夕方になってもまだ暑い、真夏の熱された空気に対して高らかに金属音が響く。一つの白球を青年がグローブへと収め、力いっぱい投げ返す。その間に一人、二人とダイヤモンドを駆け抜けて戻ってきた青年はベンチへと戻って喜びを分かち合い、二塁ベースを踏んだ小麦色の長身の男はベンチの、そして会場の拍手に爽やかな笑顔とガッツポーズで応えてみせた。
「すごい、逆転したよ!」
「ああ、スライダーを待ってたんだな」
「追い込まれてからの粘り方すごかった、はぐみハラハラしちゃった!」
そんな汗と努力、そして青春の輝きを煌めかせる高校球児たちにとっての集大成とも言える夏の全国高校野球選手権の予選決勝を北沢はぐみは彼らに負けない輝きで見守っていた。そしてその横には彼女と幼い頃から白球を追いかけ続け、今も尚その夢を失わない同い年の青年がそれを少しだけ冷静に見守っていた。
一点を追う六回裏、二
「まだまだチャンスだよ!」
「だけど、あのピッチャーはここで簡単に崩れるようなやつじゃないよ」
「わ、すごい落ちたよ!」
「ここでキレが上がるんだから、本当に尊敬するよ」
既に敗北してしまい、ここで見守ることしかできない彼ははぐみの隣で悔しそうにそう語った。その通りに畳み掛けるという攻め気を見せた五番の左打者に対して今日一番と言っていいスライダーが決まり、見逃しの三振が審判によってコールされた。安打を打たれても、
「……はぐみもね、キミがここの打席に立てるの、期待してたよ」
「それは……ごめんな。負けちまったよ」
「謝ることじゃないよ! だってさっきのピッチャーからホームラン打ったんだよ! すごかった、本当にすごかったから!」
「けど、負けは負けだよ。俺だってそのホームランひとつだけだし」
東京に本拠地を置くプロ野球のチームの本拠地でもあるこの球場のバッターボックスに立ちたかった。そんな悔しさを滲ませる彼はこの回でマウンドを降りるであろうエースとの対戦成績は三打席三打数一安打、その一本はソロホームランだった。だがチームは七対三で敗退してしまった。
「野球はチームでやるものだから」
「……うん」
「それにはぐみがそうやって応援してくれるから、俺だって頑張れたんだよ」
「……はぐみの応援が?」
「もちろん、はぐみはいつだって俺の応援団長だからな」
負けはしたけれど、大切な恋人の前で最高にカッコいいシーンを見せることができた。それは悔しいという感情の中で唯一、彼が笑顔を見せることのできるものだった。ただ、その笑顔が今は偽りのものであることは彼女も理解していた。
──負けたら悔しくて、泣きたくて、感情がぐちゃぐちゃになってしまう。例え勝ったとしても、今度は対戦相手がそうなってしまう。はぐみはそれが昔から嫌だった。もちろんスポーツの根幹にあるものは優劣を付けること、力を誇示することにある。だがはぐみは弦巻こころという太陽を見つけてからその嫌だった気持ちがなんなのかを知った。
「あのね」
「……ん?」
「期待はしてたし、応援してたんだけど、えーっと、うーんと、上手に言葉が出ないんだけどね」
「いいよ、はぐみの直感で」
「じゃあね、勝ってほしかったわけじゃ……ないって言ったら、失礼だよね」
「そんなことない。はぐみが俺を怒らせるために言ったんじゃなきゃね」
キン、と金属バットの高い音がして鋭い打球が飛びついた一塁手のミットのわずか数センチ横を通り抜ける。ライトがすぐさまカバーに入るものの俊足巧打が持ち味の打者は二塁に滑り込み、泥だらけのユニフォームと汗まみれの頭を振って笑顔と拳をベンチと次の打者に向けていた。真夏の熱気にも劣らないチームメイトの歓声、そして絶対に諦めるつもりのない笑顔をしているであろうグラウンドで青春を煌めかせる球児たちを遠くで観戦しながら、彼はそっとつぶやいた。
「……俺がダイヤモンドを一周してた時、いい顔してたか?」
「すっごい笑顔だった! はぐみ、ちょっと泣きそうになっちゃうくらい……キラキラしてた」
「なら……まぁ及第点かな」
「う、うんっ!」
その言葉ははぐみの足らない言葉の真芯を捉えていた。初球から真っ向勝負に持ち込もうとした球は美しい放物線を描き、そして歓声と熱狂の中、球場の右側に設置してある黄色いポールのほんの少し右側にボールは吸い込まれていく。はぐみの弾ける笑顔と喜びの声を隣で聴くことで、改めて小柄な彼女の存在の大きさを彼は再確認していた。
「じゃあ来年はアレだな、なんならはぐみに向かって拳を突き出してやる」
「待ってるね」
「おう」
大歓声の中、二人は来年に想いを馳せ、拳を合わせた。まだ二人が同じチームでそれぞれエースと四番を争っていた頃から続く、二人の想いを伝え合わせる手段の一つとして用いられていた。
そのまま猛攻は続き、再び点差はひっくり返ったことで場内はさらにヒートアップしていく中、はぐみも興奮気味に彼に言葉を向けていく。
「今のピッチャー返し! 完璧だったのに!」
「そうだな、けど上手く回り込んでたな」
「けど、まだアウト二つだもんね!」
「ああ、まだチャンスはある」
そんな彼の言葉を証明するようにバッターボックスに入る選手は遠くからでもオーラが見えそうなほど必ず追加点をもぎ取るという気合が充填されていた。その迫力に気圧されたかコントロールを乱し、二度バットを振ったものの最後は
「ここで交代かな」
「どうだろうな、はぐみとしてはどうしたいこの状況?」
「二死一塁、三塁なら……もうちょっと頑張れる、頑張りたい」
「けど、これ以上の失点はまずい」
「……だね」
マウンドに集まる内野陣に、そしてその中心でグローブを口許に当てる投手を彼の問いかけで自分がピンチに陥っている時と重ねたせいなのかはぐみは難しい表情で見つめる。元々どちらかを応援しているわけでもなかった彼女はふと、ここまで頑張ってきても勝ったほうだけが決勝大会、甲子園球場の舞台に立てる──つまりは、ここで負けたら全てがなかったことになるような気がしてしまい、複雑な気持ちを抱いていた。
「大丈夫」
「……なにが、大丈夫なの?」
「そりゃ負けたら、悔しいし、気分は最悪だろうな……決勝まで来て、あと一歩届かないって」
「……うん」
「けど、負けただけで全部がなかったことになるわけじゃない。確かに残るもんだってあるよ」
難しい顔をしていたはぐみの背中に触れた彼は、自分がそうだからと寂しそうに笑った。
負けても得られるものがある、なんて言葉はここでは気休め以上の意味を持つことはない。たった一度負ければ、たった一つでもミスをすれば目標に向けて流した汗も、枯れるまで出した声も、夜遅くまでバットを振ったことも、全て終わってしまう。残るものは負けたという現実しかない。それを彼は知っていながら、はぐみの、ずっと応援してくれていた大切な恋人の頬に手を添えた。
「それに、勝負でも笑顔で楽しむ。それが大事なんだって教えてくれたのは……はぐみだろ?」
「う、うん……って、はぐみもこころんに教えてもらったからなんだけど」
「そっか、でもだから俺は負けてるあの状況でも、バットを振れた気がするよ」
彼の優しい言葉にはぐみの顔に笑顔が戻った瞬間──キャッチャーミットにボールが叩きつけられるような音がする。気合も集中力も籠もっていた、決して悪くないスイングのバットはタイミングを外され空を切る。審判がコールをして悔しさと嬉しさを混ぜ込んだような顔でマウンドからベンチへと戻っていく投手にはぐみは気持ちの籠もった拍手を送った。
「今の人、カッコいいね」
「……それは、ちょっと反応に困るな」
「あ、そういう意味じゃないよ! 選手として、ってそれも、キミの方がカッコいいけどっ!」
「あはは、大丈夫、伝わってるよ」
「でも、ああやってピンチでも楽しめるようになりたいね」
「難しいだろうけどな」
特に負けが背中から追ってくるような、そしてその負けが自分だけじゃなくてチーム全員、守備をしてくれている八人だけじゃなくベンチにいて見守るチームメイト、ベンチ入りできずにそれでも観客席から応援してくれるチームメイト、それに両親や学校のクラスメイト、下手をすると近隣の地域住民、そんなたくさんの負けに繋がる。その重圧の中で果たして自分は笑えるのだろうか。彼はすぐにそれは無理だと確信していた。
「でも……そっか」
「はぐみ?」
「逆にさ、それだけの人を笑顔にできるかもしれないって思うと……やっぱりはぐみは野球やっててよかったなって思えるかな」
「笑顔、か」
「うんっ」
勝ち負け、女の子らしさ、そういうものにコンプレックスのようなものを抱いていた北沢はぐみが「笑顔」という指針を見つけたのは昨年の春のことだった。中学時代から自然とカップルとして自他共に認める関係であって、だが幼なじみの延長線でしかなかった関係の中ではぐみが悩みにしていた二つをあっという間に変えて、そしてはぐみにカップルとしての覚悟を与えるきっかけにもなった出逢いに、彼は最初こそは嫉妬していた。
──弦巻こころと「ハロー、ハッピーワールド!」というバンドははぐみの価値観をそのままに前向きに変えてしまったのだから。
「最初、キミってこころんのこと嫌いだったよね」
「嫌いって言い方はよくないな……嫌ってるって思われてもしょうがないけど」
「はぐみを取られるって言ってた」
「……口に出してたか?」
「いっぱいヤキモチ妬いてくれてたから、わかっちゃったよ」
「なんだそれ」
幼なじみの延長、一緒に野球をしていた頃と変わらない関係でしかなかった二人を変えた嫉妬は、同時に彼がはぐみのことをどれだけ恋人として大事にしているかという証明にもなった。彼女はそれがいつまでも忘れられない、幸せに胸を埋め尽くされるような気持ちでもあった。そしてそのきっかけを与えた弦巻こころのことも、彼は今では普通に話ができる関係になっていた。
「久しぶりのデート、楽しかった〜!」
「デート、あれでいいのか」
「もちろん、今度は一緒にショッピングとか、バッセンとかがいいな!」
「まぁそういうと思った」
試合はその後、どちらのチームにも0が並んだ状態で終わりを告げた。はぐみが自分に重ねていた投手は結局負けてしまい、それに胸を痛めたものの、最後にはチームメイトに囲まれ、笑っているように見えたことで彼女も切り替えることができていた。
電車を降り、帰り道に手を繋いで歩いていると真正面から話題にもあがった黄金の瞳を輝かせる弦巻こころに遭遇する。
「あら、こんにちは!」
「こころん!」
「よう、こころ」
「ええ、二人は……デートね!」
「まぁ、見ての通り」
「はぐみもあなたもすごくいい笑顔をしていたから、すぐにわかったわ!」
歌うように、まるでミュージカルでも見ているかのようにくるくると金色の髪を波打たせ回転する彼女に対してはぐみと彼は言われた通りの顔をしているのかと見合わせてそして自然と口許が綻んだ。それを見たこころもまた穏やかな笑みを見せる。無邪気で、純粋で裏表のない彼女は彼に向かって距離を一歩詰めていく。
「はぐみのこと、もっともっと笑顔にしてあげてほしいわ!」
「それはもう、可能な限りな」
「その意気よ! ふふ、やっぱりあなたもハロハピに入らない?」
「遠慮しとく、別の目標があるからな」
「そうだったわね」
「──ね、ねぇ、はぐみお腹減ってきちゃった!」
最初に嫌っていたという言葉からは考えられないほど軽く、そして楽しげな雑談を遮ったのは、はぐみだった。繋いでいた手を引いて、困ったような声音と表情で訴えかけられた彼はちらりとこころを見た。彼女も優しい笑顔で頷いてそれから二人に向けてまた花が咲いたような笑顔を見せた。
「そうね、それじゃあまた」
「おう、またな」
「はぐみは明日の練習で!」
「うん、またあした!」
「ええ!」
手を振り、二つの弾けるような笑顔と一つの穏やかな笑顔が別れていく。
だが、彼の隣にあった弾けるような笑顔はもう一つの笑顔が見えなくなると少し、不満げなものへと変化した。その表情を予想していた彼は繋いだ手を僅かに自分に引き寄せつつ、どこか嬉しそうに、歌うように言葉を紡いだ。
「さ、腹減ったなら帰るか、それともコンビニでも寄るか?」
「ううん、帰る」
「わかった……俺んちな」
「うん」
弦巻こころにとっては彼と彼女の二人を邪魔するつもりなどなく、彼も幼い頃からの初恋である彼女以外に目を向けることがない。はぐみもそれはわかっていつつも、それだけで片付けられないのが胸の内で燻る黒い炎だということを理解していた。だがその感情がこころと彼にも伝わっていることまでは、気づけていなかったが。
──だがそんな彼にも気づけていないことがなかったわけではなかった。
「……はぐみね」
「どうした?」
「勝負とか、苦手だって思ってたけど……これだけは負けたくない」
「これだけって」
「こころんにも……誰にも負けたくない」
それは勝負事が苦手な、明確に勝ち負けが付くことに関してあまりプラスの感情を抱くことのなかったはぐみが恋愛においては、彼の隣にいることだけは譲れないということだった。はぐみから見ればこころも、他のハロハピのメンバーも皆、魅力的な女の子揃いであり、自分はそんな彼女たちより女の子っぽくないと劣等感すら抱いているが、彼に抱きしめられるぬくもりを知っているのは、大きな手が頭や身体を撫でる心地よさを知っているのは、踵を上げる幸福感を知っているのは自分だけでいい。自分だけでなくては嫌だ、と強く感じていた。
「負けたくないもクソも……対戦するまでもないけどな」
「……ほんと?」
「5回コールドだな、大差で勝ってるよはぐみは」
「えへへ……そっか!」
「ということで、腹減ったんだっけ?」
「……ん、っとね。先に……シャワー浴びたいなって」
「ああ、そうだな」
「うんっ」
来年はきっとこんな風にのんびりとデートする暇なんてないくらいになる。そんな彼の密かな決意とは別に、せめて今年はできる限り彼の傍にいたいとはぐみは背中を預けていく。
──そんなはぐみはクラスメイトにどんな相手と結婚したいかと問われた際に一つだけ迷うことなく答えることができていた。
「プロ野球選手かなっ!」
彼には秘密にしている理想の結婚相手、という話題にそう明るく笑い、一見すると抽象的に思える彼女の理想の相手が、誰なのかがわかるのはもう少し先の未来のことだ。
今は、まだ夢を浴槽に浮かべて語り合うだけの二人は、それでも幸せに笑みを向け合うのだった。