鍾離先生とタルタリヤの組み合わせです。
ほのぼのと二人が釣りをする話です。
鍾離先生とタルタリヤの組み合わせです。
ほのぼのと二人が釣りをする話です。
からりと晴れた青空高く、渡鳥が列を成して飛んでいく。
水草繁る湖面から、跳ねるは小さな水しぶき。
「跳ねたね」
「跳ねたな」
水滸は再び静まり返り、聞こえてくるのは風の音。
鏡のような水面に、ゆらゆら揺れるは2つの波紋。
蒼天を指す釣り竿は、一寸たりとも動かない。
冬の訪れ感じる岩国。
漢ふたりの釣り道楽。
非凡な兵(つわもの)凡庸話、これにてはじまりはじまり。
「いるね、ここ」
「ああ。いるな」
短い会話、長い静寂。
タルタリヤと鍾離は、互いに楽な姿勢で湖畔の岩に腰掛けつつ、それぞれの釣り竿の先を眺めている。
季節は秋を過ぎ、ほんの少し肌寒い昼下がり。
穏やかな時間が2人の間に流れていた。
『鍾離先生、明日は空いているかい?』
冬の国からやってきたファトゥス十一位、公子ことタルタリヤはまるで旧友に話しかけるような口調で、茶店に向かう鍾離を呼び止めた。
人気のない萩花洲で魚釣りをしているこの状況の全ては、彼のその一言に端を発する。
岩の上に片膝を立てていたタルタリヤが、ゆったりとした口調で隣へ語り掛けた。
「鍾離先生を誘った手前、最初の一匹はそちらに譲った方がいいのだろうけど、なんせ魚釣りは魚との真剣勝負。先に俺が釣っても文句はなし。そうでしょ、鍾離先生」
対する鍾離は微動だにせず、口だけを動かして言葉を返す。
「ふむ。そうだな。たとえ神であった時の俺でも、魚の心を契約で縛ることはできない」
「ハハッ、鍾離先生でも契約を結べない相手がいるとはね」
「ふっ。だが問題はない。不確定な事象に対し直接的な契約を交わさずとも、期間を決め、結果に対し責任を負う者と契約を結べばよい」
タルタリヤは軽く苦笑いを浮かべる。
「鍾離先生、そういうのは璃月の漁業組合か何かでやってくれよ。契約に縛られないからこそ、こうやってのんびり余暇を楽しめるってもんだろ?」
「……確かに。一理ある」
鍾離がすまし顔で頷く。
それと同時に、鍾離の竿の先がわずかに揺れた。
瞬間、二人の間にほどよい緊張が走る。
がしかし、先端は二、三度小刻みに動いた後、また動かなくなってしまった。
「どうやらちょっかいをかけた小魚がいたようだね」
「ああ。針が大きかったのだろう。諦めて離れたようだ」
鍾離が竿を上げると、まだ針の先には餌が残っていた。
「まだ使えそうだ。しかし、いい竿を使ってるね。さすがは鍾離先生だ。釣りは興味がないって言ってなかったっけ?」
タルタリヤが鍾離の竿をまじまじと見つめる。
それは漆で赤く染められた、雅な釣り竿だった。
「これか? これは、以前……かなり昔だが、とある友人から譲り受けたものだ。何度か他人に譲ろうとしたのだが、皆断られれてしまった。手練れの漁師たちは慣れ親しんだ自前の竿を愛用する。逆に釣りの初心者は壊してもいいように、安価な釣り竿から釣りを始める」
「つまり、こんな高級な釣り竿を使いたがる人間はなかなかいない、ということだね」
「うむ。しかし、道具は使われてこその道具。正直釣りに興味はなかったが、こいつを使ってやらねば次はいつになるかわかったものではない。蔵で朽ちさせるには惜しいと思ったのだ」
「なるほど。鍾離先生らしい」
うんうんと頷くタルタリヤ。
鍾離は表情を変えずにぐいと餌を針先に押し込むと、再び先ほどの場所へと糸を下ろす。
ひとたび風が吹けば、鍾離の後髪とタルタリヤのスカーフが並んでたなびく。
湖畔に群れる馬尾のサラサラとした葉音が、ふたりを包み込んだ。
そんな調子で時間が緩やかに過ぎていき、タルタリヤが一度、鍾離二度ほど餌を変えた時だった。
「おっ! これはきたんじゃないか?」
タルタリヤの竿が激しく揺れる。
ぺろりと唇を舐め、タルタリヤが座り直す。
「ハハッ……よしよし、ちゃんと針を飲み込むんだ。いいぞ……今だっ!」
タルタリヤがぐいと腕を持ち上げると、細い竹竿がまるで生きているかの如く激しく暴れ出す。
「ふむ、さすが公子殿。魚の気持ちはわからずとも、次の行動は予測できると言ったところか」
「そうことっ!」
勢いよく引き上げられた糸の先には、二匹の魚がぶら下がっていた。
キラキラと輝く水しぶきと共に、魚たちが宙を舞う。
「ふっ!」
タルタリヤがピュンと竿を器用に振れば、魚の口から針が外れ、二匹はきれいに後方のバケツへと着水した。
「これで俺が二匹リードだ」
タルタリヤが勝利に向かってウインクを飛ばす。
「……いつの間にやら勝負になっているのは、俺の聞き間違いか?」
「細かいことはいいのさ、そっちの方が燃えるだろ? 鍾離先生」
「……なるほど。確かにそれも一興。存外俺もそういうのは嫌いではない……ん?」
タルタリヤに気を取られていた鍾離の竿が、大きくしなり、弧を描いている。
「し、鍾離先生! 引いてる! 引いてるよ! 引っ張らないと逃げられちゃうって!」
鍾離は竿と反対の手を顎に当て、わずかに思案する。
「……ふむ」
「だー! もう、早く引かないと!」
「こうか?」
鍾離が片腕に力を込めると、湖のほとりに「ミシッ」という木の小さな悲鳴が響き渡った。
「え?」
タルタリヤの顔面から血の気がさっと引く。
彼の頭上には、童の背丈ほどある魚影が覆いかぶさるように降ってきていたからだ。
もちろん、魚を避けることなど、タルタリヤからすれば造作もない。
しかし、空から降ってくるのは彼自身が招いた賓客の獲物。
しかもかなりの大物だ。
よけて岩に打ち付けられれば傷がつく。
かといって、自分がその魚を最初に取り上げるのも、また失礼なのではないかと思案した。
そうこう考えているうちに迫る影。
「だー! もうっ!」
タルタリヤが意を決し、受け止めようと大空に手を伸ばした刹那。
「おっと、申し訳ない」
鍾離は手元の竿をぐんと引き、魚は驚異的な速度で地べたに叩きつけられた。
天を仰ぎ、ぴくぴくと痙攣する魚。
あと少しで魚と触れ合うところだったタルタリヤの顔面には、数枚の鱗とポカンと開いた口。
「ふむ、公子殿のようにはいかぬようだ。力加減が存外難しい」
「は、はは……」
力加減どころか、何から何まで無茶苦茶であった。
竿が高級なものでなければ、間違いなく真っ二つに折れていたであろう。
タルタリヤが力なく笑い、へなへなと腰を下ろす。
すると、タルタリヤの腰の装飾具が岩に触れ、チャリ、と小さく鳴り響いた。
――それが、思いもよらぬ合図となる。
地を伝う金属の高音は、岩の上に伸びていた魚へとまたたく間に到達した。
すると気を失っていた魚は、はっと目を覚ましたかと思うと、突然尾を振り回し暴れ出したのである。
「……! 鍾離先生! その魚、逃げるよ! 早くシメなきゃ!」
「……」
訴えかけるタルタリヤを前に、鍾離はなぜか動かない。
口をキュッと横に結び腕を組んだまま、じっと魚を見つめている。
「え? なんで? え? 鍾離先生? まさか立ったまま寝たりしてないよね⁉」
間髪入れずに鍾離が答える。
「無論、起きている」
「じゃあなんでっ――⁉」
動揺するタルタリヤの嘆きが水面をわずかに揺らすのと、魚の尾が地面をとらえ、大きく跳ねたのは同時だった。
激しい水音が、響き渡る。
後に残ったのは茶色く濁った水と、横倒しになって浮かぶ馬尾が数本。
そして両手で頭を抱えるタルタリヤだった。
「あーあ、大物だったのに……」
タルタリヤは恨めしそうに、直立不動の隣人へ視線を投げかける。
鍾離は終始無表情で、姿勢を正し揺れる湖面を見続けていた。
よく見ると、ちょっとだけ眉尻が下がっているような気もする。
声をかけづらい空気が漂い、タルタリヤの胸中に気まずさが募った。
そのまま、たっぷり十五秒ほどかけて、ようやく鍾離が口を開く。
「言うのを忘れていたが、俺はああいったぬめぬめしたものが――嫌いだ」
「元も子もなさすぎるよ先生ッ‼」
タルタリヤの行き場のない激情が、再び水面をちょっぴり揺らしたのであった。
「……ったく、最初からそう言ってくれたら俺が何とかしたのに」
たき火に息を吹きかけつつ、タルタリヤが愚痴をこぼす。
「ふむ。失念していた」
鍾離は相変わらず、腕を組んだまま水辺で遥か遠くを見つめている。
「まあ……鍾離先生らしいっちゃらしいけどね」
タルタリヤはあきれてクスリと笑う。
「もう水場も荒れてしまったし、今日の釣果はこれ以上望めない。鍾離先生もこっちへ来て座りなよ。俺が釣った魚を一緒に食べよう」
鍾離も今度ばかしは少しだけ申し訳なさそうに声を落とした。
「恩に着る」
「ま、まあ、俺が誘ったんだから、これぐらい当然さ。まさか鍾離先生にも苦手なものがあったなんて、知らなかったんだ。こちらこそ悪かったよ」
内心恐らくしょぼくれているであろう鍾離があまりに不憫だったので、タルタリヤもあわててフォローする。
「いや、これは俺の問題だ。公子殿が気をもむ必要はない」
首を横に振り、タルタリヤへ笑顔を向ける鍾離。
そのままたき火近くまで歩み寄ると、空いている場所を見つけ腰を下ろした
「ほう、素焼きか」
鍾離はあごに手をやり、魚に串を通すタルタリヤを下から眺める。
「ハハッ、こういうのはシンプルなのが一番さ。凝った料理も好きだけど、せっかくこんなに気持ちがいいんだ。あまり手をくわえないほうが、おいしいと思ってね」
「うむ。理にかなっている」
笑顔を浮かべたまま、魚のついた串をたき火近くに刺そうとしたタルタリヤの手が、一瞬止まった。
「……まさか、焼き魚も苦手だったりするのかな?」
タルタリヤの頬を冷汗が一筋流れた。
鍾離は申し訳なさそうに頷くも、左手でタルタリヤをなだめつつ、弁解する。
「以前は、そうだった。だが、だいぶましになった。以前はひたすら避けていたが、璃月港の凡人たるもの、海産の一つも食せぬようでは道理が通らん。あのぬめぬめした感触さえなければ、何とか食べられるよう改善はされた。魚も新鮮極まりなく、生臭さも多少は薄れるだろう。……しかし、十分焼いてくれると助かる」
「む、無理はしなくていいんだよ、鍾離先生」
タルタリヤは張り付いた笑顔と共に、口角を引きつらせた。
「いや、これも修行の一環だ。問題はない。ところで公子殿。今手に持っているそれは?」
話題を変えた鍾離が指さす先には、タルタリヤが懐から出した小さな壺があった。
「あ、ああこれかい? ただの塩だよ。今日璃月港で買って来たんだ。よく塩を振れば、臭みもさらに抑えられる」
「ふむ……」
鍾離はそれを聞いて、少し考えこむ。
タルタリヤは慣れた手つきで壺の蓋を開け、中から塩を一つまみすると、魚へ振りかけようと手を伸ばす。
「公子殿」
「えっ?」
急に呼び止められ、ぎょっとするタルタリヤ。
「やっぱり、食べるの遠慮しとくかい?」
おずおずと顔色を窺うタルタリヤ。
言葉を返す代わりに、鍾離は白く小さな瓶を差し出した。
「公子殿。これを」
タルタリヤは手に握っていた塩をパタパタと野に撒くと、鍾離から小瓶を受け取った。
「これは……?」
乳白色の小瓶はつるつるとしていて、口には封がしてある。
タルタリヤが軽く振ってみると、カラカラと木がぶつかる音と一緒に、さらさらと粉のようなものの音が聞こえた。
「なに、大したものではない。ただの塩だ。だが、一般に流通している塩よりも、多少いい塩だ。恐らくな。俺も使ってみたことがないので、はっきりと断言はできない」
鍾離の口からその言葉を聞いて、タルタリヤが安堵の表情を浮かべる。
「はあ、何かと思ったよ。鍾離先生はモラを持ち歩かないくせに、物だけは桁違いにいいものを持っている。またしてもとんでもないものが飛び出すんじゃないかと思ってひやひやしたよ」
鍾離が首をかしげた。
「そこまで警戒する必要はないと思うのだが」
「ああ、はいはい、先生はまだ凡人初心者だからね。仕方ないことさ。誰だって最初からうまくいくわけじゃあない。で、これ、開けてもいいかい? 早くしないと魚が焦げてしまう」
鍾離は目を閉じ、ゆっくりと首を縦に振る。
タルタリヤが封を開けると、中には手で削ったような無骨な匙と、瓶の中ほどまで塩が入っていた。
「……意外だな。鍾離先生にしては普通だ。てっきり、塩に金箔でも混ざってるのかと思ったよ」
「公子殿は俺を何だと思っているのだ。そのような趣味はない。俺は物が持つ品格を大切にしているだけだ。決して市場における価値が高いものを好んでいるわけではない」
「……それはそれで、この塩を使うのが怖くなってきたんだけど」
タルタリヤはそう言いながらも匙で塩をすくい、二匹の魚へと傾ける。
塩の粒はきめ細かく、よく乾燥していた。
まるで雲母の様に光を反射して輝きながら、塩は魚の身へと降り注ぐ。
「どうもありがとう」
タルタリヤは匙を中に入れ、封を戻すと鍾離へ小瓶を差し出した。
「うむ」
鍾離は小瓶を手に取ると、丁寧な手つきで懐へとしまい込んだ。
パチ、パチ、と薪が爆ぜる。
魚からは白い湯気が立ち上り、香ばしいにおいがあたりに立ち込めはじめた。
わずかに焦げが付いた魚の表皮からは、黄金色の油が滴り落ちる。
「もう、そろそろいいんじゃないかな」
タルタリヤは魚が両面ともしっかり焼けたことを確認し、より火が通っているほうを鍾離へと差し出した。
「じゃあ、頂こうか」
「ああ」
タルタリヤが魚にかじりつくと、魚の皮はパリッと心地よい音を立てた。
そして次の瞬間、程よき塩味と魚のうまみが、まるで岩礁にうちよせた大波のように口内へと流れ込む。
吐息と共に熱を逃がしつつ、噛めば噛むほど奥深い白身を咀嚼し、タルタリヤは味わうようにして飲み込んだ。
「っは! うまいっ! 鍾離先生、これ、普通じゃないよ! 俺はここで何度も釣りをしたことがあるし、この魚も璃月に来てから何十匹と食べてきた。全く同じ調理法で、同じ味付け。でも明らかに何かが異なる。その違いは明白だ。鍾離先生、あの塩、いったい何なんだい?」
タルタリヤが矢継ぎ早にまくし立てるのと、ちょうど一口目を飲み込んだ鍾離が、ほう、とため息を漏らしたのは同時だった。
「……確かに、旨い。魚の生臭さもなく、塩が塩の本来の役目を十二分に果たしている。やはり、いい塩だ……」
もったいつけるように語る鍾離に、タルタリヤがしびれを切らす。
「どこで売っている塩なんだ? もし買えるのであれば、祖国の弟たちにこの味を食べさせてあげたい」
しかし、鍾離はそのまま口をつぐみ、言葉を返すことはなかった。
ただ静かに魚を見つめた後、二口、三口と無言で食べ進める。
タルタリヤも何かを察し、少しはしゃぎすぎたと反省したのか、乗り出した身を戻すと自分の魚を再び食べ始めた。
たき火の炎が風にあおられ揺れ動く。
ふたりの間には、時折思い出したかのように弾ける薪の音だけが響いていた。
…………
………
……
「はぁ、旨かった」
「うむ。美味であった」
ふたりはどちらともなくそう呟きあうと、木串を薪へとそれぞれ放り込む。
油のついた串は火に入れられると。勢いよく燃えつつ縮んでいく。
鳥の鳴く声が聞こえ、タルタリヤが振り返るともう夕暮れ時だった。
「……日が落ちるのが早くなった。もう冬も近いね」
「……ああ、そうだな」
夕日は大地と湖を赤く染め、ふたりの影を長くのばす。
太陽の中で、渡り鳥たちの黒いシルエットがゆったりとはばたいていた。
「……古い、友人から譲り受けたものだ」
鍾離がおもむろに口を開く。
その口調からは懐かしさと、一抹の寂しさが感じられた。
「彼女は戦乱の最中、あまりに弱く、誰よりも優しすぎた」
タルタリヤは夕日を見つめたまま、静かに耳を傾ける。
「この釣り竿と塩は、彼女が生前、ある日ふと海鮮が苦手な俺にと手渡してきたものだ。無論当時の俺は海鮮など見たくもなかったし、金輪際口にするつもりも、ましてやそれらを釣りに行こうなどと考えたことすらなかった」
鍾離は懐から塩の小瓶を取り出し、夕日にかざしてみる。
表面に赤い太陽が映りこみ、キラリと一瞬輝いた。
「その時彼女が言ったのだ。人は変わると。そして、人より長く生きる魔人であっても、それは同じだと。だが俺は契約の神。長い年月が契約を歪めることなど、あってはならない。だから、その時の俺は首を横に振り、竿と小瓶を拒絶した。だが、気の弱い彼女にしては珍しく譲らず、これらを無理やり押し付けてきたのだ」
鍾離が話している間に薪が底をつき、たき火の勢いが弱くなる。
小さくくすぶる火種からは、つうと白い煙が一筋、空に向かって伸びていく。
タルタリヤがわずかにあごを引き、ぽつりとつぶやく。
「そして、今、鍾離先生は当時は予想すらしていなかった魚釣りをし、その塩を使って魚を食べている」
「ああ、そうだ」
鍾離は頷く。
「結果的に、正しかったのは彼女だった。今さらになって彼女に礼を言おうとも、すでに遅い。時は万物から等しく、すべてを奪っていく」
タルタリヤは少しためらいながらも、鍾離へと問いかけた。
「その塩を使ったこと、後悔しているのかい?」
鍾離は振り向き、タルタリヤをまっすぐと見据える。
その瞳には行き場のない感情と、強い意志が宿っていた。
「……それはあり得ない」
鍾離ははっきりと、言い切った。
「それは、なぜ?」
いたずらっぽい笑みを浮かべたタルタリヤに、鍾離もふっと肩の力を抜いて表情を緩める。
「時は心も記憶も、すべからく摩耗させていく。それは避けようがない事実だ。だが同時に色褪せた記憶であっても、今日のように楽しい記憶で再び新しく塗りなおすことができるのも、また真実。たとえ下地になる色褪せた記憶が、どれほど悲哀に満ちたものだとしても、だ。」
湖面を這うようにして、冷たくなった風がふたりの間を通り過ぎた。
薪から立ち上る煙は、もう跡形も残ってはいない。
ふっと、タルタリヤが吐息をこぼす。
「ははっ……。なんだか俺にはよくわからないけど、鍾離先生がいつも通りでよかったよ。いや、悪かったのかな? どっちかわからないけど、とりあえず今日はもう遅い。そろそろ璃月港に戻るとしよう」
鍾離は頷くと、手元の小瓶へと再び目を落とす。
少しいびつな瓶の表面に浮かんだ夕日は、瓶を傾けると表面をすうっと流れ落ち、まるで涙を流しているようにも見えた。
鍾離は一瞬悲しげに笑うと、小瓶を懐の奥へと押し込む。
「公子殿。なかなか興味深い体験だった。機会があれば、また」
差し出された鍾離の手を、タルタリヤが力強く握る。
「ああ、今度は俺の方が大物を釣り上げてみせるよ。あと」
タルタリヤがニッと白い歯を見せて笑う。
「次は、ちゃんと網を用意しよう!」
半分ほど沈みかけた夕日へ覆いかぶさるように、夜のとばりが裾を伸ばす。
東の空には小さな星々が、まるで細かく砕いた岩塩の結晶のように、白く、冷たく、輝き始めていた。
岩鯨の食卓に、ひと匙の特別を(完)