「エロゲの脚本を考えてほしい」
なぜそんな仕事を自分へ……? 首をかしげながらもそれを引き受けた彼女は、やがては巡り巡って、ルカトゥの知られざる一面を垣間見ることになる。
日増しにお互いの理解を深めていく二人の3作目。
※本作は「月光照明」のシリーズ3作目です。シリーズのどこから読んでもたぶん楽しめると思います。
↓前作のURL↓
https://syosetu.org/novel/295518/
↓次作のURL↓
https://syosetu.org/novel/313388/
あの一件の後にクラス替えをした記憶はないから、あれは小学五年生か六年生の頃のことだったと思う。
小学生時代のわたしには、六年間一度もクラスが別れなかった友達がいた。その子は食べ物の好き嫌いが多い子だったから、わたしはいつも給食の時間になると、その子の食べられない物をかわりに食べる役割を自ら買って出ていた。……けれど当時も今も、そんなわたし自身にだって全く好き嫌いがないというわけではない。
魔界にも、原料以外はほとんど人間界の「納豆」と同じ食べ物があって、わたしと友達は二人してそれが苦手だった。でも、わたしの場合はどうしても食べられないほど苦手というわけではなかったから、それが給食に出てきた時は結局、わたしが二人分を食べていた。
お互いに納豆が苦手だということは、友達の方も知っていた。だから納豆が出てきた時にだけ、友達からわたしにかけられる言葉は「ありがとう」ではなくなる。
「ルカトゥ、ごめんね……」
と、そう言われることが、ありがとうと言われることに比べれば、わたしはあまり好きではなかった。
全然いいよ〜、と返すのだけれど、そうしたところで「ごめん」を言うことをやめてくれないその友達は、いつもわたしの顔を不安そうに覗き込んでくる。だからある日、思い切って彼女に聞いてみた。もしかしてわたし、不機嫌そうな顔をしてる? と。
すると、返ってきた答えはお笑いものだった。
「ううん、不機嫌そうではないけど……。……ルカトゥって苦手なものを食べると、顔のパーツが全部真ん中に寄るから……よっぽど不味いんだろうなって……」
「へ?」
当時、自分にそんな特徴があるなんてことを、わたしはまるで知らなかった。大人になった今では時々、昔を懐かしんで、鏡を見ながら顔のパーツを全部中心に寄せた変顔をしてみたりする。……そのたび、これを見て笑わずに、むしろシリアスな顔をしてみせたあの友人は何らかの天才だったのでは? と思うのだ。
初めてそれを指摘されて面食らったわたしのことを、彼女は一瞬、逆鱗に触れてしまったと勘違いしたようだった。
「ご、ごめん、食べてもらってるのに……っ」
「え、いや全然いいけど。顔のパーツが真ん中にって……こんな感じ?」
「……ふふっ」
「笑った〜!」
「ご、ごめんって〜……!」
そんな風な和やかさがいつも彼女との間にあったことを覚えている。だからわたしはあの頃、彼女の分の納豆をかわりに食べてあげることが嫌ではなかった。味は苦手だったけれど、他の物をかわりに食べてあげる時とまったく同じように、自ら好んでその友人を助けていたように思う。
……当時のわたしがそんな自分の大きな勘違いに気づいたのは、それから数ヶ月後のことだった。
日本中の至るところで雪が降った。特に九州にも降ったという話を聞いた時には、一度も行ったことはないくせに、これは一大事なのではないかと思ったものだ。
ルカトゥとの同棲を初めてから……もとい彼女のスネをかじるニートになってから、初めて迎える冬。今年の冬は一段と冷え込んでいて、金曜の夜にたどり着いた人間が週明けのことを半ば忘れかけるみたいに、地球が温暖化のことを束の間忘れているような感じがする。そのまま冬以外の季節など忘れてしまえばいいのに……と言っては、ルカトゥが悲しむだろうか。
あの夏、本人の言葉に乗せられるがままに、彼女の心を踏みにじってでも甘い汁を吸ってしまおうと決めた時から、体感的にはずいぶんと長い時間が経ったように思う。その間に私がしていたことといえば…………特筆すべきことは何もない。一応、あれからもいくつか漫画は描いた。一円にもならない漫画を、それこそ排泄でもするかのように描いてはネットに上げた。
平日昼間から、暖房の効いた暖かい部屋でコタツに入りつつ、私は思う。今もしも裸で外に投げ出されて凍死する羽目になったら、自分はそれを理不尽ではなく、自業自得だと思ってしまうのではないかと。
「先生ぇ、どうしたんですかぁ。また暗い顔してますよぅ」
物置き部屋からみかんがたっぷり入ったダンボール箱を運んで来つつ、ルカトゥが心配そうな声で言う。けれどその声にはどこか、元気づけるように冗談めかしているような雰囲気も混じっていた。「心配すること」と「深刻にすること」に区別をつけるのが、彼女はとても上手いのだ。
「冬は鬱になる人が増えるらしいよ」
「え、そうなんですかぁ……? あったかくしてても〜……?」
「いや、詳しくは知らないけど」
「そうなんですかぁ。……あ、わたしも詳しくは知らないんですけどぉ」
「ふむ」
コタツに足を入れて背中を丸める私の背後から、人の背に舞い降りる天使のようにふわりとやわらかく、ルカトゥが抱きついてくる。ただの温度だけではないような、言わば情の熱で包み込むように……。あるいはその巨乳を押し当てるかのように。
「人は、ぎゅーってスキンシップをすると、幸せな気持ちになれるらしいですよぅ」
「それはルカトゥがしたいだけでしょ」
「へへへぇ〜」
ルカトゥ・ソラフォルリコル。NG無しかつ天才的演技力でAV女優としての名声を欲しいがままにする彼女は、サキュバスかつ同性愛者(またはバイ)である。なぜそれを知ったのかといえば、彼女は私に気があるのだということを、本人の口から聞いたからだった。……そしてその気がない私は、彼女の気持ちに答えることはできないと明言したはずなのに、その上で今もこんな調子でいる。
もちろん私だって、ルカトゥの気持ちに答えられないからには、その気持ちに乗っかった待遇を受けるわけにはいかない……と一度は主張したものだ。けれど彼女はその私に向かって、要約して「真面目ぶって距離を取られるのが一番悲しい」と言ってきた。いや違う、もっとはっきり言っていた。「軽い気持ちで自分のことを必要としてくれた方が嬉しい」くらいのことは、実質的に言っていたように思う。
そして私には、彼女の一番悲しいを実現させることも、自分にとってものすごくしんどいを実現させることも出来なかった。だから今は……というかあれからずっと、私はサキュバスの甘い言葉に流されるがまま、散々やりたい放題の日々を過ごしている。
無造作に置いたダンボールの中から、ルカトゥは両手いっぱいにみかんを抱えてはコタツの上にごろごろとそれを転がした。私の向かいに座り、そのうちの一つを剥き始める。
「先生ぇ、今日のお夕飯どうしましょう?」
「んー……、思いつかない」
「お鍋とかどうですか〜?」
「鍋好きだね」
ルカトゥにほぼ全ての家事を任せるようになってから、早いのか遅いのか数ヶ月が経った今。私はおそらく、スーパーで売られているメジャーな味の鍋は全て味わい尽くしていた。子どもの頃、夏休みの昼食にそうめんが出てきたのと同じくらいの頻度で、最近のこの家の夕飯は鍋なのだ。
で、私は本来、鍋という料理があまり好きではない。ルカトゥのことだからそれにもきっと気づいているのではないだろうか。私が鍋を苦手とする、その理由までを含めた全てに。
「お鍋って健康的じゃないですかぁ」
「かもね」
「おいしいですし〜」
「それはそう」
「それから〜、……先生によそってあげるのが楽しいんですよねぇ」
「それは、いつもありがとう」
私が鍋を苦手としている理由、それは「思った通りに取れないから」である。やはりとっくにバレているのだろう。
個人的には、なぜほとんどの人類がそれを不快と思わないのかの方が不思議なのだけれど、脆く煮くずれ不規則に漂い、お玉ですくえば狙った物以外も付いてくる……そんなじゃじゃ馬が鍋という料理の本質じゃないか? 私にはそれが受け入れ難い。たとえば何かの集まりで鍋が出てきた時に、わざわざその見解を口に出すほど頑なにというわけではないけれど。
ちなみに、似たような理由で蟹や手羽先なんかも苦手だ。そりゃあ飢え死にそうになれば話は別だろうけど、現実的には、食べやすい食べ物がそこかしこで売られているわけで、どうせ買うならそっちの方がいい。
だけどもちろん、ルカトゥが食べやすくしてくれるのであれば、私はそれらの食べ物のことも好きだった。
「鍋って、次はなに鍋にしようか。そろそろ二周目だよね」
「いえいえ、まだ食べてない鍋がありますよぉ」
「そうだっけ? 少なくとも、この前朝の番組で紹介されてた○○鍋の素は、全て実食した気がしたけど」
「あぁ、そういう鍋は全部食べましたねぇ。でも先生ぇ、鍋は「○○鍋と名のつくもの」だけじゃありませんよ〜」
「というと?」
「今晩はおでんにしましょう」
「あぁ、なるほど確かに。名案だ」
言われてみれば、それはまだ今年一度も食べたことのない鍋料理だった。コンビニのおでんを見た時に、あの仕切りのたくさん付いた特異な器具からはそれを鍋料理だと認識しづらいこととかが、意識の盲点を生み出した要因かもしれない。
「はい、先生ぇ」
白い筋まで丁寧に取り除かれたみかんをルカトゥから手渡される。私がそれを一ふさ口に入れる頃には、ルカトゥは次のみかんを剥き始めていた。
窓の外に、もう雪は降っていない。いつか降ったそれはとっくに溶けて、何事もなかったかのように街は普段通りの景色で凍てついている。ベランダのスリッパに溜まった雨水が、油断すると翌朝凍りつく程度に。
「先生ぇ、あーん」
膝立ちをしたルカトゥが、まだ自分の分を持ったままの私の口に、新たなみかんを一ふさ放り込んでくる。餌付けされるペットの気持ちだ……と思うのは、生活費の全てを彼女の収入に頼っている以上、すでに数百テンポは遅すぎることだった。
……そういった自虐的な思考が、私に真っ当な成人としての矜恃を取り戻させるようなことは、残念ながらまだ一度も起こっていない。
「ねぇルカトゥ」
まだいくらか中身を残したダンボール箱を片付けようとするルカトゥに、口の中をもごもごさせながら私は言う。
「そのみかんたちさ、ベランダに出したら凍るかな」
「へ?」
単なるしょうもない思いつき、素朴な疑問というやつだったのだけど、ルカトゥは思いのほかわくわくに顔をかがやかせた。
「面白いこと考えますね〜! さすが先生ぇ」
「そう……?」
「試してみましょう〜」
行動力に富むサキュバスの手によって、ベランダの窓が勢いよく開かれる。途端、風が吹き込むわけでもないのに、冷気だけが極太の光線のように部屋の中の者を襲った。さしものルカトゥも「ひぇ〜」と声を上げる。おそらく駄洒落ではない。
みかんの入ったダンボール箱は、そうしてベランダに締め出されたのだった。その時なんとなく、もしや次の夏が来る頃には、彼女は水槽で何か飼いたいだとか言い出すのではないか……という気がした。ダンボール箱の四角さがそれを連想させたのだ。
「寒いですねぇ。たしかに凍りそうですよぅ」
「ルカトゥは暑いのと寒いの、どっちがマシ?」
「んー」
あごに指を当てて宙を見上げるルカトゥ。どうやら答えは僅差らしい。
「先生はどっちですかぁ」
「寒い方かな。厚着はいくらでも出来るけど、裸の先はないからね」
「なるほどぉ。……じゃあ、わたしもそっちで〜」
「ルカトゥはなんか、私が白いって言えばカラスも白いって言いそう」
「それは買いかぶりすぎですよぅ」
「買いかぶりって使い方合ってる……?」
ルカトゥは「あはは」と笑った。
彼女はそのままコタツに戻ってくることはなく、上着を着込み始める。
「それじゃあ献立も決まったことですし、お買い物ついでに、ちょっと出かけて来ますねぇ」
「あぁ、うん」
「みかん、一度に食べすぎちゃダメですよ〜? お腹壊しますからね〜」
「はいはい」
もうここ十年くらいは耳にした覚えのない子ども向けの注意を言い残して、ルカトゥは玄関を出て行った。……買い出しのついでに、サキュバスとしての食事に向かったのだ。
私はコタツに足を入れたまま床に寝転がる。厚いカーペットが敷いてあるので特別寒くはなかった。が、あえてそのまま肩までコタツの中に潜りこむ。……目を閉じれば眠れてしまいそうだった。
もうそろそろ、一ヶ月は経ってしまっただろうか? ……私は、ここしばらくの間漫画を一切描けていない。一コマも描いていないし、アイデアを思いつきもしていない。スランプ……というのは大袈裟だろうけど。
漫画を描かないと暇なので、ゲームでもしようかと思うのだけれど、もう今持っているゲームには、一人でやる分には大体飽きてしまった。ルカトゥと遊ぶことが以前より何倍も当たり前になったことの反動なのか、顔も見えないオンラインの荒波に揉まれることに嫌気がさしてきて、マリオカートで自分のゴーストとデッドヒートを繰り広げていたのが先月のこと。今は、それにも飽きている。
家にあるゲームソフトの数は、私が今年食べた鍋の味の数とどっこいどっこいだ。世に名作ソフトは数え切れず、飽きたなら何かしら次のゲームを買って遊べばいいだけの話なのだけれど……。実際には、どうにも気乗りがしない……というか、はばかられる。私の収入は今なおゼロであり、それは来月も再来月もその先もずっと、きっとずっと同じなのだから。そうなるといい歳した人間が、ゲームを買うことすらはばかられるようになる。
もしルカトゥが私の今の気持ちを知れば、きっと「ゲームくらい好きに買ってくださいよぅ!」と言ってくれるだろう。そうなっていないということは、まだそのあたりのことは通知の魔法のアンテナに引っかかっていないということになる。……暇なんだからたまには家事でも手伝ってみようか? 魔法を使うまでもなく「私がルカトゥのいないうちに黙って家事を手伝った」という事は、帰宅した本人にまず気づかれるだろうけど。……そしてそれをルカトゥがどう思うのかについては、あまり良い想像ができないけれど。
今日までの経験的に、彼女が家事をしている横で「手伝うよ」と言うと、遠慮されつつも喜ばれることが多かったように思う。しかし、彼女がいないところで私が黙って手伝いをすると、一転して、そこから喜びが引かれた「ゆっくりしててくださいよぉ」的な反応を寄越されるのだ。私はそれについてこう考えている。彼女は私との共同作業を楽しむ心を持っているのであって、手伝い自体をありがたいと思う心は持ち合わせていないのではないか……と。むしろただ手伝われる分には、自分の仕事を奪われたというような認識になっているのではないかと。
……でも、そうやってルカトゥのせいにすることでこのまま昼寝を始めるくらいなら、ゲームソフトだって買ってしまえばいいんじゃないか? はばかられたり、はばかられなかったり、自分の中にしかない微妙な塩梅で天秤をあっちへ傾けたりこっちへ傾けたり……。卑怯というのはこういうことを言うのではないか……? と、我ながら思う。
きっと、私はいい加減にはっきりするべきなのだ。淫の字が付く悪魔に魂を売りきって傍若無人なダメ人間として振る舞うのか、さもなくば世間一般的に考えて悪とされる振る舞いからは一切手を引き、それから就活も試みてみるのか。どちらかはっきり決めて、その選択に責任を持つべきなのだ。
…………どちらを選ぶのかは、おでんを食べてから考えたい気分になってきた。
肩をゆすって起こされた頃には、鍋の中でおでんが煮えていて、寝ぼけまなこをこすっているうちに、取り皿には一通りの具が盛られていた。
いただきますを言ったあと、餅巾着を箸で持ち上げながら、私は言う。
「おでんくん、ってアニメが昔あってさ」
向かいに座って取り皿からちくわぶをかじったばかりのルカトゥが、「聞くモードに入りました」とばかりに大きく一回まばたきをする。
「主人公の名前が「おでんくん」なんだけど、おでんくんは餅巾着の擬人化なんだよ。おでんがみんな擬人化されてるアニメでさ」
「ふむぅ」
「あのアニメがなかったら私は、おでんの中心が餅巾着だとは思ってなかった気がするんだ。アンパンマンがいなくても、餡パンは菓子パンの中心って感じがするのにね」
口の中のものを飲み込んだルカトゥがおたまを持ち、次は鍋の中の大根をすくい上げる。実家の家族たちと違って、彼女は取り皿に一度に食べたい具をそろえるタイプではないようだった。非効率といえば非効率に見えるけれど、元々サキュバスにとって人間的な食事は「付き合い」でしかない。彼女にとって目の前の鍋は、お喋り目的で入ったファミレスのドリンクバーと同じような物に見えているのかもしれない。
「わたし、アンパンマンって納得いってないんですよねぇ」
「え、なにが……?」
「餡パン、食パン、カレーパンですよぅ……? なんか、アンバランスじゃないですか〜……?」
「あー、食パンマンが……?」
「そうですぅ。天丼、カツ丼、釜飯もそうですよねぇ。釜飯どんだけなんかちょっと違うじゃないですかぁ」
「それは、あれじゃない? 少しは違う奴が混じってるグループの方が面白いんじゃない? 創作的に。仮に天丼、カツ丼、親子丼だったらさ、なんか面白みに欠けちゃうとか。メロンパンナちゃんとかの他のメジャーな菓子パン系には、主戦力メンバーからはちょっと外れたところにも居てほしかったとか」
「あ〜なるほどぉ。たしかに、言われてみるとそうかもですねぇ。さすが先生ぇ」
「ルカトゥこそ。食パンとか釜飯がちょっと違うって感覚は、すごく人間的じゃない? 人間的というか、日本人的って言うのかもだけど」
はふはふいいながら、小さくした大根を少しずつ食べるルカトゥ。彼女はわざとらしく口をとがらせた。
「む、先生ぇ、サキュバスが性欲以外のご飯を食べる時のこと〜、口に入りさえすればなんでもいいと思ってそう……って思ってるでしょ〜」
「んー……まぁ少なからず……? ルカトゥがそうとは言わないけどさ。サキュバスって人間ほど飲食にこだわらなさそうなイメージはある」
「む〜、否めないというか、まぁ究極的にはそうなんですけどぉ。でも、味も分かるし〜、お腹が膨れる感じも分かるんですよぉ? 全然栄養にならないってだけで〜」
「あ、そうか。確かに言われてみれば、人間もべつに栄養素で食パンとか釜飯を見てるわけじゃないもんね」
ずっと前……というにはまだ少し近い昔に、ルカトゥに生クリーム乗せカレーライスを食べさせた時のことを思い出す。そう、サキュバスにも味は分かるのだ、間違いなく。
餅巾着を一口で食べようとすると最悪人間は死ぬので、パンを食べるみたいに歯でちぎっては少しずつ食べる。……けれど餅と揚げのコンビネーションは一口分で満足感がすごいので、途中でちょっと何か別の物も食べたくなってきた。取り皿の中にすでに居るこんにゃくを中継ぎに任命する。三角形で、格子状に切れ込みの入った黒こんにゃくだ。……おでんくんに登場するこんにゃくくんの見た目がそうだったので、なんとなくおでんのこんにゃくにはこの色と形であってほしいという気持ちがある。まさかルカトゥにそれを察知された結果として、今ここにそのこんにゃくがあるわけではないだろうけど。
「それで、おでんくんの話なんだけどさ」
「はいはい」
「屋台の鍋の中の、おでんの世界で暮らすおでんくんたちは、ちょくちょくお客さんに食べられるわけよ。で、食べられたおでんはお客さんの体の中で、その人の「心ちゃん」に会うのね」
「心ちゃん〜……。心の擬人化ですかぁ」
「そうそう、理解が早い。……で、おでんと心が会話をすることで、お客さんがなんかちょっと救われる……みたいな、そういうハートフル系の話だったのね、おでんくんは」
「へぇ〜。なんかちょっと面白そうですねぇ」
「面白かった記憶があるよ。子どもの頃の、ずっと昔の記憶だけど。……でもさ、不思議に思わない?」
「不思議〜……? ……あ、おでんくんたちがおでんの世界に戻る方法とかですか〜? まさかその世界観で、一人ずつ減っていくなんてことはないでしょうし〜……」
「いやそこは不思議な力でスッと戻るんだけどさ。そうじゃなくて、……心の擬人化って「人間」とは違うの? って、大人になってから思ったんだよね」
「あ〜、それは確かに〜」
「お客さんと心ちゃんは繋がってるけど別々のもの……っていう発想がさ、なんかすごく、場違いなくらい鋭い視点だったんじゃないかって、今になって思うんだ。本音と建前の概念をテーマとして取り入れてる子ども向けアニメの中でも、なんかやり方がスマートっていうか自然体っていうか」
「お〜、言われてみたらそうですよぉ。さすがの着眼点ですね〜!」
「めっちゃ褒めるじゃん。よろこんでるよ、私の心ちゃん」
「あはは〜」
無邪気に笑うルカトゥを見て、人の話を聞く才能がすごいなぁと感じた。彼女からすれば欠片も知らないアニメの話だろうに。
からしを追加しようとしてチューブを手に取った時、パソコンデスクの方から唐突に馴染み深い通知音が鳴った。充電器に差しっぱなしにしていたスマホが鳴ったのだ。
その音と、ルカトゥが一瞬眉をひそめたことで、スマホに入った通知が何であるのか、大体の予想がつく。
「もしかしてヤグラ君?」
自分の表情を読み取られたことを知ってか、ルカトゥはバツが悪そうにはにかんだ。
「みたいですねぇ」
「なんだろうね、まだ漫画も上げてないのに」
「見てきてくださいよ〜」
「ご飯中はいいよ」
ヤグラ君……ツチノコヤグラというペンネームの男性エロ漫画家のことが、ルカトゥはあまり好きではないらしい。人の性欲を察知する力を持つサキュバスという種族に生まれた彼女から言わせてみれば、ヤグラ君の性欲はそれはもうえげつないらしく、そのえげつなさたるや、数多の性欲を向けられ、それを食ってきたはずのルカトゥですら、さすがにドン引きするレベルなんだとか。
ルカトゥは、そのえげつない性欲の一端が私に向かうことをいつも危惧している。だからヤグラ君のことが嫌いなのだ。性格的な好き嫌いというよりは、単純に私に近づいてほしくないらしい。だから彼女の通知の魔法のアンテナは、「ツチノコヤグラから先生に連絡が入った時」にもバッチリ張られている。アンテナというか、もはや警戒網だけれど。
ちなみにそれはそれとして、ヤグラ君の描く作品その物については、ルカトゥも気に入っているらしい。
「どうせロクでもないお誘いとかですよぅ……」
そう呟くルカトゥに、ヤグラ君が私をなにかに誘う理由なんてないだろう……と返そうとして、はて、じゃあ本当に何の連絡なのだろう? と分からなくなってしまった。案外、もしかして本当にスキーにでも誘われていたりするのだろうか?
それからしばらく後、鍋の中のおでんを全て平らげてから、私はスマホを確認してみた。ツイッターのDMにツチノコヤグラから連絡が入っている。LINEも彼には教えていたはずだけれど、彼にとって私はツイッターの住人としての側面が強いのかもしれない。
文面には短くこうあった。
「ウズラ先生、お久しぶりです。話がいきなりで申し訳ないですが、もしよかったら、少し仕事を頼まれてくれませんか……?」
……「仕事」という文字に顔を歪ませる己を自覚して、いよいよダメ人間は身に染み付いたのだなと思い知る。その文面へ対する第一印象は「え、やだ……」だった。
だけど、私にも人情や見栄が残っていないわけではなく、第一印象をそのまま率直に伝えることはしたくなかった。話の詳しい内容も聞かずにつっぱねてしまったら、向こうだっていろいろな意味でモヤッとするだろうし、一応軽口くらいは叩いてみる。
「アシスタントにでも逃げられたの?」
「ちがいますよ! 漫画とは別の仕事の話なんですけど」
「別って……? 何かの兼業?」
「いや、友達がやってることで。……文章にすると長くなるので、時間合う時に通話とかできませんか?」
「いいけど」
そこまでやり取りをしてハッとする。これではまるで私が、この話に対して積極的な感じになってしまうじゃないかと。あわてて「今のところ全然乗り気ではないけどね」と付け足しておく。それはポーズではない、しっかりと本心だ。
「通話、いつならいけますか?」
「長くならなければ今でも」
「じゃあ今からで。LINEでいいですか?」
「いいよ」
と、さも冷静に返信をするけれど、ヤグラ君のアカウントは友達リストの奥底に、一度もやりとりをしていない状態で見つかった。顔は思い出せる程度の人たちの、同じような状態のアカウントがまだ数個同じあたりに眠っていた。
台所で皿を洗っているルカトゥに声をかける。
「ルカトゥ、今からちょっと通話するけど。ヤグラ君と」
「は〜い」
「仕事の話なんだって」
「仕事……?」
水道の音が止まる。
「アシスタントにでも逃げられたんですかねぇ」
「私と同じこと言ってる。なんか違うらしいよ、漫画じゃないとか」
「漫画じゃない……? ……想像つきませんねぇ」
「私も」
言っているうちにコールが鳴る。音声をスピーカーにして出た。
「はいもしもし」
「あ、ウズラ先生。お久しぶりっす」
「久しぶり。で、なに仕事って?」
「いやーそれなんすけど、友達が同人エロゲ作ってるんすよ。前作が結構売れてランキングとか載ってるんで、調べたら分かると思うんすけど」
「ふむ。で?」
「で、今回ちょっとその制作が難航してるってことで、ダメ元で先生にお手伝いをお願いできないかな〜と……。…………ずばり脚本を」
「脚本……?」
「脚本っす」
たしかに、それは漫画の仕事ではなかった。絵を描かないなら漫画ではない。……いや、漫画原作の立場につくのであれば、そうとも言い難いけれど、でもやっぱり、エロゲ原作はエロゲ原作であって、漫画とは違うような気がする。
問題は、なんでそんな突拍子もない話が、こんな多少の絵が描けるだけのニートのもとへ舞い込んでくるのかということだ。一枚絵を描いて寄越せと言われる方がまだ分かる。
「それは、無理でしょ。そんな壮大なことは私にはできない」
「いやいや、ちょっとだけでいいんすよ。ヒロインが七人くらい居るんすけどね、そのうちの一人の話だけ、軽い物でいいんで考えてほしいんすよ。あいつ……友達が、ネタ切れになっちゃったみたいで、マジに困ってて」
「軽い物って言われても……それはあれでしょ? 全体の世界観を鑑みて〜とか、作風に合った展開を〜とか、話の中に組み込むべきノルマが〜とか、そういう注文がつくあれでしょ? 無理無理、そんな器用なことは」
「いや全然、そこは先生に全部任せちゃって大丈夫な感じなんで」
「なんでよ、そんなわけないでしょ」
「あれなんすよ、いろんな世界線をたどって想いの欠片を集めることで最終的にクライマックスが〜みたいな話なんで、世界線同士の整合性とかは多少どうでもいいっていうか。合同アンソロ的な感じでいいんすよ」
「はぁ……なるほど……?」
「ウズラ先生〜頼まれてくれないっすか……? もちろんお礼というかお支払いは相場よりちょい高めをお約束するんで、話だけ考えてもらえればあとはなんとかするんで……。先生のストーリー力が必要なんすよ、得意じゃないすか俺なんかより」
「ストーリー力ねぇ……」
おべっかだろう……と分かってはいても、彼の言わんとすることもまた、分からないでもなかった。
ツチノコヤグラというエロ漫画家の作家性は、セックスその物の描写に特化している。長時間のセックスを性癖とする彼の漫画におけるページの大半がセックス描写に使われることはある種必然的ではあるのだけれど、それによって彼の漫画自体が長くなるということはほぼ無い。彼は、ストーリー部分は手短かつ適当にやるスタイルなのだ。そしてそれは今の話を聞くに、どうも選択的なことではないらしい。
一方で私は、まぁ、お話を考えるのは好きな方だ。それは認める。得意だという自負があるわけではないけれど、「物語の大筋上どうしても七本のショートストーリーが必要なのに、あと一本がどうしても思いつかねぇ〜!」となった人がいて、その人がヤグラ君か私のどちらかに手を貸してくれと頼むとするなら、その相手は私であってしかるべきだろうという気はする。
ルカトゥの方を見る。彼女は皿洗いの手を止めて、シンクにもたれかかるような姿勢でこちらを見ながら聞き耳を立てていた。……目が合っても、彼女が今なにを考えているのかは分からない。私とヤグラ君が話を進めることに対していい気がしていないのか、それとも私の書く脚本とやらを読んでみたいと思ってくれているのか。……もし彼女が反対するのであれば、それを押し切るような理由は私にはないけれど、どうだろう?
……と考えたところで、ふと我に返る。私はまた、自分の選択の責任をルカトゥに押し付けようとしていた。全てに関してそうしてやると、覚悟を決めた上でしているわけではないのに。
しかし逆に、今回舞い込んできたその案件は、そういう意味ではちょうどいい機会のような気もした。私が今後どのように振る舞うべきか、その占いとして、私自身の意思と責任で、話に乗ってみるのも良いのではないかと。
やってみて本当に嫌気がさしたら、その時は今度こそ本気で、ルカトゥのスネを喰いちぎってでもでも二度と仕事なんかするものか……と決めればいい。そしてもしそうならなければ、なお良い。
「……………………方向性は?」
「え?」
「なんも決まってないってことはないんでしょ? 話を作るだけでいいってことはキャラデザは決まってるんだろうし…………それともまさかあとから合わせるつもり?」
「あ、鋭いっすね。実はキャラデザとプロフィール的な設定はあるんすよ。それに残り六人のヒロインはストーリーまで含めてほぼほぼ完成してるんで、先生には本当あとちょっとだけ話を作ってほしいっていうか」
「じゃあその設定とかストーリーとやらを見てから考える」
「おっ、わかりました助かるっす! じゃあ送るんで、いい返事期待してますね……!」
「するなするな、乗り気じゃないんだって」
ハハハ、と軽快な笑い声を最後に、「じゃ」と通話は切れた。
それを確認してから、私はもう一度改めてルカトゥの顔を見る。……やはりそこからは何も読み取れなかった。
「なんか、脚本書いてって言われちゃった。彼の友達が同人エロゲ作ってるんだって」
「らしいですねぇ。……なんだかちょっと、気乗りしませんけど」
「私とヤグラ君が組むことが?」
「先生の名前が、ちょろっとしか載らないだろうってことがですよぉ」
「そっちか」
私はべつに名を売りたいわけではないからそこはどうでもいいのだけど、ルカトゥは「ウズラ・メルガルス(卯月雛子)の作品」を読みたがっていて、だからそこが釈然としないのかもしれない。
「正直私も気乗りはしないよ。自信ないし、自分の作る物の出来が人様の作品を少なからず左右するっていうのは……。なんかねぇ」
深くは考えず、ただ直感的にそう口にする。しかし、するとそうしたことで、ルカトゥがさっき口にした言葉の意味が、少し重みを増したように感じた。
ヤグラ君は「合同アンソロ的な感じ」と言ったけれど、脚本が複数人いるエロゲと合同誌(あるいは商業誌全般も)の決定的な違いは、「それぞれの話は別作者による別々の作品である」……と受け手に正しく理解してもらえるかどうか、なのかもしれない。何せ、一話分の脚本だけは私が書いたのだとしても、それ以外の全体は別人(サークル主)がその人の名義で担当するのだから、本来なら私に対してあるべき「責任」が、結果としてその人のところにまで波及してしまうことになる。そう考えると重大なことだ。私の名前が目立たないということは、そういうことも意味している。
そういう側面から見れば、今回の話は、半年以上前に逃げ出してしまった商業誌の世界よりさらにシビアな場所だとも捉えられるものだった。
「じゃあ、断っちゃいましょう」
見透かしたかのように、あっさりとルカトゥが言う。
「ん、やけにあっさり言うね。久しぶりに私が創作をするかもしれないのに」
反射的にそう返した瞬間、「しまった」、と思う。
言い方が意地悪な感じになってしまった……と、軽率な私が一人で勝手にドキリとする一方で、ルカトゥはそれをまるで気にしてもいない様子だった。もし悪意の有無を魔法で察知してくれているのだとしたら、それはとてもありがたく思う。
彼女は飄々と、けれど私の目をまっすぐ捉えて言う。
「それはそうですけど、先生にストレスがかかるなら、それはよくないことだと思うんです」
「ストレスか……。どうかな」
「仕事なんて、そんなことしなくたっていいんですよ。創作は趣味で、できる時にしてくれたらいいんです」
「ま〜た悪魔じみたことを……。……ていうかその点については残念だけど、私はべつに、よし頑張ろうって気持ちでいるわけじゃないんだよね、今回だって。……おっ」
言っている間に、ヤグラ君からLINEで参考資料が送られてきた。さっそく目を通してみる。
……するとまずそのキャラクターデザインを見て、私はなにか不吉な予感を覚えた。
「これは……」
「どうかしました……?」
「んー……」
等身高めなわりにどこかロリ感の残る画風で描かれたそのデザイン画には、大まかなキャラ設定を綴った文章も添えられていた。それを読み進めていくと…………不吉な予感はみるみるうちにその存在感を膨らませていく。
あの野郎……。と、ガラの悪い悪態を心の中でつぶやく。ツチノコヤグラ……本名を土屋とかいうあの男は、なるほどルカトゥが危惧する通り、人畜無害な人物というわけではないのかもしれない。
ルカトゥにスマホ画面を見せる。いずれその画像はパソコンに移してもっと大きなモニターで見ることになるのだけど、今ばかりはどこに転送する暇も惜しく、その小さな画面に目をこらしてもらった。
「見てこれ」
「ん〜? ……え〜っと、これは〜……」
彼女に見せた設定デザイン集には、美少女キャラクターが二人描かれていた。端的に言ってその二人の特徴は…………漫画家とサキュバスである。
これみよがしなベレー帽を頭に乗せた、季節で言えば秋のイメージがあるファッションの短髪黒髪の女。それは見た目だけで言えば、私には似ても似つかない人物だった。角と羽根と尻尾が生えていて、上目遣いな表情がわざとらしい長髪ピンク髪の女。それは見た目だけで言えば、ルカトゥには似ても似つかない人物だった。
二人の美少女にはそれぞれ、
……つまり容姿以外の諸々が、どこかで聞いたことのあるような物になっていたのだ。
「……これってもしかして、わたしたち、モデルにされてますかぁ……?」
「もしかしなくてもされてると思う、容姿以外」
「容姿以外〜……」
なんとも屈辱的な響きではあるけれども、向こうとしても、そこは似せないことが最後の良心だったのだろう。
これで、ヤグラ君とその友達の間に起こったことの全容が大体分かった気がする。彼は「脚本だけがネタ切れになった」というような素振りで話を進めていたが、あれは正確な表現じゃない。実際には七本目のストーリーに関わる全てが初っ端から手詰まりになっていて、そこに向けてきっとヤグラ君が言ったのだ。「女性漫画家とサキュバスの百合カップルなんてどうっすか?」。……そう提案する彼の頭の中には、あの夏の日のホームセンターで偶然遭遇した私たちの姿でも思い浮かんでいたのではないだろうか。
まったくやってくれたものだ。これをサラッと世に出そうというのか……。彼が平気でそういうことをするというなら、こちらにだって考えがある。いつか私が自分の漫画で、最終的に勧善懲悪として去勢されるタイプの悪人系竿役を描く日が来たなら、その時はそのキャラデザをヤグラ君と同じような、野球部を彷彿とさせる坊主頭に設定してやろう。語尾は「〜っす」だ、ちくしょうめ。
……と、私としては、困惑しつつもガチギレするほどのことではない……という認識になったのだけれど、まずいことに、勝手にモデルにされてしまった人物はもう一人いる。彼女の意見も聞くしかあるまい。
「さてどうするルカトゥ、言い訳は一つできたけど。これを不愉快だと言ってゴネれば、たぶん簡単に、今さっきあったヤグラ君との話はなかったことになる」
「かもですねぇ。……そうしますか〜?」
「キミもモデルにされちゃってるんだから、キミにも意見を聞きたい」
「わたしですか〜……。わたしは、べつにぃ、個人的にはなんとも〜って感じですかねぇ」
「なんともかー」
まぁそうだろうなと思う。彼女はAV女優だけれども、そもそもサキュバスという生き物の性格自体が、たとえばハメ撮り映像をネットに流出させられたとしても、それを大して気にはしないような傾向にあるらしい。「サキュバスがセックスするのは当然なんだから、それを広められたところで別に問題はないでしょ」というスタンスが多数派なんだとか……。だからそんな異種の存在が、勝手にエロゲのキャラのモデルにされたくらいでいちいちリアクションをするような道理はないように思える。……理論上は。
なら、なぜルカトゥに意見を聞いたのかと言えば、それはもちろん「聞く」ということ自体が大事だと思うからでもあるし、万が一「ツチノコヤグラ相手だから嫌」ということがあるかもしれないと思ったからだ。聞いてみた結果、べつに問題はないらしかったけど。
しかしそれはそれとして、私個人としてはやはり、自分がモデルにされているとなると「愉快or不愉快」以外の側面からも少々話が変わってくる。この仕事を受けるべきかどうかについて、ついさっきまでの私はどちらかといえば乗り気ではなかったけれど、今はそれも少しばかり気が変わりつつある。なぜなら……。
「これは、ある種の信頼でもある」
「へ?」
「友達とやらに私たちをモデルにすることを勧めたのは、十中八九ヤグラ君でしょ。で、ヤグラ君が友達にそれを勧めたということは、その時点で彼は、少なからず私に脚本の話を持ちかける気だったはず。モデルの提供をきっかけに友達から脚本のアイデアが湧いてくれればそれでいいけど、そうならなかった時は、そういうのが得意そうなウズラ先生にでも話を回せばいいや〜……とでも、彼は初めから考えてたんじゃないかな」
「……それって、信頼なんですか〜……?」
「と呼べなくもないものだと思う」
「ほえぇ……」
「……これを蹴るのは気が引けるなぁ。その時は誰か知らない人がこの二人のストーリーを考えて世に出す、ってところまで含めて、なんか嫌だ」
私はこの時点で、ヤグラ君に諸々の文句を言うにしても、それはこちらへ対する労いの言葉へ返す物とした方が良いだろう……という気がしていた。
一方でルカトゥはあごに手を当てて、しばらくの間思考タイムに入っていた。何をそんなに考察することがあるのかは分からないけれど、まさかもう仕事の受理自体を止められることはないはずだから、私はパソコンに電源を入れておく。
デスクトップ画面が立ち上がるよりも早く、ルカトゥは口を開いた。
「先生ぇ、わがままを言ってもいいでしょうか……?」
「え、なに、改まって」
「軽率というか、軽薄なことだとは思うんですけど〜……。わたしですね、夢があるんです」
「夢?」
「……わたしも先生のお仕事を、お手伝いしてみたいなぁ……って」
もじもじと、さっき設定画の方で見た容姿的には似ても似つかぬピンク髪の女の真似でもするかのように、彼女は上目遣いで私のことを見た。
「お仕事……というか、創作を……ですねぇ。生意気だって分かってはいるんですけどぉ……そのぅ……」
「今回はモデルになった自分にも、手を貸す権利があるだろうって?」
私が話の先を読んでしまったばかりに、ルカトゥはぎゅっと口元を引き結んでしまった。奥ゆかしい彼女には、「そうです」とはなかなか言えないらしかった。
けれどそのかわり、コクンと健気な頷きが返ってくる。……こちらの心の奥底に密かに眠る何らかの欲望を、不意に満たして来るような可愛らしさが、そこにはあった。
サキュバスとは、「要望を受け入れる相手」にそれを「成功体験」として記憶させる才能を持つものなのかもしれない。
「いいよ。楽しそう」
「本当ですかぁ……!」
「うん。この私たちによく似た漫画家とサキュバスにふさわしいストーリーを、私たち二人で一緒に考えようじゃないか」
「やったぁ!」
ヤグラ君に仕事を受ける旨をメッセージで伝え、ついでに追加の資料を要求する。私がパソコン作業用に置いてある椅子に腰を下ろすと、ルカトゥも物置き部屋から折りたたみ式の簡単な椅子を持ってきて座った。普段はもっぱら、高いところにある物を取る時のための台座として使われている椅子だ。久しぶりに見た。
更けていく夜がまた一日分、クリスマスへと近づいて行く。エロゲの発売はきっと来年だろう。今年であってもらっては困る。
作品の世界観や製作者(というかサークル?)のことを調べるだけで、昨日は就寝時間がやってきた。ヤグラ君から話が飛んできた時にはまだ風呂にも入っていなかったから、そうもなる。
ヤグラ君の言う通り、七本の世界線を渡る壮大なエロゲを現在鋭意製作中のサークル「パスカルポーネ」は、同人エロゲ界隈ではそこそこの有名人のようだった。どうやらその界隈ではゲームジャンルとしてRPGが覇権を握っているらしいけれど、同サークルの前作はノベルゲームでありつつランキング上位に食いこんでいる。それを知ったことで、自分たちのクライアントは流行に逆らえる程の実力者なのだということが察せられ、心なしかプレッシャーは増した。
それで、その売れた前作とやらの内容は、平和な学園生活を謳歌する表舞台ルートと、同じ世界観の中でガラリと作風の変わる裏社会ルートを合わせ持つことで、ストーリーの表裏一体性をウリにしている物だったらしい。そこからの次回作で一気にルート数を七本に増やすとは、なかなか思い切った判断だ。私もいくらか前向きに仕事を引き受けたはずだけど、ルートは六本にしておけばよかったのに……とさっそく思わないでもない。
しかしまぁ、ルートが七本あることには一応の理由も有るらしい。私たちが今回一枚噛むことになった最新作「ルインの日〜七つの世界と欠片の少女たち〜」の資料を読むに、ルインという人外の少女が主人公(男)の命を救うためにその大いなる力を振るうものの、力は制御しきれずに暴走し、結果として彼女の心は七つに割れて別々の世界線に散らばってしまうのだという。そして命を助けられた拍子に力の一部を受け継いだ主人公が、今度は散り散りになったルインを探して世界線を渡り歩く……というわけだ。
ルインの心の割れる数が作劇上必ず七つでなければならないのは、それが七つの大罪を表しているからとのことだ。そして私たちが脚本を担当する咲月とキララは二人で一つの存在であり、大罪の中では「嫉妬」を司っているのだとか。
……と、そういうわけだから、昨晩の私がパソコンに向かって毒づいた台詞は短かった。
「どこが合同誌的な感じだっ」
バチバチに統一感を重要視した作品じゃないか! ヤグラ君のテキトーすぎる物言いによって、私はプロの漫画家として活動していた時よりよほど「クライアントってクソだな」と思わせられる羽目になる。今まで知人としてしか接して来なかったから、私はヤグラ君の人物像を見誤っていたのかもしれない……。認識を改めざるを得ない。
それで、諸々の他世界線のあらすじを読んでいる間に日付が変わってしまったものだから、私もルカトゥも生活リズムやスケジュール的な引き際までは見誤らないように……と昨日はすんなり床に就いたのだった。
……そして朝日が昇って現在。座った状態で肩までコタツに身をうずめた私は、開かれたベランダの窓から流れ込んでくる冷気に今日もふるえていた。
「さっむ……」
「ほんとに〜」
言うわりには余裕そうな顔をしつつ、後ろ手に窓を閉めて戻ってくるルカトゥ。その両手に一つずつ持たれていたみかんがコタツの上に置かれる。
「こんなに寒くても、凍らないんですねぇ」
たしかにそのみかんは自然な柔らかさを保ったままだった。指で押せばへこむ。けれどキンキンに冷たい。
「でもなんか、冷蔵庫に入れるよりさらに冷えてない?」
「あ、それはわたしも思いましたぁ〜。これが冬パワーなんですかねぇ」
「じゃあもうベランダを冷蔵庫にしようか」
「お〜、なんかそれいいですねぇ。秘密基地みたいで楽しそう〜。……でもそれなら何か、冷蔵庫に入りきらないような大きい物を置きたいですねぇ。せっかくですし〜」
「たとえば……?」
「うーん……。……蟹とかぁ?」
「それは冷凍でしょ」
キンキンに冷えしみかんを自分で剥く。そして一口目をルカトゥにあーんしてみた。特に深く考えてやったことではなく、彼女がしてくれたように筋まで取り除いていたわけでもない。心底単なる思いつきだった。
「はい、ルカトゥ〜」
「わ、あ〜ん♡」
「…………」
嬉しそうに、そして無防備に口を開く彼女を見て、何か悪いことをしているような気分になる。興味本位で彼女の胸を揉んだり、それ以上のことをした時のことを思い出す。……その記憶はこのように、実行して以来度々リフレインを起こしている。加害者にもそういう感覚はあるものなのだと、それで私は知っていた。
スマホを取り出して、例の仕事の締切を確認する。……と言ってもそこには「目安」しか記されていない。厳格であることが締切の定義に含まれるなら、今回それはほとんど存在しないも同然だった。「ルインの日」の発売日は、製作者自身が「少なくとも来年中に発売! ……できたらいいな」くらいの意識で構えているらしく、具体的にはまったく決まっていない。それで問題ないというところが、同人製作の良さなのかもしれないけれど。
「ルカトゥさ、昨日読んだ話のことどう思った?」
「ルインの日ですか〜? どうって言われると〜……そうですねぇ……。……まずは壮大でしたねぇ」
「あらすじだけで結構なテキスト量だったもんね」
「ですねぇ。……あ、もしかして、それぞれの話の感想ってことですか?」
「んー、まぁそれもあるんだけど」
みかん丸々一つを食べきってしまって、手持ち無沙汰の感を覚えながら話す。
「咲月とキララに「嫉妬」を当ててるっていうのはさ、示唆的じゃない?」
「示唆、ですか〜……?」
「ヤグラ君がこの話を持ってきた経緯的に、大罪の中でも「嫉妬」は余り物だったわけでしょ? ってことは、ヤグラ君は初めから「嫉妬」に当てるつもりで咲月とキララを提案したってことになる」
「ふむふむ」
「なんでそうしたと思う?」
「え〜? それは、さすがに分かりませんよぉ。わたし、たしかに少しはヤグラさんと話しましたけど〜、ほんの少しだったじゃないですかぁ」
「まぁ、それはそう」
ほんの少し表面的な会話をした程度しか接点がないから、ルカトゥはヤグラ君のことを単なる漫画の上手い性欲モンスターだと思っている節がある。彼の考えなど読みようもないというわけだ。……けれどそれが、知人としての彼しか知らなかった私のように、真実をいくらか見誤っている見解だったとしたら?
ヤグラ君が、もしかすると物凄く勘や察しのいい男だったりしたら。ルカトゥや私が思うより、「ちょっと話しただけ」から、彼が得た物は多かったのかもしれない。
「けどもしかしてさ、ルカトゥの人物像は、彼に結構悟られてたりするんじゃない?」
「ほぇ……?」
「女性漫画家の咲月と、その咲月が好きなサキュバスのキララ。二人は一つの存在で、司る大罪は嫉妬。……ってなったら、エロゲとして書くべき話は限られてくるはずでしょ」
そこまで決まっているなら、いくらストーリーを考えることに向いていないタイプとはいえ、なぜヤグラ君はわざわざ私に話を回したのか……という点に疑問は残るけれど。
「咲月と主人公が仲良くなることを、キララは快く思ってないんじゃないかな? ……どこかで見たような構図だね?」
「むっ……なるほどぉ……」
ルカトゥの「先生とヤグラという男についての思い」は、どちらもあの一瞬で見抜かれていたのではないか? そんな疑いが私たち二人の間で共有される。
というわけで、あらすじとしてはそういう方向性を提示して、これでよろしいか? とヤグラ君に文章で確認の意思を送ってみた。返信は……まぁそのうち来るだろう。
「で、ここからは今言ったような方針で進めた場合の私の案なんだけど」
「はいはい」
「やることはシンプルだと思うんだ。まずは咲月と主人公がどうにかして知り合う。具体的な知り合い方については、他の六本のストーリーの掴みを適当に参考にすればいい。で、知り合った二人は次第に仲良くなっていって、ある時一線を越えようとする。……これについては私とヤグラ君の関係を参考にしつつ、それをぶっ飛んだ方向に持っていけば行けると思う。ていうか、知り合う方法からして全部がそうだね」
そこまで話したところで、予想通り、ルカトゥが眉をひそめた。
「それって、主人公が七つ目の世界では漫画家になって、それで咲月と知り合ってそのまま……みたいな感じってことですか〜……?」
「そうなるね」
「……縁起でもないですよぉ」
「分かる」
だけど縁起が影響を及ぼせるものは運と、せいぜい人間の精神のプレッシャーに関する部分だけだ。咲月にそういう風なストーリーを与えたからといって、私とヤグラ君という「意思のある人間同士の関係性」が縁起に引っぱられるなんてことはあり得ない。
……と、私は思うのだけれど、それだけではまだこの案を推すには足りない。今回の創作にはもう一人巻き込まれている人がいるから。
「縁起でもない話は、創作でもイヤ?」
「嫌……ってほどじゃ、ないですけどぉ」
「一緒に考えようって言ったじゃない。ルカトゥの意見も聞きたいな」
そう言って話を向けると、ルカトゥはハッとしたように背筋を伸ばして向き直った。
「あ、いや、本当にいいと思いますよぉ。特に異論なしです〜」
「そう……?」
「はい! その案でいきましょう」
それが彼女の心の底からの言葉なのかどうかは、もはや私程度のものには分かりようがない。けれどもまぁ、これがエロゲの脚本を考える会である限り、結局のところ咲月と主人公の性行為は避けられないと言ってほぼ過言ではないわけで、もし「先生をモデルにしたキャラが誰かとセックスするなんて嫌です!」と言われでもしたら、それを受けて苦渋に追い込まれてしまうのは私なのだ。だから私は、あまり菩薩のようなことも言っていられない。
とはいえ、方針を本当の決定事項にするのは、ヤグラ君を通してパスカルポーネからの了解を得てからのことになる。ひとまずはより詳細なプロットを文章でまとめておく程度に作業を留めておき、万全を期するためには他の案も考えておいた方がいいだろう。……そんな器用なことが私に出来ればの話だけれど。
ヤグラ君からの既読はまだつかない。コタツの上にまだ一つ放置されているみかんにルカトゥは一向に手をつけないので、かわりに私が手を伸ばしかけた。
「ところでぇ……」
そのタイミングで、ルカトゥがおずおずと話題を切り出す。私は手を引っこめてそれを聞く。
「咲月のことはそうするとして、その場合、キララはどうなるんでしょう〜……?」
「どうなるって……? まぁ、ヒロインの片割れとして出てるからには、セックスすると思うけど」
「それは、咲月と〜……?」
「……あぁそうか、そういえばそうだね」
他六本の世界線のあらすじを見た限り、ダブルヒロインの形を取っているのは七本目の世界線だけだった。……ということは、百合展開が期待できるのもその世界線だけだということになる。特に昨今はオタクの間で百合が流行していることだし、考える価値は大いにありそうだ。
「たしかに、できれば咲月とキララにもそういう絡みがほしいな。……けどそうすると困ったぞ」
「えぇと、どのあたりが困りますか〜……?」
「これがエロゲの話である以上、咲月とキララは……いやせめて少なくともその片方は、主人公とも性行為に及ぶ必要があると思う」
「あ、はい。そうですよねぇ」
「で、咲月とキララには百合エッチをしてほしいわけだけど、そうすると、主人公が「百合の間に挟まる男」になってしまうんだな。これは、百合界隈において基本的にはウケない物、あるいはタブーとされていることで、つまり脚本的に相反することだと思う。バカの盛ったバイキング形式の皿みたいになりかねない」
「あ、へぇ〜。そうなんですねぇ……」
もちろんそれはべつに「絶対に触れてはいけないタブー」とまで言えることではなく、百合カップルと竿役が3Pをするエロ漫画なんて世にありふれた物ではあるのだけれども。しかしそうだとしても、できれば触れない方がいいやり方だということに違いはない。……何より面倒なのは、パスカルポーネ自身がそれを地雷としているケースもあり得るということだ。さすがにわざわざそんなところで無駄にもめたくはない。
けれども厄介なことに、その危ない橋は、ストーリー的にはむしろ最も必然的な物だと思えてしまう物だった。キララ→咲月→主人公の形で好意があるなら、エロゲたるもの、矢印の数だけセックスがあるべきなんじゃないか……?
「でもキララが嫉妬を司るなら、やっぱり二人には百合エッチをしてもらいつつ、咲月の方には主人公と肉体関係になってもらう必要があるよなぁ……。……いや、むしろずっと咲月とそういう関係になりたがってたけどなれてなかったキララが、あっさりそれを果たす主人公に嫉妬の炎を燃やすという展開も有りかな? だとすれば百合エッチは夢オチとか、キララの妄想の世界だけでやるという手も……。……………………あっ」
二人で創作するのだからできるだけ思考は共有しておいた方がいいと思って、……あるいはあまりにも何も考えておらず、私はそれらの構想をそのまま口に出してしまった。
いったい、誰が誰に向かって、どの口が、何様のつもりでそんなことを口走ってしまったのだろう。……クライアントなんかよりもずっともめたくない相手がいることを、愚図の私はこの一瞬で失念してしまっていた。
ひとしきり引き返せないところまで口にした直後、必然的に、私とルカトゥの目が合う。……星空みたいに綺麗な瞳だ、と思ったのは、私の現実逃避だったろうか。
「どうかしました……?」
「あ、いや、ごめん…………って言う方が失礼か今のは」
「えっ? ……あ、もしかして、そういう……? もう〜、気にしすぎですよ〜先生ぇ」
そう言って彼女は、本当になんでもなさそうに笑った。
ルカトゥという私の救世主は、ずっと私と体を重ねたいと思っていながら、その気持ちを理性で押さえ続けてくれていて、その結果、私なんかには理解の及ばない境地の心情に達してしまった人だ。そのあたりのことについては、よりにもよってこの私が、いたずらに触れていいはずもない。
……いや、それともそれは、今さらすぎるにも程があることなのだろうか? 一度彼女の口車に乗ったからには、平然とそれに乗り続けること以外の全ての方が、むしろ失礼に当たることなのだろうか……? 中途半端な配慮は、何より不愉快な白々しさに他ならないのだろうか……?
……私にはそれが分からない。いやむしろ、ぜんぜん、なに一つとして分かっている事などないのだ。私は、いい加減にそれを分かるようにならなければいけないのに。
「先生、先生ぇ」
「ん、なに……?」
「あ、いえ……。なんだか、心ここにあらずな感じに見えたので」
「あぁ、ごめんごめん」
「疲れてるなら、休んでくださいね〜……?」
「うん、ありがと。でも元気だから大丈夫」
「それならよかったです〜」
ルカトゥが自分の分のみかんに手を伸ばす。まだ数分しか経っていないのに、ヤグラ君からの返信待ちが妙に焦れて感じた。
家のゴミ箱には蓋があるので、みかんの皮を投げて捨てることはできない。花みたいな形に剥き開かれてはコタツの上に置かれっぱなしになっているその皮を、私は言い訳をするかのように五本の指でもてあそんだ。
「とにかく……。百合をやるにしても、テーマが嫉妬であるからには、咲月かキララか、どちらかには多少つらい役回りについてもらう必要があるように思う。二人とは別に主人公もいることだし」
「なるほど〜。それでもいいと思いますよぉ」
「……咲月の方が嫉妬する展開って、何か思いつく?」
「え〜、そうですねぇ……」
ルカトゥは視線を宙空に向けて思考をめぐらせる。そしてそのまま目は思考の世界の中にやったままで、彼女は回答を口にする。
「キララはサキュバスですから〜、いろんな男と体を重ねるキララに対して、一途なことを良しとする咲月が嫉妬を…………いや、う〜ん? ……すみません、これはなんだか、嫉妬とは少し違う気がしますねぇ……」
「え、そう……?」
「言ってるうちに、そんな気がしてきちゃいましたぁ」
私は今の話を聞いて、ルカトゥの案も悪くない物だと感じていた。だから彼女に聞く。
「じゃあそういう時は、嫉妬じゃなかったら、何になるの……?」
ルカトゥは独り言を呟くみたいに、気の抜けた声で答える。
「軽蔑でしょう」
「軽蔑?」
「はい。人間は、一途じゃない人に対して、よくそういう思いを抱くでしょう?」
そう言ってから、彼女はこちらに、何かがほどけたような笑顔を向ける。
「先生は違うかもですけどぉ」
「うん、そうだね」
まるでここぞという場面で身構えていたかのように、私は考えるよりも先に、反射神経でそう即答していた。
光に対して音が遅れて聞こえてくるみたいに、答えたあとになって、今、私は、「間を空けてしまうことが恐ろしかった」のだ……という自覚が伴い始める。
たしかに私は、ルカトゥが誰とセックスをしていても、全くと言っていいほどそれを気にしない。AVに出演する彼女に興味を持ったことが全てのきっかけだったのだから、そんなことは元々気にするはずがない。……けれど、ならばそれは、私が不当な軽蔑を行わない君子だからそうなっていることなのだろうか? と考えてみると、それは違うだろう。
穿った予感が脳裏に流れ込む。真っ先に発想する物こそが、己にとっての当たり前を表しているのではないかと。私の場合は、サキュバスが人間に嫉妬する構図を。ルカトゥの場合は、人間がサキュバスに嫉妬……あるいは軽蔑をする構図を。お互いにそれを心のどこかで、一番もっともらしい形だと思っているのではないかと。
私がサキュバスの在り方を……ルカトゥの在り方を軽蔑しないこと。その理由が理解や優しさからではなく、「嫉妬心の欠如」から来ていると知ったら、ルカトゥはそれをどう思うのだろう……? その時は、そんなことくらいとっくに知っている……とでも言ってくれるのだろうか? それとも……。
「先生、先生ぇ」
「ん?」
「ちょっと休憩しませんか〜……?」
「あぁ、……そうだね、ごめん」
これは、想像とは違った方面につらい仕事になるかもしれない。我に返った私はコタツに突っ伏しながら、たしかに疲れを感じていた。
頭の後ろに目はなくとも、ルカトゥに見下ろされていることを感じる。脚本は彼女に全て丸投げしてしまえばいいんじゃないか……と、一瞬そんな思考がよぎった。
けれどもまぁ言うまでもなく、ルカトゥがそんな提案を受け入れるはずはないだろう。彼女は「私の創作」の「手伝い」をしたがっていたのだから。
それから間もなくして、昼食の時間になるよりも先に、ヤグラ君から返信が入った。いわく「確認しました。その話で大丈夫だそうです」とのこと。
そうなれば、じゃあ、可哀想だけれど、キララには嫉妬をしてもらうしかない。軽蔑されるよりはまだ良いはずだと信じて。
あれから数日経った日の昼。私は、ルカトゥの初めて見る表情に驚かされていた。
眉といい唇といい、顔のパーツの全てが中心に引き寄せられたような顔……。どう見てもポジティブな気持ちから湧いてくるものではないそれは、データ化された脚本のプロトタイプに向けられていた。
すっかりパソコンの前に定位置として置かれるようになった台座代わりの椅子に腰かけて、ルカトゥがつぶやく。
「やっぱりこの話、男がいらなくないですか……?」
「なんちゅう顔してんの……。ていうかキミもそれ地雷だったのか。言ってよ」
ルカトゥの読んでいる話の流れは要約してこんな感じだった。
ヒロイン二人が仲良く暮らしてる→百合エッチもしてる→主人公がその世界線にやって来て漫画家に扮しつつ頑張る→咲月と主人公が仕事きっかけで知り合って仲良くなってエッチもする→キララが主人公に嫉妬する→キララと主人公が「咲月が好きな気持ち」で意気投合して最終的に3Pに至る→七本目の世界線の話、完。
……いや、そんな意気投合はあり得ないだろ、というツッコミどころを、サキュバスゆえの特殊な感性で説明付けるという強引な脚本がそこにはあった。だからこそのプロトタイプだった。
「いやいや〜、百合の間に挟まる男自体はべつに、嫌いではないですけど〜。なんか今回に限っては〜、え〜、いらなくない? みたいなぁ」
「ふむ、それはどうして……?」
「ん〜……、たぶん、三角形がアンバランスだから……ですかねぇ……?」
「アンバランス……?」
彼女の論評は、スマホに転送済みの脚本をスイスイと読み返しながら、驚くべき流暢さで発表される。
「主人公は咲月とキララのどっちもが好き、というのは分かるんです。どちらも元々はルインの心なわけですからね。で、咲月が主人公のことを好きになるのも、まぁ分かります。元々思いあっていた人の心の一部なだけあって、お互い引かれ合う部分があったんでしょう」
「うんうん」
「序盤のキララが主人公を嫉妬心から嫌っていることも理解できます。もし主人公が別の人とイチャイチャしていたら……という、ルインの嫉妬心の表れがキララという存在なのだと思えば、それはすんなり飲み込めるんです。そしてそのキララが、主人公と「咲月が好きな気持ち繋がり」で仲良くなることも、まぁこの際ありとしましょう」
「あ、そこもありなんだ。じゃあそれはもう全部解決じゃない……?」
「じゃないですよ〜。だってそれなら、主人公はキララのことも咲月と同じくらい好きになって、咲月と「キララが好きな気持ち」で意気投合するべきじゃないですか……?」
「……ん? いや、主人公はちゃんとキララのことも咲月と同じくらい好きだと思うよ。二人合わせてルインの一部だから」
「でもそれは「「キララが好きな咲月」だから咲月が好き」なわけではないでしょう? 咲月だって「「キララが好きな主人公」だから」って理由で主人公のことを好いているわけではないですよね、話の順序から考えて。なのにキララだけが「咲月が好きな主人公」を、それを理由に好いているんです。そしたらそれは、アンバランスじゃないですか」
「むむむ……?」
何やら言われたことが一度では理解しきれなくて、私はもう二回くらい同じ説明をルカトゥから聞かせてもらうことになった。そしてそのおかげで、彼女が言わんとしていることがかなり分かってきた。
つまりは、キララだけが、咲月の存在を頼りにすることで主人公のことを好きになっているから、そこが歪だという話だ。他の相関図は全て、好意の矢印が向かう先……つまり「本人」のみを頼りにして関係性が成立しているのに、キララ→主人公だけがそうなっていないことがアンバランスなのだと。
言われてみると、それは確かにその通りだった。現在のプロトタイプの案で言うと、確かにキララは常に咲月のことだけを基準にものを見ている。もしも、仮に主人公が咲月への好意を失えば、キララだって主人公への好意を秒で、きっと何の葛藤もなく失うだろう。だけど「キララへの好意を失った主人公」に対する咲月は、きっとそうではない。
「たしかに……。なんかそう言われちゃうと、キララだけ若干蚊帳の外っぽく見えてくるかも……」
「そうでしょう……? だから、男がいなければいいのにって、思っちゃったんですよねぇ……」
「なるほどねぇ」
しかしその点については、嫉妬と百合とハッピーエンドの三刀流という無理難題を求めたことによる不可避の綻びだ……としか言えないような気もする。ルカトゥの言う通り、それを解決しようとするなら、どうしてもストーリーのどこかしらをごっそり切り落とす必要に迫られるだろう。けれどもそれはそれで不本意なことだ。
不本意は、できれば避けたい。綻びと同じように避けたい。だから主人公と咲月とキララをきっちり絡ませながら、嫉妬と百合を兼ね備えつつハッピーエンドにする方法……どうにかそんな奇跡の方法を見つけだせないものか……と引き続き頭をひねってみる。ダメ元で、けれど本気で。
……しばらくそうして考えていると、そのうち私が思いつくことは、自分自身の話ばかりに偏重していった。
思い出すのは、ルカトゥと体を入れ替えて、サキュバスとしての私が男性とセックスをした時のことだった。
「……仮にの話なんだけどさ」
「はい」
「もし私が、どうしようもなく男の人とセックスしたくなったとするじゃん?」
「はい」
「で、その私が「ルカトゥも一緒に3Pしようぜ」って言いだしたら、ルカトゥはどう思う?」
「それはもちろん、喜んでお供させていただきますよぉ」
心なしか、彼女の瞳がいつにも増して輝いている気がした。夢を見るみたいに。
「喜んでってことは、その場合は私とルカトゥと男の人と、三人ともがハッピーになれるわけだよね」
「かもですねぇ」
「そこにアンバランスはあると思う?」
「ん〜、どうでしょう〜……? 先生もお相手も性欲を満たしたいだけだったら、特に問題はない気がします〜」
「ということはつまり……?」
「つまり〜?」
「……つまり、どうすればいいんだ?」
「ん〜、主人公と咲月とキララから根こそぎ恋愛心をオミットして、性欲だけで話を回すとか〜……? そうすればサキュバスであるキララは〜、さほどの嫉妬はしないはずです」
「それだ! ……いやそれか?」
あらかじめ渡されていた、自分の管轄外の話のあらすじや設定を読み返してみる。すると色欲にまつわる世界線の話が、まさに「恋愛を語ることを一度辞める」ことで全てを解決する話になっていた。ネタ被りだ。
「ダメだルカトゥ、そのやり方は色欲の世界線ですでにやってる」
「あらぁ」
「ぐぬぬ……いったいどうしたらいいんだ……」
「簡単に解決する方法がありますよ〜?」
「え、どんな?」
ルカトゥはそれまで持っていたスマホをポケットにしまって。
「今わたしが言ったことは聞かなかったことにして〜、そのまま提出するんですよぅ」
「元も子もなさすぎる」
たしかにそれでうっかり話が通ってしまって、お仕事ご苦労様でした……ということになれば、アンバランスな三角関係を改善するまでもなく一応の決着はつく。けれどそれはさすがに、いくらアマチュアに戻った身でも意識が低すぎることだろうし、何よりルカトゥに「一緒に考えよう」と言っておいて、それを反故にすることはしたくなかった。
しかし、では、代案としては具体的にどうすればいいのか……? ……もしかすると話はすでに、何を犠牲にするのかを決める段階に入っているのかもしれない。私の思考は取捨選択の方向に移行していったが……。
「あ、いいこと思いつきました」
「お?」
天啓の予感に、目で話をうながす。それを受けてルカトゥはこともなげに言った。
「主人公を、百合好きな男にしましょう」
「ほう……?」
「咲月と恋仲になったところにキララが出現! キララ嫉妬! となったところに、主人公は百合好きだからキララの存在や、キララと咲月の関係性に萌え! 二人の仲をとってもリスペクト!」
「あっ、なるほど……。主人公の中での「咲月」と「キララ」を「咲月&キララ」という一つの概念に圧縮すれば、三角関係に比べればいくらかマシな、ある種の平等になるのかも。表裏一体的な感じで。しかも設定的にその二人を圧縮する見方はかなり正しい」
「おお〜、まるっと解決〜……!?」
「かもしれない。……主人公の設定を勝手に盛るなって、クライアントから言われさえしなければ」
「あ〜……」
私は未だに、パスカルポーネを名乗る者が個人なのかグループなのか、男なのか女なのか、あるいは人間なのかサキュバスなのかということを、何一つ知らない。ヤグラ君に中継してもらうやり取りだけでは、向こうの素性や人となりは完全にブラックボックス化している。……ゆえに、今の案が通るかどうかは全く分からない。
しかしこれが通らなければ、いよいよ犠牲の無い改善案を考えることは難しくなってくる。だから私はそれから数時間をかけて初期案にルカトゥが言った通りの修正をほどこし、厳かに祈りを捧げながら、ヤグラ君に改善版プロトタイプの脚本を送った。
そして、その日の夜日付が変わるよりも早く、その案にはめでたく合格が言い渡されたのだった。歯を磨きながらそれを見ていた私はルカトゥに朗報を伝える。
「ルカトゥ、パスカルポーネからあの案でいいってオーケーが出たって。しかもテキストの清書は向こうでやるから、私の仕事はもうこれで終わりでいいらしい。……文章のことは専門じゃないし、それでいい?」
「えっ、じゃあ、もうお仕事完了ですか〜……? クランクアップ?」
「うん、そういうこと。ルカトゥのおかげでなんとかなったみたい」
「えっ、わ、わっ、すっ……すっごく! 光栄です〜! 先生ぇ! やった〜!」
よほど嬉しかったのか、ルカトゥはその場でふしぎなおどりをして見せてくれた。なんというかそれは、フラフープを被せたくなるような独特な横揺れだった。
一方で私は、踊る余力もないほど内心で脱力してしまうくらいにホッとしていた。仕事がおそらくは無事に終わったこともそうだけれど、何よりもまずはルカトゥとの間に何も起こらなくてよかった……と。
ヤグラ君もまさか、私たちの関係がこんなに複雑な様相を呈しているとは思わなかったのだろうけど、しかし全てが済んだ今だからこそ心置きなく言える。今回の件について、ツチノコヤグラ、あいつは本当に許すまじだ……。咲月とキララなんていう、ヒヤヒヤさせられたどころではない物を発明しやがって。
……それからしばらく経った後日、ゲームの発売がいつになるのかは相変わらず事実上の未定らしかったけれど、私に対する報酬だけは速やかに口座へと支払われた。私がそれを受けてヤグラ君に伝えたことはシンプルに二つ。
・「入金ありがとう」
・「次に同じことをしたらモデル料を取る」
そしてその日のうちに、その金でルカトゥと焼肉に行った。近所の焼肉屋に入ってすぐのレジ前のスペースでは、すでに小さなクリスマスツリーの飾りつけが完了していた。
「かんぱぁ〜い!」
「いえーい」
家で鉄板プレートを使って肉を焼いたことはあるけれど、外食としての焼肉にルカトゥと来るのは初めてだった。かつて彼女とは明るい時間帯に会うことが基本だったから、なんとなく昼間から焼肉へ行く気にはならなかったのかもしれない。
まだ片面の赤い肉が炙られる様を網の上に見ながら、私たちは早々にチューハイの入ったグラスを打ち合わせていた。ルカトゥはぐびぐびと勢いよくそれを飲む。私は、急性アルコール中毒の話が必ず頭によぎるので、そういう飲み方はできない。実際に倒れた人など見たこともないのだけれど。
「いや〜、無事にお仕事終わってよかったですよぉ〜」
「ルカトゥのおかげだよー、マジで。私一人だったらアンバランスのまま出してたもん」
「もう〜、大元の話を考えたのは先生じゃないですかぁ。先生のおかげですよ〜」
トングで肉をひっくり返しながらルカトゥが言う。彼女ならきっと、自分が大元を考えた時にも逆のことを言う気がした。
遠くの席から「オレが焼くの!」と子どもの声が聞こえてくる。……そんな平和な世間の音を聞きながら、ふと煙る網の向こうに座るルカトゥの姿を見ると、これから食べるご馳走とは関係なく、自分がものすごく身に余る贅沢をしているような気分がしてきた。……本当に、身に余るような贅沢を。
今、もしも彼女の姿がだんだんと透け初めて、最後には煙のように消えてしまったとしても、私は「夢を見ていたんだ」とそれに納得してしまうような気がする。そうならないことの方が、むしろ不自然に思えるくらいに。
「もうすぐ焼けそうですよ〜。次のやつも乗せちゃいましょうか」
そう言って一足先に第二波の肉たちが網の隅の空いている箇所に配置されていく。トングは一つしかなく、役割とやる気はもっとないので、私はただただその作業を見ていた。取り皿に注がれたまま粛々と出番を待っているタレのように……とすら言えないほどに、その時の私は怠惰その物だったように思う。あるいは、あらゆる瞬間の私がそうなのかもしれないけれど。
酒にちびちびと口をつけながら、暇に任せて、今回の短い仕事に打ち込んでいた期間のことを思い返す。
「そういえばルカトゥが今度撮影したやつは、いつ発売されるの?」
「あ〜、いつでしたっけぇ。まだ結構先だったような気がしますけど〜」
私が脚本を考えている間にも、ルカトゥはAV女優としての撮影に繰り出すことが何度かあった。撮影に行くのか食事に行くのか買い出しに行くのか、彼女は必ず私に伝えてから玄関を出ていくのだ。
ちなみに今回彼女が撮影した物の一つは、「自分は男だから」と油断して一人で夜道を行く男を獲物とする淫乱サキュバスが主役の逆レイプものだったらしい。ルカトゥ以外にも数人の女優が出演しており、オムニバス形式の作品になっているのだとか。そしてその出演女優の全員が本物のサキュバスなのだという。
まぁそもそも、今や性産業に体を張って携わる女性といえば、そのほとんどはサキュバスが占めているらしいのだけど。
「それを買うお金も残しとかないとね」
「え〜? 今日はぱぁーっとやりましょうよ〜」
「ぱぁーっとねぇ。二次会にカラオケ行ったり?」
「あ、いいですね〜!」
ルカトゥとカラオケに行ったことはすでに何度かある。歌は、なんというかそれが自然の摂理だというくらい当然に、ルカトゥの方が上手い。あるいはそもそも私の実力自体が、他人と比べられるラインに達してないのかもしれない。
ふと、咲月とキララについてはそれが逆なんじゃないか、という気がした。意識してそうしたわけではないけれど、今になってぼんやりと振り返ると、結局私はあの二人を「自分とルカトゥの分身」としては書かなかったように思う。容姿が違えばそうもなるということなのだろうか。
「はい、先生ぇ」
「あ、どうも」
皿の中のタレにちょうどいい具合に焼けた肉が飛び込んでくる。さっそくいただいてみると、それは当然ながら旨かった。
「うまっ」
「ほんと〜」
いつの間にかルカトゥも口をもぐもぐしている。その幸せそうな表情たるや、まるでセックスよりも食べることの方が好きな普通の女性のようだった。
肉一枚目にして酒を飲み干したルカトゥが、タッチパネルで次の飲み物を注文する。
「先生は次なに飲みますか〜?」
「グレープフルーツのお酒ある?」
「ありますよぉ。お肉ももっと頼んじゃいましょうか〜」
パネルを操作する彼女の細い指に、なぜか今日はなんとなく見とれてしまう。……肉の焼ける音、店員や他の客の声、厨房の方から時々聞こえてくる食器の音……。そんな今ある全てが、なんだか非日常的に感じられた。
画面を見たままルカトゥが言う。
「そういえば最近、先生に個人的なビデオを送ってない気がしますねぇ」
「ん? ビデオ?」
「実験をしてないなぁって」
「あー、うん、そうね。思いつかないんだよなぁ最近は」
エロ漫画を見ていて、この描写はさすがに物理的な無理がないか? と疑問を抱いた時、その真相を確かめるためにルカトゥに「実験」を頼む……ということを、少し前まではなんやかんや定期的に行っていた。けれど、いくら無限の可能性を秘めた創作の世界といえども、突拍子もない描写がそんなに毎日無尽蔵に生産されているわけではなく、最近はめっきりネタを見つけることが減っている。……まさかそれと、自分が最近漫画を描けていないことが関連しているはずはないだろうけど。
ちなみに、そんな私が最後に思いついた実験はこんな物だった。「アナルを使った産卵プレイってあるけど、そもそも茹でた卵の耐久力っていうのは、括約筋のパワーに耐え得るものなのか……?」。……しかしその疑問については実際のところ、ルカトゥに実験の依頼をするには至らなかった。
なぜ実験は行われなかったのか? それは私が第六感で「もしや」と気がつきネット検索をした結果、ルカトゥがすでにそういう内容のAVに出演していたことを知ったからだ。そして当然、私の疑問に対する答えはすでにその作品内に用意されていた。結論、茹で卵は意外と強い。
「わたしがすでにいろいろ撮影しすぎてる説がありますよねぇ」
「本当にそう」
「ありがたい話ですよぉ」
そう言いながら注文操作を終えたルカトゥは、また私の皿に焼きあがった肉を入れてくれる。そっちも食べなよ……と言いかけると、すでに彼女は自分の肉を確保しているようだった。これは向こうの神業というより、単に私の注意力散漫という感じがする。
ほどよく脂の乗った肉をもりもり食べて酒を飲み干した時、ちょうどいいタイミングでさっき注文した物たちが運ばれてきた。ルカトゥはそれを受け取るや否や今来た酒の半分ほどを飲み干し、早くも次の飲み物を注文し始める。おそらく彼女はチューハイ程度では一生酔わないのだろう。
「今日は強めのお酒は飲まないの?」
「どうしようかな〜って思ってます〜」
「ぱぁーっとやったらいいじゃない」
「でもこのあとカラオケですよ〜?」
「どっちにしろ酔わないし声も変わらないでしょキミ」
「サキュバスですからねぇ」
「あ、サキュバスだからなんだ……」
喉や肝臓も魔力で強くなるのだろうか? ……なりそうな気がする。
言われてみれば、今まで彼女との「実験」では性行為にこだわっていたけれど、もっと広い視野でサキュバスにしか試せないことを探してみてもいいのかもしれない……と、今の会話から思い至る。いますぐ具体的な例がパッと思いつくわけではないけれど。
二本目のグラスを早くも空にしそうな勢いでさらに飲み進めながら、ルカトゥは日本酒を注文に入れた。それを見て私も言う。
「あ、私も頼もうかな、それ」
「カラオケ行けなくなっちゃいますよ〜?」
「いや、五分五分くらいで行ける」
「あはは、いいですけど〜」
日本酒が追加でもう一つ注文に入る。わざわざ二つに分けて注文リストにエントリーされた同一商品を見た時、厨房にいる人たちはどんな風に思うんだろうか……と考えてみたりするけれど、この手の想像に対する答えはきっとどこへ行っても一つ、「そんなことをいちいち気にしていられるほど暇じゃない」だ。……というかそもそも、こちらが見ている画面と向こうが見ている画面の表示がレイアウト的に同じなのかどうかすら、私は知らない。
網の上の肉が焼けるたび、ルカトゥがそれをひょいひょいとお互いの皿の中に取り分けていく。そして空いたスペースに次の肉を乗せる。黙々と繰り返されるその動きは手馴れていて、なんだかそういうミニゲームの熟練者みたいだった。
私は、そんな彼女の焼いてくれた肉を食べながら言う。
「実は私さ、肉を焼くのが苦手なんだよね」
「え、そうなんですかぁ」
「うん。というか、何かを焼くこと全般が苦手かも。……分かんなくない? 焼けてるかどうかなんて」
「ん〜、少なくともお肉は色が変わります」
「それは、見えた時の話でしょ?」
ルカトゥが首をかしげる。
「見えた時?」
「肉は、表は見えるけど裏は見えない。ひっくり返すまではね。でもひっくり返すと当然、今見えている部分は焼けなくなる。……焼くことと見ることがトレードオフなんだよね」
「ふむふむ」
「それがなんか、ちょっと苦手」
焦げたり、火が通り過ぎるという概念がある料理では、「ひたすら焼けばいつかは焼ける」というごり押し戦法が通用しない。なのに、それらの物に火が通っているのかどうかを調理を妨げずに完璧に把握する方法は、勘や、経験からの確信を除けば他にないように思う。その点、味噌汁やカレーライスや卵料理は良い。
それらが比較的料理初心者にも優しいとされているのは、火を通しきらないまま工程を進めることの方が難しくなっていたり、火の通った物が色だけではなく質感まで変わったりするからだろう。そういう意味では、調理過程だけを見れば鍋だって最高に優しい。あれには焦がすという概念がない。
私は、この話を口にした時、ルカトゥはいくらか笑うだろうと思っていた。「先生らしいですね」なんて言うかもしれないと、つまりはそういったリアクションを期待していた。……けれど、実際の彼女は予想とは違う反応をした。
彼女は、肉を焼く網の方に目を落として、ぽつりと言う。
「……先生は、かわいいですねぇ」
「わがままなところが……?」
「いえ、わがままとは思いませんけど。……でも、そうですねぇ、…………ちょっと待ってください言葉を選んでるので」
「このタイミングで……?」
注文してあった肉と、ルカトゥの三本目のグラスと、日本酒二人分が一気にやってきた。お互い会話を一時中断して店員からそれを受けとる。やけに若い感じのするその店員は、愛想のいい声で済んだ皿を回収しては去っていった。
日本酒にはお猪口が付いてきた。ルカトゥに勧められてさっそく注いでもらう。私も彼女に注ぎ返すと、ほほえみと共に彼女はそれを一口で飲み干した。私は、エリクサー症候群の延長線上のこととして、またそれをちびちびと飲む。
「それで、言葉を選ぶっていうのは?」
「う〜ん……。そうですねぇ、つまり、…………わたしは、先生の全部をやってあげたいんですよねぇ」
「全部?」
「お肉を焼くとか、そういうことを、全部全部」
「あー、じゃあそれはもうやってもらってるね」
実家暮らしだった頃と同じどころかそれ以上に、私にはここ数ヶ月の間自分で家事をした記憶がない。手伝ったことくらいは数え切れる回数だけあるけれど、そんなものは当然誤差だ。
「ルカトゥは家事とか全部してくれてるじゃない」
「でも先生は、自分で服を着替えますよねぇ」
「ん? そりゃまぁ……。……え? あれってこと? 介護ってこと?」
「近いかもですけど、違います〜。介護は、必要ない方が良いものじゃないですかぁ」
「それはまぁ、たしかに。……あぁでもそうか、すごい金持ちとかは、健康なまま着替えとかを使用人に手伝わせてそうだ」
「あ、それ、それです〜! わたしは先生を、そういう風にしたいんですぅ」
「な、なんで……?」
「なんでって……」
ルカトゥはそれきり、再びの言葉選びタイムに入ってしまった。そしてそのまま黙々と肉を焼き裏返すことで、蟹を食らう人のように、言葉を忘れてしまったかのような状態に陥る。さっきまではあんなに余裕で同じ作業をしていたのに。
ちびちび飲んで中身のなくなったお猪口におかわりを注ごうとすると、ルカトゥが「あ」と声を上げた。
「あぁ、なるほどこれも?」
とっくりを渡すと、彼女は満足げに微笑みを浮かべる。奉仕の喜びに洗脳されているエロ漫画のヒロインみたいだな……と一瞬考えてしまい、あわてて内心のかぶりを振った。失礼なことを考えるのは、口に出すことの次によくない。
お返しにルカトゥの方にも注ぎ返すけれど、彼女はそれをまた一口で飲んでしまう。それを見て、たとえば上司のグラスが空になっているかどうかには常に気を配っておいた方が良いらしいけれど、ルカトゥのお猪口に対してそれをすると、わんこ蕎麦ならぬわんこ日本酒になってしまうな……と思った。
わんこ酒の実践は諦めて、私は肉を頬張る。旨いものは何枚食べても旨い。
「まぁべつに、なんででもいいんだけどね」
「へ?」
「楽させてもらって文句があるわけないし、楽をさせてもらえること自体謎なのは、今に始まったことじゃないし」
「と言いますと〜……?」
「ルカトゥが私のことを好きでいてくれてるのは分かってるつもりだけど、私だったら、好きな人相手でもそこまで尽くして見せるのは無理だなぁって思うってこと」
それもその相手というのは、尽くしたことに対して何の見返りも用意してくれないのだ。もし私が逆の立場だったらとっくに、…………そうとっくに、愛想を尽かしていると思う。だからルカトゥの原動力は謎だ。
けれど人は、その謎に我が物顔で乗っかることが出来てしまう。スマホを持つ人間のいったい何割がインターネットという物の成り立ちや仕組みを理解しているのか? といった話と同じで。
ルカトゥは、今度は少し寂しそうに微笑んだ。
「いいんですよ〜。先生はこうして傍に居てくれて、仲良くしてさえいてくれれば〜」
「またそういうことを言う〜。……実際そうさせてもらってるんだけどね」
「嬉しいかぎりですぅ」
それが本心であるかどうかを疑うには、私はルカトゥの献身におんぶにだっこで仲良しニートライフを送りすぎていた。疑う手立てがない。
こちらのお猪口が空になると、ルカトゥはそれはもう目ざとくおかわりを注いでくる。肉を焼きながら食べながらお喋りをしながらで、すさまじい注意力だな……と思ったら、違った。そうか彼女は通知の魔法を「先生のお猪口が空になった時」にかけているのだ。そしてそれは「肉がちょうどよく焼けた時」に対してもそうなのだ。
便利な魔法だなぁ……と改めて思っているうちに、いつの間にかこちらのお猪口どころかとっくりの方までもが空になっていた。
「先生ぇ、顔赤いですよ〜?」
「キミが飲ませたんでしょー」
「いい飲みっぷりだったので〜、ついつい〜」
「いい飲みっぷりなのもキミでしょー?」
一口で飲み干すルカトゥのお猪口にいよいよ二連続で注いでやった。すると彼女はにやりと笑って、自分のとっくりから私のお猪口に注いでくる。……が、そこに酒はもうほとんど残っておらず、紙のような薄さの量だけが滴った。
「あら、終わっちゃいましたぁ」
「追加頼む?」
「先生倒れちゃいそうなので〜、やめときますぅ」
「なんで私が飲み続ける前提なんだ……」
くすくす笑うルカトゥは肉をもぐもぐ食べたあとで、やはり一口で最後の酒も空にした。……いや違う、彼女にはまだ丸々一杯のチューハイが残っている。それがちょうどいいラストオーダーであるように思えた。肉もあと少しだけ、焼く前の物が残っているし。
「あー、お腹いっぱいになってきた……」
言いながら姿勢を崩すと、なんだか、少し暑い。網からの熱がより激しく感じられるようになったのでなければ、カラオケへの道のりは、確かに刻一刻と遠ざかっているように思われた。
そういえばルカトゥはアルコールにも強いけれど、弱ったところを見たことがない繋がりで言えば、彼女が満腹すぎてもう食べられない〜とか言っているところも見たことがない。それも彼女がサキュバスだからなんだろうか?
慈しむような表情で、ルカトゥが私のことを眺めている。家族連れが伝票を持って店を出ていくところが視界の端に映った。
「……ヤグラさんから連絡が入った時、ちょっとドキッとしたんですよねぇ」
最後の肉を網の上に広げながら、ルカトゥはそう言う。
「ドキッて、なんで?」
「先生が、飲みにでも誘われるんじゃないかって〜」
「んー、まだそんなに警戒してるの……? 彼のこと」
「だってぇ、仕事の依頼が来るなんて思いますか〜?」
「それはまぁ確かに」
ウズラ・メルガルスがパトロンを見つけて早すぎる隠居を始めた……という話は一部で有名になっているらしい、というか少なくとも、ヤグラ君の中では有名らしい。だからその彼から仕事の依頼が来るなんてことは、たしかに全く予想できなかった。働く理由を失った人間に仕事を頼んでも、普通に考えて断られるはずだと、彼は思わなかったのだろうか? まぁ実際には受けたわけだけど。
ちょっとした意地悪のつもりで、私はルカトゥに問いかけてみる。酔っぱらいが「ちょっと」と「やりすぎ」の境目を常に正しく見定められるのかどうかは、ともかく。
「もし飲みに誘われてたら、ルカトゥは「行かないで〜」って言ってたの?」
「それは〜……心配はしますよぉ。でも、行かないで〜とは、言ってない気がしますねぇ」
「どうして?」
「先生には、先生のしたいことをしてほしいからですよぉ」
「どうしてー?」
「どうしてって〜……。わたしは、そういう先生が好きだからです」
その言葉を疑う手立てもまた、私にはなかった。……というかそもそも、ルカトゥは私に嘘は言わない。言ったことがない……はずだ。
したいことをしてほしいだなんて、また悪魔みたいなことを言って……。そう思いつつ、今日最後の一枚となるご馳走様を頬張って、私はつい思いつきを口にしてしまった。
「じゃあ、もしかしてルカトゥがさ、ヤグラ君の性欲をサキュバスとしてしぼりつくしちゃえば、もう何も心配することはないんじゃないの?」
「……えっ?」
置きかけたトングを半開きに持ったまま、耳を疑うあまりに凝固したルカトゥの表情が、その瞬間私の目に焼き付く。
知らず知らずのうちに頭の中にあった心地よい浮遊感が、波にさらわれるように即座に引いていった。
「あ……、いや、じょうだんっ、冗談だよ……?」
「えっ……? ……あぁ、なんだぁ」
ルカトゥは、笑いをかみ殺したような顔をする。
「先生がいいなら、名案だと思っちゃいましたぁ」
「いや、名案ではないでしょ……」
「どうしてですか〜?」
「どうしてって……。……人道に反する」
「ん〜……? ……それは、もしかしてあれみたいな話ですか〜? エッチな漫画でよく見る、あれ〜」
「あれ……?」
グラスの中の酒を飲み干したルカトゥが、芝居がかった声で「あれ」を演じる。名女優がわざと下手くそに。
「彼女ちゃん俺のこと愛してる? 愛してますよ〜♡ 俺のためなら何でもできる? できますよ〜♡ じゃあ俺ちょっと金欠だからさ、適当に体売って稼いできて来んない? えっ……それはちょっと……。……みたいなやつですか〜? 人道〜!」
「あ、そうそう、それ。まさにそれ」
「ああいうのは〜、すごく人間的な感覚ですよねぇ」
全てをたいらげて、ごちそうさまでした、と手を合わせてから、ルカトゥは帰り支度として上着を身に纏う。そして伝票を手に取りながら続けた。
「サキュバスの食事を一人で賄おうなんて、それこそヤグラさんみたいな化け物じゃないと無理な話ですよぉ。それなら他の人とするついでにお金も稼げたらいいな〜って思うことは、すごく自然なことだと思うんですけどねぇ」
「…………あぁ、たしかに」
そこで私はようやく、今となっては自身の日々の生活の全てが、ルカトゥが仕事で稼いだ金……つまり彼女が誰かとセックスをして稼いだ金によって成り立っているのだということを思い出した。……それが人間的な感覚で言えば、かなりとんでもないことなのだという点についても、ようやく思い出したように思う。
確かに、もし彼女がサキュバスでなければ、状況はもっと悲惨だったのだ。私のような人間のために、もしも人間の女性が、生活費のために仕方なく体を売っていたりしたら……。
……しかし、だからといって、サキュバスは「サキュバスなんだからべつにいいでしょ?」という舐めた態度にまで不快を感じない物なのだろうか? ルカトゥは、まるでそうであるかのように振る舞ってくれているけれど、私の知る限り世間のほかのサキュバスたちは……。
「さ、帰りましょう〜、先生ぇ」
「うん……」
「どうかしました……?」
上着を持って立ち上がった私は、彼女の手から伝票をひったくる。
「なんでもないよ」
会計を済ませて、私たちは夜の寒空の下に出る。月明かりのありがたみは、街の灯りが殺してしまっていた。
「さぁカラオケ行くかー」
「え〜、だいじょうぶですか〜……? 顔真っ赤ですよぉ」
「大丈夫、見てよこの確かな足取りを」
「むぅ、たしかにぃ」
一本橋の上を渡るように正確な足運びで近隣のカラオケ店へ向かう。ランウェイの上のような美しい歩き方は、猫背のせいで出来なかった。
頬に感じる風の冷たさのわりに、寒くは感じない。実際かなり酔っているのだとは思う。
「先生ぇ、さっきの話ですけどぉ」
並んで歩くルカトゥが私の顔を覗き込む。
「やっぱり、わたしが先生の知り合いと関係を持つのは、嫌なものなんでしょうか〜……?」
「関係って、肉体のってこと?」
こくりと頷きが返される。
「べつに、家族じゃなければ気にしないけど」
「そうなんですかぁ……? 気まずくなったりしません……?」
「しないしない。だってさ、特にヤグラ君なんて、キミのAV見てシコってるの確定だよ? 今さらだって」
「あぁ、なるほどぉ。たしかに〜」
道中、赤信号の横断歩道にさしかかった。まるで信号待ちをしている間の暇つぶしに過ぎないことみたいに、ルカトゥは言う。
「じゃあ、さっきの冗談、本当にしてもいいですかぁ……?」
「…………いいけど、そっちこそいいの?」
「もちろん〜。ドキッとせずに済みますもん」
「そう……? じゃあ、まぁ任せるよ。あ、ついでに弱みの一つでも握ってきてくれたら嬉しいかも」
「それも任せてください〜!」
「いや冗談冗談」
信号が変わって、私たちはそれから間もなくカラオケ店にたどり着いた。店内は特に混みあっているということもなく、適当にドリンクバーのプランを頼んで案内された部屋に入る。そしてそれから、まずは私が一曲目を入れたことまでは覚えているのだけれど……。
……気がついた時には、私は自宅のベッドの上に寝ていた。体を起こすと、カーテンの向こうからはすでに朝日が差し込んできているのが見える。続いて壁かけの時計を見てみると、針は朝というよりもむしろ昼に近い時間帯を指していた。
……ルカトゥの姿が見当たらなかった。
「ルカトゥ……?」
呼んでも返事はない。そもそも人の気配がしない。……私はベッドの上で三角座りをして、そうして必死に昨晩の記憶を掘り起こそうと試みた。
カラオケで部屋に入って、曲を入れたところまでは覚えている。歌いもしたはずだ。得点機能を入れ忘れて、気楽さよりはむしろ、音程バーの不在に五里霧中を感じたことを覚えている。そのあとルカトゥに順番をゆずって、彼女は得点機能を入れたのだったか……? それとも、今日はなしでやろうという話になったのだったか……?
すでにそこから記憶があやふやで、その先のことについてはもはや一切覚えていなかった。……ということは私は昨日、酔った勢いに任せて、入店して十分も経たないうちに寝落ちしてしまったということなのだろうか……? カラオケにありがちな冷たいソファの感触も、まったく記憶には残っていないけれど……。
「はぁ……」
大きなため息が出た。ルカトゥが見たら、それはこっちの台詞だと思うだろう。……そう思うと今度は、自分の息が少し浅くなったような気がした。
罪悪感……というよりは、もっと確かに相手がいるような感情…………申し訳ないと思う気持ちが、底から染み出すように湧いてくる。……するといよいよ様々な感情が、眠気と記憶混濁の堰を切って湧いてきた。
不安、寂しさ、後悔、それから…………諦め。どれがどの程度の重さを持っているのかも分からないまま、それらは節操もなく頭の中でごちゃ混ぜになっていく。
昨日、カラオケはまた今度にしようと言って素直に家に帰っていれば、こんな気持ちにはならずに済んだのか? もしそうしていれば、今頃ルカトゥは、私におはようを言ってくれていたのか? ……たったそれだけのことで何かが変わるものか……? それとも、これを「たったそれだけ」と思っていること自体が、私の諸悪の根源なのか……?
ベッドから降りて立ち上がり、暖房の唸る音ばかりが響く部屋を一人見渡す。……すると、コタツの上に書き置きがあることにようやく気が付いた。文鎮代わりにみかんが一つ乗っている。
まるで、初めてネットに投稿した作品につけられた感想を読む時のような緊張感だった。息詰まるような苦しさを押して、私はその書き置きに目を通す。内容はごく短いものだった。
「……はぁ」
それを読み終えた私は、再びため息を吐いて、それから目の前のみかんを食べることにした。よく冷えた皮に爪を立てて剥く。
文面にはこうあった。
「 先生へ
ヤグラさんに会ってきます、すぐ戻ります。
ルカトゥ」
……愛想を尽かされたのかと思って、正直死ぬほどびびった。
先生は、わたしの気持ちをまったく分かってくれません。先生はわたしのことを、あろうことか、繊細な乙女か何かだと思っているようなのです。困ったものですよね。わたしほど図太い人なんて、探しても見つかるものじゃないのに。
ヤグラさんと待ち合わせている喫茶店に向かう道中、通りがかったコンビニがおでんの宣伝をしていました。それを見たことで、以前先生とおでんを食べた時のことを思い出します。……先生は、おでんくんの話を昔に一度していることを忘れていたみたいです。
わたしが先生のツイッターを先生が中学生だった頃から見守り続けていることは、今や本人も周知のことですけど、まだ先生が十代だった頃に、わたしはツイートとしてすでにおでんくんの話を聞いていました。たしか、「おでんくんのエンディングが「テキワナタイン」という空耳にしか聞こえなくて歌詞をググッてみたら、本当にテキワナタインと言っていた」というような内容だったと思います。それで当時のわたしは、その曲を検索して聴いてみたりしたものです。いい曲だったので今でも時々聴きます。アニメ本編も数話見ました。もちぞうという餅の象が「もちっぞうっ、もちっぞうっ」と鳴きながら歩いていくシーンが妙に印象に残ってます。
ところで、ツイッターだけではなく、わたしは先生の内心を、わたしに知ることのできる範囲で盗み見ることができます。夢のようなことに、なんとこれは今や本人からも公認されていて、心置き無くできることなのです。なので、わたしはあのおでんの日、先生が「わたしがおでんくんのことを考えながらコンニャクを買ったこと」に勘づいたことに驚かされました。まぁ当たらないだろうと思いつつ立てたアンテナから、きっちり通知が来たのです。それなのに昔のツイートのことはすっかり忘れているんだから、先生は本当に可愛くて面白い人ですよね。あまりプレッシャーを与えたくないので、「そういう風に、先生はいつもわたしのことを楽しませてくれてるんですよ」とは、本人には伝えられませんけど。それがいつもながら、もどかしいところです。
……家からそう長くも歩かないうちに、ヤグラさん指定の喫茶店に到着しました。ホームセンターで会った時からずっと思っていることですけど、住んでいる場所が近すぎますよね。おっかないったらないです……。
ノブを握って、古めかしくも洒落た趣のある扉を開くと、カランカランと頭上で音が鳴りました。カウンターの向こうにいる店主らしき老齢の男性ともう一人、銀色のトレイを持った若い女の子から同時に「いらっしゃいませ」の挨拶をもらいつつ、わたしは店内を見渡してみます。
目当ての人物と共に、店内のそこかしこに慎ましく飾られたクリスマスのリースが印象的に目に映りました。……それらを眺める最中、胸元にウェイターの女の子からの視線を感じて、同性にしては珍しく露骨だとも思いました。……まぁ嫌なわけではないんですけど。
「一名様ですか?」
「あ、いえ、そこの……オトナ野球部みたいな人と一緒なんです。コーヒーを一つお願いします」
「オトナ野球部……?」
わたしの視線の先を追って、日当たりの良い窓際の席に陣取っている黒い坊主頭の成人男性がこちらへ手を振っている様を発見し、ウェイターの子は一瞬「ふっ」と吹き出していました。プロ意識と引き換えに、お釣りが来るくらい可愛い子ですね。
ヤグラさんの向かいに座って上着を脱いだあたりで、さっきカウンターへ引っ込んだばかりの例の子が戻ってきて「あの、お砂糖とかミルクは……」とあたふたしながら聞いてきたので、冷たい感じがしないように気をつけつつ「あぁ、ブラックで」と返します。正直なところ味はなんでもいいんですけどね。
わたしといざ対面したヤグラさんは、なぜだかどこか怯えているようでした。視線が挙動不審です。以前会った時はそうではなかったのに。
「二人きりでは初めましてですね」
「あ、はい、そうっすね……!」
「ヤグラさん……って呼び方でいいんですかね?」
「あ、はい。えーと、俺の方もその、なんてお呼びすれば……?」
「気軽にルカトゥと呼んでください」
わたしの名前が、まさかこんな陽の当たる場所で目立つようなことはないでしょうけど、あえてどちらがより目立つのかといえば、芸名の方が目立ちますからね。それでもわたしにとって目の前の彼は、土屋ではなくヤグラって感じなので、そう呼びますけど。
コーヒーが運ばれてきたので一口飲みます。正直わたしは、そもそも物の味が分かる方ではないのですけど、それでも「あぁ、良い香りだ」と思いました。
わたしの到着を待つ間に口をつけていたカフェオレを飲み干して、ヤグラさんがついでにおかわりを注文します。そしてその途中でわたしの方を見て、
「何か食べます?」
と聞いてきました。適当にサンドイッチを頼むと、彼も同じ物を注文しました。
ウェイターの子が離れてから、彼は間髪置かずに聞いてきます。
「それでルカトゥさん、お話というのは……?」
ひそめた声で上目遣いにそう伺い立ててくる彼を見て、わたしは思わず少し笑ってしまいます。男性からここまで露骨に警戒されることはしばらくぶりなので新鮮です。
わたしは昨日、寝てしまった先生を運んで家に帰ったあと、ヤグラさんにツイッターのDMから「少し会って話したいことがあるのですが、ご都合良い日はありませんか?」とだけメッセージを送ったのでした。まさかそのご都合良い日が翌日の午前中になるとは、その時は考えてませんでしたけど。
ヤグラさんはいったい、わたしから何を言われると思っているのでしょう?
「そう緊張しないでくださいよ」
「いやぁ、はい……。……いやでも緊張しますよ」
「どうしてですか?」
「……負い目があるからっすね」
「負い目?」
当然ながら、「ヤグラさんの嘘」にもすでにアンテナは立てています。負い目とやらが何のことかは分かりませんけど、どうせなら聞いてみましょう。先生から「弱みを握ってくるように」と言われましたからね。冗談だそうですけど。
「負い目って、何のことでしょう?」
「そのことで物申しに来たわけではないんですか……?」
「何のことでしょう、とお聞きしたのですが」
「…………例のエロゲのことっす」
「ふむ」
ヤグラさんから嘘は通知されませんでした。それを受けて、わたしにも大体の事情が読めてきます。
一旦コーヒーに口をつけてから、児童を叱る教師のような気持ちでわたしは彼の顔を見ました。
「わたしと先生をモデルにした、あれのことですか」
「それのことです……」
「負い目というのは、勝手にわたしたちをモデルにしたことについてですかね」
「はい……」
「……先生、本気で気持ち悪がってましたよ」
「ま、マジすか……」
「嘘です」
「はっ?」
「冗談ですって。先生はそんなにやわじゃありません」
「は、はぁ……。まぁ、それなら、よかったっす」
そう言って、安堵と困惑がないまぜになった表情を浮かべる彼を見ることは、それなりに気分の良いことでした。べつに彼のことが嫌いなわけではありませんけど、警戒すべき相手に対して主導権を握れるというのは、良いことです。
二人分の、各々四つに切り分けられたサンドイッチが運ばれてきて、わたしたちはどちらからともなくそれに手をつけました。
「ヤグラさんは、わたしがそのことで不快感を露わにして、物申しに来たと思ったんですか」
「は、はい。まぁ」
「わたし、そういうことをしそうなイメージですか? そんな刺客みたいな」
「いや、イメージっていうか……。そういうわけじゃないですけど」
通知の魔法が、彼が嘘をついたことを報せました。
いや、もうまったく、そうでしょうとも。彼はわたしを「嫉妬」のモデルに使ったくらいですからね。彼の中でのわたしは「先生と別れてください」と言いに来るような女なのでしょう。……今日の目的を思えば、まるきり見当違いとまでは言えませんけど。
わたしは二つ目のサンドイッチに手を伸ばしつつ、率直なことを言います。
「そんなに怯えるくらいなら、初めからモデルになんてしなければよかったのに」
「俺もそう思います」
「へえ……?」
今度は、嘘の通知は入りませんでした。
「言い訳になりますけど、あいつ……友人に咲月とキララを提案してしまったのは、酔った拍子のことだったんです。酔いが覚めてからじわじわと、自分はまずいことをしたんじゃないかと理解し始めた頃には、向こうはすっかりその気になっていて……」
「やっぱり無しにしてくれ……とは言えなかったと?」
「はい……」
「……で、なんでその脚本をわざわざ先生に? 秘密にしておけばバレないでしょうに」
「そうとも限らないんすよ」
「ふむ?」
「今回、俺も彼のゲームに作画で協力してるんです。それもきっちりクレジット付きで。だから当然、ゲームが無事に発売した暁には、俺はツチノコヤグラ名義であの「ルインの日」を宣伝することになるんですよ。ウズラ先生がそれを見る可能性は、まぁまぁはあるでしょう……?」
「……なるほど」
彼は何一つ嘘を言っていませんでした。上手くはぐらかされた場合には通知の魔法はかいくぐられてしまいますが、向こうにタネが割れているわけでもないのにそこまで勘ぐることは不毛ですし、素直に信じましょう。……彼は今回の件について、悪気はなかったし、反省もしているようです。
ただ、そう信じるにしても、そもそも彼はまだわたしの質問に答えていませんから、有耶無耶にはさせません。
「で、そうするとなんで、先生に脚本を頼もうってことになるんですか?」
「白状っすよ」
「白状?」
「しれっとモデルにしたことが発売した後でバレてもめたりするより、まだマシかなと思って……」
「思って、しれっと仕事を回したと? モデルにしたことを白状して謝るのではなく?」
「…………」
「あなたさては、うっかりスルーされればラッキー、くらいに思ってましたね」
「……本当すいません」
頷くようにうなだれた彼から、嘘は通知されませんでした。……いや、なんというか、聞いてしまえばしょうもない話でしたね……。
しょうもないことをこれ以上詰めても仕方がないので、最後に素朴な疑問の答えだけは聞きだして、この話題は切り上げることにします。
「ところで、なんでキララって名前だったんですか?」
「え?」
「咲月は、卯月を一つずらした「皐月」が由来でしょう? 先生の本名は卯月ですから。でも、だとするとキララは何なんだろうって気になって」
「あぁ、それは、星っすね」
「星?」
「ルカトゥさんは芸名が
「あぁ、へぇ〜なるほど。納得です。すっきりしました」
「ど、どうも」
こちらの意図が読めないようで、相変わらず不安そうにしながら、ヤグラさんはもさもさとサンドイッチをついばみます。わたしも同じ物を食べているわけですけど、だからこそ、彼はもう少しおいしそうな顔をしてもいいはずだと思いました。
……さて、このあたりでそろそろ本題に入りましょう。通知いわく、先生も今しがたお目覚めになったようですし。
「ところでヤグラさん……。お気づきかと思いますが、今日わたしがここへ話しに来たことは、そのエロゲとは一切関係ないことなんです」
「あ、え、そうなんすね」
「なんの話だと思います? 良い話ですよ」
「え、えー……? すいません、ちょっと心当たりは……」
「……サキュバスが皆、性欲を感知する能力を持っていることは知ってますか?」
わたしの言葉を聞いた瞬間、彼の肩が一瞬跳ねては硬直しました。どうもツチノコヤグラという男は、今日ここに来るまでの印象とは違って、思いのほか分かりやすい小心者のようです。……本当に意外ですけど。
彼は、これもまた白状するかのように、あるいは自首するかのように、首を縦に振りました。
「……知ってます」
「話が早くてよかった。ヤグラさん、あなた、欲求不満ですよね?」
「あの、ち、ちなみに今どんな感じで感知されてます、それ? なんというか、量的に……」
「サキュバスがドン引きする量の性欲があります」
「うっ……マジかぁ……。男ってみんなこんなもんってわけじゃないんすね」
「断じてないです」
彼の性欲はおそらく、彼の体の限界を通り越えています。もし彼が、陰茎が固さを取り戻すことを一時的に忘れてしまうほどの性交に溺れたとしても、彼の心はまだ満足しきれないはずです。そういうレベルの性欲が感じ取れます。……そんな男が今、びびりながらとはいえ比較的普通に、カフェオレを飲みながらサンドイッチを食べたりしているのです。幾度となく見返したのであろうAVに出演している女優その人の前で。
その点については、さすがに尊敬するしかありません。彼は以前も今日も、わたしのこの……必要の有無に関わらず目立つ大きな胸に対して、ほとんど一度も視線を向けていません。会話の内容、声音、態度や振る舞いについてもそうですが、サキュバスの能力なしでは、彼の中にある性欲を正しく察知することはおよそ不可能なのではないかと思います。尊敬すると同時に、そのカモフラージュの技術には空恐ろしいものを感じます。……いや、それはさすがにわたしに言えたことではありませんね。
「いや、それは本当に、申し訳ない……。あまり表に出さないようにしてはいるつもりなんすけど……」
「えぇ、それはほぼ完璧に出来ていると思いますよ。わたしだって自分がサキュバスでなければただ単に、珍しく胸を見てこない男性だなぁ、という印象を受けていたはずです。欲求不満らしさとは真逆の方向ですよね」
「は、はぁ……」
その時さすがに、彼はちらりとだけわたしの胸を見ました。……けれどそれで彼の中の欲がさらに増すということはなかったように感じます。上限いっぱいなのでしょうか。
だけどまぁ何にせよ、わたしはそれをしぼりつくさなくてはなりません。カンストしていようとなんだろうと、そのためにわざわざここへ来たのですから。
「ヤグラさん、そこで一つ相談があるのですけど」
「はい、相談すか……?」
「えぇ。……ヤグラさんのその性欲、定期的にわたしにくれませんか?」
「えっ? くれ……というと?」
小さく口を開けて舌を出し、わたしはその舌を指さします。できるだけ挑発的に見えるように。
「サキュバスが性欲をくれと言うんだから、そういうことですよ。……わたしたち、割り切った関係になりませんか?」
「え、そういうって……そういう……? ……えぇ〜……?」
生意気にも、彼はその時、困ったような顔をしていました。鼻の下を伸ばしたりせず、むしろ内心で頭を抱えているようなそのリアクションは見上げた演技力ですけど、莫大な性欲の存在を看過されながらそれを披露する意図というのは、よく分かりません。……先生とのことが気まずいのでしょうか? わたしと先生との関係をある程度知っているから、それで気後れしているとか。
ヤグラさんはしばらくの間、うーとかあーとか言って、返事の間を稼いでいました。そしてその末にようやく頭の中で言葉を組み立て終えたようで、ある時ティーカップに一度手を伸ばしかけて、何かを思い直したようにその手を膝の上に戻し、彼は改めて口を開きました。
「すいません。本当に、マジでありがたいお誘いだとは思うし、ぶっちゃけ乗りたい気持ちがあることは否定しきれないんすけど……。…………丁重にお断りさせてください」
「……はぁ?」
頭を下げた彼は、やはりなお嘘はついていませんでした。
わたしは、どうやらふられてしまったようです。
「な、なんでですか……?」
思わずそう聞いてしまいました。この時ばかりは「信じられない」という気持ちが、そのまま顔に出ていたかもしれません。いくらわたしでも、突如として来る予期せぬ感情のことだけは、未だに完璧には隠しきれないのです。
信じられないというのは、厳密には、自分がふられたことに対してではありません。そんなことより、じゃあ彼は自分のその性欲をいったいどうするつもりなんだ……? ということに率直な疑問を持ってしまったのです。……けれどそのニュアンスはおそらく彼に伝わらなかったのでしょう。
「す、すみません……。俺にはその、のっぴきならない理由がありまして……」
途端にかすれたような声になって、必死の形相でそう言葉を紡ぐ彼からしてみれば、わたしが露わにした感情は「なんたる屈辱!」という風にでも映ったのだと思います。……そういう誤解が嫌なので、その時々の気持ちをそのまま顔に出すのは嫌だったのですけど……。不意を突かれましたね。
断られること自体はべつに大してショックでもありません。サキュバスらしく何人もの男性を誘っていれば、いずれはそういうことにも巡り会うのが世の常というものですから、特にわたしのような図太い者にとっては、それ自体はどうでもいいことなのです。……と、今正直にわたしの見解を述べたところで、それは全て皮肉か必死な自己防衛に聞こえるでしょうから、口に出すのはやめておきますけど。
その代わりにわたしは、彼ののっぴきならない理由とやらに興味が湧いたことを、本心からさらに割増して伝えることにしました。
「のっぴきならない理由、ですか。それは……それはすごく気になりますね。仮にその理由さえ解消されれば、提案を飲んでもらえる可能性もあるんでしょうか?」
「いや、解消というのはその、無理っす」
「どうして?」
「……付き合ってる人がいるんです」
「え」
彼のその言葉に、通知の魔法は反応しませんでした。わたしは、……わたしはまたしても、素直に驚かされてしまいました。
だって、恋人がいるだなんて、だから他の女とは関係を持てないだなんて、そんな言葉を現実のこととして聞くことができるのは、奇跡じゃないですか。世の中には、恋人どころか妻子がいても愛人を作る人が五万といます。めんどくさい女をあしらうために、居もしない恋人の存在を語る人もいます。でも彼、ヤグラさんは、そういうわけではないようなのです。
そんな彼は、なおも続けました。
「正直、正直な話っすよ……? 独り身だったらそりゃ、一も二もなく飛びついてましたよ。でも、彼女もお天道様も、俺自身も、今はそれを許せないんすよ。……だから本当すいません」
「……いえ、べつに構いません。そういうことなら」
これ以上はどうしようもないので、残り少ないサンドイッチに手を伸ばしつつ、ネタばらしをすることにします。
「ヤグラさん、今日のわたしの目的は、あなたが万が一にも先生に危害を加えることがないように、あなたの性欲を全てしぼりつくすことだったんです」
「えっ……?」
「でも、事情が変わりましたね。あなたがわたしに飛びつかないようなら、先生に対してもまぁ、おおよそ大丈夫だと考えられないこともありませんから」
もぐもぐと食べ進め、コーヒーを飲み干し、ついでに呆然としたヤグラさんの顔を見てみます。……わたしにとっての彼の印象は、今日からは「変なところに誠実な男」になりました。どこが変かといえば、たとえばもし恋人への義理立てにベストを尽くすのであれば、彼はそもそも今日わたしに会うべきではなかったでしょう。あるいは、「正直な話」とやらを口にすることもそうです。そして、先生に対する白状の件についても、似たようなものです。彼の誠実さは、しばしば中途半端で、そのわりに嘘がない。そこが変だと感じます。……変というのは、少なくともわたしにとっては、あながち悪い意味ではないかもしれません。
そんな変に誠実な男と付き合っている「恋人」とやらに、少し思いを馳せてみます。彼の恋人とやらが今どこで何をしているのか、どんな人なのか、わたしは何も知りません。けれどヤグラさんの言い方からしておそらく、その人は人間なのでしょう。サキュバスが、お天道様と同じ倫理観で生きているとは考えづらいですから。
……であるならば、一つ疑問が浮かぶのですが。
「ただ、ヤグラさん」
「はい……?」
「あなたのその、恋人という人は、あなたの性欲を受け止め切れるのですか? サキュバスではないのでしょう?」
「あぁ、はい、人間の女性ですけど。でも心配ないっすよ、そういうのは」
彼も最後のサンドイッチに手を伸ばし、それを口に入れる前に言葉を続けました。
「俺、べつに自分の欲を底まで解放したいとは思わないんすよ。半分くらいでも認めてもらえたら、それで十分すぎるほど幸せだなって。……あんまり欲張ると身を滅ぼしそうでしょ? 自覚はあるんです」
そう言って軽食をはむ彼の姿は、窓からの陽光に照らされて、妙に優れた存在であるかのように見えました。……あるいはただ単に、優れているというより、珍しい存在であるだけなのかもしれませんけど。
そんな彼は、少し冗談っぽいニュアンスを含みながら、わたしに問いかけてきます。
「ていうか、ウズラ先生に手を出すと思ってたんすか……? 俺が」
「あり得ない話でしたか?」
「いや、そうっすねぇ……。……まだ今の彼女と出会う前に、ルカトゥさんくらいそういうことに乗り気なウズラ先生と知り合ってたら、その時は保証できなかったでしょうけど」
「ガードが固かったんですか、先生は」
「いや、そういう風には見えなかったっすけど、なんというか……」
しばし、言葉を選ぶような間が挟まり、
「……ウズラ先生は、刺すべき相手のことは、刺し違えてでも刺すんだろうなっていう、そういう雰囲気はあった気がするっすね」
「へえ……?」
「いや悪い風にとらないでくださいね……?」
「とりませんよ」
平静を装ってそう言います。……けれどそれは、このわたしの全く知らない、先生の隠されし一面の話だったように思えました。……キララに嫉妬の役割を当てたヤグラさんのセンスは、実のところ中々悪くないのです。
わたしの知る先生は、なんというかそんなに、義憤の人にも執念の人にも見えません。仮に、もし万が一もっと昔に、何かの拍子に先生がヤグラさんと一夜の間違いを犯してしまっていたとしたら、その時の先生は、きっとその一夜のことを無かったこととして振る舞っていたのではないでしょうか? わたしとしては、そんな気がします。
でももし、防御ではなく反撃を匂わせる形でのプレッシャーで男性との距離感を保っている先生が本当にいたのだとすれば、そんな先生の姿も一度は見てみたい……と、そう思ってしまうものです。なのに、どんなに強く興味をもっていても、やはり他人という存在には、どうしても必ずわたしの知らない側面があるものなのでしょうか……? 全てを知りたがることの無謀さを、改めて実感させられた気分です。
皿の上を空にしたわたしたちは、どちらからともなく「じゃあ」と口にして、帰り支度を始めました。わたしは上着を羽織ったあと、バッグから財布を出します。
「コーヒーとサンドイッチ、これで足りますかね」
「いや奢りますよ」
「彼女さんが怒りますよ」
「えっ、嘘」
「んー、嘘かもしれません。でも今後、女性と二人きりで会うのはおすすめできませんね。特にサキュバスと会うなんて」
「肝に銘じておくっす」
「ふふ。……それじゃあ万が一別れちゃった場合なんかには、お釣りを返しに来るってことで」
「ちょっ、ルカトゥさんっ」
わたしは千円札三枚を置いて、彼より先にその店を出ました。やり取りを見ていたウェイターの子が「ありがとうございました」と見送ってくれたところに、わたしがしっかり目を合わせてから微笑みを向けて帰ったことを知ったら、先生は怒るでしょうか? この浮気性……って。
「あっ」
店を出てから数歩行ったところで、わたしは大切なことを一つ忘れていたことに気が付きました。どうも時々そういうことがあっていけない……と、いつのことだったか、スケジュールを勘違いしていたショックで不覚にも取り乱してしまった時のことを思い出しつつ、わたしは回れ右をします。
ちょうど、店の扉を後ろ手に閉めながら出てきたヤグラさんに会えました。
「かっこ悪くて失礼、お久しぶりです」
「うおっ、あれ、忘れ物っすか……?」
「いえ、……あぁ、まぁそんな感じですね」
そしてわたしは、本当ならピロートークとして言うはずだったことを、彼に伝えました。
「ヤグラさん、わたしからも一つ、仕事を引き受けてもらえませんか?」
結論から言って、セックスが対価に入っていなくても、彼はそれを断りませんでした。詳しい話は後日、彼の仕事用のメールアドレスに送ることにします。……本当はLINEがよかったんですけど、彼にはついさっき、肝に銘じてもらったばかりですからね。交換はしませんでした。
そして今度こそ、わたしとヤグラさんは解散しました。……帰る道すがら、わたしは、先生が今日もパソコンやゲーム機に電源を入れていないことを通知の沈黙から知って、薄くはあるもののじめっとした不安を覚えました。
先生はわたしの気持ちを分かってくれません。が、同じくらい、わたしにも先生の気持ちが分からないのです。たとえば一般的な人間女性の、彼氏がサキュバスと二人きりで会ったりLINEを交換したりすることについて、やかましく不満を口にして見せるような気持ちがわたしには全く分からないのですが、それと同じレベルで、わたしには先生の気持ちが分かっていないような気がするのです。だから不安にもなります……。
少し前までの先生は、いつも漫画を描いていました。あるいはそのアイデアが尽きたり、作業に飽きたりした時は、ゲームに没頭していました。……しかし最近の先生は、そのどちらもしていません。最近の先生が一番多くしていることは、スマホでYouTubeを見ることか、コタツで昼寝をすることでしょう。夜は眠れるようなので、その点は心配ないのですけど……。
ヤグラさんから珍しい仕事が回ってきて、それをこなしてみても、結局のところ先生はまた「最近の先生」に戻ってしまいました。わたしとしては、それ自体はべつにいいのです。以前までの先生に負けず劣らず、最近の先生だって素敵ですから。……でも先生本人の方はどうなのでしょう?
先生は、冬にはうつ病が増えるのだと言っていました。まさか先生に今すぐそこまで深刻なことが起こるとは思えない……もとい、思いたくありませんが、しかし傍から見ているとどうしても、わたしには以前までの先生の方が、活力に満ちていて精神的に健康だったように思えてしまうのです。……本人がどう思っているのかは分かりません。通知の魔法は、曖昧な事柄にはアンテナを立てることが出来ず、かといって漠然とした理由で「最近元気なくないですか?」と真剣な顔をして聞くようなことも、わたしには出来ないからです。
なぜ、ただ聞くだけのことすら出来ないのか。それは、万が一にもわたしの不用意な言葉やシリアスな態度が原因となって、先生が負のプラセボ効果に陥ってしまったらと思うと…………それが一番おそろしいからです。わたしはどうしても、今まで通りに生活していれば、今まで通りの生活が続くはずだと、そう考えてしまうのです。逆にそこを変えてしまったら、その先にはヤブや墓穴が待っているのではないかと……。
……でも、やっぱり、わたしの知らない先生というのは、今も水面下にあるものなのではないでしょうか……? 水の中を、わたしはどうすれば見ることができて、どうすればわたしは、先生をもっと元気付けてあげられるのか……。
……そう考えた時の一つの心当たりを、わたしはつい最近得ることができました。若干不服ではありますが、それはヤグラさんのおかげだと言えなくもないことです。だからわたしは彼に仕事を頼みました。
思うに先生は、わたしのことをもっと知ってくれれば、もっと元気に、もっと気が楽になってくれるのではないでしょうか……? ……べつに驕っているわけではありません。本当に、ただ純粋に先生のことを考えて、わたしはそう思うのです。
ルカトゥから聞いた話、なんとヤグラ君には彼女がいるらしい。完全に初耳だった。その人は彼氏の描くエロ漫画に目を通していたりするのだろうか? ……なんだか途端に野次馬精神が湧いてきてしまっていけない。
そういうわけで、ルートは想定と違ったけれど、結果としてルカトゥは安心を得て、ヤグラ君への警戒心を解くことができたらしかった。事が丸く収まって何よりだ。……でもそれはそれとして、私も次からは適当なことを口走らないように気をつけないといけない。酒が入っていても、いや入っている時こそ特に。今回はただの偶然として、サキュバス的な価値観からセーフ判定が出ただけなのだから。
ルカトゥがヤグラ君と接触した日の翌日が、もう十二月二十四日、クリスマスイヴその日だった。リア充が聖なる夜に何をしているのかは知ったことではないけれど、いい子にできた覚えもないのに、その夜は我が家にもサンタがやって来た。
「メリ〜クリスマ〜ス」
貫禄の欠片もないふわふわした声で高らかに現れたのは、おそらくドンキで買ったと思われるペラッペラのサンタコスチュームを着たルカトゥだった。体のラインが出すぎて無駄にエロくなっているそのサンタは、プレゼントの入った大きな白い袋も携えていた。……が、その袋の形は一般的なイメージと違って、なにやら分厚い長方形に歪んでいる。PS5でも買ってきたのか……? と私は予想した。
数秒後、その予想は外れる。袋の中身は、箱買いされたレモンチューハイだった。
「冷蔵で大きな物といえば、これかなぁって〜」
そう、ルカトゥは極寒のベランダを有効活用する方法をまだ探していて、またその答えを見つけていたのだった。そしてそれとは全然関係なく、クリスマスなのだからケーキを買いに行こうという話になって、二人して急遽駅の近くのケーキ屋を覗きに行く段取りになる。……ペラペラサンタの役目はだから早くも終了した。
入念に上着を着込んで足を運ぶと、いつも客足のまばらな印象があったそのケーキ屋も、今日ばかりはショーケースを自由には見られないほどの人混みにごった返していた。私はそれを目の当たりにした時、とても直感的に、クリスマスにケーキを食べる権利のある者は、それを事前に予約していた者なのだけなのではないか……と思った。
けれど私だって学ばないわけではない。「何でもすぐに否定から入るのは良くない」という学びは、すでに夏のうちに得たことだ。
「この人混み……。メリークリスマスの戦場だね」
「アニメで見る購買のパン屋さんみたいですね〜」
「それ主人公の番に売り切れちゃうやつじゃない?」
そんな軽口を交わし合いながら地道に順番待ちをすることで、思ったよりは焦らされることもなく、私たちはショーケースから自分の食べたいケーキ各二種類を選んでゲットすることができた。私が色々なフルーツの乗っかった物を好んだ一方で、ルカトゥはチーズケーキのような比較的シンプルな物を好んでいた。
まっすぐ家に帰って、私たちはお互いのケーキをシェアして食べた。そしてそれ以外にはこれといって特別なこともなく、イヴの夜は更けていった。
日付も変わろうかという頃になると、枕元に何かを期待するような歳でもない二人が、一人はベッドに、一人は布団に入って目を閉じる。部屋のスペース上ルカトゥのベッドを用意することは難しいという理由で今のスタイルが定着したのだけれど、今となっては、彼女とはこれがちょうどいい距離感であるように思える。お互いの体があまり近すぎると、向こうが気の毒だから。
……暗い部屋の中で、ルカトゥの声が静寂に染み入るように響いた。
「先生ぇ」
「うん?」
「……クリスマスにかこつけて、わがままを言ってもいいですかぁ」
「もうトイザらスは閉まったよ?」
「あはは、違いますよぉ。……わたし、先生としてみたいことがあるんですぅ」
「……してみたいこと?」
夜更けの部屋に響いたその言い回しに、私は薄氷の張るような緊張を覚える。
ヤグラ君のことが……、彼と、名前も顔も知らない彼の恋人のことが脳裏をよぎる。彼らは今頃きっと……というようなことは、ルカトゥも考えるところではないだろうか……? 今日の日の夜に、何もせずに眠る恋人たちがいるものなのだろうかと。そしてそれを想像した彼女の「してみたいこと」とは……。
……悪魔になる覚悟も聖人になる覚悟も決まらないまま、私はその薄氷に足を踏み入れる。今までずっと決められはしなかった覚悟に、ここで急に決着がつけられるとは思わなかったけれど、だからこそ、後手に回ることが最も危ういような気がして。
「……してみたいことって?」
「はい、あのですね〜……。あと一週間で、今年が終わるでしょう〜? そしたらわたし、先生と初詣に行ってみたいんです〜」
「初詣……?」
意外なフレーズに、思わず復唱する。するとその途端、直前の自分の考えが、一人でこっそり恥ずかしくなってきた。それを紛らわせるために言う。
「なんだ、エッチな話が始まるのかと思った」
「え〜? さっきのサンタコスで何かしますか〜?」
「え〜、……もう眠いよー」
ベッドの上で身をよじる。口にしたそれは本心であり、なおかつその全てではなかった。……ルカトゥにどんな通知が行ったのかは私には分からない。私に分かるのは、彼女が少し笑って、それきり言葉を打ち切ったことだけだった。
ルカトゥは、決して自分からは答えを催促してこなかった。
「初詣、行こうね」
「はいっ」
嬉しそうな返事がすぐにあって、私は自分が正解を選べたことを確信する。……私が彼女にしてやれることといえば、本当にそんなようなことしかないのだ。
おそらくルカトゥは、私が初詣を……というか人混みを嫌っていることを知っているのだろう。だからたったそれだけのことを「わがまま」と表現する。もしかすると、さっきのケーキ屋の盛況ぶりを見た時の私の第一印象も、彼女には伝わっていたのかもしれない。……ルカトゥは私に嘘をついたりはしないけれど、彼女が天才女優であることは、頭の片隅に留めておいた方が良いように思う。
それから年明けまでの一週間、今年の私は結局もう漫画を一コマたりとも描かなかった。描くことも、思いつくこともなかった。
年末年始はルカトゥと過ごしたいので、私はその一週間のうちに、一度実家に顔を出すことにした。電車で片道一時間もない距離だ、帰省というほどの大旅行でもない。ルカトゥに一泊だけしてくると伝えると、思いのほかあっさりと「了解です〜。ゆっくりしてきてくださいねぇ」と受け入れられた。……ぐずられるとでも思っていたのだろうか? と自分の感覚が少しアホらしくなってくる。
実家に到着した私は、ルカトゥから受けるものと大差ないような王様待遇で両親に迎え入れられた。子どもの頃は思わなかったものだ、親から冗談でもなく「まぁまぁ座って座って」と言われる日が来ようとは。
久しぶりに家族と囲んだ食卓にドンと用意された料理は、いっそやはりと言うべきか、鍋だった。父が奮発してアンコウを買ってきたらしく、デンドンデンドンデンドンと仰々しいBGM(父の肉声)と共にそれが登場した。さすが我が父と母、鍋+奮発=?の答えに蟹を採用しないあたり娘のことをよく理解している。それともただ単に、以前私がアンコウを気に入ったと言っていたことを覚えてくれていたのだろうか……? ……いや、違う気がする。母の悪癖によって投入された「餅」が他の食材に粘着する様を見てそう思った。
いくら王様待遇で取り皿に具材をよそってもらえたとしても、餅の粘着力は、その取り皿の中にすら混乱を巻き起こす。どうしても入れたいならおでんくん状態にしてほしいところだけど、母はそれをしないし、餅を諦めもしない。私が、
「また餅を入れてる……」
と言うと、母は、
「だっておいしいから」
と返す。このやり取りは、私が十代の頃から無限に続いている。だから一周まわって安心感がある一方で、人は変わらないものなのだ、ということを思い知らされもする。……まぁ確かに味は悪くない、味は。けど私がよくても、粘着力の餌食になったアンコウがなんて言うかな? ……何も言わないか。
食べながら、二人に「友達と過ごしたいから年末年始は来れない」と伝えると、相当渋々ながらも了解を得られた。母が「雛子にもお泊まりするような友達ができたんだね」としみじみ言っていたことについて、こちらとしても感慨深さがあったような、今までだって遊びに行く程度の友達なら居たやい大差ないやいと言いたくなったような。
両親は、年が明けたらまたもう一度、できるだけ早く雛子の顔が見たい……と言ってくれた。だから私はそれに「もちろん」と答えた。……こんなに平和な家庭ばかりが世の中にあるわけではないのだろうなと、そんな考えが頭をよぎった。子どもの頃は考えもしなかったことだ。
…………仕事を辞めたことについては一言も話さなかった。今までも、今日も、これからも、話すつもりにはなれる気がしない。
二人は人間で、魔法のアンテナなんて張りようがないから、一緒に食卓を囲みながらでも、私は上手く仕事の話を誤魔化せていたように思う。……いつまでそれを続けられるんだろうとは、さすがに考えさせられたけれど。
次の日の昼前に、私は電車に乗って元いたマンションに帰った。鍵を開けて玄関に入ると、ルカトゥが迎えに来てくれた。犬みたいだと思うのは失礼かもしれないけど、でも本当にそんな感じで、ぶんぶん振ってる尻尾が見えるかのようだった。
……私はルカトゥをこんな風に出迎えたことがあったっけ? そんな思考がよぎるけれど、ルカトゥの饒舌さによってそれはすぐに霧散していく。「久しぶりの帰省はどうでしたか〜?」と土産話をねだるルカトゥに、私は実家であったことの諸々を面白おかしく伝え話した。我が家にはアンコウの登場BGMがあるんだぜ、と。
そしてその日の夜眠る前に、今年もいよいよ残りわずかとなったことで、私は自分の描いた今年最後の漫画のことを振り返った。……面白おかしい土産話ができて、どうして漫画のアイデアは思いつかないんだろう? と少しだけ思わないでもなかった。べつに今までエッセイを描いてきたわけではないのに。
私が最後に漫画を描いて上げたのは十月の中旬あたりのことだったように思う。それは「黄栖身礼奈と炎の囚人」というタイトルの、Vtuberになったサキュバスを主人公とした作品だった。……その漫画のあらすじはこうだ。
男というのは、女の着るあらゆる制服・ユニフォームに性的魅力を見出すものだ。看護師、女子高生、各種スポーツの選手、婦警、巫女、エトセトラエトセトラ……。メイド萌えだって元を正せばその括りの中にあるものだろう。そしてそういった制服に魅力を見出す男というものは、基本的に、単なる素人のコスプレよりも「本職」に価値を見出す傾向にある。ナース服を着せるなら職業看護師に……という風に。
そうすると当然、その手の男たちをターゲットに見定めるサキュバスたちだって、自分たちのやり口により価値を持たせようとする。「本職」は何も人間の特権ではないのだとばかりに、様々な職業、様々な業界にサキュバスたちは進出していった。
……そしてそんな世界に一人、とある業界の禁忌に挑むべく発起しようとしているサキュバスがいた。彼女の名はキリラスという。
「わたしは個人勢Vtuberとして名を馳せる。そして然るべき後、自分で自分のガワのコスプレをしてオフパコ動画を撮り、ネットに広めて、業界初の伝説になるんだ……!」
「いやアンタ、そんなことがマジになったら、伝説どころか事件も事件……、Vtuber界のヴォルデモートみたいな存在になっちゃうよ」
「なっちゃうんじゃない、なれるのさ!」
友人の制止も聞かずに
「わたし、昔から得意なこととか、自信を持てることがあんまりなくて。でも声だけは可愛いってよく褒めてもらえたし、独り言も得意だったから……いや独り言が得意って変だけど、でも、だから配信業を始めてみたんだ。……そしたらそれが今、こんなにたくさんの人に見てもらえて、応援してもらえるようになって……! わたし、Vtuberになってよかったって思う! リスナーのみんなのおかげだよ、みんな本当にありがとう!」
その記念配信の次の日、キリラスの……黄栖身礼奈の中の人のセルフコスプレオフパコ動画はきっちりネットに流出し、出回った。また、記念配信で語ったことはオフパコ動画流出までの流れを盛り上げるリップサービスに過ぎず、たとえば彼女は、自分の容姿にも相当な自信を持っていたりするのだけれど、そのことが男に跨って腰を振る本人の口からカメラ目線で語られたりもした。
その動画が取り沙汰されてすぐに、当然、彼女のリスナー界隈は阿鼻叫喚の大炎上状態となる。その結果、炎上は界隈の垣根を飛び越えるほど大きな話題となり、本来なら皮肉とでもいうべき様相をもってして、黄栖身礼奈の名はSNS上の話題を見事に席巻してみせた。
目的達成をもって黄栖身礼奈を引退したキリラスは、地獄の炎がSNS上を駆け巡っていくその様子を見て、……いや、その様子と、己の裏垢に届くオフパコお誘いDMの山を交互に見て、大爆笑しながら手を叩いていた。
「見てよこれ! すっごい拡散されてるんだけど動画! あっはっはっはっ! 止まんね〜!」
「アンタ……そのうちガチファンに刺されたりすんじゃないの……」
友人は呆れてそう口にした。……そしてその予言は的中した。
ある日キリラスが何度目とも知れないオフパコを終えて自宅のマンションに戻ると、どうやって各種のセキュリティを突破したのか、部屋に見知らぬ男が佇んでいた。
男は、果物ナイフを握りしめていた。
「は? あんた誰……?」
「お前は……礼奈ちゃんじゃない……。声が似てるだけだ。礼奈ちゃんに詳しいだけだ。お前は……」
「ん? 黄栖身礼奈はわたしだけど? わたしが中の人だよ。ずーっとそこのパソコンの前で配信してたの。で、君はだれ? もしかしてめっちゃスパチャくれてた人の誰か? ……君もわたしとヤっとく?」
ファンにとっては聞き慣れた声で、この期に及んで黄栖身礼奈を名乗ったそのサキュバスは、あっさりとナイフで腹を一突きにされた。刃はすぐに引き抜かれ、フローリングの床に血溜まりが広がっていく。
男は自分の握った血濡れのナイフを見つめながら、うわ言のように繰り返し同じことを言う。
「お前が殺したんだ。お前があんなことするから、お前が礼奈ちゃんを殺したんだ。お前が殺したんだ、お前が殺したんだ、お前が、全部……」
その言葉を受けて、キリラスはかすかにニヤリと笑みを浮かべた。
刺された箇所を押さえた手が真っ赤に染まっていることを見てから、涼しい顔で膝をつきもしない彼女は、今しがた自分を刺したストーカーの顔を見てにやけ面で言う。
「……「わたし、Vtuberになってよかったって思う! リスナーのみんなのおかげだよ!」……って、ねぇ、あれ聞いた時、どう思った? オタクくん?」
推しと同じ声をした女が、血まみれの手でその男の顔を掴む。自分から目をそらさせないように。
「へへ、黄栖身礼奈って名前ね、黄はコウって読むんだ。コスmeレイヤーで黄栖身礼奈。最初からこうするためにVtuber始めたんだけど、ねぇオタクくん、今どんな気持ち? ねぇほら、礼奈だよ……? 刺されちゃって痛いよぅ。だからオタクくんが……礼奈のこと治して……?」
そう言ってキリラスが、刃物を持ったまま立ちつくす男の下半身をまさぐると、彼は悲鳴を上げてその場から逃げ出した。赤く染まった刃物を持ったまま飛び出した男の悲鳴が、マンションの階段伝いの螺旋状に遠ざかっていく。
そうしてようやく、まるでベッドに寝転がるみたいに、キリラスは血の海の中へと倒れ込んだ。そうしてすぐに至極冷静なそぶりでポケットからスマホを取り出して、110番をコールする。
「あぁもしもし、すみません、事件です事件。〜〜の○○ってマンションに住んでるんですけど、ストーカーにナイフで刺されまして。あぁ、お腹をそう、〜号室でグサッと。で、そのストーカーが刃物を持ったまま逃げたんで捕まえてください。……あと、わたしサキュバスなんですけど、Vtuberって分かりますか……? あの、できればVtuberに偏見がない男性を一人、こっちに送ってもらえませんかね。ちょっと……魔力が…………足りな………………く…………」
スマホを持っていた彼女の腕から力が抜ける。べちゃ……と粘着質な音を立てて落ちたその機械を通して、警官の届かぬ声ばかりが部屋に虚しく響き続けた……。
……で、次ページにはピンピンしているキリラスの姿がある。彼女は性懲りもなく自室で黄栖身礼奈のコスチュームを身にまといハメ撮りをしていた。……が、どうも相手の男は単なる竿役というわけではないらしい。セックスが終わると、二人は一緒にキッチンに立って夕飯を作り始めた。
「俺、キリラスと出会えて幸せだよ。あの時、来てよかった」
「そう? じゃあキューピットに感謝しないとね」
「ハハハっ、かもな。囚人に感謝する奴なんて俺くらいだろ」
「あいつ、ちゃんと捕まってよかったよね〜」
仲睦まじく話す二人から視点が引いていって、完。
……振り返ってみると、それは今年最後の作品を名乗るにふさわしい力作であるようにも思えるし、同時に、全然まったくそんなことはないような気もした。今年最後だろうとそうでなかろうと、漫画は漫画、同じ作品は同じ作品で、それ以上でもそれ以下でもないのだけれど。
……数日後。大晦日の夜の私たち二人は、ベランダに保管してある例のチューハイで晩酌を繰り広げながら、年末特番で歌を聴いて過ごした。聴きながら、というか聴き流しながら、適当に中身のない雑談ばかりをする。そんないつも通りの時間が最後まで流れていたように思う。今度は寝落ちしないように、酒と同じ量の水を飲みながらそうした。
そして二十四時を迎えたら、ハッピーニューイヤー!と祝いの声を上げる。で、ノルマを達成し次第、私たちは夜明けに備えて眠ることにした。初詣には、寝不足では向かえないから。
クリスマスの夜をデジャヴにするような、暗闇と静けさに浸透していくような声で、布団の中のルカトゥが不意に言った。
「先生ぇ、……やっぱり初詣は止めにしましょうか」
「え、なんで」
「ゆっくり昼まで寝たくないですかぁ」
「じゃあ、昼からでも行こうよ。なんなら夜でも、その日のうちに行けばセーフじゃない? 知らないけど」
「あぇ、先生ぇ、そんなに行きたいんですか〜……?」
「いや、キミが行きたいって言うから……」
私はべつにそんな物はどうでもいいんだ……と思うこと自体は、もはや止めようがなかった。けれど思うに、付き合いというのは元々そういうものではないだろうか。魔法の存在を知っていても、内心を止める術までは私は知らない……。
私の心がアンテナに引っかかったのかそうでもないのか、とにかくルカトゥはしばしの間沈黙した。……けれど彼女が決して眠ったわけではないことが、見えなくても分かる。
最近のルカトゥには少し、以前より、言葉を選ぶような間を要することが増えているような気がした。
「……白状しますとね、先生ぇ。わたし、先生が家庭菜園を面倒がっていたこと、分かってたんです」
「え?」
突然話が夏まで遡ったから、一瞬何のことだか分からなかった。けれど比較的すぐにその内容を理解できたのは、私にも思い当たるところがあったからだろう。
「……あぁ、そうなの。それは、ごめんね、どうも本能的な怠け虫がね……。アンテナに引っかかっちゃったか。でもあれは、べつにそこまででもなかったっていうか」
「違うんです先生。先生を誘う前から、わたし、分かってたんです。アンテナなんて関係ないんです」
「え、そうなの……?」
もぞもぞと衣擦れの音がする。ちょうどベッドで死角になっている下の方から、彼女がこちらを見上げている気がした。
「先生、昔ツイートしてたじゃないですか。家庭菜園めんどくさすぎる〜父はいつになったら飽きるんだ〜、って」
「えっ、昔……? してた……? ……それはもしかして本当の本当に昔の話?」
「先生が子どもだった頃の話です」
「……よく覚えてるなぁ」
そんな昔にツイートしたことは本人だって覚えていられるわけがないし、今やその時代の原本は全て削除済みなはずだけれど、それでもルカトゥから「してたじゃないですか」と言われると、まぁ、してたんだろうなぁと思えてくる。子どもの頃の経験をもとにして、今の私が様々な事柄に様々な印象を抱いているということは、子どもだった当時の自分がそれとそっくり同じままの内容をSNS上に書き込んでいたとしても、それはまったく自然なことだから。
そして、そうだとするなら、話の先が読めてきた。ルカトゥはきっと肝心なツイートは全て記憶していて、当時の私は、今よりもっと正直なことを書いていたのだと思う。
「それで、初詣の話もツイートで見たとか?」
「……はい」
「たぶんそれ、家庭菜園と同じようなことが書いてあったでしょ」
「覚えてるんですか……?」
「覚えてないけど、そうなんだろうなって思う」
覚えていない……けれど、昔の自分に対する印象を頼りに推測して、きっとこのくらいは言っていたんじゃないかと想像することはできる。……初詣って何が面白くて行くんだ〜疲れるだけで何も楽しくない〜なんで正月早々からこんな苦行をしなきゃいけないんだ〜……と、きっとそんな風なことを書いていた。……今この瞬間に至るまでは、私は、芸能人がデビュー前の発言を掘り返されて炎上する時のような気持ちを、まさか引きこもりの身で体験することになるとは思っていなかった。
ルカトゥは、わたしにそう思わせたくはなかったから、今までこの話をしなかったのかもしれない。彼女の声音は苦々しかった。
「先生は、実は、昔とは趣味が変わっていたりするんでしょうか……? 初詣の良さが分かってきた〜、みたいな」
「そう見える?」
「……いいえ」
「正解」
もしルカトゥが私の行動をアンテナで逐一監視しているなら、消去法的に、そもそもここ数年の私は神社や寺自体に足を踏み入れてすらいないことを知っているだろう。趣味が変わった人間の行動には見えないことだ。
……だから私は、彼女がそれを分かっている前提で話す。
「でもルカトゥ、知ってると思うけど、私、初詣には家族としか行ったことないんだ」
「あ、はい。そうですよね」
「だからもしかすると、友達と行くのは楽しいのかもしれない」
自分を養ってくれている相手のことを呼ぶのに、もはやその表現が正しいのかは分からないけれど。
「家庭菜園の時もそう。他に何かそういうことがあってもそう。ね、改めてやってみると、意外と悪くないのかも」
「……ありがとうございます」
彼女にしては珍しく、その言葉には含みがあった。
アルコールが入っていることもあり、目を閉じたら、眠ってしまうかもしれない。そうしたらまた後悔することになるような気がして、私は明かりのない天井を見上げ、暗闇を凝視した。……ルカトゥはそんな私のことを見透かしたみたいに言う。
「言わないと後悔しそうなので、言いますね」
「うん」
「わたし、先生のご家族に嫉妬してるんです」
「……そうなの?」
「はい」
否応なしに、わりと最近に携わった、嫉妬を司るキャラクターのことを思い出す。
「わたしがツイートを通してでしか知らない先生を、ご家族はすぐ隣で見ていたわけじゃないですか」
「あぁ、まぁそうね」
「だからなんです。……いじわるで先生の嫌がることしてるわけじゃないんですよ……?」
「あはは。いじわるって線は、考えたこともなかったなぁ」
本当に、その捉え方は盲点だった。……私はルカトゥのことを盲目的に信用しているのだ。彼女の好意につけ込んで、思考停止して。
そのくらいの嫉妬にならいくらでも付き合うよ……とは、どの立場からの言葉なのか分からなさすぎて、言えなかった。そもそも、本当にいくらでも付き合えるのかなんてことは、このダメ人間には分からないところでもある。……だから私は代わりの話をした。
「あのさルカトゥ、これは、聞くタイミングを逃してたことなんだけど」
「はい」
「……ルカトゥってもしかして、プライベートをいじられるのは苦手?」
「プライベート……?」
「咲月とキララの脚本を考えたことがあったでしょ? あの時、ちょっと嫌そうにしてたからさ」
ルカトゥが脚本を「アンバランスだ」と評した時もそうだけれど、それ以前にそもそも彼女は、諸々の設定を鑑みて脚本を考え始めた時からずっと、どちらかといえばあまり良い気分はしていなかったのではないかと思う。自分がモデルにされることについて「べつになんとも」と彼女は言っていたけれど、それはつまり、嬉しくもないという意味にも取れるから。
サキュバスは人間のように簡単には傷つかない……とあの時は思っていたけれど、傷つくかどうかだけが問題の全てではない可能性に、私は最近になってじわじわと気づき始めていた。
「わたし、そんな風にしてました……?」
「んー、なんとなくだけどさ、撮影とかだとなんでも出来ちゃうルカトゥでも、突然プライベートに踏み込んで来られてそういうことをされると、普通に嫌なのかなって。そんな気がしただけ。……特に最初の脚本を見た時はこんな、あからさまに嫌そうな顔してたし」
見えもしない暗がりの中で、あの時のルカトゥの顔を真似してみる。顔のパーツを全部中心に引き寄せたような、少なくとも美人がやる分には面白かった表情を。
「嫌そうな顔ですか〜、……よく見てますねぇ。そんな顔をしていたとは、わたしとしたことが、失礼しました。…………あ、そういえばヤグラさんにも同じようなことを言われたんですよ。勝手にモデルにしたのはまずかったかな〜って。……やっぱり普通は、そういう風に考えるものなんですね」
そこで一度言葉が途切れて、また、次の台詞を考えるような間が入る。……そして、
「でもわたし、全然嫌じゃないですよ?」
と彼女は言った。
嘘を検知するアンテナが私にもほしい、と思った。
「そう……? 悪いことしたなって思ってたんだ。あの時は私も、なんというか、それに乗っかっちゃったから」
「それ?」
「人様を……、ルカトゥをモデルにすることに」
「先生にモデルにしてもらえるなら光栄ですよぉ」
そう言うだろうとは、思っていたけれども。
そんな私の傲慢さを、まるでこの上さらに肯定するかのように、彼女は続けて言う。
「それにわたし、あの話のことは結構気に入ってるんです」
「え、どのへんが?」
「咲月とキララが両想いなところとか」
「……間に男挟まってるけど」
「些細なことですよ。……あぁでも、ヤグラさんにわたしが嫉妬の権化として見られていたのは不服ですけどね、当たっているにしても」
「権化とまでは言ってないでしょ」
「あはは、そうでしたっけ」
もぞもぞと、布団の擦れ合う音がする。ルカトゥは寝返りを……まだ眠っていないけれども、とにかく姿勢を変えたらしい。その音が、段落変えじみた効果を持っているように私には思えた。暗闇の向こうで、彼女が背を向けているような気がする。
「……そろそろ本当に寝ましょうか」
「ん、そうだね」
「おやすみなさい、先生ぇ」
「おやすみー」
「……明日、楽しみにしてますね」
「うん、明日ね」
その夜、私はルカトゥの寝息を聞かなかった。自分の方が早く眠りに落ちたから。そしてそれは、いつも通りと言って差し支えないことだった。
小学生の頃、夏休みや冬休みのしおりにはこんなことが書かれていた。「友達の家に電話をするのは朝十時を過ぎてから!」。
ルカトゥが私を揺すり起こしたのは、午前十時過ぎのことだった。
「先生ぇ〜、初詣行くって言ったじゃないですかぁ〜」
「んー……、行くよ……、うん、行く……行きますよー……。…………いま何時?」
「朝の十時過ぎですよぉ」
「……行きたいけど眠いけど行きたい」
「え、ど、どうすれば〜……?」
「ん〜……ルカトゥ言った、全部手伝うって……。着替えとって来て……着替え……」
眠気に任せて何も考えずにそう言うと、……少しの間を置いてから急に体が浮遊感に包まれた。
「うわっ、えっ……?」
驚いて目が覚める。すると私の体はすでに、ルカトゥにお姫様抱っこをされている状態にあった。
「うぉわなになになに」
「あ、えっと、まずは顔を洗うところから始めた方がいいかな〜って」
「あ、なるほどね、ありがとう起きましたおはようございます」
召使いに着替えを手伝わせるような金持ちでさえ、夢の中から指示を出せはしない。出かける支度をするには目を覚ますしかないことを悟ってようやく、私は自分の足で立ち上がった。
結局、私たちが……というか主に私が、家を出られるようになったのは十一時頃のことだった。もしまた紆余曲折の末に一年が巡って次の大晦日の夜を迎えた時に、今度は「先生、今年は日の出を見に行きませんか?」なんて言われたらどうしよう……と今から不安になってくる。日の出は家族とすら見たことがないから大丈夫かな……?
初詣と言っても、少なくとも今回は、そんなに有名だったり広大だったりする神社に向かおうというわけではなかった。そこはルカトゥが気を遣ってくれたのか、一つ隣の駅から歩いて行けるくらいの場所をスマホで探して指定してくれたのだ。私は歯磨きをしながら、うん、そうだね、そこにしよう、とひたすら頷いていた。
一駅くらいならなんなりと自力で行ってもよかったのだけれど、私たちはあえて電車に乗ることにした。ルカトゥがそうしようと言ったのだ。もしかすると帰り道の私からは魂が抜けている想定なのかもしれない。
駅のホームで電車を待つ間に、ルカトゥが「あっ」と声を上げる。忘れ物でもしたのかと思ったら、
「先生ぇ、あけましておめでとうございます〜。言い忘れてましたぁ」
「あっ、あけましておめでとうございます。忘れてたね」
二人してペコペコお辞儀をする。ハッピーニューイヤーと重複していると言えば、そうなのかもしれないけど。
花火大会などとは違って、電車の混み具合が地獄と化しているようなことはなかった。……そう花火大会、わざわざ電車を使わなければ行けないこともあって去年は行かなかったけれど、今年の夏はそうでもないのかもしれない。ルカトゥの心の内を、私は昨日の夜、確かに覗いてしまったのだ。だからそのうち打ち上げ花火だって見に行くのだろう。日の出と違って、私はそれをすでに家族と見たことがあるから。
電車を降りて神社がある方向へ歩いて行くと、段々と露骨に、道行く人の数が増え始める。そして神社のまわりに露店が集うようになったあたりで、人の数はすでにちょっとした川のようになっていた。
鳥居の真ん中を通ってはいけない……という神のルールは、行列のマンパワーによっていとも簡単に打ち消されていた。
「うわぁ……敷地外まで人じゃん……」
「大盛況ですねぇ」
「ねー……」
露店で何か買って食べながら並べば気も紛れるかと思ったけれど、その露店にも人がそこそこ並んでいてやる気を削がれる。どうやら、もうここへ来てしまったからにはおとなしく一体化するしかないようだ、この人混みのビッグリバーに。
これがリア充のイベントだからなのか、それとも賽銭箱が横に長かったりカランカラン鳴らす鈴が二つ以上ぶら下がっていたりするからなのかは分からないけれど、参拝を目的とするその列は、不規則に横に膨らむ形をとっていた。人口ピラミッドグラフみたいな形だ。その不規則感が、また絶妙に不愉快な物として見えてしまう。実際に自分の邪魔になっているかどうかには関係がないあの感覚、道を横に広がって歩く連中を見た時のような気持ちが湧いてくるのだ。
気を紛らわせるためもあり、並ぶ暇がてらに財布を取り出し、小銭をいくら持っていたか確認してみる。ご縁とかけて五円玉を賽銭にするのが主流という説と、単に大金であった方が神社側が助かるという話を聞いたことがあるけれど、家族で参拝に行っていた頃はよく十円玉を投げていた。理由は、それが財布の中の常連率第一位だったから。
探してみた結果、財布の中に五円玉は一枚しかなかった。ルカトゥに手持ちを聞いてみる。
「ルカトゥ、五円玉持ってる?」
「ふふ、任せてください、ゲームセンターで連コできるくらいありますよぉ」
「連コは五十円玉でしょ」
「喩えですよ〜」
そう言って笑う彼女の息が白い。空には厚くはない雲が一面に広がっていて、長蛇の列が成す体感時間の淀みを表すかのように曇っていた。
昔、ゲームセンターのゲームは一回五十円で遊ぶことが出来て、それが相場だった……らしい。漫画やテレビから得た知識であって、私がこの目で確かめたことではない。幼少期の私はまだ、ショッピングモールの中にあるメダルゲームコーナーで満足する可愛い子どもだったから、本格的なゲームセンターなんて物は知らなかった。
人類の長い歴史の中で、サキュバスが人間界に馴染み始めてからはまだ十五年程度しか経っていない。けれどその十五年という時は、言ってみれば、私の人生のゆうに半分以上を占めている。人類の長い歴史から見てみれば、私の人生もまた、サキュバスの到来と五十歩百歩な規模しか持たない「急な代物」なのだ。……何気ない会話から、唐突にそんな実感が湧いた。サキュバスの異質さは、自分がこの世に生まれたことの神秘と、そういう意味では似ている。
「列、なかなか進みませんねぇ」
ルカトゥが背伸びしながら言う。そういえば彼女自身は過去に初詣へ行った経験はあるのだろうか……と、今さら気になった。わざわざ聞くほどではないけれど。
「お賽銭投げて二礼二拍手一礼、場合によっては鈴も鳴らしてだから、一人一人に絶妙に時間がかかるんだろうね」
「なるほどぉ。先生は、なにをお願いするか決めましたか〜?」
「んー」
パッと思いついた言葉を、一瞬ためらって、けれどやっぱり口に出すことにする。ただし曖昧な言い方で。
「今年もいろいろ上手くいきますように、かな」
「あばうと〜」
「ルカトゥは?」
「わたしは〜、去年と同じくらい、今年もいい年になりますように〜……ですかねぇ」
「……なるほど」
それは奇しくも、私の願いから曖昧さを取り除いた内容その物だった。……偶然だろうか?
ともかくルカトゥがそう言うからには、幸い彼女にとっても、去年はいい年だったらしい。そう聞けて反射的に安心している自分がいることに気付き、本当にそんなことで安心していて良いのだろうか……と思い直す。本当に私は、いや、というよりルカトゥは、去年と同じでいて良いのだろうか……? それで幸せなんだろうか……? それでいいに決まっている、と自信をもって断言することが出来なかったせいで、私は曖昧な言い回しを選んでしまったのに。
……不思議そうな顔でこちらを覗き込んでくるルカトゥに気がついて、私はとっさに軽口をたたいた。
「いいね、毎年「今年が最高!」になれば。ボジョレーヌーヴォーみたいに」
「あ、それいいですねぇ〜。すごいっ千年に一度が百連続!ってしましょう」
「だね。ちょっとオリラジみたいだけど」
「わぁなつかしい」
二人してちょっと笑う。……そして笑いが収まると、「千年に一度が百連続」というフレーズのことが、途端にシリアスな物であるように思えてきた。
ルカトゥのような存在に出会えることは、どれくらい低い確率で起こることなのだろう。そのルカトゥに、私はこれから先もずっと養ってもらって生きるのだろうか? それこそ百歳までずっと……? ……「養われ続けてたどり着く円満な未来」と「これから社会復帰して自立する自分」、どちらが想像し難いものかと言われると、困ってしまう。
遅々としつつも列は進み、ようやく私たちも鳥居を通り抜けることができた。かつてメダルゲームで遊んでいた女児が成人したように、きっと時の流れというものは、いくら遅くても必ずチェックポイントに辿り着き、そして通り過ぎていくものなのだろう。何事もきっとそうだ、何事にも寿命があり、私は今もその只中にいる……。
夏休みも、子ども時代も、終わる予感がして終わるものではなかった。ならきっとルカトゥとのことだって、ふと気がついた時には……。
「お参りがおわったら、おみくじ引きましょうねぇ」
「え? あぁ、うん」
「あ、でも先生は、占いとか信じないタイプでしたっけぇ……?」
「んー、信じないけど、大丈夫。大体の人が半年後にはおみくじの結果とか忘れてるから」
「あ〜たしかにぃ。朝の占いも昼には忘れてますもんねぇ」
「ハハハ、そうそう」
相槌を打ちながら、縁起でもないネガティブな思考はやめようと意識する。場当たり的だけれど、私に今すぐ心がけられることといえばそれくらいだった。
前の人の背中が数歩前に出て、私たちもそれに続く。ここへ来てからもう幾度となくそれを繰り返している。……その窮屈さと、あちこちでガヤガヤと話し声が鳴りっぱなしの環境によるものなのか、私はそろそろ疲れを感じ始めていた。しかも不思議なことに、これだけ人が集まっていても寒さは健在のまま緩まない。
ルカトゥが、ちょいちょいと私の袖を引いてくる。手袋代わりの長めの袖を。
「うん?」
「先生ぇ、わたしの手、さわってみてください」
「いいけど、なんで急に」
言いつつ彼女の手をとると、一瞬、カイロにでも触れたのかと思った。
「うわあったか!?」
「えへへ〜、サキュバスパワ〜」
「サキュバスって体温高いとかあったっけ……?」
「魔力で体を温めることができるんです〜」
「へぇ〜、じゃああれだ、雪山で遭難した時とか、……あれじゃん」
「あれって?」
「あれはあれだよ」
場が場なだけあって、周囲に聞こえてしまう声で「裸で温め合おうみたいなやつが本当にできるんだね!」とはちょっと言いづらかった。
暖を取るために彼女の手を撫で回していいものなのかどうか、中途半端に指先で手を繋いだまま、しばし判断しかねる。……すると唐突に、ふと気付きが訪れた。
ルカトゥは、暖を取らせるためではなく、間を持たせるためにサキュバスの力を披露したのではないか?
そう思い至ったことをきっかけに、なんとなくそうすれば彼女の内心を見定められるような気がして、私はとなりに立つルカトゥの顔を見つめた。……目が合って、得意げに微笑まれる。
「だってお喋りしてると、時間が早く感じるでしょう?」
「あ、絶対今なんかアンテナにかかったでしょ」
「えへへ、先生がわたしの考えてること分かるかな〜って、試してみましたぁ」
「じゃあご名答だったんだ」
「ですよ〜」
気を遣わせてしまった。そりゃまぁ、全てを知った上で彼女が私をここに駆り出しているのだから、そうもなるだろうって感じだけれども。
せっかくだからこちらからも何かお喋りの話題を出そう……と思ったのだけれど、いざそういうことを考えた時に限って、私としたことが、何を話せばいいのかがちょうど分からなくなってしまう。
定まらない第一声を口ごもりながら、話題の引き出しを至急ひっくり返しまくって、こういった不甲斐なさはもはや人の性だと私は感じていた。
そしてアンテナはそこにも張り巡らされていた。
「無理して話すことないですよぉ」
「エスパーじゃん」
「ふふ、たまにはいいでしょう〜?」
「ステージがアウェーだからね、読まれやすくなってるのかな」
と、そこで逆に文字通りのホームである自宅でのお喋りを連想した時に、一つ話題を思い出した。
できるだけ声をひそめて、カクテルパーティー効果の限界スレスレの音量でそれを話す。あまり場にそぐわない話をしていると、前後左右どこかしらに潜んでいるチンピラから「おい、うるせぇぞ」と絡まれてしまいかねないことを、人生経験上私は知っているから。
「あのさ、ルカトゥ。全然今話すようなことじゃないかもしれないんだけどさ」
「はいはい」
「キミの次に出るAV、逆レイプものだって言ってたじゃん……? それで一つ思い出したことがあるんだけど」
「なんでしょう〜」
「スパイダー騎乗位っていう体位さ、……あれ、性的なワードの中では珍しく、揶揄するわけでもないのにネーミングがギャグじゃない?」
彼女に限って、「それを今話す必要性」なんてつまらない物に疑問を持ったわけではないだろうけど、それでもルカトゥは首をかしげた。
小声で会話が続く。
「そうですかぁ……? 結構人気じゃないですか? スパイダー騎乗位」
「いや、体位自体はそうかもだけどさ、名前が笑わせに来てない……? スパイダーって」
「あ〜、たしかにちょっと、かっこよすぎるかも〜……? 対義語にヴェノム騎乗位があったら、百パーギャグですもんねぇ」
「ヴェノム騎乗位……」
一瞬だけ、ヴェノム騎乗位のことを真剣に想像してみる。ヴェノムとはスパイダーマンの敵のことだけれど、もちろんそんな名前の体位は存在しない。だからこそ自力で想像するのだ。
夜道を一人で歩いていた男が突然サキュバスに押し倒され、あっという間に下半身を丸裸にされ挿入された末に、自分の上で好き勝手に腰を振るその女に向かって思わず口走る。「なんなんだお前は……!?」。……そこでサキュバスの顔が半分化け物に変わって「私たちはヴェノムだ」と答えたら……それは間違いなくギャグだ、絶対。
「フフッ」
「どうしたんですか〜……?」
「いや、ちょっとヴェノム騎乗位のこと考えてた」
話を戻そう。
「それはともかくとしてもさ、スパイダー騎乗位ってネーミングは単体で浮いてない? コイキングキスと似たセンスなのに、しれっとしてる感じがするからかな」
「あ〜、そう言われるとちょっと分かるかもです」
「ね。だから一度そう考えるとさ、実際の体位を見た時にも笑いが来ちゃうんだよね」
「え〜、わたしそれ撮りましたよぉ」
「やっぱり? 逆レイプって聞いた時連想したもん私も。……じゃあまぁ、ルカトゥも今日からちょっとフフッてなっちゃう呪いにかけられたってことで」
「致命傷ですよ〜!」
そう言って笑うルカトゥの今後の演技には、こんな話はもちろん微塵も影響しないのだろう。そういう余裕を感じる。
いったい正月早々に何の話をしてるんだ……と、私の方はそのあたりで我に帰ったのだけれど、ルカトゥはまだひそひそ声を続けていた。
「あ、でも先生ぇ、それを言ったら、だいしゅきホールドとかも結構すごいネーミングですよねぇ」
「たしかに」
「全部合わせて、だいしゅきスパイダーキングキスにしたら最強なのでは……?」
「ふはっ」
サキュバスの美声による相乗効果が大きく、変な笑いが出た。
「それはもう何か新しい存在じゃん……! キング部分格好良くなりすぎだし」
「つよそうですよね〜……!」
そんなアホな話を繰り広げている間に、気がつけば、順番待ちも残すところあと数名分の段階にまで進んでいた。神様が私たちの会話を聞いたら怒るだろうか? それとも神様も飲食店の店員と同じように、忙しくてそれどころではないだろうか。
満を持して賽銭箱に五円玉を投げ入れた私たちは、二礼二拍手の後に目を閉じて、宣言した通りの願い事を心の中で唱える。そして一礼をして退散する。カラカラ鳴らす鈴はそこになかった。満を持したわりに、私たちがおこなったことといえばたったそれだけだ。
その後、巫女さんにお金を払って、約束通りおみくじも引いた。ルカトゥは中吉、私は吉だった。
「これってどっちが良いんでしたっけ〜?」
「中吉が強かった気がする」
「おぉ、勝ちましたぁ」
「負けた〜」
おみくじの細かい内容を読んで一喜一憂してみたりもしたけれど、その内容はもはや、おみくじ本体を専用の紐に結んで帰る頃には、九割以上が頭から抜け落ちていた。
砂利の敷かれた脇道を通って神社から抜け出す。多少マシになったとはいえ、まだ人の列は鳥居の真ん中を貫通していた。
「なにか食べて帰りますか〜?」
「家には何かないの?」
「ん〜、あっ、お雑煮を作ろうと思ってたんでした〜」
「じゃあ帰ってそれ食べよう」
二人で電車に乗って帰る。なるほど確かにこれは電車で正解だったな……と、席に座った瞬間にドッと倍化した疲れを感じて悟った。そしてそれと同時に、やっぱり初詣は、わざわざ疲れに来るためにあるような意味不明のイベントだなぁ……と思ってしまう。
けれど、隣に座っておまもりを眺めているルカトゥの満足げな顔を見ていると、まぁ来れてよかったな……と思わないでもなかった。彼女はおみくじを引くついでにおまもりも購入していたのだ。健康祈願の物を選んだようだけれど、たぶん種類にそんなにこだわりはなかったのだと思う。きっとお守りというよりも、何かお土産がほしかったのだ。
私の視線に気が付くと、ルカトゥはそれはもう子どものような笑顔を浮かべて、
「先生ぇ、楽しかったです〜。ありがとうございます」
と、いつもながら甘ったるい声で言った。
だから私は、自分はまたそのうち彼女とどこかへ出かけるのだろうな、と思った。きっと近いうちに、ルカトゥは出不精な私をどこかへ連れ出してくれるのだろうと。
それから家に着いてお雑煮を食べて、いよいよ私たちは年末年始らしいことをほとんど全て消化しきったように思う。あとは私が明日、両親へ新年の挨拶をしに行けば、ミッションオールコンプリートだ。軌道に乗るという意味では、むしろようやくそこからが今年の本番という風にも思える。
……去年から、あるいはそのずっとずっと前から因果を引きずり続けていた一番大きな出来事が、この時もまだひそかに潜伏していたことに、私は気付いていなかった。だからそんな風に、もう全てを消化しきったつもりでいたのだ。
一月も下旬に入った頃の、夕食を終えて皿が下げられた後のことだった。
「あのエロゲ、いつ発売するんだろうね」
「さぁ〜、そろそろ二月になりますし、そのうち発売日くらいは発表しそうですけどねぇ。……あっ」
傍から見れば何も起こっていないのに、突然大慌てでルカトゥがスマホを見る。通知の魔法で何かを感じ取ったのだろう。
送られてきた……または発表された何かしらを見ながら、彼女はしばらくの間、真剣な顔で画面をスワイプしていた。その指の動きが横向きであることから察するに、見ている物は複数枚の画像だろうか……?
私は、彼女のその姿にどこかデジャヴを感じていた。どこかで同じ姿を見たことがあるはずなのだ、そう遠くはない過去のどこかで……。
「先生ぇ」
見る物を見終えたらしい彼女が顔を上げる。
「先生に、プレゼントがあるんです」
「プレゼント……? なんの……? あ、お年玉とか?」
それにしては時期外れだろうし、実際ルカトゥは首を横に振った。ちがいますよぉ、と。私だってさすがにそれをねだるつもりはなかったけど。
「これといって何でもない、ただのプレゼントですぅ」
「ふむ……?」
「先生にも送るので〜、見てみてください」
「送る物なの……?」
自分のスマホはいつも通りパソコンデスクの上だった。そこから連続した何かが着信した音が鳴る。LINEだ。ルカトゥはLINEで複数の何かを送ってきた。
なんだろう……。スマホを手に取るため、何気なくコタツから抜け出し立ち上がると、何か漠然と、嫌な予感がした。まさか悪い報せがあるわけではないのだろうけど、それでも何か、思いもよらぬところから痛手を突かれるような、そんな「何か」が、送られてきた物の中に含まれているような気がしてならなかった。……ルカトゥが私をどんな目で見ているのかを知ったのだって、たった数ヶ月前に突然起こったことだったのだ。あれだってべつに悪い報せではなかった。が、だからこそ、また似たようなことが起こるのではないかという危惧もある……。
スマホをコタツまで持ってきて、天板に肘をついて背中を丸めたまま、さも何でもないことのように、私は送られてきた物を閲覧してみた。自然な振る舞いをしていれば、送られてきた物も自然な物になるような気がして。
「なにかなー?」
そんなとぼけた台詞と共にプレゼントとやらを確認する。ルカトゥはニコニコ顔でこちらの様子を見守っていた。
送られてきた物は、案の定画像だった。画像……もっと正確に言うと「漫画」だ。そこには見たことのない、しかしデジャヴ感はある漫画の画像データが複数枚あった。パッと見た感じ、およそ二十ページ弱か……?
デジャヴ感の正体はすぐに判明する。その画像データの一枚目は漫画にしては珍しく簡素で、それゆえに重厚かつタダならぬ雰囲気を持つ物となっていた。……それは白紙を背景に、大きく、とりわけ機械っぽいフォントの活字で、タイトルとクレジットが書かれている画だった。
デジャヴ感の正体は、作画だ。
「ミミは無敵」
原作……空色月
作画……ツチノコヤグラ
その漫画の内容はこうだった。
サキュバスのミミは、
サキュバスであるミミには、小鳥遊の性欲の量が分かる。だけどその内容までは分からない。だから彼女はいつも「小鳥遊が満足していないこと」を知っていて、「どうすれば満足してもらえるのか」は知らなかった。
そのことについてミミが不満をもらすたび、二人はいつも同じやり取りをする。
「小鳥遊くん、どうしてミミに全部ぶつけてくれないの……?」
「だって俺の性癖は最悪だから、嫌われたくないし」
「絶対嫌わないって言ってるじゃん!」
「絶対なんてないんだよ、ミミ。お前がそう言えるのは、想定が甘いだけだ。普通にセックスして気持ちよくなれるんだから、それでいいだろ……? な……?」
「…………うん、分かった。小鳥遊くんがそう言うなら……」
……けれどある日、何かほんの少しのことがきっかけで、ミミの気持ちは限界に達した。あるいはきっかけなど必要なくて、それは単に時間の問題だったのかもしれない。
「ねぇ、今日も満足してないでしょ。なんで……? どうして……? ミミじゃダメなの……?」
「そんなことない。いつも言うけど、嫌われたくないからだよ。……ミミ、あんまり俺を困らせないでくれ」
「……やだ。なんでも大丈夫って言ってるのに、なんで分かってくれないの……? そんな分からず屋になるんだったら、ミミは、今の小鳥遊くんが一番イヤだよ……!」
それを聞いて、小鳥遊はため息を吐く。彼の目は、悲しさか寂しさか、そういった感情に淀んでいた。
「あのなぁ……。お前、俺のこと好きだろ」
「うんっ」
「だったら例えば俺が寝取られ趣味で、ミミが他の男に抱かれてるところを見たいって言ったらどうするんだよ。嫌だろ?」
「ううん、小鳥遊くんがそれで満足できるなら、ミミできるよ」
「嘘つけお前……。じゃあわかった、あれだ、ミミがレイプされてる映像を見て俺がシコってて、しかもそれを俺がネットにばらまいて、ミミのことなんか肉便器だとしか思ってないから……なんて言ったら、そもそも俺のことを嫌いになるだろ?」
「……小鳥遊くん、ミミのことそんな風に思ってたの……?」
「思ってない! 思ってないし、そんなことしたいとも思わない。けど、でも分かるだろミミ、世の中に「絶対」なんてないんだってことだよ。なっ?」
「…………でもミミは、小鳥遊くんが満足してくれるなら、肉便器でもいいよ?」
そう言ってニッと笑ってみせたミミに、小鳥遊の背筋にはわけも分からず冷たいものが走った。何かとんでもない物を見てしまったような気がしたのだ。それは、いつか自分を刺しに来るヤンデレの姿を見た気がしたから……ではなかった。何か、もっと違う何かを見た気がして、嫌な予感がしたのだ。
……そしてある日、小鳥遊に見知らぬ人物からの連絡が入る。その人物は、裸に剥かれたミミが大勢の男に押さえつけられている写真を送り付けてきて、小鳥遊にあることを要求した。「通話に出ろ」。
指示通り通話を繋げると、向こうはビデオ機能を使ってミミの姿を見せてきた。……怒声と嘲笑の中で複数の男から揉みくちゃにされて、その隙間から伸びる手足ばかりが見えているミミの姿を。
「彼氏くん見てる〜? ここの住所教えるからさぁ、彼女ちゃん助けたかったら急いで来な〜?」
小鳥遊が指定されたラブホテルの一室に駆けつけた頃には、男たちは一人もそこに居なかった。……ただミミ一人だけが、ぼろ雑巾のようになってベッドに横たわっていた。乾いた精液と青アザにまみれた彼女が、暗い部屋の中で虚ろな目をして、かろうじて息をしていた。
呆然とする小鳥遊の顔を見て、ハッと全てを思い出したような顔をしたミミが、途端に顔をぐしゃぐしゃにして泣き始める。
「たかなしくん……、たかなしくん……わたし……」
小鳥遊は彼女を抱きしめた。抱きしめて……彼も泣きながら謝った。
「ごめんミミっ、ごめんっ、俺のせいだろ……? こんな、こんな……」
「えっ!? え、小鳥遊くん泣いてる……!? え、ちょ、ごめんごめん嘘ウソうそだから!」
あっという間に、ついさっきまでミミの顔に張りついていたはずの悲愴さは、綺麗さっぱり消え失せていた。まるで傑作の冗談を堪能し終えたみたいに清々しい顔をして、彼女は目尻の涙を拭う。
「ちょっと雰囲気出るかな〜って思って演技してみただけだって〜! ねっ、小鳥遊くん、ミミ大丈夫だから! さっきの人たちミミが頼んで呼んだの! ドッキリだよドッキリ! だから、ね? 大丈夫だよ? 泣かないで……?」
そう言ってミミは、小鳥遊の頭をなでた。……けれど小鳥遊は、それを受けてなお彼女を抱きしめたまま離さない。な〜んだそうだったんだ……と彼が調子を取り戻すような様子は、一切なかった。
「それでも、ごめん。俺があんなこと言ったからなんだろ……? それでミミがこんなことを……。痛かっただろ、怖かっただろ……」
「ん、あれ? あの、だから冗談だって、ミミは大丈夫だよ……? 元気げんき!」
「ごめんな……。ミミ、ごめん……」
「ねぇって、聞いてる? ミミは……、…………あっ、え、小鳥遊くん……?」
ひときわ強く抱きしめられて、ミミはようやく気がついた。……今の小鳥遊からは、性欲がこれっぽっちも感じられないことに。
裸で抱きしめられる彼女の顔から、再び笑顔が消える。自分が最愛の人に与えたショックを知って、おそらく彼女にも、後悔の念が回ってきたのだ。
「……ミミの方こそごめんね。もう、二度とこんなことしないから……」
ミミが小鳥遊のことを抱きしめ返して、おわり。
……という内容の漫画が、半分程度はほとんど小説のようにして描かれていた。台詞しか書かれていないコマが多かった。
これはこの漫画が送られてきた時期的に考えて、ヤグラくんが原作の落とし込みに困っただとか、手を抜いたというわけではないだろう。おそらく彼は、ただ単に急かされたのだ。原作者のルカトゥから。
ルカトゥが彼に作画を依頼するだなんて、それは例のエロゲ脚本の一件が片付いて以降に起こったことだとしか思えない。仕事があったり恋人とイチャついたりで忙しいヤグラ君が、この早さでこの話を漫画として仕上げるには、これでも苦肉の策だったのだろう。
……問題は、これが私への「プレゼント」であるらしいことだ。「ミミは無敵」は私へ向けて、ルカトゥからのサプライズプレゼントとして用意された漫画なのだという。
私はこのやり口に覚えがあった。デジャヴなんて物ではなく、さすがにはっきりと覚えている。ルカトゥと少しギクシャクしてしまったあの頃、私はこれに似た行いをしたことがあった。
「月光の体験」という漫画を、私は実質的に、ルカトゥにプレゼントしたことがある。ここまでローカルでプライベートな渡し方ではなかったけれど。
「ルカトゥ……これは?」
「えへへ……。実は先生にあこがれて、わたしもお話を考えてみたんです。絵は上手く描けないので、ヤグラさんにお仕事として頼んじゃいましたぁ」
「なるほど……。……ありがとう、すごいよ、すごく面白かった」
「わ、ほんとですかぁ……!」
「うん、本当。最近何も描けてない身としては嫉妬しちゃうくらい」
「え〜? 先生は、脚本を書いたじゃないですか〜」
「まぁそうだけど」
コタツの向かいにニコニコほくほくした顔で座っているルカトゥから目を逸らし、もう一度スマホ画面に目を落とす。適当にスワイプしてさらさらと「ミミは無敵」を読み返してみる。……これは面白さだけを求めて書かれた話なのだろうか? 見返せば見返すほど、そうは思えなかった。
意を決して、私はルカトゥに聞いた。
「ねぇ、この話、もしかして何かのメッセージ?」
ルカトゥは笑みを崩さないまま、上機嫌な声ですんなり答えてくれる。
「伝わりましたか〜?」
「……どうかな」
イエスともノーとも答えられなかった。それは嘘を見抜く力を持ったルカトゥが、そのアンテナをかいくぐられてしまうパターンだけれど……。でも私はそれをかいくぐりたかったわけではなくて、本当に純粋に、どちらとも答えられなかったのだ。
だからせめて、まず、思い当たった箇所から聞いてみる。
「この小鳥遊って、私のこと?」
「んー、本人のつもりではありませんよぉ……? 小鳥遊くんは男性ですし」
「本人ではないってことは、ポジションってこと? ……月光の体験って漫画、覚えてる? ルナって名前の女の子が漫画家志望の青年と」
「もちろん覚えてますよ〜。大事に保存してあります♡」
「あの時、ルナはほとんどキミだった。だから青年はほとんど私だった。……小鳥遊は私?」
「あ〜、はい。そういう意味だと、そうなりますねぇ」
「だよね」
月光の体験を書いた時、ヒロインの名前をルカトゥの芸名から取った「ルナ」にしたことを思い出しながら、聞く。
「なんで小鳥遊なんだろう、名前」
「先生はお名前が雛子さんなので〜、「雛」つながりで、「小鳥」が入る名前を選びました〜。ウズラという鳥も、まぁ、大きくはないですし〜」
「なるほど……。凝ってるね」
「えへへぇ」
「……とすると、このミミはルカトゥ?」
コクンと、彼女はうなずいた。
「なんでミミって名前に?」
「あ、それなんですけどぉ、キララっていたじゃないですか〜、わたしがモデルになったあの嫉妬の〜」
「いたね」
「あれはヤグラさんに聞いたんですけどぉ、「月」の反対の「太陽」から名前を取ろうとして、でも思いつかなくて、かわりに「星」から名前を取ったんですって〜。きらきら星で、キララってぇ」
「ふむふむ」
「でもわたし、太陽の名前を思いついたんですよ〜。太陽がサンサン、お日様サンサン、33でミミって〜!」
「ははぁ、なるほど。サンサンか……」
どこかで聞いたフレーズだ……と思い出す。いつだったか、ルカトゥとアンパンマンの話をしたことがあったけれど、アンパンマンの数あるエンディングのうちの一つに、たしかそういう歌詞があったはずだ。サンサン、太陽がサンサン。
「……本当に凝ってるね。すごいよ、感心する」
「えへへへ〜。先生から言ってもらえると光栄ですねぇ」
ルカトゥは、分かりやすく照れていた。照れる彼女はとても可愛い。どのくらい可愛いかというと、それはもう、あれこれ聞くのはやめておこうかな……と思えてしまいそうなほどに。……けれどそうすることは、それはそれで心苦しいことだ。
彼女の通知の魔法とは、どこまで曖昧なものを感知できるものなんだろう? と、この時になって私は本気で気になった。彼女が今ニコニコご機嫌にしているのは、アンテナが曖昧な物を拾えないがゆえなのではないかと。
私の心には今、不安があった。自分の内心が、今回ばかりはまずい形で見透かされているのではないかという不安が。……けれど不安とはどの程度重ければ「不安」と定義されるのだろう? そこが曖昧だから、ルカトゥはまだ私のそれに気づいていないのかもしれない。
そこで少し、アプローチをかけてみることにする。
「ルカトゥから見た私は、小鳥遊みたいに見えてるってことなのかな」
「え、いいえ。そのままには見えてませんよ〜……?」
「でもほら、私だってルカトゥに「ちょっとこんな風に抱かれてきてよ」って指示を出してたわけだし。ちょっと似てない?」
「ん〜、ちょっとは似てますけど〜。でも先生とはもっと、楽しくやってたじゃないですかぁ」
「……たしかにそうだね」
確かに楽しくやっていた。その証拠なのか、私は「実験」に付き合ってくれるルカトゥに、謝ったことなど一度もない。抱きしめたことも。
ミミは無敵……というタイトルを頭の中で復唱する。ミミ、つまりルカトゥは無敵。自分の身にふりかかる本物のレイプをエンタメにされても、尊厳を踏みにじるような酷い扱いをされても、ルカトゥは無敵だから大丈夫……と、そういうことなのか……? この漫画が言っていることは……。
……つまりそれは、ルカトゥが私のことを見て、こう思っているということなのか。
「もしかしてルカトゥには、私が小鳥遊みたいに、何かを我慢しているように見えてるのかな……?」
そう聞いてみた時、ルカトゥの顔から微笑みが薄まった気がした。機嫌よさげな雰囲気を絶やさないままで、しかしどこか真剣な面持ちをも垣間見せたような。
彼女はいつもの甘い声で言う。
「……見当違いでしたか〜?」
「……いや」
その「質問」から逃げようとは、思えなかった。はぐらかさずに答える。
「ううん、当たってるよ。……私もルカトゥには嫌われたくないからね」
その言葉に嘘はないと、彼女なら分かってくれたはずだ。
最近ずっと考えていること。私はこのままでいいのだろうか、ルカトゥはこのままでいいのだろうか、……何を改善する気もないダメ人間が、それを棚に上げてずっと考えていることだ。
生活費の全てをルカトゥに出してもらっているような人間が、ゲームソフト一つ買うことを今さら躊躇する。無償の優しさを常に向けてもらっておいて、自分はルカトゥの時々望むことに対して「付き合ってあげている」ような気分でいる。そんな気分でいながら、そこに負い目を持っている。……ルカトゥは私の親か? 私を産んだ責任があるのか? 親が子を養う義務のように、ルカトゥが私に良くしてくれることはある種当然のことなのか? ……卯月雛子はすでに子どもという歳でもなく、答えは知れているだろうに。
王様みたいな生活を当たり前のように享受しておいて、内心ではそれを当たり前とは思えていない。私がそんな矛盾を抱えているのは、今に始まったことではないけれど……。でも私は、最近になって特にそのことについて考えているように思う。
自分がルカトゥに面倒を見てもらうのは当たり前のことだと、本気で思った方がいいのか? それともそこだけは絶対に超えてはいけない最後の一線なのか? ……もし後者であるなら、なぜそれは超えてはいけないとされているのか? 人として間違っているからか? だとしたら私はこの後に及んで、人として正しくあろうとしているのか? 人道それ自体にかけがえのない価値があるから……?
……違う。ルカトゥに嫌われたくないから、嫌われる可能性のある一線を踏み越えることを、私は恐れている。人道は、その大まかな基準でしかない。人道その物に価値があるだなんて、そんなことは、私だって思っていない。思えたことがない。
私がルカトゥに興味を持ったきっかけは、AV女優として世に発信されていた彼女のあまりにも「なんでもできる」ところに惹かれたからだった。性欲うずまく世界の「なんでもできる」に、人道なんて通っているわけがない。
だからこそ私は、ここ最近特に、自分の行くべき道を見失っていた。基準が不安定だから、何が正しいのかも分からずにいる。
「やっぱり〜。先生、どこかでわたしに遠慮してますよねぇ。そんな気がしてましたぁ」
「察しがいいなぁ……。アンテナで……?」
「いいえ〜。一緒に暮らしてますから、勘ですよぉ」
「そっかぁ」
でも、そこまでバレていたこと自体は、べつに恐ろしいことではない。おそろしいのは、「ミミは無敵」が示すその先の方だ。
二択をはぐらかし続けることの限界が突然来たのかもしれない……。ルカトゥは次に、私に答えを急かすはずだ。たとえばちょうど、今まさに彼女の舌が綴る、
「先生ぇ、遠慮なんかしないでくださいよぉ。ミミもルカトゥも、完全無敵ですよ〜? どんなことでもドンと来いです〜! 先生のこと大好きですし〜、お役立ちできるのが一番嬉しいですからぁ」
という、悪魔の言葉のように。
……私は一度、すでにそれと似た言葉に乗っていた。一度乗ったというよりは、その一度以来ずっと今でも乗り続けている。だから今の生活がある。……けれども葛藤は何度だって帰って来るものらしい。そのことに私は、今日までたっぷりと時間をかけて気づいて行ったのだ。
悪魔の言葉に乗り、彼女の好意を踏みつけにして自分は甘い汁を吸うこと……そこへ対する「本当にこれでいいのか」という問いは、何度踏みつけようともしつこく戻ってくる。本当にこれでいいのか、こんな生活が、本当にいつまでも続くと思っているのか……? 続けていいと思っているのか……?
……私はまだ、その問いの繰り返しに慣れられていない。ルカトゥが勘とやらで察したらしいものは、つまりはそういう物なのだ。
そして、だからこそ、私が今口にすることのできる答えは決まっていた。不吉な方向へ、それは決まってしまっている。
「……じゃあ、私が返す言葉は小鳥遊と同じかな」
「はぇ……?」
「無敵なんてあり得ないよ、ルカトゥ」
私はそれを知っている。もしそれを知らなければ、今頃は本当にルカトゥのことを無敵の存在だと思って、あらゆることを「べつにいいじゃん、彼女は無敵なんだから」で済ませていたのかもしれない。けれど実際には知っているのだ。
ルカトゥがちょっとムッとした顔をした。勘に自信があるわけではないけれど、なんとなくそれは演技かなと思った。
「な、なんでですかぁ。わたしが今まで、ちょっとでも弱っちかったことがありますか〜?」
「大事なタイミングでスケジュールのポカをやらかして泣いてた」
「……あ〜」
「ゲーム脚本の中で自分を玩具にされて、嫌な顔をしてた。ヤグラ君のことがちょっと前まで嫌いだった。私から教科書的な恋愛観を押し付けられそうになって、悲しそうにしてた。……それにルカトゥだって、私に嫌われることを怖がってるでしょ。ちがう?」
「……む〜、なかなか痛いところを〜」
わずかに口をとがらせて、ルカトゥは、しかしそれほど確信を突かれたとは思っていないようだった。そのリアクションには演技臭さの体を取って、彼女の底知れなさが表れていた。
「たしかに先生の言う通り、わたしも、ほんの少し不機嫌になったり、先生以外の人をちょっと嫌いになったり、ショックなことに取り乱してしまうことはありますよ〜……? でもそれは、それだけなんです。その上で無敵なんですよぉ」
「その上で……? というと……?」
「つまり〜、頭に血が上るほど怒ったり、先生のことを少しでも嫌いになったり、それ以外の人のことでも本気で嫌ったり、取り返しがつかないほど傷ついたり……ということは、絶対に起こらないってことです」
「……つまり何があっても、少なくとも致命傷だけは絶対に受けないから、それが「無敵」ってこと?」
「そういうことです〜!」
……あっけらかんとそう言ってのける彼女に、私は思わず言った。
「それは、私が死んでも?」
「えっ?」
自分の口から出たその言葉の強さに、不快さと、そこはかとない後悔が生じる。……けれど一度口に出した以上、中途半端にしてはなおさら深い悔いが残るような気がした。
ルカトゥの顔がさすがに分かりやすく曇る。すでにどこも無敵らしくなどなかった。
「それは……。考えたくないですけど……」
「ね、だから、そういうこと。無敵なんてないでしょ」
「…………先生は、死にたいと思ってるんですか?」
「え?」
その質問に、私は次の瞬間、ハハハと笑いを返してしまった。
気づいた時には、場違いにも吹き出すように笑ってしまっている自分がいたのだ。……彼女からの本気の問いかけを真正面から受け止めることができなくて、そうやって受け流してしまっていた。
「いや全然、そんなわけないじゃん」
「本当ですか……?」
「うん、本当。ルカトゥに嫌われないためだけに生きられるほど立派じゃないって。死にたくないから生きてるの」
「……よかったぁ、嘘じゃない」
ルカトゥは心底安堵してくれたようだった。
一方で私は、自分で言っていて「本当かよ」と思ってしまう。「生きてる」と言えるほど、私は自分で自分の面倒を見ているのかと。自ら死を選びはしないだけのことを、「生きてる」と言ってしまってもいいものなのかと。
けれど事実として、べつに、断じて、死にたいわけではないから、私は嘘は言っていない。
……段々と、言動と思考が乖離していくような感覚があった。
「ね、でもとにかくそういう感じで、いくらルカトゥでも無敵ってわけにはいかないでしょ? だからほどよく遠慮はするよ」
そう口にしながら、ほどよい遠慮とは何なのか、私は分かっていない。
「えぇ〜、嫌ですよぉ……」
「どうして? ルカトゥ言ってくれたじゃない、私は私のしたいようにすればいいって。遠慮したいから遠慮するんだよ?」
「それは、だってぇ……。たしかに言いましたけどぉ」
「でしょ」
「でも、でもそれは、先生に幸せになってほしいから言ったことで……。遠慮してる先生は、どちらかというとつらそうに見えるんです。……心配なんですよ」
「……そう見えるんだ」
だとすれば、私の不安は的中していた。漫画を見せられた時に感じた不安が、着実に現実として浮き上がってきている。やはりルカトゥの勘……いや、勘を超えた「卯月雛子に対する理解度」は、まずいところまで達しているようだ。
彼女の言っていることは当たっている。遠慮することが楽しい人間などどこにいるんだ……と私は思う。私は、ルカトゥが本当に無敵だったら、もっと自分のことだけを考えていたような人間なのだ。その気になれば今よりもっと、さらにさらに自分のことを優先できるような人間なのだ。
そのことについて、自称無敵のルカトゥが気づいてしまっている。それはまずいことだった。このまま流れに身を任せてしまえば、時間をかけて……しかしあっという間に、私は彼女を無闇に傷つけてしまうという確信がある。
そうはならないようにしなければ……と身構える私に、こういう時には急に読みを外すらしく、ルカトゥはあわてて取り繕うように、
「あ、ごめんなさい、嫌な気にさせるつもりは……」
と、前言を撤回でもするかのように「ちがうちがう」の素振りで手を振っていた。……けれど何にしたって、彼女から見た私が小鳥遊であり、それが尽く正解であることは変わらない。彼女だって結局のところ、ミミの姿勢を撤回する気はないのだろう。
私は、だからその小鳥遊としての方向から、せめてもの舵取りを試みた。
「正直さ、思わないわけじゃないんだ。もしルカトゥが本当に無敵で、遠慮なんかしなくてもよかったら、今よりさらに楽なんだろうなぁって」
「あ、そうですよそうですよぉ。だから、どうぞ遠慮なく……!」
「でもルカトゥはさ、結局小鳥遊に、性癖とやらを明かさせなかったでしょ?」
「へ?」
急に漫画の話に戻ったからだろう。ルカトゥの頭の上に一瞬はてなマークが浮かんだ。
「私は、そこまで含めてよく分かってるなぁと思ったよ。結局小鳥遊は、ミミに自分の本性をさらけ出さなかった。……小鳥遊は私で、ミミはルカトゥでしょ? そういうことなんだって、話を書いた時から分かってたんだよ、ルカトゥも」
「……たしかに、否めませんね。無意識でしたけど」
その時突然、ルカトゥが立ち上がった。
「先生、喉乾きませんか……?」
「え? あぁ、まぁ」
「お茶淹れますね。紅茶」
そう言って彼女は小さな鍋に水を溜め、そそくさと湯を沸かし始める。……そのまま台所から背中越しに、話が続いた。
「先生は、ミミはあの後どうしたと思います?」
「え?」
「小鳥遊くんとノーマルなセックスだけをして、一生を過ごしたと思いますか?」
「さ、さぁ……? まぁ、もう滅多なことはしないようになったと思うけど。ミミにとっても、小鳥遊のあのリアクションはちょっとしたトラウマになってそうだし」
「……トラウマは、たしかにそうでしょうね。ミミは小鳥遊くんが好きですから、ショックを与えるなんて、不本意だったでしょう」
ミミはあのドッキリで自分の無敵性を小鳥遊に見せつけるつもりだったのだろう。けれど実際にはそれに失敗してしまった。だから彼女は「もう二度としない」と誓ったのだ。……私はあの漫画をそう解釈していた。
カップも出さず、ティーバッグを用意するでもなく。ルカトゥは、鍋の中のまだ凪いでいる水ばかりを見ている。
「でも、小鳥遊くんの性癖を知ることは、あの後も諦めてないと思いますよ」
「え、なんで……?」
「どうすれば小鳥遊くんにショックを与えないように、なおかつ本当の望みを知ることができるのか。あの手この手を使って、手探りでも、ミミはアプローチを続けるはずです」
「……たとえばどんな方法で?」
「う〜ん、そうですねぇ……」
かちゃかちゃとカップを用意し始めたルカトゥが、さらりと答えを言う。
「本心を隠されることがどれだけつらいか、じわじわねちねち彼に伝え続けるとか……ですかね?」
「……なるほど」
それをされると、小鳥遊はどうなるのだろう……? 私はコタツの上に目を落として考える。彼は、たとえばそのネチネチしたプレッシャーに耐え兼ねて、ミミに苦手意識を持ったりするだろうか……? 彼女がそういうアプローチをかけてきたことについて、また深刻なショックを受けるだろうか……?
……分からない。小鳥遊は、たしかに今の私に当てはめて書かれたキャラなのかもしれないけれど、一つ私とは決定的に違うところがある。彼にはミミに対する性欲があるのだ。ルカトゥに対するそれがない私には分からない。プレッシャーか性欲か、どちらが勝るのかなんてことは……。
「はい、どうぞ〜」
「ん、ありがと」
目の前にミルク入りの紅茶が置かれる。飲んでみると、まだ少し熱すぎた。舌が熱ばかりを感じ取る。
ルカトゥは元居た私の向かいに座るなり、それを一口で飲み干した。
「えっ……!?」
「先生、駆け引きですよね、これって」
目を疑う私に、彼女はなんでもない様子で言ってくる。
「先生は、わたしへの遠慮をやめたくない。でもわたしは、先生に遠慮することをやめてもらって、もっと楽になってほしい。……どっちが相手を納得させられるか、そういう駆け引きですよね?」
「……それはどうかな」
カップを両手で包んで、その熱をぬくもりとして丁度よく受け取りながら。
「ルカトゥが納得してくれなくても、わたしは遠慮出来ちゃうけどなぁ」
「できますか、先生に……?」
「できるでしょ、普通に考えて」
「でもわたし、……それをされると、すごく悲しいですよ……?」
「うっ……」
考えて分からないなら体験してみろとばかりに、ルカトゥの潤んだ瞳は、「あの手この手」を私に向けてきた。
卑怯だ、と思う。とても率直に。
「いや、話が違うんじゃないの……?」
「話?」
「さっきは無敵って言ってたのに、今度は悲しいって。矛盾してる」
「……あれ? あぁ、そっかぁ、そういうことになっちゃうんですか……? あはは、ダメですねぇ」
ルカトゥはおかしそうに笑う。笑って言う。
「……わたしには、やっぱり、人の心がわかりませんね」
「……なにって?」
彼女のその言葉は、軽い調子ともったいぶった言い回しに反して、本来なら口にすることも躊躇われるほどの重さを持っているような…………そんな予感がする物だった。たとえば「死」という言葉と同じくらいに。
「人の心ですよぉ。わからないんです、わたし」
「なんで急に……?」
「だって、今言われて初めて気づいたんですもん。無敵と悲しいは、矛盾してなきゃおかしいものなんだって」
そう言って彼女はくすくす笑う。……なにが面白いのか私には分からない。彼女がなにを言っているのかすら、その意味も、半分以上分からなかった。
なにかまた、嫌な予感がした。デジャヴだ。私はなにか、似たようなことをすでにどこかで体験している。……それが何なのかまでは思い出しきれないうちに、ルカトゥは話を続けた。
「先生、……じゃあ一つ、昔話を聞いてもらえませんか……? わたしが無敵であることを証明するには、それが一番だと思うんです。……その話を聞いてなお、先生がわたしを無敵だと思ってくれなければ、その時はこれ以上この話はしないようにします」
「……なんか、え、なに急に……? 昔話……?」
「はい、ただの思い出話ですけど」
「……わかった。聞かせて?」
「は〜い、ありがとです。じゃあ、そうですねぇ、何から話したものですかねぇ……」
ほどよく冷めてきた茶に口をつけ、私はその昔話とやらが語り出されるのを待った。そうするしかないような気がしたから。
ルカトゥは、おそらくその話を語り慣れていたのだと思う。その語り出しには明確な「掴み」があったから。
「魔界にも、納豆によく似た食べ物があるんですよ」
「……は?」
ねばねばした豆が頭の中に思い浮かぶ。私はそれの味と臭いがかなり苦手だった。
「わたし、魔界でも人間界でも、納豆があまり得意ではなくて……。でも小学生だった頃、何年もずっと同じクラスだった友達の女の子が、わたしよりさらに納豆を苦手としていたみたいで、給食で出るたびに一口も手をつけていなかったんですよね。わたしは、頑張れば食べられる程度だったんですけど」
「ほうほう……。……私も納豆は嫌だな。ワンチャン吐くくらい」
「あ、先生も苦手なんですねぇ、ふふっ。……あ、それで、その友達は元々好き嫌いの多い子だったので、わたしは普段から、その子の食べられない物を食べてあげてたんですよ。だからその流れで、納豆もわたしが食べてたんです。自分も苦手でしたけど、一口も食べれない人と、頑張れば食べれる人がいるなら、後者が頑張った方がいいでしょう? 残しちゃもったいないですし。……それにわたし、人のために何かするってことが当時から好きだったんです」
「なるほど」
なんだかルカトゥらしい話だな……と思いながら聞きつつも、その話の何がどう転べば、彼女を「無敵」とまで呼べるほどの結論に行き着くんだろう……と疑問にも思う。
自分の苦手を無理してでも友達を助ける。そんな所詮は人並みに、しかし極めて優しい少女の話は続く。……私にはその人並みすら出来ないなぁと思いながら、それを聞く。
「それでですね、わたしはそんな感じで、自分から進んで食べてたんですけど……。友達はそのことについて、いつも申し訳なさそうにしてました。ルカトゥごめんね、ごめんね……って。だからわたし聞いたんです。どうしていつもごめんって言うの、わたしが好きでしてることなんだよ〜って。そしたら、なんて返ってきたと思います?」
「え、なんだろう。……ちょっと待って小学生の頃の話だよね? 子どもの考えることは分からないな……」
「ふふ、そうですか〜? 答えはですねぇ、だってルカトゥ、いつもすごく不味そうな顔をしてるんだもん……でした。こんな顔だったらしいです」
ルカトゥが、顔のパーツ全てを中心に寄せるような苦悶の表情……あるいは変顔を披露した。
「あ、見覚えのある顔」
「えへへ。……それでわたし、それを言われてから、できるだけ嫌な顔をしないように気をつけるようになったんですよ。進んでやってるのに嫌な顔をするなんて、考えてみればおかしな話ですしね」
「え、そう……? 苦手なものを食べる時は仕方ないと思うけど。人の分まで食べなくても、どっちにしろ自分の分は食べるわけだし、そしたら嫌な顔にもなるでしょ」
何の気なしにそう言うと、それを聞いたルカトゥが、突然キョトンとした顔をする。
「え……そうなんですか……? うぅむ……難しいですね……。無敵と悲しいは矛盾するのに、進んで食べることと不味そうな顔をすることは違うんですか……?」
「ん……? ……あー、そう言われると確かにややこしくなってきたけど……。……え、それで? 話の続きは?」
「あ、はい、そうでした続きでした。……それで、表情を改めるくらいでは、その子はわたしに対して申し訳なさを感じることをやめてくれませんでした。まぁ演技だってバレてたんでしょうね、指摘されてから露骨に改めたわけですから。……で、そのせいなのかは分からないんですけど、ある日その子が、今日は私も頑張ってみるって言い出した日があったんです。たまには自分も苦手な物にチャレンジしてみるって。……その日の副菜は納豆和えでした」
「おお」
ずっと誰かに頼っていた人が自立を決意する。そう普遍化した言い方にしてみれば、それはいかにもありそうな話だった。いかにもありそうで、しかも良い話。……そう考えてみると、ルカトゥの言うように罪悪感に耐えられなくなって自立を決意したというよりは、もっと前向きな動機が、その子の中にあったのではないかとも思える。
……小学生でさえそうなれるというなら、ルカトゥに頼りっぱなしの私はどれだけ救えないやつなんだろう、という話だけれども。しかし良い話を聞いたくらいで改心できるなら苦労はなく、私には話の続きを促すことくらいしかできない。
「それで?」
「それで、その子はその日、その納豆和えを食べる決意をしました。深呼吸をして、小さめの一口分を箸で持ち上げて、それを口の中に入れました。……先生は、そのあとどうなったと思います?」
「え? めっちゃ涙目になってなんとか飲み込めたとか……? それか、おえぇやっぱ無理……って、ペッてしちゃったとか」
「あ、大体当たりです。……その子は、一口目を飲み込む前に、胃の中の物をあらかた机の上に戻してしまいました。嘔吐したんです。先生の言うところの、ワンチャンが当たってしまったんですよ」
「……それはなんともまぁ……」
自分の小学生時代の給食の時間、その時に見た定番の陣形が思い起こされる。
小学校では、授業のように皆が一方向を向いて食べていては味気ないから、給食の時間になるとそれぞれの机をくっ付けて、向かい合った状態で食べたりする。班単位なのか列ごとなのか、フォーメーションにブレはあるのかもしれないけど、とにかく机を向かい合わせて食べるという習わしは、きっとどこの小学校にもあるもののはずだ。……ルカトゥが特に注釈を入れなかったところから察して、それは魔界でも例外ではないと考えられる。
少なくとも、彼女の語る「給食の時間」については、おかずをあげたりもらったり出来る程度にお互いの距離が近かったと見て間違いない。……その状況で嘔吐することを考えると、もはや想像するだけで居たたまれないものだ。
どこか淡々とした調子で、ルカトゥは続きを話す。
「わたし、それを見た時、すごくショックだったんです。えっ、そんなに……?って。そのレベルだったんだって。……わたし、正直それまでは彼女の言う「食べられない」をなめてました。「味が苦手」とか「不味い」って言葉を軽く捉えていて、同じ言葉を使って「わたしも、わたしも」って言ってました。でも嘔吐するところまで追い込まれた彼女を見て、目が覚めた気分でした。私とは全然……本当に全然違うんだ……って」
「……それでどうなったの?」
「その子は保健室に行って、後始末は先生がしました。小学生時代の話はそれでおしまいです。次の日からは何事もなかったかのような日常が戻ってきました。……まぁそれきり、その子が苦手な物を食べようとすることは二度とありませんでしたけど」
「だろうね」
仮にその子が諦めなかったとしても、次以降はまわりの子たちが止めただろうし。
しかし、その話と無敵の何に関係があるのだろう? 私が不可解そうな顔をルカトゥに向けると、彼女は、
「で、本題はここからなんですけど」
と言った。
「え、ここから?」
「はい。その友達とは中学に進学する時に別れちゃったんですけど、わたしの方はそれからずっと一人で考えてたんです。小学生だった頃、わたしが「お互いに納豆が苦手」と思っていた間に、向こうはどんな感覚で生きていたんだろう……って。吐くほど苦手な食べ物ってわたしの場合はないので、いまいちピンと来なかったんですよね」
「ふむ」
「で、食べ物で考えていても埒が明かないので、ある時JCのルカトゥは思いつきました。とりあえず一回吐いてみれば何かわかるのでは? と」
「なるほど?」
そのくだりの結末はなんとなく予想できた。たとえば私はノロウイルスに感染した経験があるけれども、乗り物酔いなんかで嘔吐するほど追い込まれた時には、その経験とまったく同じ苦痛が帰ってきたとは思わなかったから。あることから来る苦痛は、あること自体の体験からしか得られない物なのだと思う。
ルカトゥはその細い指で、自らの白い喉を指さした。
「で、喉に指を入れて吐いてみたんですけど……。なんというか、こう、ピンと来ない感じがしたんです」
「うん」
「なんでだろうって考えてみると、あの日友達は吐いちゃったあと、しばらく元気がなかったんですよね。でも一人で吐いてみたわたしは、全然元気でした。……だから何かが違うと思ったんです」
そこでフッと息をはいて、ルカトゥが表情をゆるめる。
それを見て私は初めて、彼女がいつの間にか、思いのほか真剣な面持ちで話をしていたことに気がついた。
「すみません、話長いですよね」
「いや? 楽しく聞いてるよ」
「そうですか……? それならよかった。もう少し続くんです」
「へぇ。……お茶おかわり用意しようか?」
「あ、わたしがします」
我先に、という勢いでルカトゥが立ち上がる。そうだった、彼女は私の全てを「やってあげたい」と思っているのだった。……それは、人のために何かをすることが好きだから? 子どもの頃から変わらず、その地続きなところに、彼女の献身があるのだろうか……?
鍋の中にまだ残っていたらしい湯を沸かし直しながら、ルカトゥは話を続ける。今度は壁に背を預けてこちらの方を向きながら。
「えぇと、どこまで話したんでしたっけ」
「ルカトゥがセルフで吐いたところまで」
「あぁそうでした。それで思いのほか自分が元気なことに気づいたわたしは、小学生の頃の友達がどんな気持ちで給食の時間を過ごしていたのか……ということのほかに、もう一つある疑問に行き着いたんです。……そもそもわたし以外の人は、つらいことや嫌なことについて、どんな風な感覚で生きているんだろう?って」
「ほう……?」
「実はわたしの方だけ大してつらい思いをしてなくて、相手の方だけ切実だった……というケースは、なにも給食に限った話ではないんじゃないかと思ったんです。中学生になると「しんどいこと」とされる事柄が身の回りに増えますから、なおさらそう思ったのかもしれません。テスト勉強、部活の練習、校則、三年生になれば受験……」
「なるほど。ルカトゥも、そういう物をつらいと思ったことはあるの?」
「あった……と初めの頃は思っていました。友達と苦労話を交わして盛り上がったこともあったと思います。……でも、考えれば考えるほど、なんか違う感じがしたんですよね。たとえば、わたしはテスト勉強を「こんなことするより、テレビとか見たいなぁ」と思いながらしていて、それを「だるい」と言っていたんですけど、同じ「だるい」という言葉を使っていた友達は、もしかすると泣きながら机にかじりついていたのかもしれない。……それがだんだんと、「そんなわけないじゃん」とは思えなくなって行ったんですよね」
「なるほど……」
失礼ながらそれらの話は、当時の彼女の姿をまったく想像できないほどに、ルカトゥらしさには欠けている話だった。給食の件とはそこが真逆だった。
人並みにうんざりしながら課題をこなすルカトゥや、しんどいきつい辞めようかな〜なんて言いつつ律儀に部活の練習に励むルカトゥというものは、今の本人の姿からは上手く想像することができない。そもそも彼女は何の部活をしていたんだろう……? そんな興味が湧くけれど、それらの興味はそれなりにかさばっていて、今聞いては話の腰を折ってしまうような気がした。
二杯目の紅茶が用意される。今度はルカトゥも私と同じように少しずつそれを飲んだ。
「それで、まぁ、でも、そういうことって言い出したらキリがないじゃないですか。わたしたちの言う「赤色」は本当に同じ色を指しているのか……みたいな、哲学的な話になっちゃうので」
「クオリアってやつね。よく知らないけど」
「そうですそうです、わたしもよくは知りませんけど。……で、だからしばらく「他人の感覚」についての考えが進むことはなかったんです。転機があったのは、親からAV女優になることを勧められた時でした」
「おお、すごい響き」
学校の話から察せられる通り、魔界の社会も基盤自体は人間界とほとんど変わらない。だからアダルトビデオだって人間界と同じように普及しているらしいのだけれど……。約十五年前に初めてサキュバスと遭遇した人間界とは違って、サキュバスという存在が大昔からもっとずっと当たり前のものとしてある魔界では、AVやAV女優という仕事の扱われ方も、人間界のそれとはかなり異なっているらしい。
ずばり、人間にとっての公務員的な職業が、魔界のサキュバスにとっての性産業系の職業なのだ。……いや、正確には、そうらしいとしか言えないけれど。全てはルカトゥから聞かせてもらった話で、だからこそ信ぴょう性には事欠かない。
だから見込みがある子どもに親がAV女優を勧めることは、サキュバスにとっては自然なことなのだけれど、人間の耳にはまだその話が衝撃的な物のように聞こえてしまう。……そういう意味でも確かに、ルカトゥが子どもの頃から感じていたらしい「他人の感覚と自分の感覚が違う」という話は、かなりこの世の真理を突いていることだと言える。
サキュバスにとってもっとも直感的には理解しがたいこと。それはおそらく、人間たちが性産業を腫れ物のように扱っていることだと思われる。……そんな人間界もここ十五年で変わってきていて、今やただ覚悟のある絶世の美人というだけでは風俗で働くことも難しいらしいけれど、それでもまだ、サキュバスたちと我々の感覚には深いギャップがある。
親からAV女優になることを勧められた……というフレーズに思わず笑ってしまう前時代的な私に、ルカトゥはにこりと微笑んでみせた。
「ふふ、いい響きですよねぇ。それでわたし、高校を卒業してからトントン拍子でAV女優になることができました。運が良かったんです」
「すごいじゃん」
「あ、当時よくいろんな人に言われましたよ。ルカトゥはすごいねって。……なんでそう言われるのかは、よく分かってなかったんですけど」
「え、なんで?」
「当時のわたしはまだ、演技という演技をしてるつもりはなかったんですよ。カメラで撮られながら、言われた通りにエッチをしていただけというか」
「……天然の天才だったってこと?」
「違いますよ〜。たぶんその時は、大人たちの都合の中でたまたま運良くちやほやされてただけの小娘が、適当におだてられていたんだと思います。……けどそれを機に業界を知ることができたおかげで、わたしは新しい気づきを得ることができたんです」
「気づき?」
「はい。AV業界には、サキュバスですら大多数が敬遠するような仕事があるって」
「あー」
ルカトゥが実際に出演した作品の中で、できるだけハードな物を思い浮かべる。その中にはそれこそ胃の中の物を逆流させられて、それを再び飲まされる……というような常軌を逸した内容の物まであった。
サキュバスだからって誰もがそんなことを平気でできると思ったら大間違いだ、という話があるのだとすれば、「そりゃそうだろう」と何も知らない人間の私ですら直感的に納得してしまう。ルカトゥはそんな狂った世界のことを、私とは違って「内側」から見たのだろう。
そんな「性欲の闇」とも言える物にどっぷり浸かってきた彼女が、今から何を話すのか。私には、そのオチが分かる気がした。今も目の前の彼女が、余裕そうな顔をしてそれを語っているから。
「それでわたし、これだ!と思ったんです。終わったあとに元気じゃいられない苦しさが、きっとその世界にはあるはずだと思って、そういうのをやってみたいって大人の人たちに話したんです」
「えぇ……、すごいな。それで?」
「それで、いろんな仕事をしました。具体的にどんなことをしたのかは、人間界の方でも販売されている過激なシリーズを見てもらえれば、ニュアンスで大体伝わると思うんですけど」
「うん、知ってる。何個かは見た」
「えへへ、ありがとうございます。……まぁ、先生が大人になってから見た物だと、わたしもすっかり大人になりきってから撮った作品なので、昔のような手探り感はなかったと思いますけど。とにかくですね、わたしが言いたいのは」
さっきまであった彼女の朗らかな表情が、溶けるように消えていく。過去を追体験しているみたいに、ルカトゥの表情はなだらかに負の方面へ移り変わる。
私は、そこに彼女の悲痛を感じた。
「いろいろ試しましたけど、「もう二度としたくない」と思える物には、何一つして出会えなかったってことなんです。終わったあとに元気ではいられない物が、一つもなかったんです」
「……だからNG無しなんだ?」
「そういうことです。無いというか、見つけられないんですよね」
「なるほど……」
言われて気づいたけれど、確かにNGプレイの見つけ方には二通りある。想像するだけで御免こうむりたい物と、経験した結果二度と御免だと思う物。……私にとっては普通のセックスが後者の物だった。
ルカトゥは、私がまだ赤ん坊だった頃から……あるいはそのもっと前から、NGプレイを探していた。しかしその結果として、同族からさえも一目置かれるようなNG無しの存在になってしまったらしい。探しものを見つけられなかったがゆえに。
私は、なるほど「無敵」か……と、この昔話の趣旨を思い出させられた。……けれど、ルカトゥはまだ「ね? だから無敵でしょ」とは言わなかった。話はさらに続いたのだ。
「それからわたし、改心したんです」
「改心?」
「わたしには、つらいとか苦しいとか、そういうことが根本的に分からないんだって気づいたので、出来るだけもう、まるでそれが分かっているかのように振る舞うのはやめようって、その時やっと思ったんです」
「……ん? いや、でも、全く分からないってことはないんでしょ?」
「なにがですか?」
「ルカトゥだって、殴られたら痛いし、心ない言葉には傷つくし、理不尽なことには怒るし、……そういう感覚はあるんでしょう?」
「……まぁ、なくはないです。でもべつにそういう物に対して、二度としたくないとかされたくないとか、早く終わってほしいとか、逃げ出したいとか、やめておけばよかったとか、許せないとか、……そういうことを思ったことが一度もないんです」
「……まじで? 本当に少しも?」
「マジで少しもですよ、先生」
どこか寂しそうに、そう答えるルカトゥ。
彼女は、その寂しさを指してすら、つまりは取るに足らないものなのだと言うのだろうか……? ……知れていることだ。もしそうでなければ彼女の心は、私によってとっくに致命的な傷をつけられていたのだろうから。
ルカトゥは残り少なくなっていた紅茶を飲み干して、話の終わりを予感させた。
「それでわたし、平気な時はちゃんと平気なふうに見せるようにしました。そしたらいつの間にか、それ以外の「見せ方」も出来るようになってたんです。それを演技と呼ぶのは、若干複雑でもありますけど……。でもまぁとにかく、そういう風にして今日のわたしが完成したんです。今でも油断して身構えてなかったことに関しては、ちょくちょく素でリアクションしてしまうんですけどね。…………はいっ、昔話はこれでようやく完結です!」
「……すごかった」
私は思わず拍手をした。まだ何も完結などしていないような、現実と地続きなノンフィクションの話に対して、その軽々しい音がふさわしいのかは分からなかったけれど。
語り終えたルカトゥは、清々しい顔をしていた。そして私の拍手に照れた顔をする。彼女の演技力が生まれたきっかけを踏まえて見れば、その照れることは演技ではない。プライベートの彼女がする演技は、苦痛を隠すものだけらしいから。
喜んだフリと、平気なフリ。はたしてどちらがより悲劇的なのか……。私にはそのどちらもが、似たように重い物としか思えなかった。
「えへへ〜。ね、それでどうですか先生、わたしが無敵ってこと、わかってもらえましたかぁ」
「……うん。だいぶ分かったよ、ありがとう」
「じゃあ、遠慮することもやめてくれますか……?」
「それは……」
期待の眼差しが、真正面から向かってくる。無敵であることと悲しさを感じることが矛盾しないような、規格外の存在からの、人のために……私のためになりたいという期待の眼差しが。
私はそこに、おびただしい数の頭を持つウロボロスの輪を垣間見た。ルカトゥは、きっといつだって悲しさを感じているのだ。だってそうでなければ、彼女は演技なんて身につけなかっただろう。己の感覚について、「人の心が分からない」なんて言い方はしなかっただろう。きっとルカトゥには負い目があるのだ。けれど彼女は何も悪いことをしていない。落ち度のない者が持つ負い目は、悲しみにつながってしまう物なのではないか……?
自分以外の者には感じられているらしい「悲しさ」が、自分には本当の意味では分からない。その事実がルカトゥの中には有り、彼女はその「悲しさが分からない」ということ自体を悲しんでいる。……のだけれども、彼女にはその「悲しさが分からない悲しさ」も、きっと本当の意味では分からないのだろう。だからこそ平気な顔をして、今も私のそばに居てくれている。
悲しさが分からない悲しさ←が分からない悲しさ←が分からない悲しさ←が分からない悲しさ……というように、彼女の心は無限ループを起こしているのだと、私は今の話を聞いて思った。彼女は常に、その無限の苦痛の中にいるのだと。
けれど結局のところ、そのループにおいては「分からなさ」が勝っているらしい。本当に、……本当に失礼なことだけれど、私は目の前のルカトゥを見て改めて思った。……彼女の心というものは、そんな状態にあってもまだ壊れずにいられるものなのか。それは確かに化け物じみていて、無敵かもしれない……と。
……けれど、いや、だからこそ、私はその期待の眼差しに対する答えを、とても導き出せたものではないと感じる。そして私も、かつての彼女がそうであったように、新しい気づきを得た。
慣れた昔話と違って、それは本当に即興で伝えなければならないものだった。
「……ルカトゥ、私の話も聞いてくれる?」
「はい、もちろん」
「私は、……私は、キミに嫌われたくないから、自分で遠慮をしているんだと思ってた。……でも違ったみたい」
「えっ……?」
「キミは私に、幸せになってほしいって言ってくれたよね。……私みたいなダメ人間には、その言葉にお返しをあげられない。ルカトゥにも幸せになってほしいなんて、どの立場から言えたことなんだって話だから、私にはそういうことは言えない。……でもね、でも、私は……………………ルカトゥを私のせいで不幸にしたくない」
それが、今やっと気づいた「違い」だった。
私が欲望の限りを尽くして、傍若無人に王様気取りで振る舞えば、それでルカトゥは幸せになれるのか? ……もし彼女が本当に無敵の存在だったら、本人の言う通り、なれてしまうのかもしれない。自分への負担は実質的にゼロになって、「卯月雛子が幸せになることについての喜び」がそのゼロの上にそのまま乗っかるなら、必然的にその分だけルカトゥは幸せになれるのかもしれない。だから私は、もし彼女が本当に無敵だったら、自分はもっと自分勝手に振る舞っていただろう……と思っていた。
だけど実際には、「無敵」は、私の想像していた形をしてはいなかった。ルカトゥは確かに無敵なのだと思う。私から何をされても、いや、もはや仮に私が死んだとしても、ルカトゥの心はそこから致命的な傷を負ったりはしないのだろう。私が死ねば、彼女は次の「先生」を探し見つけるに違いない。致命傷を負わない、「二度と御免だ」と思うことがないということは、そういうことだから。
そのルカトゥを、私が実際に、致命傷にならない程度に傷つけてしまったらどうなる? 彼女は「それが致命傷にならない自分」に対してまた負い目を感じるんじゃないか……? また悲しむんじゃないか? また不幸になるんじゃないか……? 私が死んだらという仮定の話に、「それは話が別」だとか「死ぬなんて絶対に嫌だ」とは言わず、「考えたくない」と言っていたのは、そういうことなんじゃないか……?
そう考えるとやっぱり私には、まわりまわって、ルカトゥに対して最後の一線を踏み越える決断はできなかった。彼女のコンプレックスをこれ以上深めたくない。……けれど、
「でも私は、とことん我儘を言っても、言わなくても、どちらにしろルカトゥを不幸にしてしまう気がする。遠慮をしたままなら、キミはミミのように悲しむんだろうし、かといって一線を超えて無遠慮に振る舞ったら、……今度は、またキミに、NGがないことを一つ証明してしまう。それがキミを不幸にしてしまう気がするんだよ。どっちを選んでもダメなんだ……」
私に、ルカトゥに対する性欲があればよかった。好きなだけそれを彼女にぶつけて、二人で快楽に溺れられれば、そうやって他のことを忘れられればよかった。……叶わないことだけれど。
ルカトゥが幸せになる方法はただ一つ、一度心に致命傷を負ってみることだと思う。そうすれば彼女は「皆が言っていたことはこれなんだ! わたしにも分かった!」と、負い目から脱却することが出来るだろう。……けれど私にはそれをさせてあげることが出来そうにない。性欲で誤魔化すことも出来そうにない。私のやることなすことは、全て何らかの形で、ルカトゥを余計につらくさせるだけなように思う。
……私には演技ができない。だからその時出た自分の声の悲痛さには、自分自身で耳を疑った。それが「楽をさせてもらっている側」の出す声なのかと。
「ねぇルカトゥ……、私は、どうしたらいい……? どうしたらいいの……?」
「先生……」
呆然とした顔で口を開けたルカトゥが、何を言うでもなく、そのまま凍りついたように動かなくなってしまう。私は、また自分が彼女に負担をかけてしまったことを理解した。
……けれどその理解は、まだ甘かった。
「……そうか、だから、ハンカチを……」
うわ言のようだった。
ルカトゥの瞳が、どこでもない場所を一点に見つめている。そして震える声でそれを話し始めた。
「ハンカチで、口のまわりを拭こうとしたんです。そしたら彼女、やめてって、すごい勢いで拒否して……。なんでだろうって、ずっと思ってたんです。私のハンカチが汚れることが嫌だったみたいだけど、べつに汚れて向こうが困るわけじゃないのにって……」
「ルカトゥ……?」
「でも彼女、そういえばあの時、蚊の鳴くような声で、……たぶん「ごめん」って言ってた。聞き取りづらかったけど、そう言ってた気がする。何がごめんだったのか、その時は分からなかった。でもあとになってから、食事中に吐いたことが、悪いことだと思ってたからなんだって、理解したつもりになってたけど、あぁでもそうか、やっとわかった、分かりましたよ先生」
ルカトゥの声が、冷静さを欠いた様子で震えを増していく。
彼女はついさっき、つらいフリをするのは、とうの昔にやめたと言っていたのに。
「人に迷惑をかけることって、しんどいことなんですね……? そうなんでしょう……? 先生」
「ルカトゥ……」
「わたし、自分が無敵だからって、迷惑なんかいくらかけてもらってもいいって思ってました。でも、そういうことなんですよね……? だから先生は……」
その先を、彼女は言葉にしなかった。そのかわり、コタツに手をついてすくっと立ち上がり、
「ごめんなさい、先生。今日の話は全部忘れてください。…………ごめんなさい」
そう言ったきり、上着も着ずに部屋を出て行こうとした。
私の反射的に伸びた手が、幸いにも彼女の手を取った。
「待って、どこ行くの」
「……ちょっと頭を冷やしに」
「寒いよ」
「大丈夫です」
「じゃあ私も行く」
「先生……」
ルカトゥは、やっぱり悲しそうな顔をしていた。私は…………自分の不出来に胸がしめつけられる。今もスマホの中には「ミミは無敵」がある。ルカトゥのくれたプレゼントが。
私が「月光の体験」を見せた時、ルカトゥは、理想的な反応をしてくれたのに。どうして私は、それを返してあげられなかったんだろう。今さらそんなことを思う。……でも今、もしも上っ面で彼女の理想を演じていたら、頭を空っぽにしたフリで彼女への遠慮を捨てて見せていたら、彼女はいつか別のきっかけから、今日と同じ結論……人の心の在り方の真実に気がついて、もっと深く傷ついていたんじゃないか……?
……だとすれば私は、いったいどうすればよかったんだろう……?
「先生……。わたし、五分くらいで戻りますから。そしたらまた、何もなかった風に、一緒に居てくれませんか……?」
「……何もなかった風って、私にそんな器用な演技ができると思う?」
「う〜ん……? ……あははっ」
笑う彼女は、本当によく私のことを理解してくれているのだと思う。……あるいは彼女の嘘を見抜く魔法は、忘れたフリをするだとか、そういった取り繕い方のむなしさを知っているのかもしれない。
握った手が振り払われることは、まだない。私は、それが最後の命綱であるような気がした。私たちの関係性を繋ぎ止める綱ではない。私たちの関係は、どうあれ今後も続くだろう。……しかしその綱は、きっと「より良い結末」に繋がっているのだ。
今にも泣き出しそうなルカトゥの手を、私は意地でも離したくないと思った。ルカトゥは、その握られた手を見下ろしながら言う。
「先生、わたしは昔、先生に失礼なことを聞いてしまいました」
「そうだっけ」
「はい。…………でももう一度だけ、同じ間違いをしてもいいですか?」
「いいよ」
「……先生は、わたしと居てつらくないですか?」
そう聞かれて、私は、まだそんなことを気に病んでいたのか……と思ってしまった。彼女の言う「失礼」「間違い」が何であるのかに、らしくもなくすぐに気づくことが出来たのだ。
去年の春頃に、私とルカトゥはある方法によって数日だけお互いに体を入れ替えたことがある。その結果、私はサキュバスの体が性行為にあまりにも適応していることを知り、逆にルカトゥは、私の体が性行為にあまりにも不向きなことを知った。文字通り、身をもってそれを知ったのだ。
その時、サキュバスとして生まれサキュバスとして生きてきたルカトゥは、私の体についてこんなことを聞いてきた。「こんな体でつらくないんですか?」。……当時の私はその問いに結構なキレ方をしてしまったのだ。今考えるとおとなげないことだけれど。
ルカトゥはどうやら、その時のことをずっと覚えていたらしい。無敵とはいえトラウマにさせてしまったのかもしれない。あるいは、私の嫌がることを二度としないように、ずっと覚えてくれていたのか。……何にしても、それでも今日ばかりは、再び聞かずにはいられなかったのだろう。
彼女の問いかけに、「そんなことないよ」と答えてあげたかった。けれど、それがはたして正確な答えであるのか、彼女のアンテナにはどう判定されるのか、……そう考えてしまうと不安になる。
ルカトゥは、その魔法ゆえに、安易な慰めを良しとしてはくれない。それは人を慰める才能がない私へのある種の救いではあったけれど、彼女にとっては、うっかり身につけてしまった呪いなのではないかと今では思う。便利で、疑心暗鬼にならなくて済む、そのかわりに夢を見ることができなくなる呪い……。
私は、いつか彼女に誓わなければならないと感じた。卯月雛子は決してあなたの問いをはぐらかしません、と。言葉でもって誓わなければならないと感じた。
だけど私は今、その誓いをすっ飛ばして、その前置きをすっ飛ばして、回答を実践しなければならない。はぐらかす言葉とは、質問の答え以外のあらゆる全てを指すものだから。……だから私は答える。
「ルカトゥと居てつらくないか……って聞かれたら、ざっくり言うと、つらくはないかな。……はぐらかしてるわけじゃないよ? 正確な言い方で言いたいの。だからまずはざっくり答えた」
「……じゃあ、正確な言い方で言うと……?」
「正確な言い方で言うと、……夏の前あたりからルカトゥと一緒に暮らしてきたけど、その中で私が、全くつらさを感じていなかったのかというと…………どちらかといえば感じてたと思う。慢性的に、ちょっとつらくはあった気がする。でもねルカトゥそれは、ルカトゥのせいではないんだよ? ルカトゥのせいでつらくなったなんてことは、断言するけど、私一度もないから。ルカトゥはいつも私を助けてくれる。私がつらくなるのは、私が勝手に一人でそうなってるだけ。だから「ルカトゥと居てつらくないのか?」って質問の答えは、答えになってないかもだけど、私が一番そう答えたいと思うのは、……むしろルカトゥが居てくれなかったら、私は今の何百倍もつらくなってただろうなってこと」
「……わたしが先生を傷つけちゃったことなんて、何度でもあるじゃないですか」
「ないよ」
「わたしが失礼なこと言ったり、隠してればいいことを話しちゃったり、先生の気持ちも知らないで、遠慮しないでなんて勝手なことを言ったり……。わたし、そんなことばかりしてるじゃないですか……!」
「そんなの、つらいのうちに入らないよ。だって私は結局、そういうのが全部なかったとしても、今日までと同じことで勝手につらくなってたんだもん」
「……先生のつらさって、具体的にどんな物なんですか……?」
「葛藤……だと思ってた。このままルカトゥに甘えてて本当にいいのかな、でも自力で頑張るのも苦しいし嫌だな……って」
ルカトゥの献身におんぶにだっこで居ていいのか……? という私の葛藤は、つらさは、ルカトゥがいくら沈黙を守っていても、それとは関係なく発生している物だったとしか思えない。だから正真正銘、私のつらさは私だけの物で、ルカトゥから来た物ではない。それは間違いなかった。
でも、ついさっき、私が「葛藤」だと思っていた物は、実のところまったくの別物であったことが判明した。葛藤とは迷うことだけれど、私はなにも迷えてなどいなかったのだ。
ルカトゥを慰めるはずで綴り始めた言葉が、いつの間にかただの自分語りになっていくことを感じる。
「ずっと言い訳してた。ルカトゥは甘えてほしいって言ってるし、私が自立しようとしたって、私は苦しいルカトゥは悲しいって、何も意味がないんだから、甘えてた方がいいはずだって、ルカトゥのせいにして……。でもルカトゥだって無敵のはずはないんだから、甘えてるうちに限界が来ちゃったら全てが台無しになるから、そうなる前に頑張らなきゃいけないのかもしれないって、でも「そうなる前」っていつ? いつかも分からないことのためにどうやって頑張れっていうの……? って、ずっとそう考えてた。そう考えてるつもりだった。……でも今日、ルカトゥは本当に無敵だったんだって知って、それで私気づいた。私は、べつに何も迷ってなんかなかったんだって。私はずっと、両方は選べない物を、両方選びたがってただけなんだよ」
「両方……?」
「うん。ルカトゥに甘えて楽をすることと、ルカトゥに迷惑をかける罪悪感から逃れること。その両方。……キミが無敵だと分かって、なのにそれを「じゃあ全部解決だ!」とは思えない自分がいることに気づいて、分かった。私が考えていたのはそういうことで、全然葛藤なんかじゃなかった。罪悪感は私が勝手に持ってる物なんだもん」
「……じゃあやっぱりわたし、先生にひどいことをしちゃいました。先生は、迷惑をかけていると感じることだってつらいと感じてるのに、わたしは……」
「違うよルカトゥ。そんなのは私の自爆なの。キミが何をどうしたって、私が勝手に、甘えて楽したいと思ってるんだから、そのまま勝手に自爆してるだけなんだよ。誰かに甘えて楽をするってことは、どう言い繕ってみても、その人に迷惑をかけるってことなんだから……。……だからむしろよかった。ルカトゥが無敵でいてくれなかったら、この上さらに「台無し」が起こっちゃうところだったんだから、ルカトゥはそれを助けてくれたんだよ……?」
「先生……」
「だからルカトゥ、お願い、どこにも行かないで。私と一緒にここに居てよ。ね……?」
「……いいんですか? こんな、人の心が分からないような奴でも……?」
「うん。だって、居てくれないと困るよ」
……ルカトゥは、静かに頷いた。ぎゅっと手が握り返されて、「もう大丈夫」という風ににこりと笑って見せてくれる。素人目に見ても、それは確実に演技だったけれど。
もし私が引き止めなければ、頭を冷やすという名目で出て行ったルカトゥは、本当に数分で帰ってきては、今日に関する記憶を冗談抜きに全て失ったものとして振る舞っていたのではないか……と、本気で思う。だから彼女の演技が演技らしくあってくれることは、それ自体が気を許してくれている証明であるように思えた。
彼女は元通り、コタツを挟んで私の向かい側に座る。なんだかその姿が、数分前より一回り小さく見えた。
……彼女の瞳から、潤いがひとすじ零れ落ちた。
「すみません……」
鼻をすすり、目元をぬぐうルカトゥ。……彼女の心は想定外のことに対して、無敵である上でなお本当に弱いらしい。けれどあの時のように、遠慮なくわんわんと泣いてくれるようなことは、今日に限ってはなかった。
迷惑をかける側の罪悪感という物の存在は、白紙なのに存在していたスケジュールのように、彼女にとっては本当に本当に想定外のことだったのだなぁ……と改めて理解する。そしてそれは同時に、彼女が今まで、常に迷惑をかけられる側として生きてきたことを証明しているようでもあった。罪悪感のなさゆえの図々しさなんてものは、彼女からはこれっぽっちも感じたことがなかったから。私に対してそうであるように、彼女はずっと、誰かの役に立つことばかりを考えて生きてきたのだろう。
そんな善人が、私のような人間のために泣かされるだなんて、何かが間違っているとしか思えない。……私には彼女の心を救う義務があるように思えた。努力だとか、恩返しだとか、そういった人の道とはまた別に、ルカトゥが私のことを救い続けてくれているからには、私もそうしなければならない気がした。
いや、あえて言うなら、「そうしたい」と私が勝手に思ったのだ。たとえそれが、それこそ間違ったやり方になっても。マイナスにマイナスをかけるようなやり方でも、それをしたいと思った。
「ねぇルカトゥ、私考えたんだけど、私たちが幸せになれるいい方法があるんだ」
「いい方法……?」
「うん。思うんだけど、今までの話っていうのはつまり、……私がルカトゥに迷惑をかけることをなんとも思わなくなれば、それで全部丸くおさまらない?」
あるいは、そうする過程でルカトゥにすら耐えられない苦痛を見つけられたのなら、それはそれで彼女の救いになる。そういう意味で、丸く収まるのではないかと私は考えた。
意図がどこまで伝わったのかは分からない。けれど何にしても、ルカトゥからの返事は予想通りのものだった。
「先生、そのために先生がつらい思いをするのは、嫌ですよ……?」
「うん。だからそうならずに済むようにしようってこと」
「それは……、それが出来れば、確かに良いんでしょうけど……。でも、やろうと思って出来ることではないですよね……?」
「たしかに、スイッチを切り替えるみたいに罪悪感を捨てることは出来ないだろうね。……でも、ちょっとずつなら、たぶん出来る」
「……そうなんですか?」
「うん。だって私、月光の体験を書くためにルカトゥに家事とか諸々任せてた時は、まだニートになるつもりなんかなかったんだもん。でもあの経験があったから、甘え方を覚えちゃったから、こうしてニートになったんだと思う。……罪悪感も同じじゃない? ちょっとずつやってれば、そのうち捨てることにも慣れると思う」
「ちょっとずつ……。なるほど……」
考え込むような表情から察して、ルカトゥもそれを少なからず妙案だとは思ってくれたようだった。
遠慮するとか、しないとか、そういう二極化で考えていては、さすがに無理が出てしまう。だからその間を取ろうというのが私の案だった。……それは「間を取る」という行動を選択し続けることによって、最低でも「善処はしている」という誤魔化しは得られる一石二鳥の案なのだけど、あえてそこまでの説明はしなかった。なぜならその誤魔化しは、あくまでも滑り止めだから。
私は、滑り止めとして姑息なことを考えつつも、しかし本気で試みを達成する気でいた。罪悪感、良心の呵責、人道……。そんな物は、ことルカトゥ相手に限っては、捨ててしまった方がいい物なのだと知ったから。少なくともすでに、そう考えること自体への葛藤は私の中から消えた。
そしてその手始めに、私にはやるべきことがある。私には、ルカトゥへ言うべきことがある。
「そこでねルカトゥ、一つ、キミに言いたいことがあるんだ」
「え、あ、はいっ。なんでしょう……?」
「……相当ひどいこと言うけどいい?」
「ん、はい。なんでもどうぞ」
「人の心がないようなことを言うけどいい……?」
「いいですよ、先生が言いたいことなら」
「よし……。じゃあ言うけど……」
私は唾を飲み込む。
何を言われても平気なはずのルカトゥも、同じくらいの緊張感をもって私の言葉を待ってくれていた。その真剣さの中に、こちらへ寄り添ってくれるような気持ちを見た気がして、なんというか……心強かった。
だから少しだけ安心して、私はまた、悪魔に魂を売る。
「ルカトゥはAV女優でしょ? それも相当人気な」
「え? あぁ、まぁ、はい。おかげさまで……」
「ていうことは、日本中の、あるいは世界中の、さらにあるいは魔界まで含めた、……とにかく膨大な数の何十万何百万という人たちが、キミの出演する作品を求めているってことだよね。さらに言えば、その作品製作に携わる人たちや、それを売る人たちからだって、キミは求められてるってことになる」
「は、はい。まぁ、そう……だと思います」
「でしょ。そしてついでに、私もキミのファンの一人だ。……けど私は、AV女優としてのキミ……│空色月《そらいろるな》のことより遥かにずっと、プライベートのルカトゥのことを、私を助けてくれて私を甘えさせてくれる、ルカトゥ・ソラフォルリコルのことを、世界中の誰よりも切実に必要としてる。……分かる?」
「は、はい。えっと、あの、すごく嬉しいです。……これ、わたしを褒める会ですか? 人の心がって話は……?」
「ふふ、まぁ聞いてよ。それでねルカトゥ、改めて考えてほしいんだけど、キミは膨大な数のファンと、一番近くにいる私から、とっても必要とされてるんだよ。申し分ないでしょ? ……でも、そんなファンや私は、どうしてルカトゥのことをそれだけ必要としていると思う?」
「え、な、なんででしょう……?」
「本当に分からない……? ……ルカトゥが無敵だから、誰にも真似できないくらい無敵だから、みんなルカトゥのことを必要にしてるんだと、私は思うな。……いや、あえて言うなら、私個人に関しては、完全にそこが理由だよ。だってルカトゥがか弱い女の子だったら、今頃私は見捨てられてるんだもん」
「……見捨てませんよ。もしわたしが弱くても、先生を見捨てたりなんかしません」
「そう……? ありがとうね。……でもこれだけは言っておきたいの。私は、ルカトゥが無敵でいてくれて本当によかったと思ってる。そしてきっと大勢の人たちも、同じようなことを思ってるはず。……そっちはシコりながらかもしれないけどさ」
「ふふっ、たしかに、そうかもですね。でもそれも嬉しいことですよ。サキュバスですから」
「そっか、よかった。……じゃあいよいよ、これからひどいことを言うね」
「はい、なんでしょう?」
「……ルカトゥは憶えてる? キミの好意に答えられないのに、甘い汁だけは吸うだなんて、そんなことはよくない、よくないから出来ない……って言った私に、キミが言ったの。先生が好き勝手してくれた方が、わたしは嬉しいですよ……って」
「はい、言いましたね」
「今でもその気持ちは変わらない?」
「変わりませんよ。変わるわけないです」
「そっか。じゃあ私も言うね。……世界中の人と、何より私がね、「ルカトゥには無敵でいてくれた方が嬉しい」と思ってるんだ。たしかにルカトゥには、つらいって感覚が本当のところでは分からないのかもしれないけど、そういうルカトゥでいてくれた方が助かる、嬉しいって、私も皆も思っちゃってるんだよ。だってその方がルカトゥに欲望をぶつけたり、迷惑をかけたりしやすいんだもん。……それは、すごくひどいことだけど、でもルカトゥがそのひどさも飲み込んでくれるような無敵の存在でいてくれたら、それが一番嬉しいなって、どうしても思っちゃうんだよね……。……だからルカトゥ、もしキミが本当に無敵なら、胸を張って「つらいとか、そういうのは分からない!」って言ってくれた方が、私は嬉しいよ。……わかる? その方が私は嬉しいんだよ。私はキミが嬉しくなる通りにしたんだから、そのお返しをして欲しいって思うのもいいでしょ? 私がそう思うことも許してくれるんでしょ……? ……それで、もしキミが本当に致命的に傷ついたり、つらくなったりしたら、その時は私に教えてほしい。そしたら、同じ感覚を共有できたねって、それはそれで喜ぶからさ。……傷ついた友達を見て喜ぶなんて、おかしいかな?」
「……おかしくないです」
そう答えるルカトゥの声が、また弱々しく震えていた。正直ちょっと意外だったけれど、早くも彼女を真に傷つける方法を見つけてしまったのかな……と私は思った。
ルカトゥは、悲しそうな顔はしていなかった。ただどちらかといえば少し、彼女は私の物言いに驚いているように見えた。
多少の動揺を隠さない声で、彼女はつらつらと言葉を紡ぐ。その瞳は、何かを訴えるかのように潤んでいた。
「先生、わたしは、今まで勘違いをしていたのかもしれません」
「勘違い?」
「はい。わたし、今日までずっと、生まれてきてよかった……と思いながら生きてきたつもりでした。幸せだったんです、ずっと。……でも、今までそう思っていたことは、勘違いだったのかもしれない」
「……うん」
「先生、わたしは、わたしはですね……? 今日、いまこの瞬間に初めて、人生で初めて、本当に本当に心の底から「生まれてきてよかった」と思えたみたいです……! 先生のおかげです! ありがとうございます……!」
「……おおっ?」
驚きに思わず声が出る。
「え、ショックだったとかではなく……? 今までのことが台無しだよ的な」
「全然! むしろすっごく嬉しいです! だってこんな、こんなに全肯定してもらえることってありますか〜……!?」
「全肯定した……かな? できてた……?」
「できてますよぉ!」
「あー、じゃあ、それならよかった!」
「はい! 先生ぇ、本当にありがとうです……!」
逆転満塁ホームランが決まったかのように、ルカトゥはとても嬉しそうに、見るからに元気になっていた。
確かに私は、ある種彼女を肯定した気ではいた。けれどそれは、およそ尊厳のある相手に対しての物言いではなかったように思う。だからこそ手始めにはちょうどいいと思ったのだ。ルカトゥを慰めることが一応は出来て、良心を捨てさる練習にもなることだから。
けれどまさか、全肯定とまで言われるとは思っていなかった。……彼女にとって己の全てが何であるのか、いつかそれを知ることが少しだけ怖くなってしまう。
けれど、私がそれを知ることができるのは、明日明後日のことではないだろう。なら「善処はしている」をこれから毎日重ねていかなければいけない私にとって、そんなに先のことを想像するのは時期尚早以外の何物でもないように思う。
夕食後に突如として始まった、私たちの長い長い会話は、こうしてルカトゥのメンタルが復活したことを期に幕を閉じた。そのあとは順番に風呂に入って、歯を磨いて、いつも通りそれぞれベッドと布団に入って、部屋の明かりを消して眠りについた。
無敵といってもさすがに精神的に疲れたのか、この日ばかりは、ルカトゥは私よりも先に寝息をたてていた。……暗い部屋の中、ただでさえ良くもない視力を犠牲に、私は枕元で明度を落としきったスマホを見る。ルカトゥから送られてきた「ミミは無敵」を、もう一度読み返す。
最後のシーン、小鳥遊に抱きしめられたミミは、彼が性欲を失ってしまうくらいのショックを受けていたことに気づく。……ルカトゥはその時のミミの感情に「不本意」という表現を当てていたけれど、それは正確な表現ではなかったのではないかと私は解釈する。
ラストシーンを迎えたミミは、きっと悲しかっただろう。小鳥遊がなぜそんなにショックを受けているのか、無敵のミミには理解することができなくて、そのこと自体がきっと悲しかっただろう。……だけどミミは無敵だから、その上で先に小鳥遊のことを心配できてしまったのだ。
小鳥遊は、そうやってショックなんか受けるくらいなら、さっさと己の欲望をすべてミミにさらけ出しておくべきだったのではないか。そうすればミミが無敵の証明を焦ることもなく、ミミは傷つかなかったし、小鳥遊は好き勝手気持ちよくなれてウィンウィンだっただろうに。彼はそうするべきだったのに、それが出来なかった。小心者で、知ったかぶって、ミミの言葉を信用しなかったばかりに……。
……ならば同じ轍を踏むわけにはいかない。改めてそう思い、決意を新たにした上で眠りにつく。少しずつでも確実に、ルカトゥに対する良心を捨ててやる。私はもう二度と小鳥遊にはならない……と。
翌朝、私は「ミミは無敵」のバックアップを取った。ルカトゥは仕事に出かけた。
良心を捨てると決めたあの日から、私は久しぶりに漫画を描き始めた。タイトルは「ゆめ魔にっき」。……その漫画には終わりがなく、またそれは今のところだけ、あるいは今後もしばしば、予言書になる予定の物だった。
私はその漫画を描くために、ルカトゥにいくつかの相談や質問をした。その漫画の、今のところ考えているあらすじはこうだ。
女性エロ漫画家のクジャクは、ひょんなことからツイッター上でAV女優のアオイと知り合った。クジャクが流行りの映画の感想をツイートした時に、アオイが好意的なリプを送ってきたことがきっかけだった。
そのうち二人はオフで会う約束をするくらいに交流を深めていく。が、約束の日の直前に、アオイがあることをカミングアウトした。
「クジャク先生、実はわたし、サキュバスなんです」
「知ってる。wikiに書いてた」
アオイはクジャクの熱心なファンで、クジャクは職業柄サキュバスに興味があった。出会いのきっかけとはそういう物で十分なのだ。二人はあっという間に打ち解けて、定期的に会うことが当たり前の友人として関係が確立されていった。
……そこから先で起こることは、私とルカトゥの間に起こったことと同じだ。ここまでのあらすじだってほとんどがそうだったけれど。
言うまでもなく、私とルカトゥの関係性の移り変わりは物語性に事欠かない。ハイライト的に、漫画的な面白さを意識しつつ、事実を元にした話を描いていけば、それだけでストーリーは物になるだろう。……これがルカトゥにした相談の一つ目だった。モデルにするどころではなく、私たちそのものを漫画のネタにしてしまってもいいだろうか……と。そう相談をもちかけた時、彼女は即答してくれた。「光栄です……! ぜひ読んでみたいです!」。
……なのでこの漫画は史実通りに、すっかりド屑になった私がルカトゥに「君が無敵でいてくれて嬉しい。その方が楽だから」と言ってのけるところまで進行する予定でいる。そこまでたどり着くのに何百ページかかるのかは、途方もなさすぎてもはや考える意味すらないように思えるけれど、とにかくそこまでは何としても史実通りに描くのだ。
そしてそこまで物語を進行させられた時に初めて、その漫画の行く先が「まだ史実にはない方向」へ、未来へ向かう。漫画の中のクジャク先生は、良心を捨てると決めた彼女は、アオイにこんな指示を出すのだ。
「ねぇアオイ、アオイが本当に無敵なら、ミミと同じ目に遭ってみてよ」
二つ返事でそれを了承したアオイは、ミミと同じような経緯を辿って、ラブホのベッドの上でぼろ雑巾のような姿になってクジャクに発見される。その時アオイは打ち合わせ通り、クジャクの顔を見るなり泣き始めた。
「先生……先生ぇ……わたし…………ぐぅっ!?」
クジャクは、アオイの腹に蹴りを入れる。容赦なく、加減をしらない子どものように。アオイは精液まじりのゲロを吐いてもだえ苦しむ。クジャクは、そんな彼女の髪を乱暴に引っ張って顔を上げさせる。
「……人を蹴るってこんな感触なんだね、アオイ」
「げほっ……うぇぇ……。……へへ、どうでしたかぁ」
「に、二度とやらない。ねぇ大丈夫……? ごめんね……? すごいなんか、内臓を破壊した感じがしたんだけど……」
「もう先生〜びびりすぎですよぉ。そんな簡単に内臓がどうにかなったりしませんってぇ。なんなら次はパンチでもいいですよ〜? ほら、ほらほらっ、かも〜ん?」
「やだ、もうやらない」
「そんなことで良心を捨てられますか〜?」
「捨てられるよ。間違いなく」
「間違いなくですか」
「うん。……だって、今のこの会話だって、私は漫画にするんだから」
「……ふふっ。知ってますよぉ、楽しみです」
「へへ、うん、知ってることを知ってる」
「うふふ〜」
「えへへ」
シャワーを浴び終えたアオイは、まるで楽しみにしていたイベントの日の朝に自然と目が覚めた時のように、清々しく活力に満ちた顔をしていた。つい数分前までの、蹂躙の限りを尽くされた被害者の姿はもうそこにはないように見える。そして彼女はそのままクジャクが持ってきた着替えを着て、二人で仲良く家路についた。
帰る道中、二人はこんな話をした。
「そういえば思ったんだけど、精液を平気で飲めるサキュバスがさ、納豆の味が苦手っていうのは、さすがに納豆を作ってる人に失礼すぎない?」
「あっ、そうなんですよぉ。実際に生産者系の人がNGなサキュバスってちょくちょくいるんですよ〜? 農家NGとかぁ漁師NGとかぁ」
「え〜、それでNG出されてサキュバスにありつく機会を失う男がいるのは、それはそれでなんか気の毒だな」
「サキュバスからしても、失礼云々の話は単純に面倒ですよぉ。それに、わたし個人としては不思議にも思いますね〜。精液はむしろ不味そうに飲んでくれた方が興奮する〜って人もいるくらいなのに、男性はみんな精液の生産者なんじゃないんですかぁ……? 失礼なサキュバスには無理やり食べさせちゃえばいいのに〜、よく分かりませんねぇ」
「うーん……溝は深いな……」
日記は、このあとも理論上ずっと続く。作者とその友人の人生が、隣あって続いていく限り……。
……私はそれらの構想を、あらかじめルカトゥに話してみた。ネタバレに配慮するにはあまりにも現実に密着しすぎているその内容について彼女に確認を取ったということはつまり、この構想を「予言」としてもいいか聞いたという意味も含んでいる。
私は無駄な良心を捨てる。だから今後近いうちに、ルカトゥには構想上のアオイと同じ目に遭ってもらい、それを正しく「日記」にしてしまえばいいと考えている。それが出来ればルカトゥだってきっと「先生は遠慮をやめたんだ」と思ってくれるはずだ。何の落ち度もないのに暴力を振るわれれば、いくらなんでも、それを遠慮だと捉えはしないだろうから。
……が、その相談を持ちかけられたルカトゥの答えは、私の想定するより少しだけ斜め上を行く物だった。
「先生ぇ、こうしてもいい……? じゃなくて、こうしなさい……! って言っちゃえばいいんですよぉ?」
「……なるほど」
どこまでが彼女に払うべき敬意で、どこからが彼女をかえってモヤモヤさせる余分な気遣いなのか、私にはそれがまだ分からなかった。そのあたりは地道に探り探り行くしかない。今回はこのやり取り自体に意味があったんだ……と自分に言い聞かせる。
それから私は、サキュバスと納豆にまつわる素朴な疑問を彼女に問い、その答えを確保できたことに満足しながら、いざ執筆に取り組み始めた。……あれから数日経ったけれど、進捗はまだアオイに生クリーム乗せカレーを食わせるところの下書きにすらたどり着いていない。先は果てしなく長かった。でも、むしろそれが良いのだ。
ルカトゥは、私が漫画を描いていると、そうでない場合よりは安心してくれるように思う。そして私も、漫画を描いている間はそれに没頭することで、安心が得られる。だから執筆作業は、底なしであればあるほど良い。締切があるなら話は別だけれど、そんな物はもう二度と私には訪れない。ルカトゥがそれを無限に遠ざけてくれるから。
ある日、執筆を休憩して、ルカトゥと昼食を兼ねたおやつにスイートポテト(ルカトゥが作った)を食べていた時のこと。ふと「今」の気がして、私は聞いてみた。
「ねぇルカトゥ、あの時は答えをぼかされたけどさ。……もし私が事故とかで死んじゃったら、ルカトゥはどうなるの?」
「……それ、そんなに聞きたいですか〜?」
「うん、聞きたい。聞かせて?」
だって、人間の私はどう足掻いても、サキュバスのルカトゥより先に死ぬんだもの……とは、言わないでおいた。
私はまだ、アオイの扱いを予言として成立させてはいない。けれど今すぐそれを成立させようと言い出せばきっとノリノリで準備を初めてくれるはずのルカトゥが、なぜかこの質問に答えることだけは本気で渋っているように見えた。私の中で、そのこと自体にも単純に興味が湧き始める。
舌の乾きを断つように飲み物に口をつけてから、ルカトゥはおそるおそる言った。
「……聞いても先生、傷つきません?」
「え? うん。……逆になんで?」
「だって、なんかこう、……こう、脳が破壊されたり、しません?」
「あー」
それは事実上の回答だった。
「脳が破壊される」とは、エロ漫画の読者たち特有の言い回しで、「恋人を寝取られる」を意味している。……つまりルカトゥは、もし私が死ねば、その時は次の誰かを見つけに行くということだ。
それについて「傷つくか?」と聞かれてしまうと、今度は私の方がまったく同じ心配をしながら回答しなければならなくなる。……けれど、そこで私は思い直した。どう答えようかな……と巡り始める思考を止めた。そういう思考が、捨てると決めたはずの遠慮なのではないかと気づいたから。
だから正直に、気を遣わず、思ったままを答える。
「破壊されないよ、べつに」
「ほんとですか……?」
「その時は天国でルカトゥと「次の人」のことを見とくよ。新手のAVだと思って」
「えっ、……あははっ、先生ぇ、いいですねぇそれ〜」
それは皮肉ではなく、本心から言っていることのように聞こえた。
……スイートポテトを大きく一口頬張りながら、私は、そのやり取りに想像以上の安らぎを感じていた。ルカトゥの無敵さは、べつに私ありきの物ではないらしい……と知れたことで、なんだかものすごくホッとしたのだ。思い上がりも甚だしく、彼女の無敵がはるか昔から始まっている物であることをすでに聞いているのだから理屈的に考えてもおかしいのだけれど、それでも本当にホッとした。
まったく死ぬ予定はないし、死にたいとすら思っていないけれど、なんというか……「いつ死んでしまっても大丈夫なんだな」と思えた。それは、そう思えないよりはずいぶん気が楽なことだった。
口の中のものを飲み込んで、私はさらに聞く。
「ルカトゥこそ、もし私が天国ですごいイケメンの天使とか、それか紆余曲折あってすごい美女と結ばれてたりしたら、いつか天寿をまっとうした時にそれを見て脳が破壊されちゃうんじゃないの?」
「え、あ〜、それは、う〜ん……。……その天使がいるからルカトゥはいらないってことになるんだったら、まぁ、嫉妬はしてしまいますねぇ……」
「天使とルカトゥに二股をかければいいってこと?」
「え〜? そしたらわたしを一番にしてくれますか〜?」
「それはルカトゥ次第かなぁ」
「ふっ、あははっ、強気だぁ〜。見てみたいなぁ、先生がそんな王様になってるところ〜」
「二股かける時点で天国行けなさそうだけどね」
「えっ、じゃあ絶対二股ダメです!」
「だねー。……でもルカトゥこそ、死ぬまでの間に見つけた私以外の人を捨ててまで、私のところに来てくれるかな?」
「むぅ……。もし「次の人」が先生のクローンだったら……みたいに考えると、なんとも言えないかもです……」
「天国の神様が許してくれれば、次でも次の次でも、全員連れてきてくれたらいいんだけどね」
「え、先生的にはそれでいいんですか……?」
「ダメかな……? みんなで仲良くできたら、それが一番よさそうだけど……。……あっ、でもすごいチャラ男が来たりしたら、それは単体で普通に無理かもしれない」
「え〜? ふふっ、先生ぇ、先生のそういうところ、本当に最高ですよぉ」
「そういうところって?」
「ん〜、……お天道様とは違う価値観で生きてるところ? ですかねぇ」
「それ褒めてる?」
「褒めまくってますよぉ。サキュバス好みってことです」
「へぇ〜、初めて言われた」
「あれ、今まで言ってなかったでしたっけ〜? ……あ、そういえば今思い出したんですけどぉ、「ゆめ魔にっき」って、ヤグラさんにも許可を取らなくて大丈夫なんですか〜……?」
「げっ、そうじゃん! 完全に失念してた……うわーめんどくさっ……」
「ふふ、大丈夫ですよ〜。向こうには負い目がありますからね〜」
「あ、たしかに。あはは、じゃあ気が楽だ」
本人がいないところで勝手に許可が出たようなつもりになって、のんきにおやつを食べながら、私たちは笑った。死も、不許可も、本気で自分の身に起こることだとは、どうしても上手く思うことができなかった。
これから果てしなく描き続けていく日記が、できる限り、本当にできる限り長く長く、ずっと続いて行くといいな……。ぼんやりとそんなことを考えながら、私はおやつを平らげて、執筆に戻る。ヤグラ君に「ルカトゥとの生活を題材にエッセイを描くんだけど、ヤグラ君のことも登場させていい?」とメッセージを送ると、わりと早めに返信が来た。
「イケメンに描いてくださいね」
私は笑った。たしかに彼の描いた咲月とやらは、私とは似ても似つかない垢抜けた美少女だったなぁ……と振り返る。
例のエロゲ、ルインの日は、未だに大雑把な発売日すら発表されないままでいる。けれど、果てしない日記の執筆は一体いつになればキリのいいところにまでたどり着けるのか、それが見当もつかない私には、もはや人様の進捗に苦言を呈することはできなくなっていた。……いや、考えてみればそもそもただのニートが、人様のスケジュールにコメントすること自体おこがましかったのだろうけど……。
と、そんな風に、負い目は相変わらずCMのように私の心に挟まってくる。……けれどそれでもなんだか、最近はいつになく気分が軽やかだった。そのうち春になったら、ルカトゥとお花見にでも行ってみようかな。インドアの私がそう思う程度には、本当に軽やかだった。
ルカトゥの無限ループするつらい気持ちも、その輪っか自体が、私の心と同じくらい軽くなってくれていればいいな……と思う。それは偽善だけれど、偽善で全く構わなかった。ルカトゥはそれを咎めなんてしないから。
なんだか漠然と、両親に本当の近況を話すことだって、そのうち上手く出来るような気がしてきた。