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芸術に『完璧』など存在しない。
否、してはならない。
ノイズの無い音楽など、ただの空気の振動に過ぎない。
色彩や線の狂いが無い絵画なら、写真で十分だ。
醜さの無い戯曲など、人の有り様を示す媒体として体を成さないだろう。
不完全で歪んでいるからこその芸術なのだ。
その不整合にこそ人は感性を見出すのだから、それでいいのだ。
しかしそれでも……人間とは真に愚かしく、矛盾めいた存在だ。
その在りもしない『完璧』を
時には人生の全てを賭けてまで、その完璧に到達したがる者まで居る。
そう言った者のうち、歴史に名前が刻まれれば『天才』と呼ばれ、そうでないものにはそんな呼称すら与えられず、歴史の海に藻屑と消える。
どんな結末を迎えるにせよ、そういった人間が最終的に充足感を得ることなど……絶対に有り得ない。
なぜなら先に述べた通り、彼らの目指すべき『完璧』などは
存在しないものにたどり着くことは出来やしない。
そんなことは、数分立ち止まって考えれば、如何なる莫迦でも分かることだ。
が……中にはその程度の事実に、いくら経っても気づかない……実に度し難い愚か者がいる。
……私のことだ。
私の名前はネクタール。
アーヴェントの地にて実に500年もの間、チェロの弓を握り続けている。
50年ではなく、500年だ。
無論、とうに人の姿など捨てている。
皮膚は爛れ、臓物は腐り落ちた。
辛うじて骨と脳髄だけはポケモンの力で凍結させ、なんとか意識と形状を保っている。
神経もないから、感覚も殆どはなくなっている。
辛うじて骨を伝う振動で、音が分かる程度だろうか。
こんな死人のような醜悪な姿に堕ちても尚、私は未だ音楽のことしか考えることが出来ないのだ。
誰もが嗤い、嘲ること請け合いだろう。
私とて、元々は一介の貧しい音楽家だった。
小規模なサロンにてほんの数節の曲を奏で、それでその日ばかりの銭を稼ぐ……その程度のどこにでも居る、平凡未満の人間であった。
しかし自尊心のみは人一倍高く、己の奏でる曲には誰よりも誇りを抱いていた。
誰よりも、『完璧』な演奏を目指して腕を磨き続けた。
腰が悪くなり、耳が遠くなり……それでも尚、私はこの弓を手放すことを拒んでいた。
だが残念……私は
僅か60年足らずの年月では、あまりにも足りなかったのだ。
人一倍程度の時間では、とても己の自尊心を満たすことなど出来なかった。
私がこれほど惨めで矮小な存在なせいで、『私の音楽』が終わってしまうことが……あまりにも口惜しかった。
私は残った短い時間で、世界の様々な地を渡り歩いた。
禁呪……禁忌……黒魔術……あらゆる外法をこの世からかき集め、この身を現世に繋ぎ止める術を身に着けた。
魂と、弓を持つ腕さえ……それさえこの世にあれば、それでいい。
他の部位は、最悪失っても構わない。
そこまでしてでも、私はチェロを奏で続けなければならないのだ。
人一人分の人生で足りないのであれば、二人分。
それでも足りなければ十人分、百人分……否、いくらでも……いくらでも捧げる所存だ。
この哀しく虚しい音色を聞く人間は、誰も居なくなってしまった。
聞き手のいない音楽など、何の意味があろう。
己が肉体を捨て、魂を賭け、それで手に入れたものが唯の自慰行為の権利だとしたら……本当に笑えない。
しかしそれでいいのだ。
私はこの悪夢を見続けるのだ。
決して完成しない石の塔を積み上げ続ける……そんな永久の悪夢に浸り続けることを、私は自ら選んだのだ。
あぁ、そうそう……『悪夢』といえばだ。
あのジーク……とかいう男が以前言っていた気がする。
現代のアーヴェントでは、人の魂が奪われる現象が起こっている……とかなんとか。
その抜け殻がまるで人形のようだということで、
何か知らぬか、と訪ねられたが……こんな場所に幽閉しておきながら何を聞くのだろう。
私にそんな事件の委細が分かるわけがないだろう。
……それか若しくは、チェロを奏でている間に忘れてしまっただけやも知れぬが。
しかし、魂を抜かれるとは何とも気の毒な話である。
肉体の方を失っても尚、この魂に縋り付いている私からしてみれば……そんな出来事は、正しく悪夢に他ならない。
早く醒めてほしいと願うばかりだ。
……否、醒めたところで、結局見るのは別の悪夢なのだが。
掲載許可を頂いた雪椿様、ありがとうございました。本編にて彼が登場するのを楽しみにしております。