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ヨハンの投げたイイ感じの石がラグランジュの側頭部に直撃したわけだが、無論ヨハンがトチ狂ったわけではない。狂ったのはむしろラグランジュの方であった。
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レグナム西域帝国近衛隊副隊長、"剣聖"の称号を持つこの女──ラグランジュには常にある種の憂いがあった。それは彼女特有の悩みではない。言ってしまえば、
周囲からの好意も評価もすべて「本当の自分ではない自分」に向けられているという感覚、罪悪感や汚穢感、
そしてラグランジュにも当然その種の憂いはあり、彼女が死のうとしたのは、その憂いが急速かつ致命的に増大したからだ。
憂鬱にせよ何にせよ、ネガティブな感情というのは行きつく所まで行きついてしまえば自死の念にいきついてしまうため、憂鬱の呪いというのは非常に恐ろしい呪詛と言えるだろう。
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「うぎゃっ……!」
呻き声をあげながら、ラグランジュは頭をおさえて転げまわっている。まさしく「悶絶」だ。ファビオラもゴッラも心配そうに彼女を見ているが、手を出そうとはしない。この辺も呪いの影響で、二人も二人なりに中度から重度のうつ病に罹っており、他人に手を差し伸べる余裕がないのだ。
ラグランジュはといえば相当に痛いらしい。ゴロゴロと転がり回っているが、そんな彼女を見下ろしながらヨハンが言った。
「藻掻き、嘆き、苦しめ」
何言ってんだコイツというファビオラとゴッラの視線を受けながら、ヨハンはなおも語った。
「憂いというのはな、不思議なもので、何もない所から湧いてくる。何もない──いや、正確には何もないように見える場所から、だ。戦場で剣を振るっている時には出ない。飢えて死にそうな時にも出ない。誰かの命を救っている最中にも出ない。そういう『生』の輝きがぎらぎらと眩しい場面では、憂いなどという薄汚い影は引き下がっているんだ」
ラグランジュは未だに頭を押さえているが、いつの間にか転げ回るのを止めていた。痛みは続いているはずだが、それ以上にこの男の言葉が──腹立たしいことに──耳に入ってくる。
「憂いが湧いてくるのは、いつだ? 周りが穏やかで、誰かが親切にしてくれて、寝床があり飯があり、生きていく上での差し迫った脅威がない時だ。つまりだな、人間というのはこういう生き物なのだ──飢えている時は飢えが苦しいが、飽食すると今度は飽食が苦しい。痛い時は痛いのが苦しいが、痛くないと今度は痛くないことが苦しい。『何もない』ことが何より恐ろしい。何もない場所では、人間は自分自身の内側から──『過去』という名の泥を汲み上げてくる。それが憂いだ。俺はこういうのには詳しいんだ」
「だがな、痛みは違う。痛みというやつは必ず『今』にある。過去の後悔でもなければ、未来の不安でもない。殴られた瞬間刺された瞬間、焼かれた瞬間。そこには紛れもなくお前という存在が、現実に紐づけられて在る。憂いが内側から湧く泥だというなら、痛みは外側から叩きつけられる鉄槌だ。泥をかき混ぜる暇を与えん、とばかりにな」
ヨハンはそこで言葉を切り、頭を押さえてうずくまるラグランジュの前にしゃがみ込んだ。目線を合わせるようにして、なおも続ける。
「戦場で剣を振るっている時、憂いが出ないのは何故だと思う? 単に忙しいからじゃない。肌を裂く風、骨に響く衝撃、限界まで引き絞った筋肉の────悲鳴!!!!」
いきなり大声をあげて叫んだヨハンに、ラグランジュは肩をびくりと跳ね上げた。ついでに、ファビオラもゴッラもびくりとした。
「そういう痛みがな、お前を『今ここ』に縛り付けるからだ。痛みのない人間は、自分の輪郭を保てずにやがて内側の泥に溺れる。痛いと感じる間だけ、人間は自分が生きていることを疑わずに済むのだ」
ラグランジュの指の隙間からうっすらと血が滲んでいた。石が当たった所が切れたらしい。しかし彼女の呼吸は先ほどよりわずかに落ち着いている。悶絶は峠を越えた。痛みが彼女を現実に呼び戻しつつある。
「……だからって、石を投げるか普通。死ぬほど痛かったぞ……」
ラグランジュが濃密な殺気がこもった視線を向けると、ヨハンはニタリと笑って言った。
「普通のやり方で治る憂いなら誰も苦労しない。俺はな、術師だ。呪いを解く方法は知っている。憂鬱の呪いってやつは、気合いで治るもんじゃない。神に祈っても他人に優しくされても、かえって泥は深く、苦くなるのだよ。さきほどの石は俺なりの論理──念を込めていた。ただ石を投げつけられるよりも遥かに鋭く痛みを与える事が出来る。まあ……俺なりの祓いの術というやつだ」
この憂鬱の呪詛の支配領域に常人が踏み込めばただちに自死に至るだろう。それほど凶悪な呪詛を実際の所、石一つで祓えるものかといえば答えはNOである。己の心象を物質界に顕現させるほどの強烈極まるエゴを持つヨハンだからこそ、そんな真似が出来る。
ヨハンは立ち上がり、手に付いた土を払いながらファビオラとゴッラを順に見やった。二人とも、今の言葉に何か思い当たる所があるようだ。黙っている。
「感謝しろ、とまでは言わんが呪殺されるよりはいくらかマシな目に遭ったと思え」
ラグランジュはしばらくヨハンを睨んでいたが、やがてフッと笑った。乾いた自嘲の笑いだった。
「……貴様、やっぱり頭がおかしいんだな」
「今さらだな。だがな、おかしいやつにしかおかしくなったやつは救えん。痛い思いをしてようやく輪郭を取り戻したお前の頭には、今この瞬間憂いが戻ってきてるか? どうだ」
ラグランジュはぎりりと歯を食いしばり、眼前のキチガイを斬殺しようかどうしようか暫時悩んでから、絞り出すように答えた。
「……少しだけ、ましかも、しれない」
「それは重畳。しかし次に憂いの底に沈んで手をつけられなくなった時は、今度は石じゃ済まさん。それこそお前の首を落としてやるから、そのつもりでいろ。安心しろ、俺は殺しが得意なんだ」
「このっ……! クソ野郎!」
ラグランジュは理性の裡に於いてはヨハンに救われた事を理解していた。しかし、どうしても納得いかない。理がどうこうの話ではなく、単純に腹が立つ。怒りが湧いてくる。ムカついて、ムカついて仕方がない。もはやとても死のうなどとは思えなかった。死ぬにせよ、眼前のキチガイをぶち殺してでないと気が済まない。
そんなラグランジュを冷笑するように見たヨハンは、罵倒に対する正しい返答をした。すなわち──
「ぺっ」
という唾棄である。