夏の日差しは鋭い。何もかも貫通して、部屋の中を蒸しあげてくる。
じゃあ熱気を通さなければいいと雨戸を閉めてみるが、そうすると昼間の癖に日差しが入らず気が滅入る。
ならば次はカーテンだけにすれば! なんて簡単な話は無く、暖かいを通り越して灼熱と言える日差しが体を直接焼いてくる。以下、無限ループという奴だ。
そもそもエアコンという文化が私にとっては厳しいものがある。
丁度良いという温度に設定できず、必ず『暑い!』か『寒い!』の二択になる。結果、真夏にクーラーを付けているのに何かを羽織って部屋で過ごす、なんて言う愚行に走ることになっているのだ。電気代をどぶに捨てているようなものすぎる。
そこで、私たちは昔ながらの先人の知恵とやらを借りることにしてみた。
最新最先端の電化製品よりもおばあちゃんの知恵袋という奴だ。今考えたことわざだから事実性は皆無だが、それっぽいので良しとしよう。
「良い感じじゃないかい?」
「あぁ……まさに先人の知恵という物だね」
そこで今回、我が家に実装したのがこの
ホームセンターで1000円ちょいで買えた。地味に高いが、これも風流だろう。違う気もする。
時代劇のお団子屋さんとかによく掛けられているのをよく目にするこの簾。本来の用途としては、現代で言うカーテンに近いものではあるが、もう一つ重要な役割がこいつにはある。
それが日よけだ。
日差しを遮り、通気性が良く何よりも風流なこいつは、昔から日本国民の夏に大活躍してきた。
今でも個人経営の外食店なんかで簾が掛けられている場所もたまにあるほどだ。これぞ、元来からの夏の風習という奴だろう。
「なんか涼しい気がしてきたねぇ」
「あぁ……儚い……」
多分、こういった昔の物から感じる風流とかが良いって言いたいんだろうね。多分ね。こういうのって、所詮フィーリングだから。
そもそもこの案を推したのは彼女だ。
こんだけクソ暑いんだから、一周回って簾とか掛けた方がひっくり返って涼しいんじゃないか、なんて頭が湯だっていないと出ない発言を全肯定されたらこうなっていた。
彼女の一番良い所であり、ある意味一番ダメな部分かもしれない。いや、それにノリノリノリアキしてその足でホームセンターまで仲良く突っ走ったのは、間違いなくこの私ではあるが。
『本日の天気は晴れ。一日中、夏の青空がいっぱいになるでしょう。東京の方での最高気温は──―』
電波時計の示す室内温度は31℃。今日の最高気温は34℃との予報も出ている。もはや、テレビをニュースから再放送のドラマに切り替えることすら億劫だ。
ややひんやりと感じるフローリングに横たわってから、ピクリとも動けない。ズレた眼鏡を直す気力も外す気力も無い。全身が汗でじっとりと湿っているのが気持ち悪い。
簾のかかったベランダのドア方向からは、人間が発生源であれば確実に近所迷惑でお隣様から助走をつけて殴りかかられるくらいの音量で、セミがわんさか鳴いている。もう聞きすぎて頭の中でガンガンセミが暴れているみたいに感じてきた。バグっている。
「彼女さんや……生きているかい……」
「勿論さ……この暑さもまた、夏の儚s」
「暑くない?」
「あぁ」
だよね。やっぱ暑いよね。
いつも彼女はセリフのような言い回しをするから、大体一呼吸置く様な感じで言葉を発するんだけど、もう今に関しては単純に暑さでグダっていただけだもんね。それくらいわかるよ。だって私も死ぬほど暑いんだもん。
辛うじて残っている自我のおかげで、なんとか服は脱がずに済んでいるが。流石にここまで暑いと、露出狂の気が無い私でもブチギレて全部服を投げ捨てるまである。なんでこの国はこんなにバカみたいに暑いんだ。おかしいよ。
ただ暑いだけならきっとギリギリ許せるんだよ。いや、許せないかもしれんわ。でもここは話が進まないから許せると言う事にしよう。
なんでこんなに湿気があるんだよ。70%とか7割水じゃん。もうここ実質川じゃんか。じゃあ実質涼しいじゃんなんでこんなに暑いんだよ。もう何言ってるかわかんねぇや。
『荒木さん。東京では熱中症患者の方が随分と増えている様ですが──―』
「そうだ……忘れてた……」
ふと、頭に完全に忘れていた最強の冷却術が頭によぎった。
チンチンに熱気にやられた体を気力で無理やり押し上げ、ついでに眼鏡を両手で直して、洗面所へと重たい足を引きずる。
テレビを見ている彼女は、いつも通りの宝塚みたいな雰囲気を出しているように見えたが、よく見ると熱気にやられてヘタっている。
普段からギャップが服を着て歩いているような人物ではあるけど、内面的なギャップだけじゃなくて、物理的にもギャップが強いって言うのは新たな発見かもしれない。ほんの少しだけ夏に感謝。
「こういう時にアレですよ……アレ……」
一人でぶつくさ垂れながら、タオルを二つ押入れから引っこ抜き、水をためた洗面器にそのままタオルを突っ込む。最後は製氷機に手を突っ込んで、そのまま鷲掴み一回分くらいの量の氷を入れれば、彼女が手を突っ込んだら変な声を出しそうなくらいの冷たさの水が出来上がる。
あとはこいつに浸したタオルを、水分が抜けきらないぐらいの職人芸で水を絞れば、キューピー7秒クッキング濡れタオル編の完成だ。
出来たらこれをちょっと細長くして、暑さにヘタれている彼女の後ろに回り込んで首元にヒョイッとかけてあげれば。
「うひゃあっ!?」
はい、完成。反応も百万点、気分も爽快百点満点ですわ~!
彼女は今、暑さ対策で綺麗に伸ばしてある紫の髪の毛を、高めの位置にお団子にしてまとめてある。がら空きのうなじにはクリーンヒットしたらしい。
人間の体を効率的に冷やす時は、首元と脇下と鼠径部に凍ったペットボトルや氷、濡れタオルを当てると良い。
これは運動部なら恐らく誰しもが知っている豆知識。熱中症で倒れてしまった人にも、ここを冷やしてあげると効率的に体温が下がるので適切な処理に繋がる。勿論、自分にも使える処置だから覚えようね!
「気持ちいいかい?」
「あ、あぁ。でも、いきなり首元は少し驚いてしまうよ」
「そこ以外だと脇とか鼠径部になるけど」
「わ、脇は今は不味い……」
いや、そうやってキュッと脇本を抑えるようにしなくても。別に無理やり手を突っ込んだりはしないから。
この室温と湿度でそんなことしたら、間違いなく二人揃って仲良く病院送りだからね。それも悪くは無いけど、お医者さんにいらない手間をかけることになるからやめておこう。
女性だろうと汗はかくんだから気にしなくてもいいのにね。女性ってそういうところ気にするよね~って勝手に思ったけど、よく考えたら私も汗だくの時はあんまり人を近寄らせたくないわ。
今はお互い汗だくだからいいじゃんとは思うけど、基本的には男女関係なく同じ思考だったね。
「……ちなみに鼠径部って言うのは、どの部分か聞いても良いかな」
「太ももの付け根だね」
「……こっち?」
「いや、そっちじゃなくて上の方だね」
「…………」
「医学。医学」
そんなに縮こまった女の子座りにならなくても。別に取って食べる訳じゃないですから、本当に。暑さで頬が赤いのか、それとも恥ずかしくて頬が赤いのかわかんなくなってるから。
これはちゃんとした医療機関が推奨している場所なんだから。そう、マジでちゃんとしている処置方法なんですからね。医学。医学。
とは言ったものの、一旦そういう風に聞こえ始めてしまうと、全部が全部そういう意味に聞こえてくるというのが人間の不思議なところだ。ツボに入ったりするのと同じだね。
現にもう彼女すんごい警戒態勢取ってるもんね。そんなに酷いことをしたことないはずなんだけど。少なくとも身に覚えはない。不思議。
「君はそういうところがあると思うんだ」
「はて。何の事やら」
「っひゃ……!」
おどけた様子で、冷蔵庫から取り出した氷入りペットボトルを軽く投げるように渡してみる。
素直に両手で受け取った途端に、また少しピクリと体ごと綺麗に反応する。さっきのタオルもそうだけど、こういう一瞬の事態にはどうしても対応が難しいらしい。勿論、こっちはそれを知っていてやっているんだけどね。
「凍ったペットボトル……?」
「そう。中身はただの水。ま、今は氷だけどね」
「これを脇に挟むのかい?」
「それでもいいけど」
「そうじゃないんだね」
「御名答」
取り出したのは、ボウルと水を入れて凍らせたペットボトルが二本。使う道具はなんとびっくりこの二点のみ。
この全く関係なさそうな二つの道具をエイッ! してン゛ーッ! ってなるとどうなるんでしょうか。ネタバレにはなってしまいますが、ペンパイナッポーアッポーペンではございません。ヤー!
「ハイ完成」
「ボウルにペットボトルを入れただけのように見えるけれど」
「その通りです」
「……?」
「理科の時間ですよ。単純に結露が出来る要領で除湿するだけでございます」
結露が出来る仕組みを理解していれば、理解するのは全く難しくない。
冬場に暖房をつけておくと、部屋の窓が大量の結露まみれになり、窓際の橋の方がびっしゃびしゃになってて萎えた経験が無いだろうか。
あれは室内の温度が窓の外の外気温によって冷やされ、空気中にある水分が水になっているから、っていう小中学校のどちらかで習うであろう簡単な化学的なアレだ。
簡易的ではあるが、夏場でも凍ったペットボトルを湿気の多い室内に置いておくと、ペットボトルの周りに結露が沢山出来て結果的に除湿と室温低下につながるという算段だ。
熱伝導率の高い金属で出来たボウルを使うと効果も倍増するので、よりおすすめ。その場合はボウルにも結露が出来るので、下にタオルを敷くなどしましょう。どれもこれも一言一句変わらず、この前SNSで見た。
「わかった?」
「勿論。自らの身を溶かしながらも、その役割を全うするその姿……儚い……」
「溶けちゃったらまた凍らせればいいやんね」
この除湿方法の良い所は、どれだけでもサイクルが効くって点にもあるからね。
環境にも良くて電気代もかからないエコロジー。まさに人類の知恵の勝利というやつかもしれない。
「暑い……」
「うん……そうだね……」
「ちゃんと水分取ってるかい……?」
「勿論……冷たい麦茶を頂いているよ……」
「なんならそのペットボトル、中身飲めるから……」
湿気をとっても暑いもんは暑かった。
確かに、あの氷入りのペットボトルは人類の英知の結晶だった。アレを置き始めてから、見る見るうちにペットボトルには結露がたっぷりと付き、部屋の湿度は肌で感じるほど下がっていった。
けどダメだった。どれだけ湿度を下げても暑いもんは暑かった。よくよく考えたら、冬場で湿気があっても寒い時は寒いんだから、気温に関しては湿度をコントロールしてもどうしようもないのは当たり前だ。
「もしかしたら、人類の英知って敗北していたのかもしれん……」
「何、敗北から学べることも、人類にはまた必要なものだと、かの偉人たちも言い残しているんだよ……」
「偉人達も暑さに頭をやられたのかな……」
「昔は今ほど熱くなかったと聞くからね……」
つまり、昔の偉人の言葉は今ではあまり参考にならないのでは? いや、昔の偉人の言葉は決して暑さに限定された話になっているわけでは無いけど。
なんだったら、暑さに関係した言葉を残している偉人の方が少ないんじゃないかな。私、嫌だよ。地球は青かった、みたいなニュアンスで日本は暑かったとかいう発言が偉人の言葉って残されてたら。物凄く嫌だよ。なんかダサいというか普通の感性の感想やん……って思われそうで嫌。
「どうするよ……? クーラー入れるかい……?」
ここまで来れば、作戦は失敗と言わざるを得ない。致命的なダメージを食らったとしても、生きて帰ってさえ来れればモーマンタイ。結果よければ全てヨシ! って言う奴だ。
幸いなことに、時刻はまだ午後の14時。時計も汗をかきだすんじゃないかって程の暑さが、あと2時間は続くだろう。まだまだ昼は長いし、逆に言えばここで方向転換をしてしまえば、まだ余裕で取り返しがつく時間帯でもある。
「いや……今日は冷房を付けずに一日を過ごしてみないかい?」
「…………へ? その……暑くない?」
クーラーのリモコンまであと数㎝、ってところでピタリと指先が止まる。普段から頭のネジを締める場所を間違えているとは思ったけど、シンプルに暑さで脳内の台本もふにゃけてしまったのだろうか。
冷房を付けずにほおっておいて熱中症で倒れられても大変だから、クーラーを付けて25℃の室内で寒いって言わせたいのが本音ではあるんだけども。25℃だと俺もちゃんと寒いってのは難点だけれども、俺が寒いよりも彼女が寒がる姿を見たいから、こちらとしては実質ノーダメージだし。
「ほら……窓の外を見てごらんよ……」
「外かい……?」
「今日は満点の青空だ。こんなに清々しい青空を、お天道様が覗かせてくれる日なんて、滅多にない」
簾を少し避けて、覗くように顔を出してみる。鋭い日差しを少し手で隠しながら空を見上げてみると、文字通り雲一つない晴天が見渡す限り広がっていた。いつも堂々と浮かんでいる大きな入道雲さえも、見る影すら無い。真っ蒼でいっぱいのキャンパスの舞台で、太陽が一人だけ我が物顔で輝いている。少しだけ、何処かの誰かに似ている気がする。
「そんな一日を肌で感じて、君と二人で過ごす。そういう思い出もまた儚い……君はそう思わないかい?」
いつものように、華麗にポーズを決めて言うセリフというわけでは無い。ただ、暑さで伸びてペタリと座りこんでいる状態で言うものだから、説得力のカケラも無い。
「簾を買ってお天道様を避けてちゃ、せっかくのお日様も勿体なかったかな」
「これくらいで遮られるような太陽じゃないさ! 夏の日差しは、いつもよりも強く、美しく、儚いからね」
「そのせいで私たちは伸びてるわけだけれど」
ピクリと一瞬、耳が動く。
私たち諸共、暑さにやられて伸びるというところまでは想定外だったらしい。
我が家の薫くん、見た目とか内容に囚われてどっちかを見落としてた……なんてことはよくある。そのたびに、別の言い回しでカバーするか、ちょっとだけしょぼくれるか。後者の姿を見せるのは、恐らく私だけになんだろうけど。
「ま、こういう一日も良い。夏だからね。今日くらい、何もしないでダレて過ごすのも悪くない。君が言うなら」
「……!」
無言でそんなキラキラした眼差しを向けられても困る。
本当に今日だけだ。絶対に今日だけだ。正直、今すぐにでもすべての窓を閉め切ってクーラーを付けてやりたい。そんな気持ちで胸がいっぱいではあるが、それよりも彼女のやりたいことを叶えてあげたいという気持ちで心の方がいっぱいになっている。ズルい生き物だよなぁ。彼女って。
『今日は大変危険な暑さが続くと予報されています。テレビをご覧の皆様も、室内では冷房を付けて──―』
テレビのリモコンを手に取り、カチリとチャンネルボタンを一つずらす。堅苦しいスタジオの風景から一転、画面では高校球児たちが甲子園球場を駆け回り始めた。
テレビのニュース様は色々と言ってはいるが、残念ながら優先順位はこっちの方が上。
「じゃ、アイスでも食うか」
「それなら、私は取っておいたハーゲンダッツを……」
「昨日、風呂上りに食ってただろ。無い。買ってくる選択肢も今日は無い」
冷凍庫から漏れ出る冷気に深い感謝を覚えながら、一番手前に転がっているパピコを手に取る。選択の余地はない。あるもので我慢するというのが我が家の家訓だ。
ポキリと半分に割り、蓋を外してそのまま手渡す。冷え切ったアイスを頬っぺたに当てて冷を求めている様子を見て、大人しくクーラー付けりゃ良いのになぁ、なんて思ったりはしていない。
「美味い!」
「暑い時に食べるアイスは特別美味しいと、こころも言っていたよ」
「そりゃ、良いことを教えてもらったな」
こんな暑い日に、クーラーも付けずに二人でアイスを食べながらぼんやりと興味の薄い高校野球を眺める。
元号を一つか二つほど間違えていそうな、真夏の風景ではある。でも、生産性の無い変わらない日常に比べれば、いつもと違うという事実だけで少し心が躍る。
こんな八月も悪くはない。そう感じるのはきっと、隣に瀬田薫がいるからだろうか。決していつもの格好いい彼女ではない気がするけど、それでも多分、彼女は瀬田薫だから。
夏の日差しはまだまだ落ちる様子はない。今日は特別、長く儚い一日になりそうだ。