夏に咲く花のひとつ、向日葵。
花言葉は『憧れ』『情熱』『アナタだけを見つめる』だそう。

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まかせなさい

 都内を離れるなんて、いつぶりだろうか。俺は、確か数年前に家族でキャンプに行ったような、という曖昧な記憶をどうにかこうにか思い出そうとしていた。

 

 弟が100円ショップの虫取り網でカブトムシをつかまえていた覚えがある。我が家の野生動物に関する原則であるキャッチ・アンド・リリースで、その立派なツノのオスのカブトムシは森の中へ帰っていったんだっけか。

 

 それで、どうしてもカブトムシが欲しくて数日間騒いだ後に、父さんがしぶしぶ百貨店で大きめのコーカサスを買ってきた。俺と兄2人は大盛り上がりだったが、角が3本だったのがどうやら弟のツボにはハマらなかったらしく──ノーマルのニホンカブトがよかったとのこと──結局上の兄弟で育てていたな。

 

 あのコーカサスは結構長生きして、俺たちの地区の虫相撲大会では負け知らずのパウンド・フォー・パウンドだったな。対抗しようとした上級生が買ってきたギラファノコギリクワガタとも良い勝負をしていた。

 

 俺らの世代は、小学生の時、日曜日の朝にやっていたヒーローもののデザインが昆虫モチーフだったことや、昆虫を戦わせるアニメ・ゲームが多数あったことからも、カブトムシやクワガタに憧れている男子は少なくなかった。その中で、みんなが知っているカブトムシとは違うコーカサスが近所に現れたとなると、虫相撲の強さだけでなく、単に珍しさでも注目を集めていた。

 

 Xのhideは子供の頃、レスポールを持っていたことから家に押しかけて見に来る人がいたと言うが、こういう気持ちだったのかと思った覚えがある。案外、小学生の頃の記憶とは鮮明に思い出せるものだが、家族でキャンプに来たこの地の思い出は、あまり多く思い出せない。

 

 唯一、昨日の事のように思い出せるのは、アレくらいだろうか。

 

 キャンプ場から少し離れた所、何平米もの地に広がる『ひまわり畑』での思い出だ。

 

 俺は今でこそ夏が嫌いだが、あの頃はひまわりの鮮やかさと美しさ、キラメキに心惹かれて、ひまわり畑に行けると聞いてはしゃいでいたものだ。

 

 キャンプの設営を終えて、そのひまわり畑に着くと、小学生の俺は数分だけ舞い上がって走り回っていた。しかし、その後はずっと美術館で絵画を見るかのように、一つ一つのひまわりをじっと見つめていたそうだ。

 

 その中でも、ある一輪がとても大きかった。それからどのくらい見ていただろう。時間を忘れて、すっかり見惚れてしまっていたものだ。後に熱中症になって倒れたことを話さなければ、子供らしい純粋でキレイな思い出だ。いや、逆に夢中になって熱中症っていうのも子供っぽいか? 

 

 都内発のバスを降りて、俺は目的地に向かって歩き始めた。

 

 ──『少し遠出してきたらどうだい。ソロキャンプなんてどうだろう? 1人で涼しい湖畔で読書、なかなか気持ちいいぜ。俺もこの前行ってきたんだ、天王寺と一緒に……』

『待て。お前、また同級生を侍らせているのか』

『なに、天王寺と知り合い?』

『隣の席だ』

『あら、取っちゃった?』

『狙ってねえよ!』──

 

 部活の同級生に、やたらめったら同級生の女子とつるんでいるタラシのやつがいるのだが、今回のキャンプはそいつの提案したものだ。

 

 ──『ま、とにかく今週末は部活もないし。楽しんできたら?』

『キャンプなんて、した事ねえよ』

『いいんじゃない? たーまーにーはっ、らしくない事もさっ?』

『なにそれ。また『なんでも聞いてるよー』の人?』

『そうそう、同じコントのやつだよ』──

 

 そいつが言うに、山梨県は確か主食が桃、おかずがぶどう、おやつがほうとうらしい。ほうとうは放蕩息子のことらしい。名前はなんて言うんだったかな、あのコントやってた人ら。

 

 浮かんでいる黄色い絨毯が見えてきた。あれが世に言う『ひまわりのゴルゴダ』。日本のゴルゴダの丘である。

 

 町おこしのためにキリスト教を無理やり紐付けたここら一帯は、地名や施設のあちこちにキリスト教の単語がついている。キリストの爪や墓が見つかったり、十字架の木の破片がボロボロ出てきたりしているらしい。

 

 国が違うじゃあないか、というツッコミは野暮だろうか。そもそも宗教とは国家をまたぐものだ。

 

 俺は日本のゴルゴダを前に、自分の死んだ場所について、異国の縁もゆかりも無い土地に無理やりこじつけられたキリストはどんな気持ちだろうか、とは特に考えず足を踏み入れた。

 

 あの日見とれた、とんでもない大きさのひまわりは、まだあるだろうか。幼少期の思い出を探しながら、久しぶりの土の匂いや鬱陶しいほどの湿気を、どこかで楽しんでいる俺がいた。

 

 スニーカーで土の地面、つまり正真正銘の地面を踏みしめる感覚。なんだか探検家の気分だ。都会っ子アピールをするつもりはないが、これだけで本当にワクワクする。捕虫網やリュックサックが欲しいな。カブトムシはまだいるだろうか。

 

 ふと、遠くの方で音がした。カブトムシにしては大きい音だ。まるで草をかきわけるような、そんな物音。

 

 俺以外にも冒険家がいるのか。いや、俺は本物の冒険家ではないが。そもそも相手が本物の冒険家である確率も低いだろう。というか、なんだ。本物の冒険家って。偽物の冒険家とかいるのかよ。

 

 暑さのせいか、考えがまとまらない。世紀の水掛け論が脳内で行われている。

 

 テレビで猛暑の地域を映すとき、また、アニメなどで砂漠を描写するとき、よく向こうが歪んでゆらゆらとして見えることがあるが、肉眼でも見えるんだな。

 

 確か科学の授業で、この現象は密度がどうとか屈折がどうとかによって起こされると言っていたが、科学の先生が嫌いなので内容はあまり覚えてない。滑舌悪いんだよな、アイツ。演劇部で滑舌を叩き込んでやろうか。

 

 猛暑で揺らいだ視界の向こうに、緑の茎、黄色と茶色の花に、焦げ茶色の地面とはまた違う色が見えた。

 

 白か、あれは。いや、白だけではない。白に限りなく近い肌。

 

 目をこらすと、背の高いひまわり畑の中に、それらと比べると小さな白いワンピース姿がいた。

 

 しかし、その姿は堂々としており、肩を開き、ときどき伸びをしつつご機嫌なようすで、ひまわりたちの間をぬうように歩く。隠れるように、紛れるように。だが見つかるまいという気はさらさらない。

 

 気をつけなければ見つけられないのに、一度見つけたら目が離せない。そんな何かを、俺は彼女に感じていた。

 

 金色の長髪が、夏のそよ風になびく。彼女はふと座り込み、その髪をかきあげる。一挙手一投足が、美しい。清楚やお淑やかといった言葉に収まりきらない、オーラのような何かを持っているのだろうか? 俺は、金持ちの紳士淑女のパーティーなんかに参加したことはないが、彼女がそういった高貴な雰囲気をまとっているのは、何となく伝わった気がした。

 

「……もしも」

 

 彼女が、ふと、口を開いた。

 

「全部の花が、いっせいに咲いたら楽しいのに」

「…………?」

「桜も、ひまわりも、キンモクセイも、椿も。季節関係なく、一度に咲いたら、夢のように美しいに違いないわ!」

 

 何言ってんだ、アイツは。

 

 まあ、春夏秋冬の花がいっせいに揃ったら圧巻だろうけど、あんなにデカい独り言でわざわざ言うことか? 考えてもみろ、もし、ここで俺が『野生のジュゴンとか見たら超アガるんだろうなー!!』って叫んだら、そこにいるアイツもビックリするだろ。

 

 こんな辺境のだだっ広いひまわり畑で、人と遭遇するだけで多少はビックリするんだろうから。デカい声を出すのは心臓に悪いぞ。

 

 そうは言いつつも、俺はその場から離れられずにいた。

 

 動けないのだ。ハンディの扇風機からの風をマスクの下に送りつつ、飲み物を5分に1回のペースで飲んでいる点から、流石に熱中症ではないだろうが。

 

 なら、どうしてだ。

 

 改めて、その子を見てみる。見える範囲での情報は、文字どおり金のようなきらめきを見せる金髪。天女の羽衣と見紛うほどの神々しささえある白のワンピース。それによく合う真っ白な肌。しかし太陽越しにシルエットを見るに、健康的な肉付きはしている。

 

 違います。決して太ももばかり見ていたわけではありません。ちゃんと二の腕とかお腹周りとか胸のあたりも見てたよ。ダメだ、弁解のはずがどんどんボロが出る。

 

 とにかく、彼女はいくらなんでも美しすぎる。株式会社いくらなんでもを設立しそうだ。

 

 そして、こちらを振り返る横顔。日焼けの一切ないご尊顔についている、くりくりとした瞳。それはパールで造られたドールアイのようで、生きているという感じさえもあまりしない。それでいて、なんだか生き生きとしている。不思議な目だ。人工的に造られたかのような美しさをまとって世に生まれてきた人を、下々の民──言うまでもないが、俺もその民のひとりである──は時々、天から降りてきた『神様』に例えるという。

 

 太陽の光を乱反射し、きらきらと輝く彼女の目には、ひときわ大きなひまわりが映っているようだ。

 

 息を、ひとのみ。

 

 俺は、その子の方向に向かって、一歩。踏み出した。

 

 向かって何をするかは決めていない。しかし、行きたかったのだ。

 

 軽い気持ちで入ったこのゴルゴダ。ここの敷地に入る一歩よりも、何万倍もの距離があるように思えた。何万歩よりも、遠い一歩。

 

 本物の冒険家は、この一歩を恐れない。はずだ。

 

「あら!」

 

 冒険の出鼻をくじいたのは、他でもないその子だった。

 

 突然こちらの気配に気づき、思い切り振り向くもので、古典的なズッコケ方をしてしまった。

 

「ごきげんよう」

 

 彼女は手馴れたカーテシーと共に、こちらに目配せをする。そんな『次はあなたの番ね』みたいな視線を送られても、紳士の挨拶など知らない。

 

 そもそも、俺は今、空いた口が塞がらなくて忙しいのだ。対面してみて分かった。

 

 天使なのだ。この子は。

 

 あまりにも、美しい。こちらを見つめる瞳が琥珀のようで、透き通ってすら見える。リップひとつ塗っていないであろう唇は、ほんのりピンク色。健康的だ。

 

 鼻も高く、一般的に呼ばれる美人というレッテル、そいつを貼られるラインをゆうに越えてくる。誇張しすぎた美人。

 

「俺の天使ですか」

「ん……てんし?」

 

 しまった。思っていたことをそのまま口にしてしまった。フィルターで濾過せずに、オブラートにも包まずに、純粋に質問を投げかけてしまったぞ。大プレイミス。

 

 多分これも真夏のせいだ。そう、信じたいだけかもしれない。生涯で恋した女はガッキーただ1人だけの俺が、真夏の熱気ではなく、彼女に一目惚れしているだけだなんて、信じられないから。

 

「なっ、なんでもないです」

 

 彼女は不思議そうに首をかしげ、俺を見る。かわいいなあ。

 

 この世において『美しい』と『可愛い』は完成したまま両立することはないと思っていた。併せ持つ場合なんてない。完成してるものがふたつ並んだら、それはもう200%じゃあないか。

 

 500mlの水が入るコップに1Lの水は入らない。飯を食わないと腹が減るくらいにこの世の真理として揺るがないものだ。

 

 しかし、彼女はそれを達成している。仕草が可愛い。髪が美しい。声が可愛い。指先が美しい。こちらに向ける笑みが可愛い。こちらに向ける笑みが美しい。

 

 端的に言えば、なんだか眩しい。この人は太陽そのものなのか。ラーとかなのか。

 

 瞳どころか、身体中が焼けてしまいそうだ。

 

 彼女は、その美しくて可愛くて眩しい笑みを浮かべ、こう話す。

 

「自分が望めば、自分は誰かの天使になれるし、誰かが望めば、その誰かは自分の天使になってくれるわ!」

「……難しい話しようとしてます?」

「分かれば簡単な話よ!」

 

 難しいだけでなく、なんだか胡散臭い。

 

「貴方は、あたしを求めていた。そうよね?」

 

 どうして、とこちらが聞く前に、彼女は人差し指を立て、俺の開きかけの唇にくっつける。

 

 心臓が止まりかけた。不意打ちでこんな事してくるな。名前も知らない人にキレかける。

 

 というか、近くに来るとすっごい良い匂いするな。現役高校生だからこの発言はセーフだと思うんだけど、多分彼女は俺と同年代くらいだと思ってて。高校生くらいの年頃の女の子って、みんなシャンプーとは違うなんかすごい良い匂いがするんだよ。

 

 しかし、この分野においても彼女はレベルが違う。他の女子とは一線を画す、柑橘系の混じった爽やかな匂いがする。汗の匂いなんざ1ミリも感じさせないので──彼女は汗も甘くて良い匂いなのだろうが──とても清々しい気分になれる。

 

「だってあなた、笑顔を忘れてるわ」

「忘れてる?」

「それが理由よ」

「いやいや、笑えますよ」

「あなたの心は、忘れてると言ってる」

 

 怖いことを言っているかもしれないな。

 

 しかし心が忘れている、つまり無意識下で忘れていると言われてしまったら、流石に否定の材料が無くなる。俺は宗教勧誘に弱いタイプかもしれない。

 

 それに、この人は嘘を言っている顔をしていない。

 

「……だとしても、なぜあなたがそんなことを」

「言葉を借りるなら、あたしがあなたの天使だからよ」

 

 忘れてくれ、その発言。

 

 先程の彼女によると、『自分が望めば自分は誰かの天使になれ、また誰かが望めば誰かは自分の天使になってくれる』とのこと。

 

 クラスメイトが元々、今回の遠出を提案してくれた理由としては、俺が所属している演劇部での学園祭ステージの主役オーディションで、呆気なく一次審査で落ちたからである。ホントに一世一代の気持ちで挑んだぞ、俺は。

 

 なんだか中学から積み重ねてきた、今までの自分の演技さえも否定された気がしてならなかった。そりゃあ、主役になれなかったことは少なからずあったし、自分はそこまでナルシストじゃあない。主役になれないこと自体に不満がある訳でもない。ただ、第一次の審査で落ちることは、この八百乙女(やおとめ)ヒロトの人生の中で、一回もなかったのだ。

 

 今まで、一度もなかった挫折。それにより、ありとあらゆる矜持がいっぺんにへし折られた気がしたのだ。次の日から、腹式呼吸さえままならなくなってしまい、練習を見学する事態にまでなった。

 

 そんな俺の心は、今、笑っているだろうか。笑顔を忘れてやしないだろうか。

 

「そうか。天使だ」

「ふふ」

「貴方は俺の天使であり、イエスだったんだ」

 

 彼女が俺の前にあらわれた理由が分かった。そんな、気がした。気がするだけだ。でも、心地よい。心強い。

 

 この人は、俺の天使。今の俺にとって、こんなに力強い事実はほかにない。

 

 彼女はそれだけ伝えると、ゴルゴダの出入口の方へと歩いていく。

 

「何処へ行かれるのですか」

「また、会えるわよ。ひまわりの咲く場所で」

 

 ぼやけた視界の中に、いやにハッキリと白い羽根が見えた。

 

「俺の、天使。俺だけの、メシア」

 

 つい、彼女の手を握ってしまう。彼女は少し驚いた顔をしてこちらを見るが、すぐにアルカイック・スマイルを取り戻す。

 

「俺だけを救ってくれますか」

 

 言いながら、涙目になってきた。

 

 彼女が自分から離れてしまうのが怖かった。少しの間に留守番を頼まれただけなのに泣いてしまう子供みたいで、情けない。

 

 俺の顔を見て、流石に困った顔になってしまう彼女。

 

「あたしは、世界の全員を笑顔にしなくちゃいけないの」

 

 駄々をこねる子供をやさしくなだめるように、彼女は俺の肩を持って言う。余計に情けない。困らせてしまっているのがイヤでも分かる。

 

 それでも、今の俺には、彼女だけが救いだった。部活にいるのは辛かった。でも、今やっと分かった。ひとりでいる方が、なおさら辛いのだ。

 

 彼女といるこの空間に比べれば、どんな素晴らしい花畑も、群がる蝶も含めて鬱陶しいだけだ。雪も月も花も、邪魔くさいだけ。

 

 今の俺には、この人さえいればいい。それほどまでに、俺はここまでの数分で彼女に縋ってしまっている。

 

「でも、貴方に、笑顔以外の何かを教えることならできるわ!」

「笑顔、以外の……」

 

 俺を導いてくれる。本当の天使だ。

 

「この気持ちは、なんでしょう」

「気持ち?」

「貴方の顔を見るだけで、声を聞くだけで、なんだか生きていられる気がするのです」

 

 自分の心の内を吐き出し、俺はしゃがみ込んでしまう。力が抜けてしまったのだ。

 

「いい? 私が思うにね……」

 

 すると彼女は俺の視点に合わせてくれるのか、一緒にしゃがんで、手をとる。その手をしかと握り、言い聞かせるように、彼女は俺に満面の笑みでこう言う。

 

「さっぱり分からないわね!」

「ずこーっ!!」

 

 実際にズッコケてはいないが、声に出してよろけてしまう。

 

 自信満々みたいな顔とフリで言わないで欲しいね。一旦落ち着くために、ぬるいスポーツドリンクを飲み干す。

 

「でも、ヒロトなら大丈夫よ! きっと見つけられるわ、その気持ちの名前を!!」

「は、はぁ」

 

 俺に対する信頼も満々らしい。そこまで期待しないで欲しい。

 

 と、いうか。

 

「あれっ」

「ん?」

「いま、ヒロト……って……」

 

 さりげなく、俺の名前を呼んだな。この人。俺は特に名札をつけているわけでもないし、PRした覚えもないが。

 

「貴方の名前! ヒロトでしょう?」

「んにゃ、だから何故それを知っているのか……」

「あたしはまだ覚えてるわよ」

 

 ここで彼女は、今日で初めて笑顔ではなく、真顔で話す。怖さは感じないが、真面目ですという気持ちはこれでもかと言うほど伝わる。

 

 本当に覚えている、というか、前から知っているようだ。中学演劇を通ってきたのか? なら俺の出ている舞台は少しばかり見ていてもおかしくない。関東大会にも出たし、大会の客席は希望者が誰でも入れる仕様だ。

 

 いや。

 

 もっと、前だ。

 

 思い出した。

 

 俺は知っているッ! ウインクひとつで恋に落ちそうな美貌と! 突拍子もない異空間を繰り広げる、この人を知っているッ! 

 

 前に会っていた。俺と、彼女は……『このひまわり畑で』。

 

 数年前のキャンプ。家族と離れて来たこのゴルゴダ。そして、俺が見蕩れていたのは、ひまわりではない。この『こころさん』だったんだ。

 

「俺も忘れてませんッッ」

 

 数週間ぶりに、きちんと腹から声が出た俺を見て、彼女は計画通りだとでも言わんばかりに、ニヤリと笑った。

 

「久しぶりね。『ヒロト』」

「はい。『こころ』さん」

 

 不織布マスクの向こうの笑顔が、俺には間違いなく見えた。

 

 そのマスクを、服ごと剥ぎ取ってやりたい。狂気に狩られそうになった頭を、ハンディ扇風機で冷ます。

 

 ウイルスがこれほど憎かったことは、この3年間で一度としてなかった。

 

 ひと夏の、やり場のない衝動と、本気の恋心が身体中を駆け巡る。

 

 ああ、顔が熱い。

 

 夏にも、程がある。


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