとだけ前借りしたいんだ。
「……うん、アイコピー! ぜったい、ぜーったい待ってるからね!」
だからさ、渦巻いてるこの想いを。
「……ありがとう」
「えへ、どういたしまして?」
子供を過ぎ去ろうとするボクたちに捧ぐ、華やかな死出の旅路の糧にするよ。
「マヤノ!」
新しい道が出来たから、次に進むよ。道ができたなら行かなきゃだから。
でもその前に、最後にもう一個だけ、大人になる前に、もう一回だけ。
柔らかく熱い、ボクにとっての最高のはなむけを、振り向いた大輪の花束を。
ボクは、いまになってようやく。
ようやく此処で、抱き締めた。
涙が一粒だけ、聞こえない声と一緒に。
静かに、静かに溢れ落ちた。