硝子の向こう側から僕を見つけた女の子は、随分と驚いているように見えた。
色素が抜け落ちた白色の瞳孔を猫のように丸くして、信じられないといった様相の愕然とした表情をありありと浮かべたまま、流動する全身を一つの氷塊のように硬直させたのだ。
しばらく前から見つめていた僕は、そうやって感情を露わにする彼女と視線を交差させると、まるで得体の知れない感情の高鳴りに襲われた。
それと同時に気が付いたのは、今まで聞いたことも無いような激しい心臓の鼓動。耳の底で打ち鳴らされるそれは、紛れもなく僕自身の身体が響かせているものだろう。
そうして互いに釘付けになると、しばらく状況が変化することはなかった。
あたかも時間が止まったような静寂が保たれ、ややあってから彼女は僕より先に冷静さを取り戻したらしい。
制御できない精神の暴走に戸惑っている僕の様子を見て、まるで微笑ましそうな優しい表情を浮かべたのである。…それとほとんど同時に指の境目を見分けられない、着衣の袖で手を隠しているようにも見える腕を小さく振ってくれもしたのだ。
その瞬間、今まさに胸奥を支配している感情が加速した。
偶然見つけた得体の知れない人外の少女に対する興味。奇妙な粘液状の身体を持つそれに抱いていた、ある種アビスへの憧れにも似た好奇心のようなものは、もはや“興味”という言葉では表せないほどに、鮮烈で止めどないものへと変貌している。
彼女の形貌は見れば見るほどに抜きん出ていた。…とても綺麗で可愛らしかったのだ。僕が知っている何物よりも。
孤児の乏しい語彙では説明しきれないけれど、不意に想起したのは昔に消えてしまったある浮浪者の話であった。
家も職も持たないものは得てして、飢えたハイエナのように血走った張り詰めた目をしているものだ。…しかし彼は違った。
他の浮浪者のように、例えるならば生への執着と呼べるような、必死な感情を持っているようには思えなかったのだ。
彼はまるで子供の用に澄んだ目をしている人であった。
いつも夢を見ているような表情で虚空を見つめ、あるいは手元に抱えたボロ布をひどく愛おしそうに撫でていた姿が、やけに鮮明に思い出せる。
いつものようにボロ布を愛でていた彼が呟いていた、曰く「致命的な恋」というもの。
一目見た瞬間から他の全てが霞んでしまうような、果てしない魅力にやられてしまうらしい。
叶うならば出会いたい。話したい。感情を伝えたい。両腕を使って抱擁したい。…そのためならば、例え何を捨てることになったとしても構わないとさえ、思えると言うのだ。
それこそがきっと、今僕を支配するものの正体なのだ。
……しかし同時に肌の
幸いにも僕に対して好意的な彼女の下に、すぐにでも駆け寄りたいという感情を留めているそれ。これは推理の必要もなく知っていて、それどころか酷く慣れ親しんでいる感情だった。
それは不安。恐怖であった。
恋の熱にあてられて風前の灯火となっていた感情は、改めて自覚すればなお明瞭に感じられる。
これだと説明できるような根拠はなく、しかし気のせいや間違いではない。あるいは違和感にも似た忌避する本能。…それは僕たちのような孤児を甚振って遊ぶ乱暴者と思われる相手を見た時や、仲間が持ち帰ってきた得体の知れない食物にも感じられる気配だった。
あるいは死の気配とも言い換えられるかもしれない。
どうして彼女はこんな場所に、一人で隔離されているんだ?
この場所に辿り着くまでに通った廊下は、ほとんど分岐の無い一本道であり、不必要なまでに冗長であった。
それを幾重にも区切るように置かれていた扉は、異様に頑丈そうな作りであっただろう。
区画を隔てるための扉であるようにも、部屋を区切るための扉であるようにも思えないあれは、今思えば、何か恐ろしいものを閉じ込めるための扉だったのではないだろうか。
その何か恐ろしいものが、彼女であるとでも…?
不意に過った考えを否定できる材料はない。
違和感は気が付けば気が付くほど、その深刻さを増していくばかりだ。
じわじわと燻る恐怖心が疑心暗鬼を生じさせ、そうなるとまた不審な点も余計に際立ってしまう。
最初は故も無く、微かに香る程度のものであった不安も、今となっては正しく輪郭を帯びた怖気となっていた。それはきっと理性と本能が悟った、恐ろしい事実の先触れだろう。
本能はずっと愛おしい彼女に近づきたがっているのに『ここから先に進めば取り返しがつかなくなるぞ』と、他ならない僕自身が強烈に訴えかけているのだ。
そうやって彼女を見つめたまま釘付けにされていた折、不意に表情が変化した。
今までは微笑むようなかんばせを浮かべていたのに、それが突然拗ねているかのような、あるいは怒っているかのような不機嫌な色を帯びはじめたのだ。…しかし変化に訝しむような間も無く、彼女が表情を曇らせた訳を理解した。
「おやおや、アムルゥ。既に『溶ける愛』の寵愛を受けているものかと思っていたのですが…」
打ち鳴らすような足音と共に語るのは、父親なんて知らないはずなのに父性を感じる優しげで、そうでありながら情緒の機微を感じさせない声色。
「まさか一度も収容室内に侵入していなかったとは…正直なところ意外です。君は手癖の悪さとは裏腹に、存外に用心深い性格をしていたようですね」
とうとうと「やはり子供の意外性とは侮りがたいものです」と続けた語りは、それだけですぐに誰のものであるかを察せるものであった。
なぜか彼の気配は、想定よりずっと近い…もはや5メートルも数えられないであろう場所から響いているように思える。
反射的に振り返ろうとしたのだが、ふと身体が痺れてしまって動けないことに気が付いた。
「と、ける…あい……」
不自然に鈍んだ意識によって、彼の言葉は聞こえていても意味を理解することは叶わず、そんな中でも異様に明瞭だった音…きっと彼女の名前なのだろうそれを復唱する。
最中に毒草を食ってしまったときのことを彷彿させる舌の痺れを自覚して、自分が何かしらの悪影響を受けているのだと察した。噂に名高い上昇負荷というやつも頭に過ったのだが、状況を鑑みるにそれではない。きっとこれは別の…おそらく彼女、溶ける愛がもたらしたものだろう。
ぎこちないながらもやっとのことで振り返れば、特徴的な細隙を輝かせる仮面の男が歩いてきている様子を認めた。
彼女以外の全てがぼやけた世界の中では、似たような恰好が多い
彼は僕の呟きに対して「そう、溶ける愛です」と返しながら歩いて、やがて僕の隣まで来たところで止まった。
数少ない白笛に数えられる探窟家の一角。
黒い外套を翻すその者の名は…
――――黎明卿、ボンドルド。
オースの偉大なる英雄にして、僕たちのような無能の孤児を秘境の大穴『アビス』へと誘ってくれた恩人その人である。
「三層の奥地にて発見された、少女の姿に擬態する意志持つ液体…。一見すると成れ果てのようにも見えるのですが、未だに遺物なのか生物なのかも定かではないのです」
彼の真黒い手袋が緩慢に、彼女とこちら側を隔てる硝子に触れる。…反応は劇的であった。
溶ける愛は何とも形容しがたい微妙な、強いて言うなら嫌悪の表情。感嘆詞で表せば「ぐぬぬ」とでも言いだしそうな反応を示して、数歩分か後退るように後ろの方へと這いずったのだ。
ややあって彼女はご立腹と言わんばかりにベッと舌を見せた。
そんな露骨な振る舞いを経てから少女の形を崩し、やがて彼女は動くことのない半透明な粘液溜まりへと成り果てる。間際にお世辞にも精巧とは言いがたい作りの手を振っていたのだが、その相手が僕であったように見えたのは勘違いではないだろう。
一連の流れを見届けると、彼女とは…主に情味の面で対照的なボンドルドさんも反応を示した。
「やはり我々は嫌われてしまっているようですね。あれが授ける寵愛は少し興味をそそられるのですが…」
彼の言葉は内容こそ残念がっているように感じられたのだが、「丁度いい機会ですね」といって区切るまでに調子の変化は存在せず、一貫して淡々とした無機質な振る舞いをしていた。察するに実際、まったく残念には思っていないのだろう。
元より期待などしていなかったのか、あるいは期待した上で裏切られても問題ない程度のものだったのか…後者だとしたらその理由は何故なのか。そもそも『溶ける愛の寵愛』とは何なのか。
色々な思考を巡らせるが、しかしすぐに意味のないことだと察して、それについて考えることはやめることにした。
それからややあって、余裕に溢れた緩慢な動きで僕の方へと振り向いた彼は「些か準備不足ではありますが…」と言って再び口火を切った。
「アムルゥが望むなら彼女のそばへと案内しますよ。どうあっても、きっと得難い知見が得られるでしょうから」
その言葉はまるで僕の欲求を見透かすようであった。
余裕に溢れる緩慢とした動きで振り返る彼に対して、僕は言葉に詰まって返事をすることができずにいる。…想定外の提案に思うところがあまりにも多くて混乱してしまったのだ。
それに彼女の傍に行けるとして…行った後、僕は無事でいられるのだろうか?
そうして僕は動転したまましばらく返答に難儀して、とりあえず質問をしてみようと思い至って…
「その…溶ける愛ちゃん、さん…?は僕を、殺さない…ですか……?」
思考も纏まらないまま、もっとも気に掛かっていたことを問いかけた。
しどろもどろな質問を受け取った彼は、一呼吸程度の間をおいてから応える。
「彼女があなたを殺すことはありません。それに沢山の
その返答に微かな違和感も覚えたけれど、それごとゆっくりと己に理解させるように…あるいは己を納得させるように嚥下した。
ひとまず安心できる答えを貰ったのだ。
それでは次の質問をしようか、あるいは返答を決めようかと迷った直後。
「アムルゥー!ここにいんのかー?」
ナナチの声が聞こえた。
ボンドルドさんもそんな彼女…もしかすると彼なのかもしれないが、ともかくナナチの呼びかけに気が付いたようだ。
声がした方へと目をやって、もう一度僕を見下ろして…それから静かに言葉を紡ぐ。
「どうやらナナチが心配しているようですね。これについてはまた後にでも時間を取りましょう。…ひとまずアムルゥはナナチの下へと向かってあげてください」
彼は腕を使った丁寧な動きで「どうぞ、あちらへ」と行先を示し、僕も示された方向へと目を向けた。
自ずと見えた分厚い鉄扉は、侵入した時に元通り施錠されていることを確認していたはずなのに…まぁ、彼が来た時点でそういうことだろうとは思っていたのだが、完全に開放されているらしい。
そこまで来て不意に、自分が叱責されるべき状況にあることに気が付いた。
先ほどの問答は一体何だったのか。
少なくとも善意のみからなるものであるようには見えなかった。
まさかボンドルドさんが興味を示していた、溶ける愛の寵愛そのものが僕への罰に値するものだったのだろうか?
様々な疑問が脳裏を過っては通り過ぎていくけれど、悪戯が暴かれているという事実が彷彿させる感情によって、そんな考えは音としての形を成すことなく消えていく。
僕は
彼がここにいるということは、当然それに気が付いているということになる。
思考や身体の麻痺が回復した今、平然と彼に質問をするなんて厚顔無恥な振る舞いをすることは、非常に難しいものであったのだ。
もっとも非を理解して恥じ入るならば、何より優先すべきは謝罪というものなのだろうが…罪を認めることは何よりも恐ろしい。
僕は盗みを『飢え死にそうな弟のために必要だった』自白して殺された兄弟を知っている。
あの白笛・黎明卿を象徴するような仮面の下で、彼は一体どのような表情をしているのだろう。
あの微かにも調子の変化が感じられない声には、どのような感情が込められていたのだろう。
本当は
これ見よがしにゴミを捨てては漁りに来る僕たちを指差して、自分の子供に『ああなってはいけないよ』と教えていた大人のように、酷く冷たい目で見つめているのかもしれない。
それに謝らないことこそが問題だったとしても、謝罪なんてしたことがないのだ。…謝るという行為自体を知らない。
謝れと怒鳴られたことはあるけれど、謝る方法について教えてもらったことなんて一度もなかった。
概念こそ察してはいる。それはきっと「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ありません」といった言葉だろう。…だがあまりにも不明瞭なのだ。
……いや、しかし仮に謝罪のイロハが分かっていたとしても、きっと僕にはできないだろう。
何もできないことを理由に何もしない卑怯者は、何か出来ることがあったとしてもできない理由を探すだろうから。
そんな思惑は結局のところ意味を持つわけもなく、ボンドルドさんは恐れていた言葉など言わず、恐れていた行動についてもすることはない。
なかなか動かないで、挙動不審に向けたり逸らされる視線を察知して、ボンドルドさんは「どうかしましたか?」と言った。
「なんでも、ない…です」
僕は、まるで隙間へ逃げ出す鼠のように足を動かした。
振り返るたびに見えるのは、両腕を軽く横に広げた見慣れた姿勢で、ただ静かにこちらを向いている彼の姿だけ。
怒声も嘲笑も無ければ、見て見ぬふりでさえない。僕の背中から貫くような視線に後ろ髪を引かれるような後味の悪さを覚えて、僕は…ナナチの声が聞こえた方向へと歩調を速めていった。
◇ ◇
暗く無機質な廊下を走っていくと、すぐにナナチと出会すことになった。
「お前ぇ…こんなところにいたのかー?」
特徴的な気怠そうな声、まるで飼われた動物のような柔らかい毛並み。
例えるなら兎と人間が混じったような容姿は、彼女がただの人間ではなく…おそらくアビス特有の生物なのだろうということを伝えている。
「正直よぉ…ここから逃げ出したのかと思ったぜぇ?」
ナナチは呆れかえったような半開きの瞳で僕を見詰めながら、まったく何気無いのに小動物的な魅力に溢れた所作で近づいてきていた。
「そんなこと、しないよ…」
僕が小さく反論すると、彼女は大きく溜息を吐く。
それから「全く期待させやがってよぉー」と…僕がここから居なくなっていたほうがナナチにとって都合がよかった、という意図を含むようにも思える言葉を、しかしむしろ僕を慮るようにさえ思える声調で言った。
その言葉の意図について気にならないと言ったら嘘になるけれど、きっとそれは藪の中の蛇を突くことだと思う。…真意を聞き出すのは恐ろしかったので、やめることにした。
やがて僕の目前まで来た彼女は、無造作に僕の頭を小突きながら、ぼやくように呟く。
「まったくよぉ、人探しするボンドルドなんてなかなか見ねぇぞぉ?」
それは決して暴力的ではなく、全く痛みもなく、悪意もほとんど感じられないスキンシップ…むしろ不可解な満足感さえ得られてしまうものだった。
続けて彼女は「部屋に帰るぜ」と言うと、柔らかい被毛で包まれた手を差し出す。
そのふわふわを握ると、僕の手は優しく握り返されるのだ。
他意など感じられない、まるで家族の様な触れ合い。
どこか懐かしいものなのに、ここに来るまではずっと知らなかった心地良い暖かさで胸を一杯にしながら、僕はナナチの連れられていった。