あと少し、まだ少し。
ほんの僅かだけ、幕が上がるまでは間があるから。
狭間の話、一席どうぞ。
朝の冷たい空気を浴びながら、精神を研ぎ澄ませていく。
まだ薄暗い体育館で一人、私は今日も朝練に励まなければならない。余計な事を考えていられない、ひたすら集中しなければ。
――ああ、なのに。放たれたボールは軌道に乗れず、ゴールの縁を叩いて弾かれていった。
聞いた話では、弓道家は矢を射る前に当たるか否かが見えるらしい。正しい姿で引かれた弓は正しい矢を放ち、そしてその矢は正しい場所へと導かれる。その軌跡へと矢を乗せる為には、心を正しく保つ他に無いのだと。どんなに技術を学ぼうと、どんなに道具を驕ろうと、自分の心が真っ直ぐに前を向いていなければ矢は応えない。
バスケとはまったく違う考え方ではあるけど、でも。今の私が上手くシュートを放てないのは、澱んだ気持ちのせいでもあるんだろう。
集中しなければいけない、なのに私はその意味を失いかけている。
もうすぐ、何もかも無意味になる。そう思ってしまうと、指先は泥のように鈍っていくのだ。
苛立ちは行き場を無くし、私はただ拳を握るだけ。
それを聞いたのは、暮れも押し迫った時期。ウインターカップも終わって部活も一段落、呑気な冬休みを送ろうとしていた私は、だから最初は信じられなかった。そんな事は有り得ない、聞き間違いだとさえ思ったくらいだ。
「移住……、海外に……?」
呆然とする私の前で母は嬉しそうに語ってくれた、これからの鹿野家が辿る道を。父が仕事の功績を認められ海外支局へと
なにか言おうにも口の中はカラカラに渇き、言葉が出てこなかった。気が付けばベッドに倒れ込んでいたけれど、途中の記憶はまったく無い。きっと形だけ肯定し、愛想笑いで逃げたのだろう。私の悪癖だ、なんでもかんでもそれで逃げてしまう。
一人になってようやく事態を咀嚼し、私は呻くように声を絞り出す。
「なんなのよ……もう…」
勝手に夢を託しておいて、勝手にそれを奪い取るなんて。全く以て、勝手な話だ。
小さい頃からバスケットボールをおもちゃにして育ち、特に何の疑問も持たずにミニバスを始めていた。
母に言われるままに地元の公立校ではなく栄明の中等部へ進学した辺りで、私はなんとなく違和感を抱き初めてはいたのだけれど。果たせなかった夢を私に代わって叶えてほしい、と真剣な顔で言われた中学生が、まさか親に逆らえるものか。
花恋たち小学校時代の友達とは別れることになったけど、新しい友達もいっぱい出来た。きっかけはともかく、バスケは楽しい。もっともっと強くなりたい、上へ行きたい。目指すは全国制覇、なんて大それた夢も抱くようになった。
それなのに、それなのに。
まさかこんな形で、全部御破算にされてしまうとは思わなかった。
結局母にとっては、その程度だったのだろうか。果たせるに越したことはないけど、それよりも優先する事があるわけだ。
春になれば新しい環境、それも海外。高2でそんな事になって、私はやっていけるんだろうか。どうにか適応したとしても、バスケは続けられない可能性が高い。言葉も通じないよそ者がいきなり踏み込んでいける程、スポーツは甘くない。私が天才であればともかく、所詮は凡才にすぎないのだから。
娘の人生をなんだと思っているんだろうか、あの人は。
本当ならばすぐにでもチームメイトたちに打ち明けるべきなのだけれど、私はそれができずにいる。口に出してしまえば、取り返しがつかなくなるから。私は年が明けてもまだ、これが悪い夢であってほしいと願っているのだ。とは言え退校手続きは親が進めているだろうし、いずれ顧問を通じて知らされてしまうだろう。ああ、嫌だな。みんなを裏切って、全部置き捨てて。私は何の為に、ここに来たんだろう。
絡み付く嫌な考えを振り切る為にも、ひたすら練習しよう。無駄であろうとも、今はそれしかない。
努めて気を静めながら、何度目かのシュートを放つ。今度は理想の軌道を描いたボールがリングを潜り抜け、その後に数瞬の間をおいてパタパタと足音が体育館へと入ってくるのが聞こえてきた。
どうやら、今日も来たようだね。
私はボールを拾い上げ、背筋を伸ばす。後輩に格好悪いところなんか、見せたくない。例え朝練で僅かな時間を共有するだけとはいえ、だ。
「おはようございます、千夏先輩!」
背中へと飛んできた元気な声、それを受けて振り返った私も微笑みながら挨拶を返してあげる。
ああ――そうか、この子とももうじき会えなくなるのか。私は彼の名前も知らない、知っているのはバド部所属の中等部生で頑張り屋な事くらい。どうせ春になればお別れだ、あれこれ知ったって仕方がない。
でも、もしも。何か都合の良い奇跡が起こって、春からも栄明にいられるのならば。彼の事、色々聞いてみようかな。
まずは名前、そこから始めよう。
そんな思いを乗せて放り投げたボールは、綺麗な放物線を描いてゴールへと吸い込まれていった。